フルモアザ王国の王都にある城は百五十年、改修を続けてきたことで難攻不落の名城と評価されている。百五十年間、一度も城内に敵の侵入を許していないという点だけであれば、その通りかもしれないが、そもそも敵軍が攻め寄せてきたことがない。外敵はこの百五十年現れていない。国内での反乱は幾度もあったが、王都に近づくことさえ出来ずに鎮圧されている。フルモアザ王国は、王国を統べるバラウル家は諸侯が対抗出来ない圧倒的な力を誇ってきたのだ。
その王城の裏手。普段は誰も使うことがない道を、顔まですっぽりと覆うマントを纏った二人の男女が、足音を忍ばせて歩いている。小柄な二人。まだ二人とも成人前、十一歳の子供なのだ。
静かに、周囲の気配を探る様子を見せながら歩く二人。やがて城壁、ではなく、城と外を隔てる役割は同じだが高くそびえる崖の前に辿り着いた。
「……マントは脱いだほうが良いかしら?」
「えっ? 顔を出して歩いたら、すぐにルナだとバレない?」
フードから覗く女の子の顔。夜のとばりが降りた、この時間でも輝いているように見える金色の髪。大きな赤紫色の瞳。誰もが美少女と評する彼女は有名人、この国の王女ルナなのだ。
「ソルは心配性ね? 城から出ることのない私の顔なんて、誰も知らないわ」
ルナ王女が城の外に出ることはない。彼女に限らず、王家の人々は滅多なことでは城を出ない。国王であるアルノルトでさえ、そうなのだ。
「新年の挨拶はしている。皆、ルナのことは知っているよ」
ソルと呼ばれた男の子は王女であるルナを呼び捨てに出来る立場、婚約者なのだ。といっても、本来は彼の身分では結婚してからでも敬称を付けなければならないのだが、ルナ王女本人がそれを許さないのだ。敬語も。
「お城のバルコニーの上から手を振っているだけだわ。遠くて顔なんて見えないから」
「ルナだとは分からないかもしれないけど……」
ルナ王女の言う通り、城の外に彼女だと分かる人はいないかもしれない。だが、彼女の美しさは人々の注目を集めないではいられないはず。目立ってしまうとソルは考えている。
「平気だわ。マントはここに置いていく」
ソルの心配を無視してマントを脱ぎ始めるルナ王女。彼女にはマントを脱ぎたい理由があるのだ。
「あれ? それって……」
「どう? 似合うかしら?」
ルナ王女が着ているのは、普段着る絹製のドレスではなく、庶民が着るような質素なワンピース。
「ルナは何を着ても似合うよ」
ソルの瞳は、彼女とは対照的ともいえる、青紫色。その瞳で、普段とは異なる装いのルナ王女を見つめている。
「それ誉め言葉にはならないわ。どうでも良いみたいに聞こえる」
ソルの答えにルナ王女は不満顔だ。もっと驚いてくれることを期待していたのだ。
「そんなことないよ。普段とは違う服を着ても、ルナの可愛いさは変らないってこと」
「そう?」
可愛いと言われて、嬉しそうに微笑むルナ王女。出会ったばかりのソル、まだソルと呼ばれるようになる前の彼は恥ずかしがって、面と向かって「可愛い」なんて言えなかった。ルナ王女も教育した甲斐があったというものだ。
「……本当に可愛い」
澄ましていると冷淡に見えるルナ王女だが、満面の笑みを浮かべると、途端に愛らしさが溢れ出す、年相応の雰囲気になる。そういうルナ王女が、自分と家族にしか見せないその表情が、ソルは好きなのだ。ルナ王女の教育のおかげだけでなく、心から彼女を愛おしいと思っているのだ。
「手をつなぐ?」
「えっ? ええっ?」
婚約者である二人だが、手をつないで歩いたことなんてない。お城の中でそんなことはするものではない。積極的なルナ王女に戸惑うソル。
「外では手をつないで歩くのが普通だと聞いたわ。二人でいるのにそうしていないと、おかしく思われてしまうかも」
「そう? ああ、じゃあ、外に出てから。まずは隠し扉を開けないと」
ルナ王女と手を繋げる機会を、自ら無にするつもりはソルもない。ルナ王女の話は嘘と分かっていながら、騙された振りをした。
