近づいてくる軍勢は、大きく横に広がって前に進んでくる。逃げ道を塞ごうという意図だとレグルスは判断した。レグルスにとっては都合の悪い状況だ。居留地を囲む塀は敵の侵入を防げるようなものではない。そのような堅牢な居留地の建設をドイル伯爵が許さなかったのだ。後方に逃げ道がないのも同じ。フルド族にとって不便な場所を居留地にされている。そんな事情をレグルスは知らず、今は考える時間もない。ただ迫りくる敵をどう防げば良いかを考えているだけだ。
「……全てを一人で出来るはずはないからな」
後方の居留地でも動きがある。近衛騎士と教会騎士、わずか七人で、防壁とは言えない低い塀際に並んで、敵の侵入を防ごうとしているだけだが。
それでもレグルスを無視して前進する敵は、彼らに任せるしかない。五百人もの敵を追い掛け回しても、全てを捕捉することなど出来るはずがないのだ。
「さて、考えるのはここまでと」
もう敵は眼前に迫っている。たった一人で駐留地に出てきたレグルスを警戒していたが、いつまでも動かないでいるわけには、彼らもいかないのだ。
三人の敵が同時にレグルスに襲い掛かる。だが、その三人は一瞬で地面に崩れ落ちることになった。さらにレグルスは、自ら動いて敵に襲い掛かる。何が起きたのか分からず、呆然としていた敵の首がまとめて宙に飛んだ。
「一斉に掛かれ! 油断するな!」
敵の中から命令の声があがる。レグルスの待っていた声。レグルスは一気にその声の主との間合いを詰めると、剣を振るった。
「舐めるな! その程度で!」
自らの剣でそれを受けた敵。これまで倒した相手とは明らかに実力が違う。そうでなくてはならない。そういう敵を、レグルスは的にしているのだ。
剣を交差させたまま、蹴りを放つレグルス。
「そんなもの効くか!」
手応えはあったが敵にダメージは与えられていない。身体強化魔法がレグルスの攻撃を受け止めていた。
だがそれくらいは想定内。続けて繰り出した拳は、敵の腹を打ち抜き、吹き飛ばした。
「……な、なんだと?」
「頑丈だな。でも、まっ、少しは効いただろ?」
地面が揺らいだと思うほどの強い踏み込み。それにわずかに遅れて拳が前に伸びていく。その様子は、はっきりと視認出来た。その程度の速さだった。
だが、それを避けることは出来なかった。腹部の痛みが反応を遅らせてしまった。拳を受けた顔が大きく歪む。骨が砕ける音が、周囲の耳にまで届いた。
大きく吹き飛び頭から落ちる敵。それでも勢いは衰えず、さらに地面を転がっていく。
「……まずは一人。あと何人だ?」
地面に倒れたまま、ぴくりとも動かなくなった敵。その体を踏みつけて、レグルスは周囲をにらみつける。その殺気に、五百人近い敵が怯えて、その動きを止めた。
『エリザベス王女のご命令だ! 戦える者は武器を取れ!』
そのわずかな間で、レグルスは背後にいる人たちに檄を飛ばす。
『恐れるな! 我らはエリザベス王女の下に集う戦士! 正義は我らの上にある! 戦えっ!!』
周囲に響き渡るレグルスの声。それに最初に応えたのは、エリザベス王女本人だった。駐留地の出口に向かって歩くエリザベス王女。その歩みは出口を超えても止まらない。
「殿下! 危険です!」
それに焦ったのは近衛騎士だ。守るべき人が最前線に出ようとしているのだ。焦らないはずはない。
「貴方たちが守ろうとしている私はここにいます。貴方たちが立つべき場所はどこですか?」
「……前に出ろ! 殿下の前に防御陣を作れ!」
エリザベス王女が前に出れば、近衛騎士たちは更に前に出なければならない。それをそのまま、たった三人で何が防御陣形だと思いながらも、実行することにした。
だがそれで良いのだ。それでレグルスは少し守り易くなる。
「殺せ! あの女を殺せ!」
これで敵の目的がエリザベス王女であることが、はっきりした。今となってはどうでも良いことだ。すでに戦闘は始まっているのだ。
命令を受けて、前に出てきたエリザベス王女に襲い掛かろうと動き出した軍勢。だが、レグルスがそれを許さない。群がろうとする敵を次々と斬り倒していく。後ろに逸らしてしまった敵は。
「来るぞ! 迎え撃て!」
近衛騎士、そして教会騎士が対応する、というだけでなく。
「いやぁああっはぁあああっ!!」
「いぃいいいっ、やぁああああっ!」
奇声のような雄たけびをあげて、フルド族の男たちが襲い掛かっていく。さらに居留地の中から放たれた矢が、次々とその先にいる敵も倒していく。
