レグルスに対する認識が、タイラーやキャリナローズといった極少数の人たちだけではあるが、変わってきている。それをレグルス本人が知っても、喜ぶことはない。買いかぶりが過ぎると否定するだけだ。否定するだけでなく、迷惑にも思う。親しくなる必要のない人のせいで、時間を取られるような状況はレグルスの望むものではないのだ。
今日も、迷惑と思う気持ちは薄いが、親しくなる必要がないと思っている人物の為に時間を使っている。迷惑に思う気持ちが薄いのは、その人物が特別なのではなく、その人がいようといまいと予定は変わらないからというだけのことだ。
「見えるままに描くことだけが絵画ではありません。このように目では見えないものを描くのも芸術なのです」
「ああ……それは凄いな」
エリカに力説されてもタイラーの心には届かない。エリカの説明に問題があるのではなく、もともと芸術に興味がないのだ。
「これなどは人の心を描いています。孤独や悲しみが光と影で表現されているのです。私が大好きな作品です」
「……これのどういうところが好きなのだ?」
なんとか会話を続けようとするタイラー。平民のエリカにも気を使う、というわけではない。同行しているフランセスの手前、冷たい態度は見せられないと考えているだけだ。
「黒と白だけで、様々な気持ちを表現しているところです。私にもこれくらいの表現力があれば良いのにと思います」
「表現力……君はこういう絵が描きたいのか?」
表現力と言われてもタイラーには良く分からない。目の前の絵はただ黑く塗られているだけ。濃淡や波のような凹凸はあるが、何を表現しているのか、タイラーにはさっぱり分からない。
「こういう絵というより、レグルスを描きたいのです」
「レグルス?」
「レグルスの心象はもっと複雑です。光と闇が不規則に絡み合い、混じり合っている。それを表現する力が私にはありません」
エリカに見えるレグルスは光と闇。エリザベス王女と似たものが彼女には見えている。未来ではなく心、存在としてそういう風に見えているのだ。
「そうか……君にはそう見えるのか」
光と闇。その意味は分からない。分からないが、なんとなくそうなのだろうとタイラーは感じている。
「タイラー様は赤ですね。燃え盛る炎のような赤。その炎が作り出す影はなんでしょう?」
「……聞かれても俺には分からないな。影と表現されるのはどのようなものだ?」
「人それぞれですから……悲しみ、後悔、暗い感情は誰もが持っているものです。タイラー様にもそういう感情を抱く何かがあるということなのだと思います」
「そうか……」
心に抱く暗い感情。それは当たり前にあるものだ。自分が聖人君子だなんてタイラーは微塵も思っていない。意識してしている、いないに関係なく、そういう気持ちは心にあるのだと思った。
「……どういうつもり?」
少し離れた場所でエリカとタイラーの様子を眺めているフランセスは、不満そうにレグルスに問いかけた。
「タイラー殿が御礼をしたいと言うから、してもらうことにした。フランセスさんが一緒だと、その御礼は価値あるものになりそうだから」
「本当かしら?」
「変に誤解されたくないから正直に話すと、俺よりはタイラーのほうが相手としては良いとは思っている。ただ押し付けるつもりはない。タイラーにも応援する気はないと伝えている」
恋愛ごっこだとしても、自分よりもタイラーのほうがフランセスにとっては良い相手だと、レグルスは考えている。それは正直にフランセスに伝えるべきだと思った。
「どうしてそう思うのかしら?」
タイラーのどこが良いのかフランセスには分からない。一目で魅力を感じるようなタイプではないのだ。
「一途だ」
「そういうの重いわ」
「なるほど……そういう考えもあるか」
納得したような言葉を口にしているが、これは話を合わせているだけだ。自分相手だからというのは関係なく、フランセスが恋愛を求める気持ちは軽いものではないとレグルスは考えている。軽い気持ちだと感じていれば、フランセスと過ごす時間を作ろうなんて思わなかった。
「私は今のままで良い。レグルスのほうはどうなの?」
「俺?」
「噂の方との関係はどうなのと聞いているの」
フランセスはレグルスとの関係を続けることを望んでいる。ただレグルスにそれが許されるのか。不安に思っていたことを、この際、はっきりと聞くことにした。
「ああ……何もない。この先も、どうにもならない」
「レグルスはそう思っていても、周りはどうなのかしら?」
エリザベス王女の気持ちを、臣下として無視するべきではない。そういう声があることをフランセスは知っている。ゴシップネタを喜んでいるだけかもしれないが、学院でもそういう話がされているのだ。
「事実を確かめることなく、無関係な人たちが無責任なことを言っているだけだ」
「でも話がこれ以上、大きくなれば、無責任な人の声も無視出来なくなるわ」
