レグルスが王都を去った。公にそれを知る人は少ない。ブラックバーン家は自家の人間をどう処分したかなど、公式に発表しない。レグルスが都落ちすることなど公にはしない。罰の軽重を論じられるような事態は望まないのだ。
レグルスが王都を去ること、さらに日付まで知っていたのは限られた人々だ。公式にはであって、非公式だとその数はかなり増えることになる。公式に知った人々の中の何人かが、機密にするどころか、積極的に知るべき人たちに教えている。アリシアもそういう形で知らされた一人だ。
せめて最後にレグルスを一目見ようと北門近くで待っていたアリシア。聞いていた通り、レグルスを乗せているであろうブラックバーン家の馬車がやってきた。
だが、馬車の中にいるレグルスの姿を見ることが出来るのか。馬車が近づく前に、難しいだろうことは分かった。ただでさえ小さな馬車の窓。さらにそこに鉄格子が嵌っているのだ。中の様子を確認出来るとは思えない。
結局、最後に姿を見ることもできない。もう二度と会えないかもしれないのに。レグルスが早過ぎる死から遠ざかったことを喜ぶべきだと自分を納得させていたアリシアの心に、後悔の念が湧き上がってくる。
「えっ……?」
その後悔の念は、一時、アリシアの心から消えることになる。現れた良く知る顔がそうさせた。
『止めろ! レグルスに用がある! 馬車を止めろ!』
馬車の前に立ち塞がって叫ぶタイラー。その様子に驚きながらも御者は馬車を止めた。進路に人が並んでいるのだ。そのまま進んで怪我をさせるわけにはいかない。
『貴様ら! 何だこれは!? 自家の公子をこんな馬車に押し込めるとは! 貴様らそれでもブラックバーン家の家臣か!?』
鉄格子が嵌められている馬車を見てタイラーは。ブラックバーン家の人たちを怒鳴りつけている。そんな風に素直に感情をぶつけられるタイラーが。アリシアは羨ましかった。陰に隠れて見送ろうとした自分が情けなかった。
『レグルスを出せ! 話がしたい!』
レグルスとの対話を要求するタイラー。これでレグルスが馬車から出てくれば、姿を見ることが出来る。アリシアは、そうなることを期待した。
そして期待通り、レグルスが馬車から降りてきた。
「……あっ」
一言二言、言葉を交わしたかと思ったら、タイラーがレグルスを殴りつけた。それをまともに受けて、後ろに吹き飛ぶレグルス。
何が起きたのか分からなかったアリシアだが、続いて聞こえてきたタイラーの叫び声が教えてくれた。
『どうして無実を主張しない!? どうしてやってもいない罪を認めた!? どうしてだ!?』
タイラーは未だにレグルスの無罪を信じている。それにアリシアは驚いた。驚き、自分を惨めに感じた。こんな結末は考えていなかった。レグルスの最大の理解者は自分であるはずだった。そうあらねばならないと思っていたはずだった。だが、今の自分はレグルスの前に出ることも出来ない。それが惨めだった。
レグルスとタイラーの会話は続く。それが聞こえてアリシアは、もう視線を向けることも出来なくなった。タイラーのまっすぐな想いが眩しかった。涙が止まらなかった。
「……えっ?」
その顔があがったのはレグルスの言葉を聞いた時。レグルスはこう言ったのだ。「俺には守らなければならない奴がいる。俺が証言を翻せば、そいつを守れなくなる」と。
それは間違いなくアリシアが知るレグルス、アオの言葉。真実の言葉だった。
「……私は……馬鹿だ……」
どうしてアオを信じられなかったのか。レグルス・ブラックバーンというゲームキャラではなく、アオ自身を見なかったのか。どうして、「世界の全てがアオの敵になっても自分だけは味方であり続ける」という誓いを忘れてしまったのか。後悔の思いがアリシアの胸を引き裂く。取返しのつかない過ちを犯してしまった自分を許せない。
「……謝らないと……せめて……謝らないと」
暗い感情が心を支配する。だがそれによって、ようやくアリシアは足を一歩、踏み出すことが出来た。レグルスの前に出る気になった。
「…………」
だがアリシアの足がそれ以上、動くことはなかった。レグルスを抱きしめるフランセスの姿が、重なる二人の唇が、それを許さなかった。
