王都を出て、北方辺境伯領のモルクインゴンに向かう馬車。レグルスが使っていたブラックバーン家の馬車とは異なり、どこにでもある普通の荷馬車だ。その荷馬車にわずかな荷物と何人もの人が乗っている。レグルスの後を追うジュードたちだ。
「こんなに大勢で押しかけて平気なのか? アオ殿は知らないのだろ?」
「へえ、あんた話せるんだ」
馬車を御している男が問いかけてきた。ジュードが初めて会った男。実際にはジュードが気付かなかっただけで何度か会っている。エモンの仲間、すぐにジュードも知るが同じ一族の男だ。
「必要な時以外、話さないだけだ。今は必要な時。それに普段の仕事とは違うからな」
「初めて会うのに挨拶もしない無愛想な奴と思ってた」
「会うのは初めてではない。そちらが気付かなかっただけだ。ああ、名乗っておこう。俺はハチエモン」
「……ハチ・エモン?」
ハチエモンの名を聞いて、ジュードはエモンの家族なのだと考えた。家族であるのは合っている。ただ、エモンは姓ではない。
「勝手に区切るな。ハチエモンだ。王都で会ったもう一人はニエモン。会うことがあるかないか分からないが、イチエモンもサンエモンもいる」
「……変な名前」
「俺もそう思う。一族が代々そう名乗ってきたせいだ。どこかで誰かが変えれば良かったのに、それをしないから」
ハチエモンの一族の男性は皆、名にエモンが付く。ずっと昔からの一族のルールを守り続けているのだ。若い世代は、今は年寄りになった人たちも若い時は、迷惑なルールだと思っていた。
「一族?」
「ああ……隠すことではないか。我々はずっと昔に遥か遠い場所から、何十年もかけて、この地に移って来た。それが今もバラバラにならずに暮らしている」
「……少数民族みたいなもの?」
「同じだろうな。我々は言葉も文化も、一族固有のものも残っているが、王国に適応した。だから目立たないだけだ」
今、少数民族、異民族と呼ばれている人たちはハチエモンの一族に比べれば、遅く王国に組み入れられ、言葉も文化も継承することに拘っている。他の王国民と同化しきれていないから、そう呼ばれているのだ。
「難しいね」
「王国が頑ななだけだ。歴史を辿れば、アルデバラン王国の民は寄せ集めであることが分かる。アルデバラン王国の民の原型などない」
これがアルデバラン王国の民、アルデバラン族なんてものはない。長い年月をかけて、様々に変化し、融合してきた言語、文化、慣習がそうだとされているだけだとハチエモンは考えている。少数民族の寄せ集めが、少数民族を差別するのはおかしい。元々違いはあったのだから、今も違いを認めれば良いと思っている。
「アオが好きそうな議論だ。でも、残念だけど今ここにはそういう難しい話が好きな人はいないね」
「……そのようだ」
荷馬車に同乗しているのは、スカルとココ、そしてカロの三人。三人とも眠そうだ。ちなみにスカルとココ、ジュードもだが、レグルスは付いてくるとは思っていない。王都に残るはずだったのだ。一緒にモルクインゴンで暮らすのは職を失ったエモンと王国に追われている可能性があるカロだけの予定でいた。
「どうして、アオ殿に付いて行くことにした?」
「どうして? 付いて行かない理由がないから。これを分かっていないのはアオだけだ」
ジュードはレグルス・ブラックバーンと一緒にいたのではない。アオと一緒にいたつもりだ。ブラックバーン本家を追われたことは、離れる理由にはならない。
「そうだな」
「そっちこそ、どうして付いて行くの?」
エモン個人がレグルスに付いて行こうとするのはジュードも理解出来る。だが一族で、ブラックバーンという後ろ盾を失ったレグルスに付いて行く理由が分からない。
「……救われたから」
「そう……」
ジュードにはこの一言で十分だった。自分と同じだと分かれば。
「我々の一族は遠い国で忍び、この国では諜者か、諜者として働いていた。その技を代々継承してきた。だが、その技を活かす場は失われた。生きる為に盗賊となった」
だがハチエモンの話を終わらない。ずっと抱えていた想いを話す機会を得て、相手が誰であろうと、止まらなくなったのだ。
「俺が生まれた時からそうだった。だから何とも思っていなかった。だが、アオ殿の仕事をするようになり、気持ちが変わっていった。天職を得たと思った」
