ジークフリート第二王子暗殺未遂事件の調査は、実質、打ち切りとなった。公式には「もう調査はしない」とは宣言出来ないので、続けられることになっているが、それだけに費やされる人員はいない。他の事件と同様に、軍務局警察部や内務省警保部の日常業務の中で関連する何かが見つかれば、という対象となっている。調査にあたった人たちにとっては屈辱の結果だ。王子暗殺未遂という大事件で、何も結果を出せなかったのだから。
その報告をブラックバーン家の屋敷で受けたレグルスは、内心では安堵している。襲撃犯であったカロの指名手配は行われていない。生存者として認識されていないのだから、そうなる。積極的な調査が行われなければ、そのままで終わるはずだ。そして、その調査が実質打ち切られたならば、完全になくなったとまでは思わないが、危険はかなり薄れたことになる。
早速、手に入れた情報をカロに教えてやろう、と思っているレグルスだが、それは許されなかった。父親に引き留められたのだ。
「……えっと、もう一度良いですか?」
「父上が王都に参られる。その時に、花街を訪れたいと仰せだ」
「……花街がどのような場所かご存じで?」
父親の父親、レグルスにとって祖父である北方辺境伯が花街で遊びたいと言っている。にわかには信じられない話だった。
「当たり前だ。知った上で……ああ、あれだ。あくまでも花街の雰囲気を楽しみたいというだけのことだ」
レグルスが気にしているのは女性遊びまで望んでいるのかということ。それに、遅まきながら父親は気が付いた。まったく考えていなかったので、すぐに頭に浮かんでこなかったのだ。
「そうだとしても驚きです。もしかして、昔は通っていたとかですか?」
宴席を楽しむだけであるとしても、祖父が望むこととは思えない。実際には祖父である北方辺境伯がどのような人物か、レグルスは分かっていない。分かっていないので、厳格な人物だという情報は入れているのだ。
「そうではない。そのような真似はしてこなかった。だからこそ……最後に、ということだ」
「王都に昇るのはこれが最後なのですか?」
本人はそう思っていても、王国から呼ばれれば来なくてはならない。二度と来なくて済む方法があるとすれば、それは北方辺境伯でなくなること。引退するのだとレグルスは思った。
「王都に昇るのが最後なのではない。お会いできるのが最後ということだ。私も、お前も」
「……それは間違いないことなのですか?」
「それは分からない。ただそう思ってしまうほどの状態なのだろう。それで王都までの移動に耐えられるのかとも思うが」
北方辺境伯は死を覚悟している。もうすぐ自分の命は尽きると考え、だからこそ最後に王都を訪れようと考えた。花街に行くことだけが目的ではないのだ。
「……それで。私に何を?」
「惚けるな。お前と花街との関係は知っている。父上の望みを最大限叶える為に出来ることをしろ」
「それは無償で動けということですか?」
父から息子への命令。そうであれば受け入れるつもりは、レグルスにはない。父親のことが嫌いだから、ということではない。ブラックバーン家の人間として花街と交渉することは出来ないと考えているのだ。
「金を求めるか……」
「ブラックバーン家の公子では花街との交渉は出来ません。相手が受け入れません。詳しいご説明が必要ですか?」
すでにレグルスは息子としてではなく、依頼人になる可能性のある人物との商談として、話をしている。条件がまとまらなければ、仕事は受けないつもりだ。
「……分かった。好きにしろ」
「ありがとうございます。依頼料はそれほど高くありません。問題は花街で使う費用ですが、いかほどを予定されていますか?」
ブラックバーン家相手であっても不当な要求をする気はない。今のレグルスは商売人だ。商売の信用を失うような真似はしない。
「……上限はなし。ただし、さすがは北方辺境伯と思わせるようなものにしろ」
「なるほど……承知しました。では、まずは花街との交渉を行います。具体的な内容につきましては、案が出来上がり次第、ご説明にあがるということで、よろしいですか?」
「……ああ、それで良い」
完全に商人になりきっているレグルス。それは父親であるベラトリックスが初めて見る姿だ。この数年、レグルスには驚かされてばかりだが、今回はこれまでとは少し違った思いだった。レグルスは息子としての感情を、こうして消し去ることが出来る。それを父親は知ったのだ。
◆◆◆
「……何を考えています?」
レグルスが疑いの視線を向けている相手は、サマンサアン。どうやって調べたのか、突然、酒場でもある「何でも屋」の店舗に現れたのだ。
いきなりの訪問でも怪しむのに、さらにサマンサアンの用件はレグルスを食事に誘いに来たというもの。過去の人生における二人であればあり得るかもしれないが、今はそんな関係にはないのだ。
「レグルス殿は普段こういったお店に来ているのですね?」
「そこまであからさまに惚けます?」
「惚けてはおりません。自分が驚いたことを先に聞いただけですわ」
