個人としての戦闘力を高める為に必要と思われるあらゆる鍛錬をレグルスは行ってきた。広く浅くではない。個人の戦闘力と学問では戦術、戦略の類、歴史や財務会計など、レグルスなりに対象を絞って、深く追求しようとしている。
逆に言えば、追及していること以外はかなり疎かにしていて、人並以下であるものも少なくないのだ。貴族として社交の場で必要とされるダンスなどはその最たるもの。まったく踊れないと言っても良いくらいだ。そして乗馬もそういうもののひとつ。乗馬に関しては、まったく乗れないというほどではない。レグルスの頭にはまったく記憶として残っていないが、幼い頃の経験を体が覚えている。といっても仔馬に乗っていた程度の経験だ。
「……乗馬なんて必要なのですか?」
レグルスのこの問いは、自分自身のことではない。すぐ隣に並んでるエリザベス王女が、彼の予想以上に上手く馬を扱っていることに驚いているのだ。今回もそうであるように、移動手段は馬車。そもそも城の外に出ることもそれほどないはずだとレグルスは考えている。
「最近は行くこともなくなりましたけど、避暑地ではいつも乗っていたわ。覚えているものですね?」
「そうですか……私も少しは覚えているみたいですけど」
エリザベス王女とは明らかに技量に差がある。馬を操っているのではなく、ただ乗せてもらっているだけ。そんな感覚だ。
「レグルスは郊外に出ることはないのですか? 以前、何かの話をしていた時に、良く知っている印象を持った記憶があります」
「ああ、学院に入る前はほぼ毎日行っていましたから。ただ走ることが目的でしたので、馬は使っていません」
「……そういうことですか。ずっと自分を鍛えていたのですね?」
分かっていたことだ。レグルスは別人と思えるほど痩せた。病気でなければ、そうなるだけの運動をしていたということだ。痩せただけでなく、強くもなっているのだ。
「ずっと怠けていたので、慌てて頑張っただけです」
「どうしてですか? どうして頑張る気になったのです?」
「どうして……このままでは駄目だと思ったからです。それでいざやってみると意外と面白くて」
用意していた嘘。レグルスの変化は、誰もが疑問に思うことだ。真実を告げられないのであれば、それらしい理由を別に用意しておかなければならない。
「……レグルス。貴方はその力を何に使うつもりですか?」
自分を鍛える気になった理由は、エリザベス王女にとってはどうでも良いこと。問題はレグルスがこれからどこに進むのかだ。光と闇、どちらがより強くなるのかだ。
「何にと聞かれても……あえて理由を言うなら、生きる為ですか。生きていると色々な困難があると思いますので、それを無事に乗り越える為です」
「大切な人を守る為」とは口にしない。エリザベス王女にそれを言えば、「大切な人というのは誰ですか?」と返ってきてしまいそう。問われても答えに困ってしまう。
「もうひとつ。どうして大人しく身を引いたのですか?」
「それは……ブラックバーン家のことですか?」
「そうです。長幼の序はそれなりに重視されます。それに、貴方の弟の母は正妃の地位にいません」
レグルスが正統性を訴える為の材料はある。王国も、辺境伯家の後継者を決める権限などないが、どちらかを選ぶとなればレグルスを支持する。特別な感情を排除して、客観的に比較すればという条件付きだが。
「……求められていないからです。ブラックバーン家には私に跡を継いで欲しいと思う者はいません。居ても、わずかな数でしょう。望んでいない相手の為に人生を使うよりは、わずかでも必要とされている人に時間を使うほうが良いと思いますから」
これはレグルスの本音だ。ブラックバーン家は自分を認めていない。その通りに跡継ぎは自分ではなく、弟のライラスを選んだ。レグルスにとってはそれだけのこと。求められてもいないのに跡継ぎの座に居座るつもりは、その為に時間を使う気もないのだ。
「貴方を必要とする人たちの為ですか……それが出来ると良いですね?」
「人の力には限界があります。簡単ではないでしょう。でも……やりたいと思うことをやれるのは良いことです」
こんな思いは、過去の人生で感じたことはなかった。やらなければならないというプレッシャーが心を占めていた。頑張っても高揚感など感じられない。焦りと、失敗を繰り返すことへの恐怖心ばかりが強まっていった。生きていることは苦痛だった。
だがこの人生は違う。失敗を恐れる気持ちはある。だが、これまで経験した人生の目的には関係ない小さな成功が、その恐れを薄れさせてくれていた。依頼人からの「ありがとう」の一言が、レグルスを救っていた。
「……貴方は貴方が信じる道を進めば良いわ。私はそんな貴方を信じています」
「えっ……あ、ああ……ありがとうございます」