ハチエオモンが生まれた時には、一族は盗賊集団だった。幼い頃から教えられた技は盗賊稼業の為の技だと思っていた。年長者から遥か昔の話を聞かされても、何とも思わなった。
だがエモンに誘われて、レグルスの仕事をするようになり、徐々に気持ちが変わっていた。変わっていったのは自分だけではなかった。
「自分の未熟さを思い知り、技を磨き直した。生まれて初めて、もっと鍛えたいと思った。そう思ったのは俺だけじゃなくてな。一族の、それも年寄りほど張り切っていて、一族は明るくなった」
「年寄りも働いているの?」
「そう。盗賊稼業を引退した年寄りが、嬉しそうに働いている。本当に嬉しそうに……あんな顔を見たのは初めてだった」
いつも暗い雰囲気をまとっている人ばかりだった。一族全体が暗く湿った雰囲気だった。無条件に笑っていた子供たちも、成長するにつれて、その雰囲気に飲まれていった。
だが、それがレグルスとの出会いで変わった。一族は活気を得た。鍛錬は厳しさを増したが、これまではなかった笑顔が見られるようになった。充実感というものを皆が知った。
「もう元には戻れない。戻りたくない」
「そう……でもどんな仕事をするつもり? 何もないところだって聞いているよ?」
「働き場所は変わらず王都だ。他にも大きな街に人をやる。これから行く場所では、何の情報も得られないからな」
彼らはこれまで以上に手を広げようとしている。技を磨き上げ、若者を育て、王国全土に網を広げられるくらいにしようとしている。
「アオにはそれが必要?」
「必要にならない理由はあるか?」
「……ないね」
これでもうレグルスは表舞台に昇ることはない。ジュードもハチエモンもそうは思っていない。それとは逆に、ブラックバーンという鎖が外れたレグルスは、もっと大きく動き出すと思っているのだ。
「ああ、そうだ。ひとつ面白い話を教えてやる。年寄りが話してくれたのだが、我らが祖国を離れたのは、ある男から逃げ出す為だったらしい」
「何それ?」
「まあ聞け。その男は恐ろしい男で、敵対する者たちを容赦なく殺した。そうして当時バラバラだった国を一つにまとめ上げていった。我々の一族、他にも忍びをしていた一族が暮らしていた土地もその男の軍勢に襲われた」
「それで逃げてきた? そんなに怖いの?」
命が大事なら逃げるしかない。それは分かる。だがハチエモンの祖国は遥か遠く、移動に何十年もかかる場所だと聞いた。そんな遠くまで逃げなくてはならないほど怖ろしい男とは何なのだとジュードは思った。
「恐ろしいだけではなかったらしい。この男なら本当に国をひとつにまとめ上げてしまう。それどころか、世界の覇者になる。そう思うような人物だった。だから我々の一族は隣国でも、その隣の国でも安心できず、逃げ続けていたそうだ」
「そうなったの?」
「なっていないだろ? アルデバラン王国はその男の子孫が治める国ではない」
「なんだ」
途端にハチエモンの話に興味を失ったジュード。面白い話だというので、耳を傾けていたスカルたちも、また眠りに入ろうとしている。だがハチエモンが話したかったのはこの先だ。
「その男は若い頃、『うつけ』と呼ばれていた」
「うつけ……どういう意味?」
「愚か者とか暗愚というような意味だ」
「それって……」
レグルスも幼い頃はそのように言われていた。ブラックバーン家の出来損ないと。
「おかしな因果だろ? 『うつけ』から逃げてきた我々が、別の場所で『うつけ』に仕えている。あっ、これはアオ殿には言うなよ?」
「馬鹿呼ばわりだものね?」
「幼い頃の話だ。それに『うつけ』には常識外れという意味もあるらしい。凡人には測れないような人物だから、そう言われるのだ」
実際のレグルスはハチエモンが言うよな子供ではなかった。ひねくれ者で怠け者。常識外れというような子供ではなかった。レグルスが忘れている原因が、そんな子供にしたのだ。レグルスの運命は、ようやくその原因を明らかにしようとしている。
◆◆◆
舞術の道場となっている屋敷で一晩を過ごし、旅の汚れを落として身綺麗になったレグルスは、領主であるドミニクに挨拶に来た。レグルスにとって、ドミニクと会うのは初めてのことだ。例によって記憶にないだけだが。
