花街で行われた喧嘩祭りにおけるジャラッド戦での惨敗は、レグルスに改めて鍛錬に取り組む意識を変えさせることになった。変わったといっても、わずかに残っていた甘えが完全に消え去ったというだけのこと。端で見ていても、その変化は分からない。それに気付くことが出来るのは、よほど良くレグルスの様子を監察していて、且つ、そのわずかな変化を見極められるだけの技量を持つ人だけだ。
「……何か悩み事か?」
舞術の師、ロジャーはその数少ない人の中の一人だ。もっとも、道場での鍛錬を終えた後、ずっと教えた座禅を組んでいるレグルスを見れば、誰であっても何かあるだろうことは分かるだろうが。
「悩み事といいますか……焦りに近い感情かと」
「焦り……成長に対する焦りかな?」
「それも一つです。どう言えば良いのか分からないのですが……目指す場所は分かっているはずなのに、そこに至る道に迷っているような……」
強くなる、という点については、まだ悩みは少ない。”強くなる”は目的を実現する為の手段に過ぎないからだ。
アリシアの人生を、彼女が光輝く人生を歩むのを邪魔しない。それと同時に、それによって起こるサマンサアンの不幸を最小限のものにしたい。これがレグルスの目的だ。だが、その目的が今現在、どのような状況なのかはまったく見えない。自分の行動が影響を与えているのか、与えていないのか。それも分からないのだ。
「目指す先が分かっているのであれば、それで良いのではないか?」
迷うことは悪いことではないとロジャーは思う。間違った道に進んでしまわなければ、大いに悩むべきだと。レグルスは「目指す先は分かっている」と言っている。それであれば、どれだけ迷っても道を踏み外すことはないだろうという考えだ。
「分かっていても辿り着けるとは……いえ、辿り着けることのほうが少ないことは分かっているのです。ただ分かっているからといって、頭も心も整理されるわけではないようで……」
レグルスの焦りは、時が限られていることも関係している。残りの人生は十年もない。これまでの人生とは異なる結果にするつもりのレグルスだが、自分の寿命はそれほど変わらないと、もっと短いものになってしまう可能性も高いとレグルスは考えているのだ。
「お主のような立場だと、我々には見えない何かを背負っているものか。ただ己一人の為だけに生きていられるわけではないのだろうな」
武道を究める。どれだけ努力しても到達出来ることは保証されない道だ。だが、レグルスにはそれとは異なる困難がある。自分の努力だけではどうにもならないものを背負っているのだとロジャーは考えた。実際にその通りだ。
「……いえ、結局は自分の為なのかもしれません。自分が納得できる結末を求めているだけかも。ただこれを考えてしまうと何も出来なくなります」
「他人の為に自己を犠牲にするなんて真似は、犠牲となる本人が納得出来ているからこそ、正しい行いになるのではないかな?」
望まないのに他人の為に自己犠牲を強いられるのでは、生贄のようなもの。自分の為なのかもしれない、というレグルスの考えこそ、正しい在り方なのだとロジャーは伝えたい。レグルスが何を抱えているかは、まったく分からない。だが、鍛錬におけるレグルスの真摯な態度は、彼の志の正しさを示していると考えているのだ。
「……そういう考え方もありますか」
「欲を失えば、それはもう人ではない。人を超えた存在とも思わない。人として高みを目指そうとするならば、欲無くして到達することは叶わないはずだ」
「……確かに、その通りです」
ロジャーの言葉で心が完全に晴れたわけではない。人生の終わりの時が来るまで、その時を迎え、自分が納得出来る結果となったと分かるまで、それは無理なのだ。
それでもレグルスは、少しだけ心が軽くなった気がした。気のせいかもしれない。また数日経てば、今の感覚など忘れてしまうかもしれない。そうだとしても、前に進むしかない。これは間違いのないことなのだ。
◆◆◆
王立中央学院には姉妹校とされている学校がある。王立騎士養成学校がそれだ。さらに王立騎士養成学校は東西南北の四校があり、王立北部騎士養成学校、東部騎士養成学校といった名称となっている。優れた資質を持つ、特選騎士になれる可能性がある人物を、出来るだけ多く拾い上げる為に作られた学校だ。
その姉妹校との剣術対抗戦が行われることになった。アリシアの知らない、ゲームではなかったはずのイベントだ。剣術対抗戦は五人をひとつのチームとした団体戦。ゲームになかったのが不思議なくらい、なんとも都合の良いルールだ。そう思う人は、アリシアの他は、誰もいないが。
