ぱっと見は地方の小領主の館。街ひとつ程度の領地しか持たない貴族家の暮らしは、王都郊外の豪農と変わらない。下手すれば、もっと質素なくらいだ。王国にはそういった小領主が大勢いる。
サイリ子爵も、子爵という爵位だけで考えれば、その建物で暮らしていたとしてもおかしくない。だが、目の前の建物はサイリ子爵の館ではない。かつてはそうであったのかもしれないが今は別の、城と呼んでもおかしくない堅牢な建物で暮らしていることが分かっている。
では目の前の建物は何なのか。良く見れば全ての窓に鉄格子が嵌っていて、青空が広がる、吹く風が心地良い日だというのに空いている窓はひとつもない。住んでいる人はいないように思える。誰もいないわけではない。敷地内への入口には小さな建物があり、その中に人がいる。退屈そうにしている男。その腰には剣が吊るされている。
「……だいたい分かった。しかし……こんなことが出来るのか」
その男には見えない場所でロイスは驚きと戸惑いが入り混じった表情を見せている。その視線の先にいるのは子犬。そしてカロだ。
足下の地面に書かれているのは、建物の間取り図。土の上にざっくりと書いたものだが、その情報は正確だ。ホルスは半信半疑というところだが。子犬が調べてきたと教えられて、すぐに信じることなど出来なかった。
「私も驚いた。さらに賢くなっているな」
カロとカロの友達の能力を知るオーウェンも驚いている。これまでは建物の中に入ってからの道案内だった。事前に間取りを知ることなど出来なかったはずなのだ。
「経験を積んだから。訓練もした」
「そうか。とにかく助かった。あとは任せろ」
「う、うん」
カロの仕事はここまで。ここから先は見つからないように隠れて、待機だ。いつものことだが、カロは浮かない顔。そうなる理由があるのだ。
「本当にココも行くの?」
ココも作戦に参加するからだ。
「ん」
「大丈夫?」
「平気」
心配そうなカロとは違い、ココに緊張は見られない。リラックスしているというより、何も考えていないのではないかと周りは思っているが。
「館に入るのを手伝ってもらうだけだ。危険な目には遭わせないから心配するな」
「……うん」
オーウェンが安心させようとするが、カロの表情は暗いまま。ココのことを心配しているだけが理由ではないのだ。
「じゃあ、行くぞ」
「ん」
ココの手を引いてホルスが歩き出す。向かうのは目の前の建物。その入口にある建物だ。建物の中にいた男は、すぐに近づいていくホルスに気づいたようで、警戒した様子で外に出てきた。
「お疲れ」
緊張を声音に出さないように気を付けながら、男に挨拶するホルス。
「……会ったことありますか?」
会ったことなどあるはずがない。それでも男は、いきなり攻撃してくるような真似はしなかった。男の身分は低い。退屈な見張りを任せられているのだ。身分が高いはずがない。
「悪いが覚えていない。ただここに来るのは二回目なので、会っているかもしれないな」
「二回目ですか……それで今日は?」
男の視線がココに向く。可愛い女の子を連れてきたということに関しては、怪しむ様子はない。ただ少し変だとは思っている。
「この子を送るように言われてきた」
「一人、ですか?」
いつもは複数人の女性が連れてこられる。たった一人、それもまだ幼い女の子というのはこれまでなかったのだ。
「ああ。この子はここで生まれた。父親が誰かは詮索するな。知らないほうが良いことだ」
「……ああ、いや、でも、ここにですか?」
わざわざ詮索するなと言われると、嫌でも考えてしまう。ホルスが誘導した答えが頭に浮かんでしまう。
「俺にこの子に仕えろと?」
「あっ、いえ。分かりました。では、お預かりします」
「えっ? 中に入れないのか?」
これは予定外。建物の中に入る為に、ココにも手伝ってもらって男を騙しているのだ。