レグルスは正しい道を進んでくれる。エリザベス王女はそれを信じることにした。自分の生き方を語るレグルスの横顔が、エリザベス王女に信じる覚悟を与えてくれた。レグルスは王国の為にはならなくても、人々の為にはなれる存在。それが視えたような気がしたのだ。
◆◆◆
「何でも屋」の店舗となっている酒場。まだ陽が高いこの時間は酒場と言うよりはカフェと呼ぶべき場所。昼も軽食と飲み物を提供するカフェとしての営業を始めたのだ。それが出来るだけの従業員が酒場にも揃ったということだ。
もともとかなり怪しげだった酒場で、昼にカフェをやって客が入るのかという議論もあったが、結果としてそれは杞憂に終わった。満員御礼とまでは言わないが、それなりに客は入っている。三分の一くらいはカフェの看板娘となったココ目当ての客だ。
「お待たせです」
「あら? そういう接客も出来るようになったのね? 偉いわ」
飲み物を持ってきたココを褒めたのは、客として来たフランセス。「お待たせです」と言えるようになっただけで褒めるのは大げさなのだが、それだけ最初が酷かったということだ。外見以外はダメダメの店員だったのだ。
「ココも成長しているの」
「そうね。レグルスが戻って来たら、きっと褒めてもらえるわよ?」
「ふふ」
満面の笑みを浮かべて、店長がいるカウンターの近くに戻っていくココ。その背中を、こちらはやや愁いを感じさせる微笑を浮かべて、フランセスは見ている。
「……何かあったのか?」
さらにそのフランセスを心配そうな顔で見ているのはタイラーだ。タイラーから誘って、二人でここを訪れたのだ。
「褒めてもらえると聞いただけで、あれだけ喜べる純粋さが羨ましくて……」
「レグルスか……」
「彼というより自分の問題。貴方と会うことの後ろめたさを薄れさせるために、ここを選んだ自分は不純だと思ったの」
レグルスが王都を離れている間に、タイラーと二人きりで会う。フランセスはそれに後ろめたさを感じて、会う場所としてここを選んだ。知り合いが多くいるこの場所であれば、という考えだが、ココの笑みを見て、その考えがそもそも不純ではないかと思ってしまったのだ。
「それは……俺を、そういう対象としてみてくれているということか?」
なんとも思っていない相手と会うのであれば、後ろめたさなど感じないはず。そんな自分の期待を、正直にタイラーは口にしてしまう。
「……そういうこと聞くのね?」
「あっ、すまん」
「別に良いけど……」
タイラーの問いを受けて考えてみれば、それもそうだとフランセスは思った。タイラーと一緒にいることに、どうして後ろめたさを感じる必要があるのか。彼には、はっきりと自分の想いを告げている。その上で、友人として会っているだけだ。
「さらに君を怒らせてしまうかもしれないが、キャリナローズがレグルスは子供なのだと言っていた」
「彼女が……そうね。同感だわ。彼女も私と同じ想いを抱いていたのね?」
「どうだろう? 彼女は『想われるのは良いが、想うのは絶対に無理』とも言っていた。噂は何かの間違いではないかな?」
キャリナローズとレグルスの噂については、タイラーはあまり信じていない。二人は、以前に比べると、驚くほど親しくなっている。だが、すぐ側で二人を見ていても、恋愛感情のようなものは感じられないのだ。
「そんなことを……でも、それにも私は同感出来てしまうわ」
キャリナローズの言う通りだとフランセスも思う。だが、それが分かっていても想いは消せないのだ。
「そうか……あいつが想う相手というのは誰なのだろうな?」
「アリシア」
「えっ? いや、確かに婚約者ではあったが、彼女とは……」
アリシアはレグルスの元婚約者。それ以上の関係では、もうなくなっているとタイラーは思っている。二人が話している様子を見ることはなくなっている。会話の中で名前があがることもない。タイラー自身が、アリシアと話すことが少なくなった影響はあるとしても、かなり距離が出来たのは間違いないと思っている。
「アリシアはこの先どうなるとタイラー殿は思う?」
「……順当に行けば、ジークの妃となるのだろうな。正妃はサマンサアンがいるから無理だろうが、第二妃であれば」
ジークフリート王子とアリシアは結ばれる。レグルスとの関係とは真逆で、二人はいつも一緒にいるようになっている。そういう結果になることを疑う理由がない。
「王子の第二妃とブラックバーン家の分家の当主の妃だと、どちらが良いのかしら?」
「……レグルスはわざと身を引いたと?」
「そこまでは言っていないわ。ただ、別れたからといって想いが失われるわけではないと思っているの」
こんな風に考えるのは自分だけかもしれないとフランセスも思っている。それくらいレグルスは、アリシアと距離を置いている。だが、フランセスは誰よりもアリシアを大切に思っていたレグルスを知っている。アリシアを守る為であれば、女性である自分でも、平気で罠に嵌める容赦のなさを知っているのだ。