二人がいるのは店の近くにあるカフェ。外食などすることがないサマンサアンにとっては物珍しいのは事実だ。
「……美味しいので。店の場所が悪いので、知る人ぞ知るという感じですけど」
「レグルス殿が美味しいというのでしたら美味しいのかしら?」
同じ守護家の公子であるレグルスが満足する味であれば安心、とサマンサアンは思ったのだが。
「どうでしょう? 私はあまり味に拘りはありません」
レグルスはサマンサアンが思うほど良いもの、という表現が適切かは別にして、を食べているわけではない。ブラックバーン家の屋敷にいることは滅多にない。訪れても食事などすることなく帰っているのだ。
「そうですか……」
「まあ、確かめてみてください。不味いということはありませんから」
「分かりました」
望んでこの店に来たわけではないサマンサアンとしては、美味しくないものを食べさせられるのは納得いかない。だからといって帰るというわけにもいかないのだ。
少し待っていると食事が運ばれていた。様々な種類の食べ物が皿に並べられている、アフタヌーンティーで供される軽食だ。
「……美味しそう、ですわね?」
それにサマンサアンは少し驚いている。庶民の店で、自分たち貴族と同じようにアフタヌーンティーを楽しめるなどということは、まったく想像していなかったのだ。
「見た目は合格ですか。あとは味ですね?」
「ええ……」
恐る恐るといった様子で手を伸ばすサマンサアン。店の人にはかなり失礼な態度かと思うが、いつも澄ました雰囲気のサマンサアンの別の顔を見られたようで、レグルスは面白がっている。
「……美味しい」
大きく目を見開いているサマンサアン。その表情もレグルスには面白い。
「貴族の文化が少しずつ世の中に広まっている。これはそのひとつの例だと思っています」
「……それだけ国が豊かになったということかしら?」
庶民が贅沢出来るようになった。レグルスの説明をサマンサアンはこう受け取った。
「豊かになった人が出てきた、が正しいと思います。たとえば商人などは、戦争によって利益を得られている。一方で軍事に関係ない商売をしている人たちの中には、かなり厳しいところもあります」
「貧しくなった人もいるということですか?」
「男手を失えば、思うように稼ぐことが出来なくなります。稼げなければ生きていけません」
激しい争いが行われている状況ではない。そうであってもそれに備えて軍事力は維持されている。徴兵される人の数は減っていないのだ。
「……戦争を終わらせなければ、ですか」
「そうですね。それによって変わることもあるかもしれません」
はっきりと戦争を否定することを、レグルスは避けた。戦争批判は王国批判と同じようなもの。それをサマンサアンの前で口にするべきではないと考えたのだ。
「レグルス殿はどうすれば戦争は終わらせられると思いますか?」
だがサマンサアンは戦争についての話を続けようとする。
「他国を完全に併合する。もしくは現状維持で他国と合意する。今、思いつくのはこれくらいです」
「そのどちらも出来る見込みはありません。違いますか?」
「……いえ、その通りです。簡単に出来ることではないから、戦争は続いているのです」
ここまでサマンサアンが戦争の話に食いつくとは思っていなかった。意外という思いが、何か裏があるのではないかと、レグルスの心に疑いを生む。
「難しくてもやらなければいけません。それを実現出来る誰かが」
「もしかして、ジークフリート殿下にそれを望んでいますか?」
誰かは誰を指しているのか。一番考えられるのは、サマンサアンの婚約者であるジークフリート第二王子だ。
「婚約者としては、そうあって欲しいと思います」
「婚約者でなければ……あっ、今のは忘れてください」
サマンサアンはわざわざ「婚約者としては」という前提をつけた。その意味を問おうとレグルスは考えたのだが、聞き方を間違えた。間違えたとレグルスは思った。
「婚約者でなければ、次に自分の婚約者になる人がそうあって欲しいわ」
だがサマンサアンは、気にした様子もなく、答えてきた。
「そうなるとサマンサアン殿は、戦争を終わらせた英雄の妻、ですか?」
「出来ることなら、戦争を終わらせた英雄サマンサアンであって欲しいですけど、無理ですわね」
「そういう思いがあるのなら武系コースを選べば良かったのに」
自らが英雄になるなんてことをサマンサアンが考えているとは思わなかった。もしそれを本気で求めるのであれば、武系コースに進むべきだったとレグルスは思う。アリシアが進むのと同じ道を選ぶべきだったと。
「……そうしていたら、今のようにはならなかったかしら?」
「……今のは完全に間違いました。今度こそ、忘れてください」
武系コースに進み、ジークフリート第二王子と共に過ごす時間がもっとあれば、「今のように」なっていなかったかもしれない。その「今のように」はサマンサアンが望むものではないということだ。
「レグルス殿はもう諦めたのですか? それとも王女殿下がいるから?」
