ツェンタルヒルシュ公国領は、ナーゲリング王国の直轄地域とノルデンヴォルフ公国に南北を挟まれた位置にある。フルモアザ王国時代に比べると少し広がっているが、それでも五公国の中でもっとも狭い領土であることは変わっていない。
ツェンタルヒルシュ公国のラングハイム家が統べていた国は、バラウル家による征服戦争で一度、滅亡した。バラウル家の軍勢が最初に上陸した地にラングハイム家の国があったことが不幸だった。ラングハイム家との戦いでバラウル家の強さを思い知り、戦うことなく降伏したシュバイツァー家とブルッケル家は、それほど大きく領土を削られることなく公爵として封じられているのだ。
領土が上陸地にあったことが不幸であれば、バラウル家に恭順することで公爵の地位と領地を与えられたことは不幸中の幸い。恭順が許されたのは、バラウル家がフルモアザ王国建国の地として選んだのがラングハイム家の国があった場所である為。ラングハイム家に従っていた諸侯を大人しくさせるという意図があったからだとされているが、その真意は伝わっていない。とにかくラングハイム家は放浪の一族となることなく、定住の地を得た。
だが、そういう経緯で与えられた領地は、同じくバラウル家と正面から戦ったハインミュラー家と同じで、以前統べていた場所に比べるとかなり狭められた。縁もゆかりもない土地で、古くから仕えていた諸侯から切り離されたという点で、ハインミュラー家よりも条件は悪いと言える。
ラングハイム家が竜王暗殺計画を積極的に主導したのは、こんな過去の因縁もあってのことだ。
「お主の父、ベルクムント王は誠実な男であったが、我がラングハイム家にはそれを見せてくれなかったな」
ツェンタルヒルシュ公主クレーメンスが過去のことを語っている相手は、ナーゲリング王国の次期国王となるべく王都に向かっているシュバイツァー家のユーリウス王子だ。
「その結果は、父ではなく他の公家の意向が働いたからではないですか?」
ナーゲリング王国建国時にツェンタルヒルシュ公国の領地を、クレーメンスが満足できるくらいまで、広げられなかったのは他家がそれを許さなかったから。関わっていないユーリウス王子でも、これくらいは想像出来る。
「その通りだな。平等に定めるべきという理由で、一律で算出された」
公家だけが領地を拡大するのは平等なのか、という声は他の諸侯からは上がらなかった。公家に単独で対抗出来る力を持つ家など存在しないのだ。
「では父を批判するのはおかしい」
「我が家に旧領は返還するという選択はあった。だがベルクムント王はそれを行わず、フルモアザ王国の領土をほぼそのまま踏襲した」
「それは……それは父の意思ですか?」
ユーリウス王子にはそう思えない。今のツェンタルヒルシュ公国領の位置にナーゲリング王国を置くことは、シュバイツァー家が望むもの。ナーゲリング王国領とノルデンヴォルフ公国領が繋がることになるのだ。
「違うな。シュバイツァー家の本領とナーゲリング王国を分断させたい他家の意見が強かったせいだ」
「……では、それも父に非難される点はありません」
「非難しているのではない。私は警告しているのだ。建国時からナーゲリング王国は厳しい状況に置かれていた。他家にそうされた。このような状況で国王に就任するのは危険だ」
そして話はここに至る。もう何日もユーリウス王子はツェンタルヒルシュ公と話をしている。始まりは微妙に違っているが、いつも必ずこの話に辿り着く。ツェンタルヒルシュ公がそうなるように誘導しているのは、すでに分かっている。
「ご心配頂けていることには感謝しますが、まずは国王になることが重要。いつまでも国王不在にしておくわけにはいかないのです」
「だからその就任にあたって、私が後ろ盾になると言っているのだ」
「そのお気持ちもありがたいとは思いますが、他家との調整なく、それを決めることは出来ません」
後ろ盾が後ろ盾のままで居てくれる保証はないとユーリウス王子は考えている。ユーリウス王子は他の公主に比べると若い。父であるベルクムントが国王になるということで、早々とノルデンヴォルフ公を継承したからだ。
若い自分が公主たちから侮られる可能性はユーリウス王子も認識しているが、その侮る一人がツェンタルヒルシュ公なのだ。後ろ盾にしろという要求は、まさに自分を侮ってのことと彼は受け取っている。
