魔道が起動し、魔道石に込められていた魔力が活性化する。巨大な魔道石に、長い時をかけて蓄積された魔力。眠っていたそれが起き上り、大きく膨れ上がっていく。魔力を扱えない人でも、近くにいればそれをはっきりと感じられるくらいの強烈な魔力の膨張だ。
巨大な魔道石がさらに一回り大きくなる。魔力があふれ出して、そう見えているのだ。魔力の活性化は完了。魔道が発動した。
黒い炎が猛り狂う。そのように見える魔法が周囲に広がっていく。魔道具を運んできたゲルメニア族の人々は一瞬で、その魔法に飲み込まれ、死んだ。発動した魔道は相手を選ばない。周囲の人、物を全て破壊するだけだ。
四方八方に広がる魔法。それは戦場に立つレグルスも包み込んでいく。死の瞬間が訪れた、はずだった――
「J#g #lsk3r d$g(愛しているわ) %nd&rb#r# R&g%l%s(可愛いレグルス)」
美しい女性がほほ笑みかけている。それが自分の母親だと、レグルスはすぐに分かった。記憶にないはずの母親を思い出した。
「ははうえ。それはなんといっているのですか?」
それに答えたのは自分。まだ幼い、太ってもいない自分がそこにいた。
「愛しているわ。可愛いレグルス。こう言っているの」
母からの愛情。忘れていたそれをレグルスは思い出した。
「J#g #lsk3r d$g, M@r(あいしています。ははうえ)」
知らないはずの言葉。それが当たり前に自分の口から出てくる。レグルスは、過去の記憶であろうその場面を見ているレグルスは、そのことに驚いた。
「まあ、レグルスは賢いのね? でも、私と二人だけの時だけにしてね?」
「どうしてですか?」
「他の人には分からないから。困らせたら悪いでしょ?」
他の人、ブラックバーン家の人々に分からない言葉を母親は使える。ではそれはどこの国の言葉なのか。
「レグルス様! そのような言葉を使ってはなりません!」
場面は切り替わり、美しい母の笑顔とは比べものにならない、醜悪な顔が自分を怒鳴りつけている。
「そのようなって……これは母上の言葉だ」
「母親が使っていようとそんなことは関係ありません! レグルス様はブラックバーン家の公子! 蛮族ではないのです!」
「ばんぞく?」
「蛮族は蛮族です! 良いですか!? 二度とそんな野蛮な言葉を使ってはなりません!」
侍女が母親を蛮族呼ばわりしている。次期当主の妻を蛮族と蔑んでいる。そんなことが許されて良いのか。レグルスの心に怒りが湧いた。
「母上……ばんぞくって何ですか?」
そして自分の愚かさを嘆くことになる。母親に聞いて良いことではない。それを理解出来ない自分の幼さが、悔しかった。
「……さあ、何かしら? 私も知らないわ。ごめんね」
母の顔には笑顔が浮かんでいる。「愛している」と言ってくれた時とは違う、寂し気な笑顔だ。支えてあげなければならない自分が母親を苦しめてどうするのか。レグルスは自分自身に怒りを覚えた。
「母上! 母上! 起きて! 母上!」
床に倒れている母にすがる自分の姿。何が起きたかを考えたレグルスの胸に痛みが広がっていく。
「母上! 誰か! 誰か来て! 母上を助けて!」
誰も来てくれなかった。誰も母を助けてはくれなかった。母はそのまま亡くなってしまった。それをレグルスは知った。母はもうこの世にいないのだと。
「せいせいした。これでもう蛮族の女に頭を下げなくて済む」
母の死を悲しんでいるのは、自分だけだった。家臣の多くが母の死を喜んでいた。心に巣食っている黒い感情が騒めき始めた。
心に湧き上がった怒りをそのまま、母の死を喜んでいる家臣にぶつけた。
「や、止めてください! レグルス様、どうか止めて!」
「止めない! 僕は蛮族だからな! 蛮族は野蛮なんだろ!? こうして人を蹴っても、殴っても! 蛮族だからしょうがないよな!」
「や、止めて……許して……」
荒れ狂う感情をコントロール出来なかった。周りは全て敵だった。暴力の対象だった。気に入らぬことがあると、なければ作って、家臣に暴力を振るい続けた。
皆、自分を避けるようになった。何をしていようと見て見ぬふりをするようになった。
「レグルス! お前、何をしている! ここは王城だぞ!」
幼馴染が止めようと知ったことではない。自分を無視することは許さない。自分の存在をないものにすることなど、母がいなかったことにされるなど、決して許せることではなかった。
自分の存在を周囲に知らしめる。それだけの為に、どこであろうと、相手が誰であろうと暴れまわっていた。