「その考えは正しい。でも、学院内で話を広めても王国全体には影響を与えない。話を広めたい人は数えるほどで、その味方であるはずの人たちも、これについては協力したくないはずだ」
「……その話を広めたい人って……そういうことなのね」
学院内で噂を広げようとしているのはジークフリート第二王子。その目的は明らかだ。だが、この件に関しては王国の第二王子派は同調できない。王妃に相応しい女性という条件で考えれば、没落貴族家のアリシアよりも守護家のひとつ、ミッテシュテンゲル侯爵家のサマンサアンを誰もが選ぶ。ジークフリートを王にと考える人たちが協力出来ることではないのだ。
「もっと違うことに頭と労力を使えば良いのにと思う。もっと優秀な人だと思っていた」
「そうね」
女性一人のことで、自分の立場を忘れて、行動するジークフリートは国王に相応しい人物なのか。フランセスも疑問に思った。
「普通に考えれば、この話題はすぐに消える。王家もミッテシュテンゲル侯爵家も望まない話だ。ちなみにブラックバーン家も」
「そういうことね」
王都と守護家二家が望まない方向に話を進めようという勇気ある貴族家や文官はいない。それが出来るとすれば他の守護家だけだが、それを行うメリットが何もない。そう遠くないうちに、噂は消えるとレグルスは考えている。
「だから…………」
「どうしたの?」
「ちょっと中断。タイラーと話してくる」
「え、ええ」
いきなりタイラーに話があると言うレグルス。唐突な行動に、少しフランセスは戸惑ってしまった。レグルスは、そんなフランセスをその場に残して、タイラーのところに歩いていく。
そのレグルスにタイラーもすぐに気が付いた。
「そろそろ食事に行くか?」
エリカとの会話を切り上げる良いきっかけ。そう思ったタイラーだったが。
「それも良いけど、その前に確認」
「何だ?」
「俺の右斜め後ろ。十メートルくらい離れた場所にいる人は知り合いか?」
口で説明した方向に、一切視線を向けることなくタイラーに質問するレグルス。実際にその場所に人はいる。一般にはあまり人気のない画家の絵が並べてある場所なので人が少なく、すぐにレグルスが誰のことを言っているのか分かる状況だ。
「……ああ、そうだ」
「護衛か。意外と慎重なのだな? それとも、護衛が必要な状況になったことがある?」
「……後者だ」
タイラーは命を狙われた、実際には確証はないが、そうとしか思えない状況に置かれた、ことがある。それからは外出時には必ず護衛がつくようになったのだ。
「物騒だな……あれ? もしかしてキャリナローズさんもそうだったのか?」
キャリナローズはアリシアに間違われて、溺れさせられたとレグルスは考えていた。だが、実際にキャリナローズを狙った犯行である可能性があると、タイラーの話を聞いて、思った。
「それを俺に聞かれても分からないが、守護家の人間なら危険な目に遭うこともある。お前はないのか?」
「落ちこぼれの俺を排除することに意味はあるか? ブラックバーン家が喜ぶだけだ。ああ……身内が行う可能性はあるか。でも、今のところ心当たりはないな」
腹違いの弟が命を狙ってくる可能性はある。本人が指示しなくても、弟のラサラスを後継者にと考える家臣が勝手に行うことも。だが、これまでそういう動きはなかった。少なくともレグルスの記憶にはない。
「……護衛しているだけだ。気にするな」
「ちなみに他の護衛は?」
「今日は彼だけだ。何人も同行させては迷惑に感じると思って、一人だけにした」
一応、タイラーは気を使っていた。もともと本人も護衛を煩わしく感じていたので、減らす口実として使った面もある。
「一人か……その一人はやっぱり腕が立つのか?」
「王都にいる若手では一番だ」
「ディクソン家の中では、だな。まあ、ディクソン家だからな。平均を超えているのは確実か」
ディクソン家は守護家の中でも武を重んじる。それも個人の武にも拘る家風だ。それをレグルスも知っている。ディクソン家の若手ナンバーワンであれば、他家の中でも上位の実力者と考えても良いはずだ。
「お前は何を気にしているのだ?」
「周りでちょろちょろ動いているのは一人じゃない。その人たちを気にしている」
「……まさか?」
今、この場で襲撃してこようとしている者たちがいる可能性。レグルスの示唆されたその可能性にタイラーは驚いている。
「可能性としては、ここは低い。美術館の警備員もいる。敵になる人が大勢いる中で襲撃するとは思えない。もちろん、裏をかいてくる可能性は否定しない。俺の勘違いである可能性も」
「……リスクを軽く見るつもりはない」
相手が何者であろうと暗殺を許すわけにはいかない。命を惜しむつもりはないが、無駄に使うつもりもない。まだタイラーは為すべきことを為していない。まだこれからという思いがあるのだ。
「じゃあ、襲撃はあるという前提だな。まずエリカとフランセスさんを逃がす。これに異論はないな? あっても受け入れないけど」