「前に言いませんでしたか? 元々、私は結婚は望んでいません。相手が誰であっても同じです」
「……相手が……わ、私であっても?」
頬を赤く染めてこれを聞いてきたサマンサアン。恥じらっているのは演技とは思えない。だが何故いきなりサマンサアンの口から、こんな台詞が飛び出してきたのかが、レグルスには分からない。
「それは悩みますね。それが本当であれば、考えてみます。本当であれば、ですけど」
「……そうですか」
サマンサアンの口から「本当です」という言葉は出てこなかった。それは本気ではないから。レグルスはそう判断した。サマンサアンが自分に好意を向けるようになる理由がそもそもない。二人の関係性が変化するような出来事は何もなかったのだ。
「お互いのことを知るには時間が必要です」
「……分かっています。だから……また誘っても良いですか?」
「もちろん。それが口先だけであった場合は、私のほうから誘いますから」
それでもサマンサアンは自分に近づこうとしている。案外、過去の人生でも、きっかけはこんなものだったのかもしれないと、レグルスは思った。お互いにお互いを利用するだけの関係。初めはそんなものだったのかもしれないと。
◆◆◆
レグルスとサマンサアンの関係は打算から始まった。その可能性がある。悪役令嬢であるサマンサアンと主人公の敵役であるレグルスの二人は、人を騙すことに何の罪悪感も覚えない。利用できるものは全て利用するという考えを持っている存在なのだ。ゲームの設定では。
そういった設定のない関係が、別の場所で築かれている。築かれるのか壊れるのかはこれから決まるのだが。
「……それで、話というのは何だろう?」
人気のない郊外の河原。かつてレグルスとアリシアが鍛錬していた河原に続く場所なのだが、そんなことはタイラーには分からない。
その場所で、タイラーは緊張した面持ちでフランセスに問いかけている。まさかのフランセスからの誘いで二人は会っている。何度か、滅多にないが二人でも、会うようになったが、常にタイラーの側から誘っていたのだ。
「……こうして会うのは最後にしたいと思って」
「えっ……」
期待してはいけないと思いながらも膨らんでしまっていた期待は、見事に砕け散ることになった。
「もしかしたら私の思い上がりかもしれないけど……そうだとしたら恥ずかしいけど……私は、応えられない」
「それは……思い上がりではないな」
自分の気持ちを素直に認めたタイラー。振られたから自分の気持ちを誤魔化すというのは卑怯だと思ったのだ。
「……ごめんなさい」
「あれか……やはり、レグルスのことが……?」
「好きなの。初めは打算もあった。恋愛ごっこの相手をしてもらうくらいのつもりだった。でも……今は違う」
フランセスもレグルスに対する想いを正直にタイラーに伝えた。その為に今日、時間をもらったのだ。
「レグルスは……その……フランセス殿は怒るかもしれないが……」
「怒らないわ。私ではない。それは分かっているの。分かっているのに、最初から分かっていたのに……馬鹿だわ、私」
レグルスが愛しているのはアリシア。それは分かっていた。二人の関係が羨ましくて、自分もそんな風に、少しでも良いからなりたくて、レグルスと一緒にいるようになった。そうしてくれるようにお願いした。割り切っていたつもりだった。
「それでも良いと言ったら?」
「もう会わないと考えたのは、貴方に悪いという思いだけが理由ではないの。自分の気持ちに誠実でありたいと思ったの。誠実で……後悔しないように……終わらせ……」
フランセスの瞳から零れ落ちる涙。終わりが見えている恋。だからこそ、自分の想いを誤魔化すような真似はしたくなかった。レグルス以外の男性と過ごすことで、心を慰めようというのは違うと思った。覚悟を決めてきた、つもりだった。
「……こんな時、レグルスであればどうやって慰めるのだろう?」
「……彼であれば……誰であれば、なんてことは絶対に聞かないわね」
「そうか……俺は駄目だな。何かしてあげたいと思うのに、何も出来ない」
何をしてもフランセスの慰めにはならないだろうことはタイラーにも分かっている。フランセスと同じ。自分ではないことは分かっているのだ。
「……背中を貸してもらえるかしら?」
「背中? 背中を貸すというのは?」
「良いから、後ろを向いて」
「あ、ああ」
フランセスに言われた通り、後ろを向くタイラー。これに何の意味があるのか。そう思った時間は短かった。わすかに背中に感じた重み。聞こえてきたのは、フランセスのすすり泣く声だった。
「……耳を塞ごう。それでもう誰にも聞こえない」
実際に自分の耳を両手で塞ぐタイラー。実際にはそれだけで完全に音を遮断できるわけではない。すすり泣きを止め、大声で泣き始めたフランセスの声は、はっきりと聞こえる。
その声を聞くと胸が痛む。だが自分に出来るのは、ただ立っているだけ。そう思ってタイラーは。フランセスが泣き止むまで、ずっとその姿勢で立ち続けていた。