二人の最後の時間を邪魔する勇気がアリシアにはない。そんな資格は自分にはない。自分が失ってしまったものを、自らの過ちによって失わせてしまったものの重さを、アリシアは思い知らされた。自分はもうアオにとって特別な存在ではないと知った。
その場にへたり込むアリシア――呆然としていた意識を取り戻した時にはもう、通りには誰もいなくなっていた。
◆◆◆
王都を去るレグルスに想いを馳せる女性は他にもいる。せめて一目見る、ということさえ許されない立場の女性、エリザベス王女だ。普段は足を向けることのない王城の塔を昇り、北門に目を向けるのがエリザベス王女に出来る精一杯のこと。そうしても北門を行き交う人々の姿など、まったく見えないと分かっても、そこにとどまり続けていた。
「……もっと我儘を言ってくれても良かったのに」
「兄上」
そんなエリザベス王女を心配して、ジュリアン王子がやってきた。
「さすがに父上も城を出ることを許してくれたと思う」
「それはどうかしら? ブラックバーン家はレグルスに罰を課してしまった。罰を受ける立場のレグルスに会わせてくれるとは思わないわ」
レグルスは罪人だ。罪人が王都を追放されるという状況で、王家の人間をそれを見送るのはおかしい。形式を重んじれば、国王は許可など出さない。
「だが、それは王国の過ちのせい。申し訳ないという気持ちもあるのではないか?」
「だからこそ、見送りは認められない。王国の罪を認めることになるから」
「……そういうところはあるな。しかし……ブラックバーン家は愚かな判断を下したものだ」
罰を与えるにしても、警保部の職務を混乱させたくらいの罪にして謹慎程度で済ませれば良かったのだ。王国が軽い処分だと文句を言うこともない。ブラックバーン家に引き渡すと決めた時点で、その程度で終わるものと王国は考えていたのだ。
「どうしてでしょう?」
「可能性は低いと思うが、王都に居る者たちの独断ではないかという意見がある。今王都にいるのは弟のライラスに仕える者たち。レグルスが後継者に復帰する可能性を消し去りたいと考えたのではないかということだ」
「やはり愚かだわ。レグルスはブラックバーン家の当主になりたいなんで思っていないのに」
そんなことをしなくてもレグルスは後継者に戻ろうとはしない。ブラックバーン家の為に人生を使うつもりなどないのだ。それを分からず、本家から追放という重い処分を決めた。少なくとも王都ブラックバーン家の評判が落ちるのは間違いない。昔とは違いレグルスの評価は、王国貴族の中で、かなり高まっているのだ。
「預けられる分家は、少数民族と激しい戦いを続けているそうだ。レグルスの戦いの才を活かす為という意見もある。本家の人間のままでは王都を離れられないからな」
「それでも卒業までの間のこと。後継者ではないレグルスを王都にとどめる理由は王国にはないわ」
「その時、レグルスがブラックバーン家にとどまる理由もない」
レグルスは戦闘の才能を高く評価されている。エリザベス王女の視察に同行する前は、盛んに勧誘されていた。ブラックバーン家に何の未練もないレグルスであれば、他家へ仕官する可能性はある。そう考えるのは、ジュリアン王子も理解出来る。
「……そうね。その可能性はある」
「もう二度と会えないかもしれない……もしかして、そうは思っていないのか?」
レグルスとはもう二度と会えないかもしれない。そうであるなら我儘を押し通すべきだとジュリアン王子は思った。思ったのだが、ふと別の可能性も思いついた。
エリザベス王女が父親に叱られる程度のことで、もう二度とないレグルスに会う機会を諦めるはずがないのだ。
「レグルスは時代の中心にいるべき人。ブラックバーン家の領地が時代の中心であり続けるはずがないわ」
この先、動乱の時代を迎えるはずの王国。その動乱の中心が、レグルスが赴く領地であるはずがない。一時はそうなる可能性はあっても、一地域だけの動きで王国が揺れるはずがない。レグルスは必ずまた王都に戻ってくる。エリザベス王女にはそれが視えているのだ。
「……そうか。戻ってくるか」