がっしりした体と精悍な顔つきは、いかにも戦場に身を置く者という感じ。レグルスの父であるベラトリックスの柔和な雰囲気とは、真逆な風貌だ。
「よく来たな。会うのはいつ以来だろう?」
「……いつでしょう? 幼い頃のことは良く覚えていなくて」
時期を聞かれてしまっては誤魔化しようがない。素直に忘れていると言うことにした。受け入れられてしまえば、このほうが後々も都合が良いのだ。
「そうか……王都では大活躍だったと聞いている」
「活躍した記憶もありませんが」
「謙遜を覚えたか。大人になったな」
ドミニクの知るレグルスは我の強い男の子だった。出来てもいないことを出来たと言い張るような子供だった。そのレグルスが、本人にそのつもりはないが、謙遜しているのを見て、ディアーンから聞いていた変化を少し実感した。
「その力をゲルメニア族との戦いで使ってもらうことになるが?」
「はい。聞いております。お役に立てると良いのですが」
「お母上のことは、その……」
レグルスの反応が思っていたものではなかったことで、ドミニクはもっと深く話をしようと考えた、のだが。
「ああ、母の記憶もほとんどなくて……」
「記憶がない?」
「はい。別れた時は六歳ですか……覚えていないですね」
六歳という年齢は微妙なところだと思っているが、過去や、身の回りにいた人のことを良く知る相手には、記憶がないことを隠しても、すぐにぼろが出る。不審がられても、人生を繰り返していることを知られるわけではないとレグルスは考えるようになった。同じ経験をしている人は別だが。
「……六歳か。会いたいと思う時もあっただろうな?」
「まあ、少しは」
「会いに行く機会を作ってやりたいが、今はかなり状況が切迫していてな」
このドミニクの言葉に、ディアーンが目をむいているが、真横にいるレグルスはそれに気付かなかった。少し気配を感じたくらいだ。
「戦いが近いということですか?」
「ああ、それもかなり大きな戦いになりそうだ。かなりの数が山から下りてきている気配がある」
「気配?」
戦争を前にした情報にしては、具体的ではない。戦いというのはもっと、お互いにだが、敵の情報を詳しく探るところから始まるものだとレグルスは思っていた。間違った考えではない。相手が特別なのだ。
「隠密能力に長けた厄介な敵なのだ。正直、夜に戦う気にはなれない。だがそうなると、こちらから進出することが出来なくなる」
「夜営も出来ないから?」
「そうだ。一晩中、灯を灯し続けて、敵の夜襲にも即時対応できるだけの人数を交代で見張りにつけておくことが出来れば可能だがな」
それだけの数がいない。ゲルメニア族の本拠地に辿り着くまでに、どれだけの物資が必要になるかも分からない。中途半端では、険しい山岳地帯を逃げ回られるだけで、疲弊と物資の枯渇で戦いが継続出来なくなってしまうのだ。
「……特選騎士の数は?」
それでも魔法が使える特選騎士の活躍次第で、勝利を得ることは出来るはず。特選騎士の戦力は、それ以外の条件を凌駕するものとレグルスは考えている。
「私も含めて二十」
「二十ですか……」
それが多いのか少ないのか、聞いても分からない。それにレグルスは気が付いた。まだ敵戦力について何も知らないのだ。
「ただ敵も魔法を使う。それが何人いるかも分からない」
「それって……敵戦力も把握できないまま、ずっと戦いを続けているということですか?」
そんな愚かな戦いを何故、行っているのかとレグルスは思った。戦場経験などないレグルスだが、知識としては様々なことを学んでいる。歴史書などで、勝者と敗者を分けるものは何なのかなども学んできた。
「敵戦力を把握する為に、我々は戦い続けている」
「……捨て石にされていると?」
「…………」
ドミニクの顔に苦笑いが浮かぶ。レグルスの表現は正しい。正しいが。それを肯定出来る立場にドミニクはいない。今のレグルスもそうであるはずなのだ。
「少し事情が分かってきました」
勝ち目のない戦いをドレイクたちは挑んでいる。そこに送られた自分も、ブラックバーン本家にとっては捨て石。戦死してくれたらありがたいくらいに思っているのだろうとレグルスは考えた。
