足下から皮膚を覆いつくすほどのムカデが這い上がってくる感覚。その不快さに、全身に鳥肌が立つ。振り払おうと必死に両足をバタつかせても、その感覚は消えない。消えるはずがない。実際にムカデがいるわけではないのだから。
やがて、そのおぞましい感覚は全身に広がっていく。耳に、鼻に、口の中にと穴という穴からムカデが侵入してくる。絶叫が耳を刺激する。自分が発したものでありながら、そうは思えない奇声とも言える叫びが。
そしてまた振り出しに戻る。足の指先に何かが触れる感覚。それを徐々に大きくなり、またムカデが這う感覚に変わっていく。
(……嫌だ……もう嫌……)
もう何度、この感覚を味わったのだろう。数える気力もない。楽になりたい。死にたい。強く願ってもそれが叶えられることはない。
これは罰。許されない罪を犯した罰。そうではないことは知っている。知っていても、終わることのない苦しみの時は、罰であるとしか思えない。
もしかすると自分はもう死んでいるのか。生前の罪により地獄に落ちたのか。そうなのかもしれないと思う。そんなはずはないとも思う。
(……生きていても……死んでも……地獄……)
生きていることが辛いと思ったのは、これが初めてではない。何度も思ってきた。だが、死ねなかった。いざ死のうと思うと、やはり怖かった。死ぬよりはマシ。いつからか、そう思うことにした。それが生きる支えとなった。
貧民街で女の子が生きていくというのは、そういうことだった。
(……そうか……あれと同じだ)
肌に触れる男の手、肌を這う男の舌。過去に味わったおぞましい感覚を思い出した。思い出すだけで鳥肌が立ってしまう、当時は、これ以上ないと思っていた不快な感覚を。
(心を殺せば良いのか……まだ生きていたのか……)
逆らえば暴力を振るわれる。鳥肌を立てて、嫌がっているのが知られても同じ。理不尽な暴力から逃げる為に、心を殺して、無になることを覚えた。
さらに自ら積極的に振舞うことで、苦しみに耐えたことへの報酬を貰えることも知った。自分みたいな人間は、こうして生きていくしかないのだと考えた。それもまた心を殺すことだった。少し生きるのが楽になった、はずだった。
「おい、止めろ!」
苦痛の時間に割り込んできたのは、まだ若い男の子。若い男の子といっても、自分もそう変わらない年齢だった。
「はあ? てめえ、馬鹿か? 良いところを邪魔すんじゃねえ」
「さっさとその子から離れろ! 嫌がっているだろ!?」
「てめえ、その目は飾り物か!? どう見ても喜んでいるだろ!? この女は男に抱かれるのが大好きなんだよ!?」
誰とでも寝る女。好色。淫乱。色々な言われ方をしていた。そう言われるような振る舞いをしていた自覚もある。そうしなければ、生きられなかったのだ。
「いや。彼女は嫌がっている」
「えっ……」
だが男の子は、自分をそう見なかった。男の腰に足を絡めて、喘ぎ声を発していた自分を見ているはずなのだ。
「俺は離れろと言っている。これ以上、言うことを聞いてくれないのなら力ずくになるけど良いか?」
「調子に乗るなよ小僧。てめえみたいなガキに……ガキに……黒髪に青い瞳のガキって……」
「俺のこと知っているのか?」
「黒狼……」
「はっ? 俺の名はシュバルツだ。なんだ、その黒狼って?」
まだシュバルツ・ヴォルフェ=黒狼団を名乗っていない頃だった。ただシュバルツの名は、通り名である黒狼のほうが有名だが、すでに貧民街に広まっていた。まだガキだが怒らせるとヤバい奴という評判とともに。
「……さて、そういえば次の用の時間だ。いやあ、助かった。お前が声をかけてくれなければ遅刻するところだったぜ」
「ああ……それは良かった」
「じゃあ、俺はこれで」
素っ裸のまま服を抱えて逃げていく男。機嫌損なうとすぐに暴力を振るう恐ろしい男が裸で逃げ出していく様子は、とても滑稽だった。
「おっ、笑った。お前のことは……あれだ……何度か見かけたことはあるけど、笑顔を見たのは初めてだな」
途中から背中を向けて、真っ赤な顔で話すシュバルツ。その姿も心を温かくしてくれた。
「……えっ? お、おい! 離れろ! い、いや、とにかく服着ろ!」
初心な男の子を揶揄いたい気持ちにしてくれた。
「……教えてあげようか?」
「教えて……それはあれだな……人の嫌がることをするつもりはない」
「君となら嫌じゃないと思う」
初めて本気で自分から誘ってみた。この男の子であれば、不快な思いはない。会ったばかりのシュバルツに対して、何故かこう思えた。
「それでも……あの……怒っているから」
「怒っている?」
「エマが……」
だがその男の子にはすでに大切な女の子がいた。貧民街では不幸でしかない美しい容姿の女の子だ。