ただ手をつなぐ前に、まず外に出なければならない。目の前の崖には外に通じる通路が掘られている。その通路に出る扉を開けなければならない。
「確かこの辺り……」
崖の上から下がっている蔦をかき分けるソル。自然の蔦ではない。外に通じる扉を隠す為に人工的に吊るされているのだ。
「あった。じゃあ、開けるよ?」
「ええ」
扉の鍵を開ける。鍵といっても鉄の棒をずらすだけ。緊急脱出用として造られた出口であるので、鍵を持っていなくても開けられるようになっているのだ。
扉の重さは、かなりのものだが、ソルでもなんとか開けられた。
「……行こうか」
いよいよ外に出る。今日、王都ではお祭りが行われている。二人はそれに、ルナ王女の父親で国王であるアルノルトに内緒で、参加しようとしているのだ。
ルナ王女はお祭りに参加するどころか、生まれてから一度も城の外に出たことがない。ソルも城で暮らすようになってから初めての外出だ。冒険に踏み出すようで、なんとなく緊張してしまうソル。ゆっくりと足を扉に向かって踏み出そうとした。
「ソル!」
「えっ……あっ……」
左肩から胸にかけて感じた熱さ。それはすぐに激しい痛みに変った。だがそれもわずかな時間。痛みの感覚は薄れ、視界は夜の闇以上に暗くなっていく。
(……ル、ルナ……ルナ)
閉ざされていく視界の先に、血をまき散らしながら地面に倒れていくルナ王女と剣を持つ黒い影が見えた。ルナ王女に向かって手を伸ばそうとするソルだが、体はまったく反応してくれない。
さらに地面に倒れたルナ王女に剣を突き立てる黒い影。激しい怒りが心に広がっていくが、それも一瞬のこと。感情もソルの心から消えていった。
「彼まで殺すことはなかった」
すでにこの声はソルには聞こえていない。
「騒がれて気付かれるわけにはいかない」
「それはそうだが」
「議論している時間はない。すぐに城内に入ろう。竜王アルノルトの暗殺に失敗すれば、我々は破滅だ」
彼らの目的はフルモアザ王国の国王アルノルトの暗殺。アルノルト王だけでなく、跡継ぎであるクリスティアン王子も殺し、フルモアザ王国を滅ぼすことだ。百五十年続いたバラウル家の支配から抜け出すことだ。
「行こう」
「……すまない」
ソルの死体に謝罪の言葉をかけて男は歩き始める。他の影も動き出した。彼らにとってはこれからが本番。王家の人々が暮らす城の居住区にまで侵入してアルノルト王とその息子、クリスティアン王子を殺さなければならない。失敗は許されない。失敗し、バラウル家が力を持ったままにしてしまうと、一族郎党皆殺しにされるのは自分たちの側になってしまうのだ。
――やがて起きる城内での戦闘。すでに始まっているかもしれない。それだけの時が経過している。
「…………生きている?」
ソルは意識を取り戻した。
「……ルナ。ルナ、大丈夫か?」
離れた場所に倒れていたはずのルナ王女は、ソルの上に覆いかぶさっている。抱き合うようにして二人は地面に倒れているのだ。
「ルナ? 返事をして、ルナ」
ルナ王女は自らの力で自分のところまで移動してきた。自分を助けようとして。こう考えているソルは、彼女が生きていると思っていたのだ。
「……そんな……そんな! うわぁああああああっ!!」
ソルの絶叫が周囲に響き渡る。だがその声に反応する者は誰もいない。城内にいる、敵味方いずれの人たちも、その余裕はなかった。
百五十年続いていたフルモアザ王国、バラウル家支配の終焉という驚愕の結果は、二人の存在さえ、人々に忘れさせていた。
◆◆◆
まだ夜は明けたばかり。太陽は低く、この季節は肌寒さを感じる時間だ。嫌な夢を見た、というのは、いつもよりも四半刻ほど早起きする理由になっただけで、ソルはいつも早朝から訓練場にいる。兵士育成の為の訓練はソルには物足りない。日中の訓練以外に何もしなければ、逆に衰えてしまう。そう考えて早朝、時には夜も、鍛錬を行うことにしているのだ。
こう考える兵士候補はソルだけではない。中には日中の訓練に付いて行くのも必死で、落伍しないように自主練を行っている人もいるのだが。