「さきほども伝えた通り、戦いはすぐだ。よろしく頼む」
「出来るだけのことはします。では」
望み通り、死んでやっても良いとも思ったが、それも癪に障る。それに、ジークフリート王子の結婚がどのような形になるのか見極められるまでは、出来れば生きていたいとレグルスは考えた。それまで生き延びる為に、自分を鍛え続けなければならないと。
鍛錬の為に道場に戻るレグルス。
「ディアーン。お前は残れ」
そのレグルスと一緒にこの場を去ろうとしたディアーンを、ドミニクが呼び止めた。
「……はい」
一人去っていくレグルス。その足音が聞こえなくなったところで口を開いたのは、呼び止めたドミニクではなく、ディアーンのほうだった。
「このままレグルスを戦わせるつもりですか?」
「その為に彼はここに来たのだ」
「あいつのは母はゲルメニア族です! それを知らせないまま、戦わせるつもりですか!?」
レグルスの母はゲルメニア族の女性だ。だがレグルスはその事実を知らない。覚えていない。それを知ったディアーンは、レグルスに事実を教えないまま戦わせるべきではないと考えている。
「戦いは避けられない。本家がそれを許さない。だったら知らないほうが良い。記憶がないのは彼にとって幸いだ」
「それは……そうかもしれないけど……」
自分の母親はゲルメニア族。自分の体に流れる血の半分はゲルメニア族。それを教えて戦わせるほうが残酷。父親の言う通りだとディアーンも思う。思うが、気持ちが納得してくれなかった。
「……我々に出来ることがあるとすれば、彼を死なさないことだ」
レグルスが戦いを拒否すれば、本家はまず間違いなく動く。自分が信頼する家臣が、暗殺者に変わるかもしれない。これをドミニクは知っている。
「和平という道もあります」
レグルスを騎士としてではなく、和平の使者として使うという選択もある。そのほうが正しい選択だとディアーンは考えた。
「それを考えられるだけ大人になったか」
「ちゃかさないで下さい!」
「ちゃかしてはいない。仲間を殺された恨みよりも、今生きる者たちの未来を優先する。これは、以前のお前には出来なかったことだ」
復讐心がそれをさせなかった。今も恨みはある。だが、その恨みよりも戦いを終わらせることを考えるディアーンは、父であるドミニクの目から見て、成長している。家を任せるのはまだ先だが、その時が来た時に安心出来そうな成長を見せている。
「……恨んでいるのは相手も同じ。それが少し分かるようになっただけです」
「恨んでいるだろうな。裏切ったのはブラックバーン側だ」
「……まさか、レグルスの母親は?」
ディアーンが考えた恨みは、戦闘でお互いに犠牲者が出ていることについて。ドミニクが言う裏切りはそれとは関係ない話だ。ではブラックバーン家の裏切りとは何なのか。ディアーンはレグルスの母の死をそれに結び付けた。レグルスの母は亡くなっているのだ。レグルスが六歳になって領地を離れる前に。
「事実がどうであろうと亡くなったことに変わりはない。大切にされると思って嫁がせたのに、亡くなってしまったのだ。それは裏切りだ」
「……それなのに我々は戦い続けるのですか?」
「疑問に思うのは良い。だが、それでもお前は家臣を率いて戦わなければならない。正しい道があると分かっていながら、異なる選択をしなければならない。次はこれを乗り越えられるかだな」
正しいことだけをしていては家は守れない。当主は手を汚すことを厭うてはならない。ドミニクはこう考えている。
「……乗り越えたくないと言ったら?」
そんな領主にはなりたくない。間違った戦いで家臣を殺すような領主にはなりたくない。ディアーンはこう思う。これが父であり、現当主であるドミニクとの差だ。
「家を滅ぼす覚悟を持て。投げ出すのは許さない。家臣も領民たちも納得するような終わらせ方に出来ないなら、正義など捨てろ」
「…………」
「今すぐの話ではない。私はまだ後を譲る気はないからな」
だがいつかその日は来る。その時、このようなことを考えなくて良い状況になっていることを、ドミニクは願っている。願っているが口にはしない。叶わない希望は、絶望の闇を深くするだけ。彼はこれを知っているのだ。