「いやあ、気持ちは分かりますけど許可がないと。あると嘘ついても駄目ですよ。そういう人が大勢いたので、誰が許可されたか私に届くことになっていますから」
「そうか……」
計画は失敗、と諦めるわけにはいかない。黒色兵団が動いているのはここだけではない。一斉に行動を起こしているのだ。この場所だけ失敗というわけにはいかない。
「じゃあ……可愛い子だな? まだ幼いけど人気になるな。まあ、最初はご領主様か。あの方は自分の、おっと、危ない」
ちょっとした用でも退屈を持て余していた男にはありがたかったようで、機嫌が良くなっている。正反対にホルスは仏頂面だ。
「では、ご苦労様です」
「ああ」
ココを連れて建物のほうに歩いて行く男。その背中を見ながらホルスも、男に気付かれないように静かに、建物に近づく。男が入口の扉を開けた瞬間を狙って、突入を図る。こう考えているのだ。少し離れているが、間に合わない距離ではない。問題なく建物に侵入出来るはず、だった。
「なっ……」
だが男が入口の扉を開けることはなかった。扉は中から開いたのだ。中に別の人間がいたのだ。ココは中から伸ばされた手に惹かれ、扉の中に入っていく。
「ちっ」
驚きでわずかに出足が遅れたホルス。もう見張りの男に構っていられない。全力で駆け、まずは見張りの男を切り捨てる。そのまま扉に体当たり、したのだが、びくともしなかった。
「しまった……どこか、どこかないのか?」
周囲に視線をめぐらすホルスだが、侵入できそうな場所はない。あれば、カロの友達が見つけている。探しても無駄なのだ。
「ホルス!」
隠れていたオーウェンも慌てた様子で駆けてきた。
「すまない! 中断すべきだった!」
「それは後だ! なんとか……開いた」
「えっ?」
入口の扉が中から開いた。自分たちに気付いた敵は出てきたと考えて、身構えた二人だが。
「ん」
中から出てきたのはココだった。返り血で顔を真っ赤に染めた。
「……とんでもないな」
扉の先には死体。それも複数の死体がある。その死体を目の当たりにしてもホルスには信じられないが、ココ以外にそれを行えた者はいないのだ。
「……敵に気付かれる前に行こう」
オーウェンも驚いているが、今は時間を無駄に出来ない。敵が気付いていないうちに奇襲をかけ、一気に制圧。監禁されている女性たちを助けなければならない。
「ああ」
ホルスも、気持ちを引き締めて、扉の中に足を踏み入れる。戦いはこれからなのだ。
◆◆◆
周囲に響いているのは斧が木を打つ音。時々、「倒れるぞ!」という警告の声が響き、木が周りに木々と枝葉をこすらせながら倒れていく音が続く。
この場所では多くの人たちが働いている。ひたすら斧で木を斬り倒す人。倒れた木の枝葉をはらう人。倒し、枝葉を払った木を麓まで運ぶ人。そして働いている人々を監視し、特に暴力で従わせる者たち。働いている人たちの手足は鎖で拘束されている。無理やり働かせているのだ。
「怠けるな! 怠ける者たちに生きる資格はないぞ!」
こう言いながら目の前の人の体に鞭を振るう男。鞭で打たれた人は怠けてなどいない。蓄積した疲労で動きは鈍くなっているが、懸命に働いている。
鞭打つ男にとって、そんなことは関係ないのだ。鞭を振るいたいから振るっているだけなのだ。
「おらおら! 貴様もだ! 怠けていると殺すぞ!」
また別の男に鞭を振るう男。だが、その鞭が相手の体に届くことはなかった。
「ああ? 貴様、なに避けている? 舐めているのか?」
「…………」
無言のまま男を睨む相手。
「貴様……見ない顔だな? 新入りか? じゃあ、まずか、ここの掟を体に叩き込んでやる!」
「嫌だ」
「何だ、と……あっ、ぎやぁああああっ!」
男の腕から伸びているのは鞭ではなく血。手首から先を失った男の傷口から血が噴き出している。
「良いねえ。その声。あんたみたいな屑の叫び声は僕の大好物だ」
「き、貴様……ぐっ、あぁああああっ!!」