「……もしかしたらこれを言うと、お前は怒るかもしれないけど、気づいてやれなくてゴメン。俺はお前のことを誤解していた」
「誤解って……?」
「エマが、お前は苦しんでいるって。俺は気付けなかった」
シュバルツが自分を助けてくれたのはエマに言われたから。それを知って、少し気持ちが沈んだ。シュバルツは自分の本心を読み取ってくれる特別な男の子ではなかった。
「……もし良ければ、一緒に来ないか? これからはお前のことも守るから。仲間と一緒なら、もう嫌な想いをしないから」
それでもシュバルツは、自分を守ると言ってくれた。自分に向けて差し出された手。
「……守って」
こう言って、その手を掴んだ――
だが、しっかりと掴んだはずのその手を、自分は自ら離してしまった。シュバルツを裏切ってしまった。これはその報い。また自分は、今度は終わることのない、苦しみの時を生きることになる。もう救いはないのだ。
「……ヘルツ。もう少しだ」
「……えっ?」
朦朧とする意識の中、その声は届いた。頭に浮かんだ声ではない。確かに自分の耳に届いた声だった。
「絶対にお前を元に戻すから。それまで辛いだろうけど頑張って耐えてくれ」
「……シュバルツ」
シュバルツの姿は見えない。だが彼はいる。壁一枚、実際は馬車の扉、隔てた先に、確かにシュバルツはいる。また自分を助けようとしてくれている。
枯れ果てたと思っていた瞳から涙が零れてきた。その涙は、とても温かかった。一筋の涙が、一時、おぞましい感覚を洗い流してくれた。
「……行くぞ」
ヘルツは反応してくれた。ほぼ正気を失った状態のヘルツに、自分の声が届いた。シュバルツの心にともる炎が勢いを増した。
「本当に一人で平気か?」
「殺し合いに行くわけじゃない。情報を聞き出すだけだ」
「だけ、で済めば良いけどな」
多くの場合、そうならないことをロートは知っている。まして今のシュバルツの心は怒りの炎で熱くなっているのだ。
「じゃあ、外は任せた」
「ああ、任せろ」
バラバラに歩き出すシュバルツたち。情報を聞き出すだけ、とシュバルツは言ったが、その為の彼らの行動は戦闘準備。それも街全体を巻き込む戦いの準備なのだ。
◆◆◆
ベルクムント王国の騎士の恰好をしたシュバルツは、目的の人物と対峙している。聖神心教会の頂点に立つ教皇コンスタンティンだ。
ズィークフリート王にベルクムント王国の国王という立場を使って、この場を作ってもらった。あとは教皇から、薬のせいでおかしくなっているヘルツを元に戻す方法を聞き出すだけ。だが、「だけ」で済む話ではない。この場所は教会の本拠地なのだ。
「こっちは教皇に話を聞きたいんだ。仲間を傷つけた敵の親分にな」
「……敵? それはどういう意味だ!?」
シュバルツの言葉に、正しいとはいえない反応を見せるアルフレート司祭。このようなやり取りを続けている場合ではない。すぐに人を呼ぶべきなのだ。
「説明している時間はない。それに用があるのは教皇だ」
シュバルツものんびりと話をしていられる状況ではない。教会騎士が、一人二人であればまだしも、大勢現れては面倒なことになるのが分かっている。
「貴様……何者だ!?」
はたしてこの男は、本当にベルクムント王国の騎士なのか。ようやくアルフレート司祭の頭にこの疑問が浮かんだ。
「無回答」
アルフレート司祭の問いに一言で返したシュバルツは、一瞬で教皇との間合いを詰める、つもりだったのだが。
「ちっ」
その手前で、逆に大きく後ろに跳ぶことになった。飛んできた槍を避ける為だ。
「さて、これはどういう状況なのだ? 説明してもらおうか」
槍を放ったのは騎士服をまとった男。後ろに撫で付けられた真っ白な髪と顔に刻まれた深いしわが、かなりの老齢であることを教えてくれるが、体つきは老人と呼ぶには逞しすぎる。
「聞きたいことがあったので尋ねようとしたら、お前が邪魔をした。こういう状況だ」
「人にものを尋ねるだけにしては、物騒な動きだな?」
「そうか? お前が勝手にそう思っているだけだろ?」
相手はたった一人の老騎士。だがシュバルツは安易に動くことをしない。老騎士が放つ雰囲気は只者とは思えない。かなり警戒すべき相手だと教えてくれている。
「教皇様。ご無事ですか?」
シュバルツに聞いても無駄。そう考えた老騎士は、問いを向ける相手を教皇に変えた。実際に無事を確かめる気持ちもあってのことだ。
「ええ。大丈夫です」
「彼らは何者ですか?」
「ベルクムント王国の新王ズィークフリート殿と護衛役の騎士のはずなのですが……」
ズィークフリート本人であることは間違いない。久しぶりではあるが、教皇は彼に会っている。西の大国ベルクムント王国での儀式となると、西部中央教区の司教でも役者不足となる場合がある。教皇自ら、何度かベルクムント王国での儀式に参加しているのだ。