その時、王国はどこに向かっているのか。自分は時代の中心にいるような人物ではないと思っているジュリアン王子は、少し不安を感じてしまう。英雄か、奸雄か、もしくは稀代の悪党か。いずれであっても、そういう存在は世の中を乱す。王国に動乱の時が訪れる。ジュリアン王子はそんな時代を望んでいないのだ。
◆◆◆
農場主襲撃事件は、レグルスが処分されて、それで終わりではない。レグルスは直接的には無関係であることを知っている王国としては、それで終わらせるわけにはいかない。首謀者は、一人を残して、全員死亡という状況では真相究明は難しいが、それでもやるべきと判断されたことは行われた。襲撃に参加した者は全員、三年間の強制労働という処分は、その中のひとつだ。待遇改善を求めた雇われ農民たちは、報酬なしで三年間働かなければならなくなった。襲撃事件を起こす前よりも酷い待遇になった。強制労働を課せられた人たちには最低限の食事を与えられるが、それだけでは家族を養えないのだ。
かなり厳しい処分。首謀者を究明しきれないのであれば、扇動に乗る農民が二度と現れないようにするしかない。そう考えられた結果だ。
「収穫により得られた利益から必要経費を引いて、それを人数で割って、さらに十二か月で割って、それが毎月渡す報酬になる。必要経費というのは、農作業を行うにあたって出て行くお金。あとは新たな農地を開墾するのに必要なお金や、不作に備えての貯金とか。ここまでは分かるか?」
「……難しくて分からない」
そうなるとこれまで雇ってもらえなかった家族、子供が働くしかない。そういった人々の受け皿にリキたちはなろうとしていた。
「そうだよな……大体だけど、お前の親がこれまで稼いでいたお金と変わらないくらいかな?」
「えっ? 同じくらい貰えるの?」
「ぎりぎりな。お前、まだ経験も体力もないからな。他の人と同じというわけにはいかない。もっと自分を鍛えて、力をつけて、人並に働けるようになったらもっと稼げるようになるから」
経験も体力もない子供では、大人一人分の働きなど出来るはずがない。その分、一つの農場で雇う人の数を増やさなければならない。頭数が増えれば、その分、配分は減ってしまうのだ。
「頑張る」
「体力づくりについても指導する。無理して怪我をされても困るからな。真面目に続けていれば、体力はつくから。お前くらいの年で、俺は開墾作業をやっていた」
「かいこん?」
「新しい農地を作る作業。かなり体力が必要だけど、稼ぎは農作業よりも良い。体力に自信がついたら試してみろ」
リキたちは新しい農地を開墾する作業者も雇用している。農作業の片手間では中々進まないからだ。リキたち初期メンバーのように鍛えられていれば掛け持ちも可能で、実際に彼らはそうしていたのだが、新しく雇った人たちではそうはいかないのだ。
「……分かった」
このままでは家族全員飢え死にするしかない。そんな追いつめられた状況で、最後の頼りと、子供でも雇ってくれるという噂の農場にやってきた。子供だと舐められて、わずかな給金で働かされることになると覚悟して来た結果がこれだ。
まさかの厚遇に男の子は信じられない思いでいる。
「ここで働きたいと思ってくれたか?」
「もちろん。絶対に働きたい。すごく良い場所だ」
「この制度を作ったのはアオという俺の友達だ。アオは俺たちがそう呼んでいるだけで、本当の名前はレグルス・ブラックバーンという」
「えっ……?」
男の子はレグルス・ブラックバーンという名を知っている。北方辺境伯家の公子の名だから知っていて当たり前ということではない。自分たち家族を苦しめる原因を作った人物として、名前を聞かされているのだ。
「事件にはアオは、レグルス・ブラックバーンは関わっていない。アオは仲間の為に罪を背負ってくれたんだ。一人の農民の為に犠牲になってくれた」
「……本当に?」
「ああ、本当だ。俺はこの事実を皆に知ってもらいたい。元はお前と同じ雇われ農民の息子であった俺たちを救ってくれたアオが、皆を苦しめるはずがない。俺は俺の友達が悪者にされているのが許せないんだ」
襲撃に参加して罰を受けている人たちの中にはレグルスを恨んでいる人が大勢いる。レグルスが襲撃事件の首謀者であるという情報を鵜呑みにしている人たちだ。リキはそれが許せない。自分たちの今を作ってくれたレグルスが、同じ農民たちの間で悪者になっている状況など、絶対にあってはならないと思っている。