今、授業で行われているのは、その対抗戦に参加する学院生を決める為の選抜試験。すでに決まっているだろう、とはならない。参加チームは一学年二チームなのだ。
「……本当に参加しないのですか?」
レグルスは選抜試験に参加していない。それがオーウェンには不満だった。
「参加する必要がない」
「自分の実力を確かめる良い機会だとは思わないのですか?」
「それは少し考えた。でも自分の実力は分かっている」
道場で師匠たち相手に稽古していれば、それで自分の実力は分かる。まだまだ自分は未熟だということが。それで十分だとレグルスは考えている。
「同世代の……意味はありませんか」
同世代の中で、どれくらいの位置にいるか。それがレグルスにとってはどうでも良いことなのは、オーウェンも分かっている。実戦において年齢など、何の意味もない。若くても年老いていても、実力と運を兼ね備えている者が勝つだけだ。
「無意味とは言わないが、拘束される時間に見合わない。団体戦といっても戦いは一対一。それなのに全体訓練なんてものが必要な理由が、俺には分からない」
「ああ、なるほど」
時間が取られるだけでなく、一緒に全体訓練を行う人たちが嫌いか、もしくは面倒くさい相手となれば、レグルスが選抜されようなどと思うはずがない。オーウェンもようやく説得を諦める気になった。
「別にお前らの邪魔する気はないからな。大会に出てみたければ選抜試験を受けてみれば良い」
「いえ、私も時間を取られたくありませんので」
対抗戦の参加者になれたとして、その為にレグルスの側を離れるわけにはいかない。オーウェンの任務はレグルスを守ることなのだ。そして、ジュードもレグルスの側を離れたくないのは同じ。ジュードの場合は、レグルスと一緒にいたほうが面白いことが起きる、という理由だ。
「じゃあ、鍛錬始めるか。選抜試験を見るのに時間を使っては意味がない」
「そうですね」
「……そうは思わない?」
このレグルスの問いはオーウェンに向けたものではない。同じ実技授業のグループの、レグルスと同じように選抜試験に参加することなく、この場に残っている男子学院生に聞いたのだ。
「……あっ、僕ですか?」
「そう。ずっと見続けているつもりなら、試験に参加したほうが良いと思うけど?」
何もしないで見ているだけであれば、試験に参加して腕試しをしたほうが良い。この考えをレグルスは、その学院生にも伝えた。
「そうかもしれないですけど……」
「そもそも、どうして選抜試験に参加しない? 騎士志望だよな?」
レグルスが声をかけた相手は貴族家ではない。騎士としての資質を認められて学院に入学したのだ。それをレグルスは知っていた。知っていたので、自分の実力をアピール出来る機会を得ようとしないのを不思議に思い、声をかけたのだ。
「そうですけど……試験を受けても無駄なので」
「どうして?」
「実力がないからです。僕は落第したようなものですから……あっ! いえ、貴方がいるグループが、その駄目というわけでは……」
この学院生は元々、もっとも能力が高いグループ、アリシアたちと同じグループにいた。それが二年生になって、レグルスと同じグループに変わったのだ。
「言い訳はいらない。別に気を悪くしていないから。ただ……どうして落第? 能力は認められていたはずだ」
「……才能がないのです」
「いや、才能はあるだろ? 才能はあるのに努力をしてこなかったってことか?」
才能はある。学院はその才能を測定して、グループ分けを行っているのだ。レグルスのように、わざと下のグループに編入されるように調整することは出来ても、上のグループになるには基準を超える才能がなければ無理なはずだ。
「……そうだと思います」
「……分からないな。ちょっと試してみるか。かかって来い」
レグルスが不思議に思っている理由は他にもある。この学院生の、ある種の才能は、かなり高いはず。それがレグルスには分かるのだ。
「かかって来い?」
「立ち合いをしようってこと。ほら、早くしろ」
「ええ? 僕が、その……貴方と?」
「驚く理由が分からない。同じグループなのだから当たり前のことだろ? これまで、たまたま機会がなかっただけだ」
上位グループでの放任主義とは違い、レグルスの所属するグループは教官が授業内容を管理している。ランダムな組み合わせでの立ち合いなども、普通に行われているのだ。
