王都のブラックバーン家は、未だに失ったものの大きさを理解していない。この先も理解することはないだろう。理解出来るのであれば、このような状況にはなっていない。守護家の一つ、北方辺境伯家ブラックバーンは、少なくとも王都ブラックバーン家はその力を多いに落としているのだ。
これはレグルスの責任でもある。レグルスの父、北方辺境伯となったベラトリックスが家臣たちと共に領地に戻った後、王都に残された若い家臣の中には、本来、レグルスに仕えるはずだった人たちが多くいる。北方辺境伯になるはずだったレグルスに仕える、将来はブラックバーン家を支える重臣になるはずだった人たちだ。
だが、その彼らはずっと、ろくに仕事をしていない。仕える相手であるレグルスが屋敷にいないので、ほとんどやることがなかったのだ。実務経験に乏しく、他家との交流もほぼなかった家臣たちが、それを補うよりも、次代の重臣としての地位を求めて、慌ててライラスの歓心を得ようと頑張っている。これが今の王都ブラックバーン家だ。そのような状況で、北方辺境伯家に相応しい能力を発揮しろというのは、少し可哀そうだ。
ただ理由は何であれ、建て直しが遅れれば、それだけ失うものは多くなる。そして今日も。
「ようやく復帰か? 何日も鍛錬を行わないでいて、何とも思わないとは……」
「…………」
教育係である騎士の嫌味に、ジュードは知らん顔。屋敷を出られなかったレグルスの代わり、いなくなった後も引き続き、様々な後始末を行ってジュードは騎士団に復帰した。本人が望んだことではない。命令が出て、それも無視しようとしていたのだが、オーウェンがそれを許してくれなかったのだ。
「……これまで楽をしていたようだが、これからはそうはいかない。その無礼な態度も含め、叩き直してやる」
ジュードの態度に教育係の騎士は腹を立てている。怒るのも当然のジュードの態度であるが、発した言葉は間違いだ。
「叩き直す? あんたが?」
騎士の言葉はジュードのほうも怒らすことになった。もともと機嫌が悪かったジュードだ。何を言われても結果は同じだっただろうが。
「お前だと? その態度を叩き直すと言っているのだ!」
「じゃあ、やってみろよ」
「ふざけるな!」
ジュードの挑発に激高する騎士。怪我をさせても構わないと、全力で剣を振るった、のだが。
「ぐっ……」
ジュードの反撃を受けて、膝を折ることになった。
「死ね……死ね、死ね、死ね、死ねぇええええっ!」
さらにジュードは、跪いた騎士に容赦なく剣を振るっていく。地面に倒れることも許されない凄まじい連続攻撃を受けている騎士。鍛錬用の剣であることが救い、なのか、苦しみが長引く分、不幸なのか。
「貴様! 何をしている!」
騎士の幸運は周囲にいた人たちが気が付いてくれたこと。ジュードを止めようと動き出す騎士たち。だが、それはジュードをさらに暴走させるだけだった。
剣の向け先を変えて、攻撃を続けるジュード。近づいてくる騎士たちを片っ端から打ち倒していく。
「魔法の使用を許可する! そいつを捕えよ!」
いよいよ最後の手段に出ようとする騎士たち。
「止めてください!」
それを制止しようと動いたのはオーウェンだった。
「止めるな! 暴れるあの男が悪いのだ! 構わないからやれ! 怪我をさせても構わん!」
だがオーウェンの制止の言葉は、命令を発した将には届かなかった。仕方がないことだが、彼にはオーウェンの制止の意味が分からないのだ。
詠唱の声が訓練場に響く。騎士たちの声だ。
「止めろ! 止めろ、ジュード!」
オーウェンの叫びはジュードに向けられた。だが、無駄だ。ジュードには手を緩めるつもりなどない。レグルスとの鍛錬の日々を侮辱したブラックバーン騎士団の者たちを、まだまだ続くはずだった共に過ごす日々を奪ったブラックバーン家をジュードは恨んでいるのだ。
「なっ……」
魔法で身体強化を施した騎士が、ジュードの攻撃で吹き飛ばされる。魔法が失敗したのかと思ってしまうほど呆気なく腕をへし折られ、呻いている騎士。地に伏して動けなくなっている者。従士のジュードにブラックバーン騎士団の特選騎士たちが次々と倒されていく。
「弱い、弱い弱い弱い! あんたら何だ!? ずいぶん楽をしてたんだね!?」