「……俺には分からんな」
そういった内心の秘めた想いを感じ取れるような自分ではない、タイラーはこう思った。
「タイラー殿も、ある面では子供だから」
「俺が子供? それはどういうところだ? 悪いところがあれば直すから言ってもらえるか?」
「……そういう風に駆け引きなんて考えずに、素直に聞いてくるところ。悪くはないわ。どちらかというと私は……」
続く言葉をフランセスは飲み込んだ。意味は違う。意味が違うのだが「好き」という言葉をタイラーに告げることを躊躇った。「何を意識しているのだろう」とフランセスは思う。中途半端はタイラーに申し訳ないとも思う。心に空いた隙間を、タイラーを利用して埋めようとしているのだとすれば。それを考えて、自分に対する嫌悪感が湧いてくる。
そんな内心の葛藤で憂い顔のフランセスを、また心配そうに見つめているタイラー。レグルスとは異なる優しさだが、そういうところは悪くない。その視線に気付いたフランセスは思った。
◆◆◆
レグルスのように実際に家を飛び出すなんて真似はしない、というか出来ないが、キャリナローズも自家の屋敷にいるのは嫌だ。家族や家臣たちとの折り合いが悪い、というのではない。どちらかというと良いほうだ。そうであるのに屋敷にいるのが嫌だと思うのは、ある特定の理由があるから。
「……必要ないわ」
壁際に並べられている肖像画を一瞥しただけで、キャリナローズは自分の部屋に戻ろうと歩き出す。
「ローズ様! ちゃんと御覧になってください! ご自身の結婚のことですぞ!」
しつこく結婚の話をされるからだ。キャリナローズもあと十か月ほどで学院を卒業。それまでにその後のことを決めなければならない。
今もっとも有力なのは婿を取ること。出来るだけ早く結婚して、跡継ぎとなる男の子を生むことだ。
「ちゃんと見たわ。好みは一人もいない。全員断って」
「では、どのような男性がよろしいのか教えてください。必ず、探してまいります」
婿になる人は、ホワイトロック家の跡継ぎにはなれない。せいぜいが子供が大きくなるまで、それもキャリナローズの父に何かあった時だけ、当主補佐的な役割を与えられるだけだ。実際はその可能性も少ない。当主補佐はキャリナローズが務めることになる。キャリナローズの場合は補佐ではなく、代行までの権限を持つことになるだろう。
「……外見が良いのは当たり前。その上で私よりも絶対に強い人。頭も良くないと駄目ね」
「ローズ様、それは……いえ、分かりました。ブラックバーン家と交渉して参ります」
「ちょっと? どうしてそういう話に……なるか……なるわよね?」
レグルスとの噂を作ったのはキャリナローズ自身だ。しかも、今、好みの男性として挙げた条件にレグルスは、周囲の基準では、全て当て嵌まる。レグルスのことを言っているのだと思うのも当然だ。
「ただ為人は、しっかりと確かめさせて頂きます。ホワイトロック家を乗っ取ろうなどと企む人物では……その……ある方と同じですので」
何故、キャリナローズが婿を取り、その子供を跡継ぎにすることが最有力であるのか。それはそれ以外の選択肢を選びたくないからだ。次の選択肢となる後継候補はキャリナローズの父の弟。キャリナローズにとっての叔父は、ホワイトロック家の当主に相応しい人物と思われていないからだ。本家においては、という条件が付くが。
今、王都にホワイトロック家の血筋としてキャリナローズしかいないのは特例。一人娘であるキャリナローズであれば、跡継ぎと同じと王国が認めたから。だが、それもいつまでも許されるわけではない。後継者をどうするかを正式に決めることが求められる。結婚を急ぐのは、この理由もある。
「それは大丈夫。大丈夫だけど……ブラックバーン家は認めないと思うわ」
「難しい交渉であるのは分かっております。ですが良き人物であれば、当家にとってはこれほど良い相手はおりません。影響力を及ぼされるのは困りますが、こちらがブラックバーンの名を使う分には、まったく問題ございませんので」
「そ、そうね」
ブラックバーン家の公子であるレグルスであれば、息子の後ろ盾としてこれ以上ないほど相応しい。キャリナローズの子を跡継ぎに決めたからといって、それで全てが決着するはずがない。叔父は引き続き、ホワイトロック家の当主の座を狙い続けるはずだ。だが、キャリナローズの子にブラックバーン家という後ろ盾まであるとなればどうか。下手な真似は出来ない。少なくとも叔父を支持する者たちは、そう思うはずだ。
自家を強引にでも納得させるには良い相手かも、と思ったレグルスは、無理やり納得させるどころか、家臣たちにとって大歓迎の相手だった。これはキャリナローズにとって、完全な誤算だ。だからといって、何かが変わるわけではない。家臣たちにとっては残念なことに、レグルスが婿入りする可能性は限りなくゼロに近いのだから。