それによって敵はさらに大混乱。少し余裕が出来たレグルスが、また指揮役らしい敵の一人を打ち取ったこともあって、完全に統制を失っている。
「……応えてくれたか」
フルド族が参戦したことで、状況は一気に好転した。
「安堵している暇があるなら前に出なさい!」
だが、エリザベス王女はそれで満足しない。近衛騎士たちに最前線に出るように命令を発した。
「私のことはフルド族の人たちが守ってくれます! 貴方たちは前に出なさい!」
「それは……」
「行きなさい! これは命令です!」
「は、はっ!」
さらに近衛騎士が最前線に出る。それでもう最前線の戦力は完全に逆転。魔法を使える戦士がレグルス一人から四人になったのだ。見る見る敵の数が減っていくことになった。
百の死者が二百となり、さらに加速度的に増えようとしている。そうなると敵は戦意を喪失。目的を果たすよりも、命を大事にするようになる。
「勝った……」
背中を向けて逃げ出していく敵。徐々に増えたそれが全体に広がるまでに、そう時間は掛からなかった。
「追いますか?」
逃げたと言っても、まだ数百は残っている。再度襲い掛かってこないように追撃をかけようと考えた近衛騎士であったが。
「……その必要はないようです。逃げた敵は皆、討たれています。新たな敵に」
「えっ?」
エリザベス王女の言葉に驚いて後ろを振り返った近衛騎士の視界に入ったのは。
「……なんと? あれは?」
千の単位の軍勢。はっきりとは分からないが、二千以上、下手をすれば三千近くはいる軍勢だった。その軍勢は逃げてきた者たちを容赦なく斬り殺している。逃げた全員が地面に倒れるまでには、そう時間は掛からなかった。
「敵を討ったから味方、とは考えられないですね?」
「どこの軍勢でしょうか?」
「旗印は、ドイル伯爵家です。それに……あれはドイル伯爵本人でしょう」
軍勢の中から騎馬が十騎駆け出してきた。その先頭を走るのは、遠目でも良く分かる、一際は豪奢な鎧姿の人物。その人物はドイル伯爵だとエリザベス王女は考えた。
「どういうつもりでしょう?」
「少なくとも、いきなり襲い掛かってくるつもりはないようです」
問答無用で攻めてくるのであれば、ドイル伯爵が近づいてくる必要はない。危険を恐れないくらい腕に自信がある可能性もあるが、そうだとしても姿を晒す必要はない。自国の王女を殺すことに喜びを覚えるような人物であれば別だが。
「殿下! ご無事ですか、殿下!?」
ドイル伯爵の呼びかけは、そうでないことを示した。本気で心配しているとも、この時点では思えないが。
「おお! 王女殿下! ご無事でなによりです!」
これを白々しい演技だと思ってしまうのは偏見。だが偏見を持ってしまうような状況なのだ。エリザベス王女一行の到着を待っていたかのように盗賊が現れ、なんとかそれを撃退したと思ったところでドイル伯爵率いる軍勢が現れた。エリザベス王女が襲われることを知っていなければ、無理なタイミングで。
「遅くなりまして、申し訳ございません。近頃、領内を盗賊が暴れておりまして。殿下にもご忠告差し上げようと思っていたのですが、その機会を得られず」
「それで慌てて後を追ってきた? あれだけの軍勢を引き連れて」
「その通りです。いやあ、間に合って良かった」
この時点では、エリザベス王女にはドイル伯爵の真意が分からない。すぐに殺すつもりがないことが分かるだけだ。
「盗賊どもを討ち果たしたとはいえ、ここは危険です。すぐに我が屋敷に移動してください」
「すでに盗賊は討ち果たしたのではありませんか?」
「いやいや、領内で暴れている盗賊どもはもっと大勢います。またいつここが襲われるか分かりません」
「……もっと大勢の盗賊が」
そんなはずはない。大規模盗賊団の存在はレグルスが否定している。五百でも片手で足りるほどの数しかいない盗賊団が、どうしてたいして豊かでもないドイル伯爵領で活動するというのか。
「さあ、すぐに移動しましょう」
「……フルド族の人々はどうするつもりですか?」
「ここは彼らの居留地です。彼らにこの場所を離れるつもりはないでしょう」
エリザベス王女にはこの場所は危険だと言っておいて、フルド族のことは気にしない。おかしなことだが、これは意識してのことだとエリザベス王女は考えた。
「彼らに危険があるのでしたら、私はここに残ります」
「殿下。御身を大事にされたらいかがですか? 幸いにも今回は無事でいられた。だからといって次も大丈夫という保証はないのです」