レグルスとの鍛錬は辛いものだった。レグルスが一緒でなければ、自分と同じように歯を食いしばって辛い鍛錬を続けているレグルスがいなければ、間違いなく逃げ出していた。一緒にいるのがレグルスだからこそ、耐えられた。
その時を侮辱されることなど、ジュードには許せない。自分たちの愚かさを思い知らせてやるつもりだ。
「……さて、あんたも来いよ」
うめき声をあげて地に伏している大勢の騎士たち。その中心に立って、命令を発している将をジュードは挑発する。
「調子に乗るな」
挑発から逃げるわけにはいかない。従士から将が逃げるわけにはいかない。王都ブラックバーン騎士団の威信をかけて戦わなければならない。
「調子に乗ってない。乗れるはずがない。アオは、レグルス・ブラックバーンは僕の何倍も強いからね。僕なんてまだまだだ。あんたはどう?」
「…………」
レグルスの強さはこの将も知っている。王国騎士団と中央学院の合同訓練の後、「どう鍛えれば、あのような強さを身につけられるのか」と王都ブラックバーン騎士団に問い合わせてくる貴族家がいくつもあったのだ。その人たちはレグルスを強くしたのは当然、ブラックバーン騎士団だと思ったのだ。
「答えなくてもすぐ分かるから」
ジュードの体が揺れた、と思った時には将との間合いを詰めていた。振るわれる剣。
「……邪魔」
その剣を防いだのはオーウェンだった。
「もう止めろ。騎士団にいられなくなる」
「ええ? それで僕が止まると思っているの? 僕が騎士団に残りたいと?」
「…………」
思っているはずがない。レグルスがいないブラックバーン家に、ジュードが残る理由などないのだ。王都ブラックバーン騎士団を離れるのだから、いっそのこと騎士団そのものを潰してしまえ。ジュードのこの考えをオーウェンは気が付いている。
「……鍛錬相手がいないとあんたが困るか」
「私は……」
オーウェンはジュードと同じ選択を簡単には出来ない。ブラックバーン騎士団を去るにしても、きちんと義理を通してから。最低でも領地にいる副団長ジャラッドの許しを得てからだと思っているのだ。
「じゃあね。また会う時があるか分からないけど、その時は、出来れば味方側にいてね。難しいか」
ジュードは、レグルスにはまだやり残したことがあると思っている。ブラックバーン家に復讐することだ。オーウェンがブラックバーン騎士団に残るのであれば、次に会う時は敵。こう思っている。
「……レグルス様に……その……」
「言いたいことがあるなら自分で言うんだね。今度こそ、じゃあね」
オーウェンに背中を向けて歩き出すジュード。その背中にかける言葉が見つからない。選べない。オーウェンの心はまだ定まっていない。感情は今すぐレグルスを追うことを求めているが、理性がそれを許さないのだ。
そんな自分の性格を、オーウェンは初めて恨めしく思うことになった。
◆◆◆
王都の表通りにある超が付く高級レストラン。あまりに高すぎて利用する客はほとんどいない、というのは客の出入りがないことを誤魔化す為の嘘。このレストランを利用できるのは特別に招待された人だけ。ミッテシュテンゲル侯爵家に、何らかの利をもたらす人物だ。
そのレストランの個室のひとつでジョーディーはお茶を楽しんでいる。高級レストランであることは嘘ではない。守護家のひとつ、その中でも裕福さでは一番と言われているミッテシュテンゲル侯爵家に生まれたジョーディーの舌を満足させられる物だけが使われているのだ。
ただ、こうしてジョーディーが一人でこの場所にいるのは珍しいこと。この建物に出入りする様子は、人に見られたくないもの。どうしようもない用事がある時以外は近づかないようにしているのだ。
「……こういう時間も悪くない」
もう何年も忙しい日々を過ごしてきた。大切な妹を守るために、出来るだけのこと、出来ないと思われることでも必要なことは全て行ってきた。のんびりしている時間は、心の余裕もなかった。
今も余裕があるわけではない。ただ、少し考えることを止めたい理由があるのだ。
「さて、何が書いてあるのか」
テーブルの上に置かれている封筒に手を伸ばす。届くはずのない手紙。このレストランに直接、ジョーディーの宛名で届けられた手紙だ。
差出人は分かっている。分かっていなければ、この場所で読もうなんて思わなった。レグルスからの手紙でなければ。
「…………」