「亡くなった父上はその調整を重視しすぎて、追いつめられた。ここは少々、強引に物事を進めるべきだ」
「……ツェンタルヒルシュ公。お話はもう充分に伺いました。優先して考えるべき問題であることも分かっております。ですが、結婚は、まだ国王就任前の私が独断で決めて良いことではありません」
後ろ盾になった証としてツェンタルヒルシュ公は、自分の娘との結婚を求めている。有力公家との結婚の必要性はユーリウス王子も分かっている。分かっているからこそ、たった一枚しかないカードをここで切るつもりはないのだ。
「ノルデンヴォルフ公として決断すれば良い。そのほうが他家も文句は言えない」
「すでに国王就任が決まっている今、それは通用しません。公が話された通り、貴家との強い結びつきは当家にとって、とても大切です。だからこそ、他家の反発を許すような進め方はするべきではない」
シュバイツァー家にとって、領地を接するラングハイム家との結びつきを強めることは意味がある。だが見方を変えると、ラングハイム家とその領地はシュバイツァー家にとって目の上のたんこぶのような存在とも言える。その存在がなくなることが、よりシュバイツァー家の為になると考えられる。
ユーリウス王子はそういう見方もしているのだ。
「……お主とはまだまだ話し合いを続けなければならないようだ」
「ツェンタルヒルシュ公。不必要な足止めは当家に害をなそうという意思からの行動と受け取られることになる可能性もある」
ユーリウス王子はすでにこう考えている。ツェンタルヒルシュ公、ラングハイム家への悪意が強まっている。
「そんなつもりはない。王国が心配であれば、使者でもなんでも送るが良い。それの邪魔をするつもりはない。こちらから事情を説明する使者を送っても良い」
「……いえ、シュバイツァー家の当主として弟に伝えることもあります。使者には当家の者を行かせます」
使者を送れというのは、ユーリウス王子自身を送り出す意思がないということ。悪意を隠した、隠せているとはユーリウス王子は思っていないが、監禁だ。
すでにユーリウス王子は、迂闊にツェンタルヒルシュ公領に入ったことを後悔している。信用していないと受け取られても構わないから、大きく迂回するべきだったと。
だが今更だ。今はなんとかして、この状況から抜け出す方法を考えなくてはならない。ツェンタルヒルシュ公の要求を一切、飲むことなく。ユーリウス王子は脅迫に屈するつもりはないのだ。
◆◆◆
ツェンタルヒルシュ公、クレーメンスの妹ビアンカは元フルモアザ王国王妃。竜王アルノルトの妻だった女性だ。クリスティアン王子とルナ王女の母ジュリアーノが亡くなった後、嫁いだ彼女に竜王アルノルトとの間の子供はいない。
フルモアザ王国が滅亡した後、ビアンカ元王妃は実家に戻ってきている。竜王の王妃であったとはいえ、計画を主導したツェンタルヒルシュ公の妹を罰するわけにはいかない。それだけではない。彼女も計画に大きく関わった人物。内から計画を助け、成功に多いに貢献した女性なのだ。罰する必要などない。
「兄上。さすがに、これ以上は問題ではありませんか?」
ビアンカは実家に戻ってからは、兄クレーメンスの相談相手となっている。家族であり、危険な役目を見事に果たしたという実績からくる信頼感が彼女をそういう立場に置いたのだ。
「分かっている。だが……私は本当にベルクムントに感謝しているのだ。受けた恩を、せめて彼の子供たちに返したいのだ」
クレーメンスの行動は、全てとは言わないが、亡きベルムント王に対する善意からのもの。本気でシュバイツァー家を心配してのことなのだ。
「相手はそれを望んでいませんよ?」
ユーリウス王子には兄クレーメンスの善意は伝わっていない。何度か彼と話す機会を持ち、ビアンカはこう感じている。
「それも分かっている。本質を判断出来るほど深い付き合いは出来ていないが、あれはベルクムントとは少し違うな」
「若くして公主となり、その先は国王になることが定められている立場。それが悪い方の影響を与えましたか?」
ユーリウス王子には傲慢さを感じさせるところがある。言葉遣いは丁寧で、普段は物腰も柔らかいが、苛立ちを感じた時に見せるちょっとした言葉や態度に、ビアンカは悪しきものを感じてしまうのだ。