さらに反対の腕も、今度は肘から先が斬り落とされた。再び、男の絶叫が周囲に響き渡る。
「もっと叫べ! 泣け! もっと、あんたの哀れな声を聞かせろよ!」
「貴様! 何をしている!?」
男の絶叫を聞いて、他の監視役も事態に気が付いた。男を斬った相手、ジュードに向かって、何人もの男が駆けてくる。
だがその男たちはジュードに近づくことは出来なかった。その手前で次々と声をあげて、倒れていく。宙を飛ぶ影はブーメラン。セブとロスの攻撃だ。
「……た、助けて……助けてくれ」
「同じことを言った人に、あんたはどうしたのかな?」
命乞いをする男に冷めた視線を向けるジュード。
「お、俺は。領主様に命じられて……それでこんなことを……」
「命じられたから仕方なくってこと?」
「そ、そうだ。だから……助けて……」
息も絶え絶えに、それでも懸命に命乞いをする男。その男に向かってジュードは。
「嘘だね。仕方なくなんて嘘。あんたは楽しんでいた。逆らうことの出来ない相手に暴力を振るうことで、自分が大きくなったような気持ちになっていた」
「ち、違う……俺は」
「あんたのような人間を僕は良く知っている。自分の矮小さを認められなくて、自分よりも力のない相手を虐げることで喜びを感じるくそ野郎だ」
ジュードの父親がそうだった。父親のような人間を、力で屈服させ、自分の矮小さを思い知らせることがジュードの喜びになった。
「ぎやぁああああっ!!」
どれだけ命乞いをしても、男が助かることなどないのだ。
「……僕も優しくなったな。もう死なせてあげちゃった。まあ、こういうのも飽きたしね」
「時間もないからな」
他の監視役の始末を終えて、セブが近づいてきていた。
「そうだね。さて……じゃあ」
周囲を見渡すジュード。働かされていた人たちは、いきなりの出来事に驚き、遠目からジュードたちを窺っている。憎らしい監視役たちを殺した。だからといって味方と思うのは早計。こう考えているのだ。
「生きて国に帰りたければ、武器を取れ!」
そんな人たちに向かって叫ぶジュード。だがそのジュードの言葉に、すぐに反応する人はいなかった。まだ状況を把握出来ていないのだ。
「それともここで一生、奴隷として働き続けて死ぬ?」
「……本当に帰れるのか?」
ようやく一番近くにいた集団の一人が声をあげた。
「それは分からない。国に帰れるかどうかは、あんたたちの頑張り次第だからね」
「頑張り次第と言われても……」
「与えられるだけで満足するような奴隷根性が染みついちゃった? 奴隷のままでいるのが楽? だったら残れば良い。自分の力で自由を勝ち取ろうと思えないような奴らの為に、僕たちは戦えない」
「…………」
ジュードの言葉に応える人はいない。だが声に出さないだけで、屈辱を感じて、顔を赤くしている人たちはいる。
「選べ。奴隷として死ぬか、人としての尊厳を守る為に死ぬかを」
これを告げたジュードは、人々の反応を確かめることなく背中を向けて、歩き出した。抗う気持ちを持たない人と共に戦う気はない。そんな人の為に命を駆ける気にはならないのだ。
最初に動いたのはやはり、声をあげた男だった。ゆっくりと踏み出された一歩。一歩足を進められれば、あとは先に進むだけ。ジュードの背中を追いかけた。
それに一人、また一人と続いていく人々。
「……上手く行ったようだな?」
人々は覚悟を決めた。ロスはそう考えた。
「まだまだでしょ? 残る決断も出来ないから付いてくる奴らが大半。今のままだと、いざ戦いになれば、逃げ出すだろうね?」
「駄目じゃないか」
「僕じゃあ、ここまで。他人をその気にさせるのは無理。でも、役割は果たしたと思うけど?」
「……そうだな」
人々の心に熱を与えるのはレグルスの役目だ。そしてレグルスであれば、それが出来るとジュードは、ロスとセブも思っている。なんといっても自分たちをその気にさせたのは、レグルスなのだから。