「ない」
「ではその前提で選択肢を二つ。あの護衛騎士をつけて二人を先に帰す。護衛をつけるのは人質にされるのを防ぐ為」
「もう一つを」
最初の提案ではレグルスがこの場に残ることになる。そういう提案が出てきたのは驚きで、ありがたくもあるが、無関係のレグルスを危険に晒すわけにはいかないという思いのほうが強いのだ。
「俺と二人が先に帰る。あとはご自由に」
「それで良い」
「ではそうする。じゃあ、エリカ。出来ればその強張った顔を普通に戻してもらえるか? こちらが気付いたことを知られると良くない」
「は、はい」
戻せと言われても簡単には戻らない。暗殺なんてものは、エリカにとって別世界の出来事。それがいきなり目の前に現れてしまったのだ。
そうであっても、とにかくこの場を離れることが重要。レグルスはエリカを連れて、フランセスのところに戻ると、すぐに出口に向かった。フランセスへの細かな説明は後回しだ。
何も知らないフランセスと何かを話しながら遠ざかっていくレグルスとエリカ。その様子をタイラーは、じっと見つめている。
「……何かありましたか?」
三人が去っていたのを見て、護衛騎士が近づいてきて、声をかけた。
「怪しい者たちがいるようだ。念のため、三人には先に逃げてもらった」
「怪しい者……申し訳ございません。気づきませんでした」
「……謝罪は良い」
考えてみれば、レグルスはどうして気づけたのか。本当に怪しい者はいるのか。そんな疑いも頭に浮かんだタイラーだったが。
「……まずは一人確認した」
レグルスたちが去ったことで、相手も動きを見せた。その動きにタイラーも気が付いた。
「どこですか?」
「右側の角。そこに隠れたままだと思う」
「……この場で始めますか?」
敵を確認出来たのであれば、すぐに対処に移るべき。先手を取って敵を減らすべきと騎士は考えているが、美術館内で戦闘を行って良いのかという懸念もある。
「証拠がない」
タイラーは美術館内で戦闘を行うことを否定した。暗殺者であるという確かな証拠があるわけではない。少ないとはいえ目撃者がいる場所で、殺してから間違でしたというわけにはいかないのだ。
「では出来るだけ戦闘を避けるようにして、無理であれば迎撃することに致します」
「ああ、そうしよう」
先手は相手に譲るしかない。襲ってくればそれが暗殺者である証。殺す理由は出来る。だが、わざわざ不利な状況で戦う必要もない。守るべきはタイラーの命。逃げて命が守れるのであれば、それで良い。守るべきものを守る為であれば、騎士も逃げることに躊躇いは生まれないのだ。
さりげなく周囲を探りながら、ゆっくりと出口に向かう二人。
「……待ち伏せされている可能性もあります」
「分かっている」
いつかは美術館を出て、家路に向かう。それが分かっている相手が待ち伏せを選ぶ可能性もある。怪しい気配を感じられないことで、騎士はその可能性のほうが高いと考えた。タイラーも同じだ。
扉を抜けて外に出た二人。そこにも怪しい者たちはいない。存在を感じられない。
「移動しましょう」
戦闘を避けようと思えば、人通りの多い表通りに出たほうが良い。騎士はそう考えて、タイラーに移動を促した。当然、タイラーに異存はない。足早に通りを進んでいく。
「一人つけてきています」
「注意を引く為かもしれない。周囲に気を配るのを怠るな」
「分かりました」
一人、怪しい者が姿を現した。美術館にいた男であることは、少し視線を向けただけでタイラーには分かった。あえて姿を見せることで、注意を自分にひきつけようとしている可能性は高い。それくらいのことはタイラーもすぐに思いつく。
そうなると残りの敵がどこに潜んでいるか。姿を見せたことは、その場所が近い証とも思える。
「ぐっ、がぁああああっ!」
「なっ!?」
突然響き渡った叫び声は後方から。あとをつけていた男のものだ。
「う~ん。こういう殺し方、大好き。待ち伏せしている奴らは自分が待ち伏せされているなんて思わないものだ、か。アオってほんと、こういうことに頭回るよね」
後ろにいるのは、後をつけてきた男だけではなかった。その男に、地面に倒れている男に笑顔で剣を突き立てている男がいた。
「お前は……」
タイラーも見覚えのある人物。レグルスの従士として学院に通っている男だとすぐに分かった。
「じゃあ、あとはご自由に」
「……レグルスはどこだ?」
「知らない。近くにいると思うけど。ああ、もう終わって帰っているかな? 僕も帰ろっと」
「おい!? 待て!」
タイラーの呼び止めを無視して、ジュードは離れて行く。タイラーに説明をする義理はない。そんな面倒なことをするつもりは、ジュードはまったくない。殺し終えたことで、もうこの場にいる理由はなくなったのだ。
去っていくジュードの背中を呆然と見送るタイラー。状況を完全に把握できないまま、恐らくは、事は終わってしまった。タイラーは頭の中が整理出来ないでいた。