「王国の頂点に立つ人間だ。少しくらい傲慢であっても構わない。だが、それも国が安定していればこそ。これから何年も動乱の時代が続く。しかも相手は海千山千の公主たちなのだ」
傲慢ではなく覇気と受け取れば、悪いことではない。だがこれからユーリウス王子が相手をするのは、老獪な公主やその家臣たち。国王という身分だけで、畏まるような相手ではないのだ。
「本気で、その海千山千の公主たちから彼を守る壁になるつもりですか?」
「……出来るならば、だ。優先すべきはツェンタルヒルシュ公国の利。これを忘れているわけではない」
シュバイツァー家と共に沈みゆく船に乗るつもりはクレーメンスにもない。優先すべきはツェンタルヒルシュ公国の利であり、最悪の場合でも自家の存続だ。そこまでの義理は、亡きベルムント王本人以外には、感じていない。
「王国は滅びますか?」
「滅びるかどうかはシュバイツァー家の踏ん張り次第だ。だが、荒れるのは間違いない。ベルクムント以外の誰も我らの上には立てない」
「そこまで人望があったわけではないでしょう?」
ベルクムントが王になったのは、他の者がやりたくないから。面倒ごとを押し付けられただけだとビアンカは理解している。兄クレーメンス以外の公主は、王国建国時から野心を抱き続けていたはずだと。
「そうだな。少し美化しすぎたか。だがあの行動力は誰も真似できない。どこに暗殺を自らの手で行おうと考える公爵がいる?」
竜王暗殺には公爵たちが参加している。家臣だけに任せることなく、公家の頂点にいる彼ら自らが竜王と戦ったのだ。最初からそう決めてたわけではない。ベルクムントの強い意志に皆が引きずられた結果だ。
「そういえば、理由を聞いていませんでした。どうしてそんな無茶な真似を選んだのですか?」
「時代を壊す責任は自らが負うべきだとベルクムントは言った」
「時代を壊す、ですか?」
竜王暗殺は正義。平和な時代を造る正義の行いだとビアンカは考えている。彼女だけではなく圧倒的多数の考えだ。その考えとベルクムントが言ったという「時代を壊す」は合っていないとビアンカは思った。
「百五十年、戦争がなかった。これは否定しようのない事実だ」
「……鬼王の死によって、その百五十年なかった戦争が起きる。ベルムント王はそう考えていたのですね?」
「誰かが王国をまとめなくてはならない。だが、その誰かは誰かでしかなかった。わずかにベルムントの器量が他を上回っていたと私は思っていたが、本人も含めて他がな」
絶対的な王になれる存在はいなかった。竜王という絶対的な存在の下で、どこかが突出することを許されず、百五十年の歴史を重ねてきた。危険視されないように、才覚を隠すことを公主たちは求められてきたのだ。そうであるのは仕方がない。
「ユーリウス殿はその父上に劣る。そうであるなら、火中の栗を拾うような真似は止められたほうが良いのではないですか?」
「いや、そうではない。シュバイツァー家と結ぶことは我が家の為にもなることだ。四方を囲まれた我が土地は、どこかと手を組まなければ生き残れない」
ツェンタルヒルシュ公国は四方を他家に囲まれている。ツェンタルヒルシュ公国が生き残るには、その立地から必ずどこかと同盟を結ばなければならないのだ。
その四方を囲む他家の中でも特にシュバイツァー家は重要。南北を敵にするか味方にするかで状況は大きく変わってしまう。
「そうだとしても、今の状況は友好関係を構築するのとは逆に進んでいます」
「……承知の上だ。この際、ユーリウスの性質を可能な限り、見極める。王としての資質があるのであれば良い。逆に、信頼に足る人物ではないと分かれば、それはそれで我が家の方向性を考える役に立つ」
「そこまで考えらているのであれば、その後のことについてはすでに頭の中におありなのですね?」
大きくは二つの選択肢がツェンタルヒルシュ公国にはある。そのいずれかを選んだあとは、さらにまた、その結果生まれるいくつかの選択肢の中から一つを選ばなければならない。いきなり一つに決めるわけではないだろうが、ある程度の構想は、クレーメンスの頭の中にあるのだろうとビアンカは考えた。
「試すべき相手はユーリウスだけではない」
「……そうですね」
ベルクムント王の死は王国に新たな動きを生み出した。その向かう方向は、まだ決まっていない。