「偉い奴なのに、友達なのか?」
「ああ、友達だ。アオがブラックバーンの人間だと分かってからも、ずっとアオはアオのままだった。農作業も開墾も手伝ってくれて、一緒に汗と泥にまみれて働いてくれた。仲間想いのとっても良い奴だ。俺はアオに出会えたことに、友達になれたことに心から感謝している」
「そっか……なんか、凄い奴なんだな?」
「ああ、凄い奴だ。お前も頑張れば、俺たちのように農場主になれる。そんな未来を作ってくれた凄い奴だ」
「俺が農場主……そっか。それは凄いな」
その未来を現実にするのは自分の責任。リキはこう考えている。レグルスが作り出してくれた可能性を。無駄にするわけにはいかない。多くの人たちにレグルスの価値を知ってもらいたいのだ。
「仕事は明日からで良いか?」
「ああ」
「じゃあ、明日また会おう」
また一人、リキたちの農場で働く子供が増えた。だがそう遠くないうちに限界が来る。働ける人の数は決まっている。それ以上雇えば農場経営が立ち行かなくなる。悔しいがそれが現実なのだ。それでもリキは出来るだけのことをするつもりだ。それがレグルスに託された使命だから。
「……待たせたな」
そしてレグルスに託されたことは、もう一つある。サムのことだ。
「……リキ、俺……行くところがなくて……」
「だろうな」
サムは、着ている服はボロボロ、体も傷だらけだ。農民たちが恨んでいるのはレグルスだけではない。実際に首謀者の一人であったサムは、レグルス以上に憎まれている。襲撃事件を引き起こしただけでなく、サムは罰を受けていないのだ。恨まれるのは当然だ。
「……た、助けてくれないか?」
顔が割れているサムは、郊外に居場所がない。石を投げられ、殴られ、蹴られ、いつ殺されてもおかしくない状況なのだ。そんな状況に追い込まれたサムが、最後に頼るのはリキ。顔を見せられる立場ではないと分かっていても、それ以外の選択肢はなかった。
「……俺はお前を許せない。お前はアオを裏切った。そのせいでアオは王都にいられなくなった」
「違う! 違うんだ! 俺は、アオが先に自白したと聞いて、それで……それにアオなら……罰を受けるなんて思わなくて……」
その通りだと受け入れた。そうすれば罪が軽くなると言われ、嘘の自白を事実であると認めたのだ。そうしてもブラックバーン家の公子であるレグルスなら罰せられることはない。こんな言い訳も考えて。
「お前、何も分かっていないのだな?」
「何のことだ?」
「お前が生きていられるのはアオのおかげだ。アオはお前を罰したら、真実を明らかにすると王国を脅したらしい。罪を認めたままでいて欲しければ、お前を無傷で解放しろと」
「…………」
そういうことでもなければ、間違いなく首謀者の一人であるサムが罰せられないはずがない。知っていることを全て白状させられた後は死罪。そうなるのが当たり前の立場なのだ。
その当たり前のことをサムは気が付いていなかった。レグルスの自供を事実だとしたおかげだと考えていたのだ。
「お人好し過ぎる……俺はお前よりもアオに側にいて欲しかった。アオを裏切ったお前などどうなっても良いから! アオにいて欲しかった! 分かるか!? 俺の気持ちが! 俺が! 俺が……アオにお前のことを話さなければ……」
「す、すまない……俺は……俺は……」
リキがこれほど怒りを露わにするのをサムは初めて見た。それだけ自分の裏切りは許されないことなのだと思い知らされた。
「…………それでも……それでもアオは……まだお前を仲間と認めている。お前が頼ってきたら助けてやって欲しいと俺に伝えてきた」
「…………」
そしてレグルスの優しさを思い知らされた。それが改めてサムに、自分の罪の重さを感じさせることになった。
「だから……だから、俺たちもお前を受け入れる。正直、許せる日が来るとは思えない。それでも、アオの望みだから」
「……くっ……んぐっ……」
高まる感情と止められない涙で、サムは想いを声にすることが出来なくなった。そうでなくても語る言葉はないだろう。それを告げなければならない相手、レグルスはもうここにはいないのだから。