「そうですけど……」
「良いから、来い。時間が勿体ない。それとも命令するか?」
「い、いえ。分かりました」
躊躇っていた学院生だが、レグルスの要求を無視することは出来ない。怒らせてしまえば、学院にいることも出来なくなる、は学院生の勝手な想像だが、そう恐れられるだけの権力がレグルスには、正しくはブラックバーン家にはあるのだ。
剣を構えて向き合う二人。
「……行きます」
まったく気合の入っていない声を発して、剣を振ってくる学院生。そんなものがレグルスに当たるはずがない。
「もう少し気合の入った攻撃出来ないのか? 魔法使っても良いから、ていうか、使え」
「……はい」
弱弱しい返事をして、レグルスに言われた通り、詠唱を始める学院生。魔力の輝きが学院生の体を包む。その状態から、また学院生をレグルスに向かって、剣を振るってきた。
さきほどとは桁違いな速さ、なのだが、やはりレグルスの体にかすりもしない。それどころか、避ける必要もなかった。
「……まさかと思うけど、お前、人を撃つのを怖がっているのか?」
「……そう、です」
「ええ? それで騎士志望? ああ、魔力だけで道を決められたのか」
学院生の才能は魔力。学年全体でも上位に評価される魔力を宿している。騎士になる以外の選択肢はないと思われるのも当然の才能だ。
「そうです。でも、騎士を目指すしかないので」
「……そうか。しかし……その性格なんとかしないと……攻めは無理でも守りはいけるのか?」
騎士は敵を傷つける、どころか殺すのが仕事だ。立ち合いで躊躇ってしまうようでは、騎士になれるはずがない。
「それが……全然……」
「それは性格……じゃなくて技術の問題か。お前、一年の時は誰と一緒に鍛錬していた?」
「一人です」
おどおどした性格の彼は、上位グループでは誰も相手にしてくれなかった。貴族家の出身ではないというのも関係している。周りが気を遣うような存在ではないのだ。
「それ無理だろ? 学院も、もっと早く下のグループにしてあげれば良かったのに。これから頑張るしかないな」
「はい……」
言われなくても分かっている。ただ、二年生になってからは頑張ってきたつもりで、今の状態なのだ。騎士になるなど夢のまた夢。男子学院生は学院に入学したことを後悔している。
「じゃあ、攻守交替。ちゃんと受けろよ? 一応、手加減はするから」
「えっ? まだ続けるのですか?」
「皆、試験を受けていて相手いないだろ? 俺も今はいない」
選抜試験を受けることなく鍛錬を行っているのはレグルスたち三人と、この男子学院生だけ。オーウェンとジュードが、レグルスが先に男子学院生と始めたからだが、立ち合いを行っているので、残った二人で続けるしかない。
「……分かりました」
「じゃあ、行くぞ」
言い終わると同時に、一気に男子学院生との距離を詰めるレグルス。それに驚いた男子学生は、なんとか剣をレグルスの前に立てる。それを見て、レグルスは元の距離に離れた。
「動き出すとまあまあ速いけど……それも、きちんと制御出来ている感じじゃないか」
「……すみません」
「慣れだな、慣れ。行くぞ」
また男子学院生との間合いを詰めるレグルス。そこから剣を振り上げる。男子学院生は、それに反応しきれない、と判断してレグルスは剣を切り返した。そこから角度を変えて、剣を振るう。全力にはほど遠い速さだが、それでも男子学院生は付いて行くのに精一杯。なんとか剣を合わせようと腕を振り回している。
「じゃあ、これは?」
見切る必要などない真正面からの攻撃。さすがにそれにはしっかりと剣を合わせる男子学院生。
「そこから押す」
「えっ?」
「良いから押せ!」
「は、はい!」
言われた通り、剣を強く前に押し出す男子学院生。その力はかなりのもので、レグルスの体が浮き上がって、後ろに飛ばされるほどだ。
「……特技は怪力って感じか。まずは攻撃に慣れることからだけど、それだけだとな……強さだけじゃなく、速さにどう転換するか……」
自分の体を動かして、感触を確かめているレグルス。見ている男子学院生には、何をしているのか分からない。分かるのは、自分のことを考えてくれているということくらいだ。
「いや、結局は体の使い方だな。じゃあ、とにかく速くで」
「えっ?」
「いちいち、その『えっ?』っての必要か? とにかく速く動け。さっきまでと同じで、剣を合わせようとすればそれで良い。行くぞ」