「閣下はどうしてあのような愚者を後継者候補のままにしておくのだろう?」
「噂は事実なのかもしれない。実は父親は閣下――」
「しっ! 滅多なことを言うな! 誰かに聞かれたらどうする!? 話していることが知られたら、聞いていた私も……」
陰口をたたく大人たちは、小さな子供には目が向かない。それとも自分という存在を認識することも、もう出来なくなっているのか。自分の存在は、どれだけ暴れても無いものにされている。居場所などないのだ。
記憶を失っていた幼い頃から、自分にとってブラックバーンは敵だった。ブラックバーンに自分の居場所などなかった。この世界に、自分は必要とされていなかった。
レグルスはそれを思い出した。黒い感情がレグルスを支配する。抑えきれない激情が体内で荒れ狂うのは、いつ以来か。膨れ上がる魔力は、誰のものなのか。
「P#nd@r#, m@rkr&ts g%d(闇の神パンドーラよ) L#n# m$g d$n kr#ft(汝の力を貸し与えよ) M#kt #tt f@rg@r# ♯llt(全てを滅する為に)」
紡がれる詠唱。初めて聞く詠唱は誰の声か。幼い自分は、忘れてしまった魔法を使えたのか。この魔法は何なのか。
レグルスの問いに魔力が応えた。爆発的な勢いで膨れ上がる体内の魔力。それはゲルメニア族が使った魔道具と同じ。噴き上がる黒い炎はその勢いを増し、四方八方に広がっていく。全てを飲み込んで。これは記憶ではない。今起きている現実なのだ。
漆黒に染まる戦場。その中は闇が支配している。闇の力は全てを飲み込み、破壊していく。砦も、その左右の崖も、そして魔道具が発動したあとも一人立つレグルスに、怯えながらも近づいてきていたゲルメニア族の人々も。
「……俺は……俺は……何だ?」
黒い炎が消えた後に残ったのは、地面に伏している多くの死体。何百という死体がレグルスの目の前に広がっていた。
「……あっ……ああっ……うわぁああああああっ!!」
レグルスの絶叫が、誰もいない戦場に響き渡った――
◆◆◆
わずかに感じた体に何かがあたった感覚。それがレグルスの目を覚まさせた。目に入ったのは岩肌。自分がどこにいるのか、レグルスは分からなかった。頭に浮かんだの多くの死体。自分が殺してしまった人々の無残な姿だ。そこから先の記憶は、どれだけ思い出そうとしても思い出せない。
全身の虚脱感。この感覚には少し覚えがある。魔力を使い過ぎて、何日も寝たきりだった後。その時に似た感覚だ。さらに体を不自由に感じる物の存在に、レグルスは気が付いた。両手両足に嵌められている枷。それに気付いて、ようやく自分の状況が理解出来た。自分は捕らわれたのだと。
ここは牢屋、と考えたレグルス。
「……ん?」
入口に目を向けたレグルスの視界に入ったのは、木の枝を持った腕を鉄格子の隙間から頑張って伸ばしている子供の姿だった。届くか届かないかの距離をなんとか届かせようと、無理やり腕を伸ばしている子供の顔は横を向いていて、レグルスが目覚めたことに気が付いていない様子だ。
「……ああ、この枝か」
自分を起こしたのは子供が持っている枝。その枝で自分の体を突いたのだとレグルスは考えた。
「nn?」
今度、疑問の声をあげたのは子供のほう。レグルスの声に気付いたのだ。手を伸ばすのを止めて、顔をレグルスに向けてきた子供。
「……おはよう?」
「?」
「G@d m@rg@n(おはよう) H#r j#g r#tt?(合ってるか?)」
「G@d m@rg@n(おはよう)……Ky#############!(きやぁーーーー!)」
声をあげて子供は逃げ出していった。とても楽しそうに。
「遊ばれていたのか……まあ、良いけど。通じたな……俺の母親はゲルメニア族なのか? でも今思えばフルド族も似たような言葉を使っていたような……」
ブラックバーン家に蛮族呼ばわりされていた母親は、どこの出身なのか。子供に自分の言葉が通じたことでゲルメニア族の可能性を考えたレグルスだったが、フルド族の言葉も同じようだった記憶もある。断定は出来なかった。
「……どうでも良いことだ」
母の出身が分かったからといって、何が変わるわけでもない。やはり自分はいてはいけない存在だった。レグルスはそれを想い知らされた。これまでとは違う意味で。
この世に存在すべきではないと考えていた大量殺戮魔道具。自分はそれと同じだと分かったのだ。
「……綺麗な人だったな」
暗い闇に沈んでいく心の中に残るわずかな光。母との思い出が、わずかにレグルスの心を温める。
「俺の髪は母譲りか」