丁寧に封を切って、中身を取り出す。長い手紙ではない。「余計なことを考えるな。考えさせるな。それが幸せを続かせる方法だ」という短い文章。そして、追伸として「あの女は馬鹿だけど良い奴だ。きっと二人は仲良くやれる」と書かれている。
ジョーディーの顔に笑みが浮かぶ。レグルスとアリシアの関係性を思って、少し可笑しかったのだ。
「この忠告を無視したらどうなるのかな? ここに届けたのがその意味か」
レグルスは襲撃事件が自分に対する罠だと気づいている。その罠を用意したのがジョーディーだと知っている。それを伝える為に、このレストランに手紙を届けたのだ。「分かっているぞ」と伝える為に。
ジョーディーはそう理解した。
「……難しい要求だよ。君は分かっていないね?」
レグルスの忠告をそのまま受け入れるわけにはいかない。まだ安心できる状況ではない。レグルスが分かっていない事実を、ジョーディーは知っている。
ジョーディーのほうが年長で、レグルスよりも幼い頃から動いてきた。個人の力だけでなく、ミッテシュテンゲル侯爵家の力も使って、様々な準備を進めてきた。この差は大きいのだ。
「ただ、君のことも分からない。レグルス・ブラックバーン、君は何者なのだ?」
今のレグルスはジョーディーが知るレグルスではない。今回の人生においては、訪れるはずの未来が狂っている。サマンサアンの人生に良い変化を与えているのは良いことだが、予測できない未来は不安なものだ。望まない未来でも、分かっていれば覚悟が出来る。ジョーディーはそういう人生を何度も繰り返してきた。だが今回の人生では何が起きるか分からない。それに不安を感じてしまうのだ。
そうさせているのはレグルス。レグルスの本来はあり得ない行動が変化をもたらしている可能性をジョーディーは考えている。
「分かっているのは、君が静かに暮らしていられるほど、王国の将来は平穏ではないということ。動乱の時代をもたらすのは、君だけではないからね」
王国の混乱はレグルスだけが作り出すのではない。エリザベス王女は「時代」と表現したが、様々な欲望や思惑が絡み合い、動乱という結果を作り出していくのだ。
過去の人生においてレグルスより長生きをしてきたジョーディーはそれを見てきた。大切な妹だけなく、父親も、家名も領地も家臣も、何もかもを奪われて、見ているだけしか出来なかった。
「レグルス、大切な人を守るだけという君のようにはいかないのだよ。私は」
ジョーディーには守るものが多くある。ミッテシュテンゲル侯爵家、仕えてくれている家臣たちとその家族、領地とそこに暮らす領民たち。全てを捨てても大切な人を守る、というレグルスのような真似は出来ない。次代のミッテシュテンゲル侯爵、それもそう遠くないうちにミッテシュテンゲル侯爵家を継ぐ身としては、そんな勝手は許されないのだ。
「……最初は同じだったけどね……これも欲か。私も動乱を生み出す意思のひとつだ」
最初に意識が芽生えた時、思ったのは「せめて妹のサマンサアンだけでも助けたい」だった。その為に様々なことを考え、実行し、失敗し、それを繰り返しているうちに得られる力は大きくなっていった。得た力が大きくなるにつれて、守らなければならないものが増えていった。大切な妹だけでも救いたい、という最初の思いは一度も叶えられないのに。
「妹を死なせてしまうのは君。助けようとするのも君。これで妹が救われたら、つまり私は、妹の為に何もしてあげられないということか……」
もしこれで妹のサマンサアンが処刑台に送られることなく、幸せな人生を送ることが出来たとしたら、自分がこれまで行ってきたのは何なのだろうと、ジョーディーは思ってしまう。得た富もその冨で作り上げた組織も、その組織が生み出す力も、ジョーディーに喜びをもたらすものにはなっていないのだ。
「……それでも私は続けるよ。レグルス、私は君とは違う」
たとえそうだとしても、守らなければならないものが無くなるわけではない。守るべきものを守る為に、これからも人生を捧げなくてはならない。それがミッテシュテンゲル侯爵となるジョーディーの使命なのだ。
だがジョーディーは間違っている。レグルスの戦いも終わったわけではない。レグルスにはまだ守るべきものがある。レグルス本人は知らない、ジョーディーよりも遥かに大きくて重い責任を背負っているのだ。終わらせてはもらえない。