また動き始めたレグルス。相手の反応を確かめながら、動く速さを調整している。少し相手が慣れてきたと思えば、レグルスの動きもそれに合わせて速くなる。攻撃は全て寸止め。男子学院生が反応しきれなくても、ぎりぎりで止めて、また剣を振るう。それを何度も何度も繰り返す。
「持久力はあると……努力の成果か、魔力のおかげかは分からないけど。まあ、なんとかなるのじゃないか?」
「えっ?」
「まただ」
「すみません。でも……なんとかなるというのは?」
騎士になるのは無理。自分だけでなく、周りもそう思っている。魔力が人よりも少し強いだけで、それ以外の取り柄は何もない役立たず。これが彼への評価、彼自身の評価でもある。
「言葉の通りだけど?」
「それは……騎士になれるということですか?」
「他に何がある? えっ? もしかして騎士になれないと思っていたのか?」
レグルスにとってはそのほうが驚きだ。
「……思っています」
「意味が分からない。それだけ恵まれた魔力を持っていて、どうして騎士になれないと思う? お前が駄目なのは立派な武器を持っているのに、使い方を知らないこと。知らないのであれば覚えれば良いだけだ」
男子学生は恵まれているとレグルスは思う。自分に比べれば、遥かに才能がある。魔力だけであったとしても、人よりも優れた才能があることに変わりはないのだ。問題はその才能を活かせていないこと。活かす方法が分からないのであれば、それを見つければ良いだけだ。
「でも、性格は変えられません」
「心優しい人は騎士になれない? そんなことないだろ? お前はどうして騎士になりたい?」
「それは……生活の為、です。すみません」
彼が騎士を志すのは、生活費を稼ぐ為。何の取り柄もない自分が唯一、他人から認められたもので稼ごうと考えたのだ。
「別に謝ることじゃない。騎士は職業。仕事をしてお金を貰っている。無償で働いている騎士なんていないはずだ。もしいたとしてもその人が特別なだけだ」
「……はい」
「金を稼ぎたいという欲があるのであれば、それに忠実になれば良い。騎士になって、功をあげて、大金を稼げば良い。その為に、今、何をするべきかだ」
欲望を持つことは悪いことではない。これは師匠に教わったばかりのこと。それをレグルスは男子学院生に伝えた。
「僕は何をすれば良いですか?」
「ええ? それ俺に聞く?」
「ずっと分からなくて……それで……すみません」
何をすれば良いのか分からなかった。強くなる為にはどうすれば良いのか。気弱な性格を変えようと思ったが、出来なかった。強くなりたいがなれていなかった。
「……授業を真面目に受けていれば良いだけだ。分からないことがあれば聞いてこい。一年の時に習ったこととか、他にも俺で分かることは教えてやる」
「あ、ありがとうございます」
ずっと聞きたかった言葉。学院に入学してからこれまでに会った人たちが全員、冷たい人だったというわけではない。ただ気弱で人見知りな彼には、この言葉をかけてもらえるような、きっかけを作ることが出来なかった。他の学院生たちが何か教わろうとアリシアの周りに集まっていても、そうであれば尚更、声を掛けるどころか近づくことも出来なかったのだ。
「あと、人を殺したくなければ殺さなくても軍功として認められる戦い方を身に付ければ良い。普通に鍛えるよりもかなり大変だろうけどな。それを望むなら目指すしかないだろ?」
「人を殺さない戦い方……そういう戦い方があるのですか?」
「あるというか……相手がもう無理と諦めるまで守り続けるのもその一つだろ? 勝つだけでなく、負けないことも大切だ。まあ、戦場で、しかも一人でそれが出来るのかって問題はあるけどな」
レグルスにも具体的な戦い方が浮かんでいるわけではない。人一倍努力する為には、自分が望む在り方を目指したほうが良いと考えただけだ。
「……戦場では無理ですね?」
「やる前から諦めるな。人に出来ないことを出来るから、凄いのだろ? 完璧は無理でも、少しでも自分が望む自分に近づけるのであれば、それで努力する意味はあると思う」
「自分が望む自分、ですか……」
それがどういうものなのか。まだ彼には具体的なイメージはない。ただ、今のままではいたくないという思いがあるだけだ。そうであるならレグルスの言う通り、そうでない自分を目指して頑張るしかない。少なくとも、そう思うことは出来た。それが自分でも驚きだった。
これが男子学院生、ラクランにとっての始まりの時。