わずかに青みがかった黒髪。自分と同じ、そんな微妙な色合いの髪を持つ人に、レグルスは会ったことがなかった。ブラックバーン家にそういう人はいない。母の血を引く、母親の髪はもっと青みが強いが、レグルスだけがそういう髪だった。
「ああ、そうだ。ポーティア様の髪は美しい藍色だった。藍という色を知っているか?」
「ゲルメニア族に色の言葉を問われるって……」
「思ったよりも元気そうだ。このまま目を覚まさないかと思っていた」
レグルスは何日も眠り続けていた。魔力切れを起こしたのと同じ状態。実際は魔力切れではなく、魔法が体と心に過度の負荷をかけた為、それを癒す時間が必要だったのだが、これはレグルス本人に分かることではない。ゲルメニア族も分かっていない。
「期待に応えられなくて悪かったな」
「期待? 分からない。どういう意味で『期待』という言葉を使った?」
「死んでほしかっただろうって意味。それとも自分たちの手で殺したいということか?」
レグルスは多くのゲルメニア族を殺した。かなり恨まれているのは間違いない。
「お前はポーティア様の息子だな?」
「母の名は思い出せていない」
「レグルス・ブラックバーンだな?」
「……ブラックバーンと呼ばれるのは嫌だが、そうであることは認める」
そして母を殺したブラックバーンの人間でもある。こうして生きているほうが不思議だった。
「では、すぐには殺せない」
「甘いな。母親が誰であろうと、敵は殺しておくべきだ」
生かされているのは母親がゲルメニア族であるから。それは分かった。様を付けられて呼ばれるような立場であったことも。だが、そんな事情はレグルスにはどうでも良いことなのだ。
「すぐには、と言った。お前をどうするかは、一族で話し合って決める」
「話し合う必要はない。すぐに殺せ。こんな枷や鉄格子で俺を拘束出来ると思っているのか?」
「……出来ないような相手だから、すぐに殺せないのだ。お前は、闇の神パンドーラに愛されているかもしれない」
ゲルメニア族が崇める神、パンドーラ。彼らは魔法をパンドーラの力だと考えている。その力の強さはパンドーラがどれだけその人間に力を与えようと思うか、愛されているかだと考えているのだ。
「ただの人殺しだ!」
力の根源が何であるかなど関係ない。その力が及ぼすものは人の死。それがレグルスは受け入れられないのだ。
「……我らの言葉が分かるのだな?」
「ああ……どうなのだろう? まったく覚えていなかったけどな」
言葉についてはレグルスも訳が分からない。母親との会話で使っていたことは、思い出した記憶から分かったが、どれくらい話せるかまでは分からないのだ。
「忘れていたのか?」
「幼い頃の記憶はなかった。母のことも忘れていた。生きているものと思っていたくらいだ」
「……それはいつの話だ?」
「ここで目覚める前。お前たちの魔道具で死んだと思った瞬間、頭の中を記憶が駆け巡った。ほとんどが嫌な記憶だったな」
どうせなら母との思い出をもっと取り戻して欲しかった。それ以外の記憶など必要なかった。母が笑っていた、自分も笑っていた時の記憶ばかりであって欲しかった。
「……では、あの魔法も?」
レグルスは分かっていないが、ゲルメニア族の魔道具は不発に終わっている。発動したはずの魔法が広がるのを止め、一か所に集約していった。レグルスに飲み込まれていったのだ。
レグルスの魔法が発動したのは、そこから少し経ってから。ゲルメニア族にとってはあり得ない現象だった。
「そうだ。何故か口から詠唱が出てきた……言い訳だな。お前たちの仲間を殺したのは俺だ。だから、さっさと殺せ」
「……すぐには殺さない」
レグルスが気を失っている間、ずっとゲルメニア族は話し合いを続けてきた。レグルスを殺すか、生かすか。意見が割れているのではなく、誰もが悩んでいる状態だ。
レグルスはあり得ないほどの強力な魔法を使った。それはそれだけ彼らの神、パンドーラに愛されているということ。そのレグルスを殺して、パンドーラに祟られないかと考える者。レグルスはゲルメニア族の姫、一族に愛されていた女性の息子だ。殺すことは感情的に受け入れられない。こう考える者もいる。
だからといって生かすという決断も簡単には出来ない。レグルスは敵として、この地に現れ、多くを殺した。その彼を野放しにする恐怖。ゲルメニア族にはこの思いも強いのだ。
「すぐには殺さない」ではなく「すぐには決められない」が本当のところ。その間、レグルスはこの場所で過ごすことになる。時代が再び彼を表舞台に引き出そうとするまでは。