ようやくドイル伯爵は真意を晒し始めた。彼はエリザベス王女を脅しているのだ。殺されたくなければ、ここを去れと。
「貴方に領民を守る義務があるように、私には国民を守る責任があります」
「そのお気持ちは尊い。ただご心配には及びません。フルド族は我が軍勢に守らせましょう。連れてきた軍勢の一部を残していくことにします。それならば、殿下も安心でしょう?」
安心出来るはずがない。エリザベス王女がこの場を離れれば、その残された軍勢はフルド族に牙をむく。そんなことは分かりきっている。
「殿下。ここは伯爵にお任せしましょう」
「何を言っているのです?」
ここでまさかの、エリザベス王女にとってはだが、近衛騎士がドイル伯爵側に立った。近衛騎士にとってはエリザベス王女の命が何よりも大切。助けられる道があるのであれば、それがどのような汚い道であっても、それを選ぶ。
「伯爵。馬車の用意はありますか?」
「もちろんです。すぐに呼び寄せましょう」
近衛騎士が受け入れたことで、ドイル伯爵は謀の成功を確信した。とにかくエリザベス王女を王都に追い返せればそれで良いのだ。あとは証拠になるものを全て消し去り、知らぬ存ぜぬを貫き通すだけ。エリザベス王女に敵意を向けられることなどどうでも良い。エリザベス王女は王女。直接仕える相手にはならないのだ。
「私は!」
「移動して頂きます! それとも殿下は我らの死をお望みですか!?」
「…………」
フルド族を助ける為に近衛騎士を犠牲にする。それを仕方がないことだと、エリザベス王女は思えない。自分のせいで近衛騎士が犠牲になることが正しいこととは考えられない。
「参りましょう。やれることは全てやりきりました」
近衛騎士も本当に自らの命を惜しんでいるのではない。エリザベス王女を救うためであれば命を惜しまない。そういう覚悟は出来ているつもりだ。だが今この状況では、無理をしてもエリザベス王女は救えない。近衛騎士にとっては、ドイル伯爵に屈することが、最善の選択なのだ。
「…………分かりました」
エリザベス王女も受け入れた。完全に納得しているわけではない。全てを諦めたわけでもない。
「では参りましょう。さあ、教会の方々もご一緒に! 暗くなる前に移動しましょう!」
エリザベス王女を殺すことなく、事態を収めることが出来た。ドイル伯爵にとってはかなり良い結果だ。その顔には笑みが浮かんでいる。
エリザベス王女の顔はそれとは正反対。怒りでも口惜しさでも、悲しみでもない。感情を殺した表情で、やってきた馬車に乗り込んでいく。
近衛騎士の一人が馬車に同乗。残りの近衛騎士は馬車の左右、そして教会の人たちはその後ろに続く。彼らの顔には口惜しさがにじみ出ている。フルド族を残していくことへの口惜しさが、後ろめたさが彼らの顔を、心を、これ以上ないほど暗くしている。
「……殿下。王都に戻ってからです。まだやれることはあります」
近衛騎士はその後ろめたさを言葉で誤魔化そうとしている。エリザベス王女を慰める為という言い訳を用意して。
「……ええ、それは分かっているわ」
「……申し訳ございません。我らの力不足で」
だがエリザベス王女の表情はそれを許さない。長く側にいる近衛騎士も始めて見る冷たい表情。その表情は、自分を責める気持ちからのものと感じてしまう。
「それは私の台詞です。私に力がないせいで、無理をさせてしまいます」
「無理? それは誰……レグルス様? レグルス様はどうされました!?」
馬車に乗っているべき人間が乗っていない。レグルスがいないことに近衛騎士はようやく気が付いた。レグルスの行方をエリザベス王女に尋ねる近衛騎士。その彼の問いにエリザベス王女は、笑みだけで答えた。ぞっとするような美しい笑みだ。
「まさか……残ったのですか?」
それ以外に、どのような可能性があるのか。この集団にいないのであれば、フルド族の居留地に残ったということだ。
「……彼らは思い知ることになるでしょう。レグルス・ブラックバーンがどういう存在であるかを」
自分にとってもっとも大切な人を危険な戦場に、普通に考えれば勝ち目などまったくない戦場に残す。それがエリザベス王女の心をこれ以上ないほど乱している。心を乱している自分を押し隠す為に、表情から感情を消し去っている。
それでもエリザベス王女は信じている。レグルスには未来がある。このような場所で当たり前に命を落とすほど、レグルスの運命は平凡ではないことを、エリザベス王女は知っているのだ。