「ソル」
「あっ、おはようございます」
そして伍の仲間にも早朝から鍛錬している人がいた。ヴェルナーがそうだ。
「……お前、何者だ?」
「えっ? その質問有りですか?」
「有り?」
昨日のバルナバスとの立ち合いでソルは、ヴェルナーの予想を遥かに超える動きを見せた。自分が考えていたのとは違う存在だと分かった。
ヴェルナーは、一応は気を使って、他に伍の仲間がいないこの機会を使って、真実を聞こうと考えたのだが、ソルの答えもまた予想とは違っていた。
「伍の人たちは皆、大なり小なり秘密を抱えています。ヴェルナーさんも」
「それは……」
「他人のことを詮索しない約束だと思っていました。そちらが約束を無視するなら、こちらもそうしますよ? 元兵士、ではなく元騎士のヴェルナーさん」
「…………」
ヴェルナーは元騎士。ソルはそう思っている。最初からではない。昨日のバルナバスとの会話について考え、この可能性に至ったのだ。
「ちなみに出戻りはナーゲリング王国ではなく、この城に戻ったという意味ですか?」
「……そうだ」
ヴェルナーはフルモアザ王国の騎士であったことを認めた。ここまで素性がバレていて、惚けても意味はない。こう考えたのと、自分が認めることで、ソルにも秘密を話させようと考えているのだ。
「周りにいる人たちもお知り合いですか?」
訓練場には二人の他にも人がいる。明らかに兵士候補とは異なる動きをしている人が何人もいる。
「……知っている顔もいる」
「元フルモアザ王国の騎士たちが集まって悪だくみ、ということではないですね? どうして募兵に応じたのですか?」
何かを企んでいるのであれば、こうして堂々と騎士であったことが分かるような鍛錬は行わないはず。ソルも鍛錬しているが、その中身は体づくりと小さな動きの確認だけで、剣を持つこともしていないのだ。
「……生きる為だ。フルモアザ王国出身者も罪に問うことなく仕官を許すという話を疑って、野に隠れていた。だが、ただ隠れているだけの五年間は死んでいるのと同じだった」
ただただその日を何事もなく過ごせることを願う毎日で、生きる目的も死ぬ目的も見失った。元騎士が一般社会で出来ることなど、何もなかった。自分が無用な存在だと思い知らされた。
「今回の募兵は反乱分子を呼び寄せる為の罠とは考えなかったのですか?」
「……考えなかった」
今、ソルに言われて初めてヴェルナーはその可能性に気が付いた。ベルムント王の死を好機として、フルモアザ王国の旧臣たちが反抗に立ち上がる。これはあり得る。あり得るとナーゲリング王国が考える可能性も。
「多分、違うと思いますけど。ルシェル王女はそんなことを企む人とは思えません。まあ、そう思わせる為に、募兵はルシェル王女の発案であることにした可能性もありますけど」
「ソル、お前は」
自分では考えないことをソルは考えている。それがまた「ソルは何者なのか」という疑問をふくらませた。
「私も出戻りです。ヴェルナーさんと同じ意味でも、違う意味でも。話せるのはこれくらいです。あと、敵にはならない。なるとしても、ずっとずっと先のことだとも言っておきます」
ヴェルナーの目的が何であれ、直接的に敵対する可能性はかなり低い。こうソルは考えている。実際はそうでなくても、こう言う。
「敵を作るような生き方をするつもりなのだな?」
「特別なことではありません。騎士も兵士も敵がいるから必要とされるのではないですか?」
「……それはそうだな」
騎士、兵士という立場が敵を作るわけではない。それはヴェルナーにも分かっている。ソルの説明はごまかしだ。だが、ごまかすということは、これ以上、話をするつもりはないという意思表示。追及することは止めておいた。
ソルと話していて感じたことがある。彼にとって敵は生かしておけない相手。ソルの体から漏れ出す、抑えきれない殺気がそれをヴェルナーに教えてくれた。下手に刺激して敵と認識されるのは避けたほうが良いと知らせてくれたのだ。