「ズィークフリート王。これはどういうことですかな?」
「彼の言う通り。聞きたいことがあるというので、一緒に来ただけだ」
「臣下が教皇様に危害を加えれば、大問題になることは分かっているはず」
「大問題? 教会の人間が一国の王を薬で狂わせ、滅亡に追いやろうとすること以上の大問題とはどういうことだろう?」
仮にシュバルツが教皇に危害を加えたとしてもズィークフリート王はかまわないと考えている。教会はとっくにベルクムント王国の敵。自国を滅亡に追い込もうとした憎い敵なのだ。
「……事実ですか?」
「真実かは私には分かりませんが、関わったと思われる者がいたようです。ヨシュ司教の助教です」
「つまらない真似を……」
ヨシュ司教、その上にいるヴェルヘイム司教であれば、それくらいのことをしかねない。老騎士はこう思っているのだ。
「ただ今回の用件は、その件を問いただすことではない。薬で狂わされた人を元に戻す方法を聞きに来ただけだ」
「国王は生きている?」
「いや、父は死んだ。治そうとしているのは彼の仲間だ。そしてそれは私には関係ないことだ」
ヘルツを治すことに関して、ズィークフリート王は複雑な思いを抱いている。ヘルツも犠牲者と言えば犠牲者だ。だが、父王を狂わせた張本人でもある。シュバルツの助けるという強い思いがなければ、自らの手で殺してしまうだろう相手なのだ。
「……関係ない。つまり彼は、臣下ではない?」
「そうだ。彼には恩がある。その恩返しとして、一緒に来ただけだ。一応言っておくと、これは罪から逃れる為の言い訳ではない。そもそも罪に問われるとも思っていない」
「それを決めるのは教会だ。ここで死ぬことになっても後悔しないのか?」
間違いなく教会は罪があると判断する。かつてのベルクムント王国であれば教会にも躊躇いは生まれるだろうが、小国となった今はそれがない。ズィークフリート王は殺されることになってもおかしくない。
「殺されるのは困るな。ただ万一があっても問題ない。妹が王となるだけだ」
「難局に年若い女王を立てることになっても問題ないと?」
「妹は、私よりもはるかに王に相応しい。誠実であり、臣下からの信頼も厚い。力ではなく信用で国を保とうとしている今のベルクムント王国には、最高の王だ」
これはズィークフリート王も、今回初めて知った事実。誠実であることは知っていたが、その誠実さを臣下の多くが認めていたことは知らなかった。自分の言葉に不審を抱く野に下っていた臣下たちが、カロリーネ王女の言葉には耳を傾ける。カロリーネ王女の為であれば、再び、王国の為に力を尽くすと誓う。
ズィークフリート王は本気で王の座を譲るべきだと考えているのだ。だからこの頼みを引き受けることに躊躇いを覚えることもなかった。
「……何を聞きたいのだ?」
ズィークフリート王は説得して事態を収めることは出来そうにない。これが分かった老騎士は、またシュバルツと向き合うことにした。
「何度も言っている。教会の薬で、おかしくなった人を元に戻す方法」
「……あるのですか?」
「それは……」
老騎士の問いに言葉を濁す教皇。方法はある。だがそれを教えることは出来ない。こういうことだと老騎士は判断した。人を救うことに教皇が躊躇うのは、よほどの事情があると。
「方法はない」
「それが事実かどうかは、教皇に直接聞く」
問答を続けていても何も解決しない。もうそれが分かった。シュバルツはまた強硬手段に訴えることを選んだ。老騎士を躱し、教皇に近づこうとするシュバルツ。
それを阻んだのは老騎士が放った、何か、だった。衝撃を受けて吹き飛ぶシュバルツ。
「……なるほど。教会騎士ってこういうことも出来るのか」
老騎士の手は自分に届いていない。そうなると自分を吹き飛ばしたのは、目に見えない力ということになる。自分と同じ力だとシュバルツは考えた。
「なるほど。生意気なだけのガキではなかったか」
「そういうの良く言われる。そんな生意気か?」
「口の利き方を知らないのは間違いないな」
「その自覚はあるっ!」
再び、間合いを詰めようと動くシュバルツ。その行く手を遮ろうと衝撃波を放つ老騎士。シュバルツは、今度は自らも衝撃波を床に向かって放つことで体を浮かし、それを避ける。
それと同時に噴き上がる炎。シュバルツの炎は渦を巻きながら老騎士に襲い掛かった。
「げっ」
だが老騎士の体を包んだと思った炎は、一瞬で霧散してう。
「……貴様……まさか、愚者か?」
「……いや。俺はシュバルツ。黒狼団=シュバルツ・ヴォルフェのシュバルツだ」
愚者を、少なくとも自ら名乗ることはない。今のシュバルツはアルカナ傭兵団とは無関係。黒狼団=シュバルツ・ヴォルフェのシュバルツ以外の何者でもないのだ。