レグルスがアリシアのクラスに顔を見せた。一学年の時にはなかったことが、新学期になってから、すでに二度目。それだけフランセスとの関係が近づいたのだと思って落ち込んだアリシアだが、それは勘違い。レグルスはフランセスに会いに来たのではない。アリシアでもない。教室にいる誰もが想定していなかった相手に用があるのだ。その相手も予想出来ない用件が。
「……はい?」
「聞こえなかったのですか? では、もう一度言いましょう。十万コバン支払ってください」
「……どうして私が?」
話を聞いても、相手にはまったくレグルスの用件が分からない。レグルスに金を借りた事実などない。何かを買った覚えも、もちろんない。
「エリカ殿の絵は私が頼んで描いてもらっていたものです。エリカ殿が誰か分かりますよね?」
「……さ、さあ? 私はその女性を知りません」
北方辺境伯家の公子であるレグルスに絡まれて青くなっていた顔が、さらに血の気を失って青白くなる。ようやく彼は、レグルスの用件が分かったのだ。都合の悪い用件が。
「知らないはずはないでしょう? 貴方がエリカ殿に嫌がらせをしていたのは多くの人が知っています」
「嫌がらせなんて……少し揶揄った覚えはありますが、それも親しさからで」
「親しさで貴方は人が描いた絵を全て駄目にするのですか? 変わっていますね?」
エリカと親しいはずがない。本人は絶対にそれを否定する。明らかな嘘をつく相手に苛立っているレグルスだが、表情にはそれは表れていない。感情的なやりとりを行うつもりはないのだ。
「……何かの間違いではないですか?」
「貴方は私が嘘をついていると言うつもりですか? この私が嘘を?」
「それは……」
北方辺境伯家の公子を嘘つき呼ばわり。それはそれで問題が大きくなる。大きくされる可能性がある。どうすれば良いのか、相手は分からなくなった。
「レグルス。その言い方では脅しているのも同然だよ?」
ここで助け舟が入ってきた。実際に救いになるかは、この時点では分からないが、ジークフリート第二王子であれば、レグルスの横暴も止められるはずだと期待した。
「脅し? 今のがですか? 私にはまったくそのつもりがなかったので、どの部分がそう感じられるのか教えていただけますか?」
だがレグルスは、ジークフリート相手であっても、あっさりと引くことはしない。この程度で引き下がるのであれば、最初からここには来ていない。
「……とにかく、彼の話も聞いてあげたらどうかな?」
「さっきから聞いているつもりですけど、殿下がおっしゃるのでしたら、改めて聞きましょう。何か言い分は?」
ジークフリートの言われた通り、相手に意見を求めるレグルス。譲ったわけではない。引き続き相手を追いつめるつもりだ。
「……私は。絵なんて知りません」
「エリカ殿が絵を描いていることを知らないということで良いですか?」
「……いえ、知っています」
エリカが絵を描いていることは知っている。それを彼は馬鹿にして、嫌がらせをしていたのだ。誤魔化すことは無理だと判断して、それは認めた。
「貴方は嘘をついた。最初にエリカ殿を知らないと言ったのも嘘。どうして嘘をつくのですか?」
「それは……」
教室の雰囲気は明らかに彼にとって不利なものになっている。レグルスの話が真実で、彼はそれを嘘をついて誤魔化そうとしていると、皆が思い始めている。実際にそうなのだから、当然だ。
ただ問題はそれが彼への批判にまで繋がりそうなところ。平民の生徒に嫌がらせをした程度のことで、非難されることにはならないと彼は思っていたのだ。
「殿下、彼はどうして嘘をつくのでしょう?」
「……私には理解出来ないな。本人に聞くしかないね?」
ジークフリートは自分の失敗に気が付いた。レグルスが言いがかりをつけていると考え、介入したのは早計だったと分かった。これ以上、擁護するような真似は出来ない。それは自分の評価を下げることになると判断した。
「出来れば、これ以上の嘘は止めてもらいたいものです。貴方はエリカ殿の絵を駄目にしましたね?」
「……は、はい。でも、わざとではないのです」
「わざとかどうかは私にとって、どうでも良いことです。貴方はエリカ殿が描いた、私の物になるはずだった絵を台無しにした。だから、十万コバン支払ってください」
わざとかどうかを議論するつもりはない。わざとであることを証明することはレグルスには出来ないのだ。確かに彼が絵を駄目にしたと証明することも、実は出来ない。それを出来るように思わせて、白状させたのだ。
「十万コバンは……いくらなんでも……」
高すぎると思う。素人が趣味で書いた絵のはずなのだ。そんな価値があるはずがない。
「きちんと鑑定させた結果です。これが鑑定結果。私が高値で請求して利益を得ようとしているわけではないことが、これで分かるはずです。そもそも十万コバンなんて、私にとっては高値とは言えません」
「……そんな」
レグルスが差し出した紙には、確かに十万コバンの鑑定結果が記されている。
「ちょっと良いかな?」
ここでまたジークフリートが介入してきた。絵を駄目にしたのは事実だとしても、十万コバンは虚偽だと考えたのだ。ジークフリートも学生が趣味で描いた絵に、そこまでの価値があるはずがないと思っている。
「当家も付き合いがある美術商に見てもらった結果です」
「……この書類は……本物なのか?」
「これは……いくら殿下でも、さすがにそれは言い掛かりというものではありませんか? お疑いでしたら、お調べになれば良い。なんでしたら、本人に来てもらいましょうか?」
「……すまない。失言だった」
もし本物だったら。ジークフリートはそれを恐れた。リスクをとることを選ばなかった。他人が描いた絵を駄目にしたのは事実。そこまでして庇う相手ではないと考えたのだ。
「さて、本人はどうですか? 納得して頂けましたか?」
「……分かりました。ただ、すぐには……」
「分割でも結構。きちんと償ってもらえることが大事なので、完済がいつというのは私には重要なことではありません」
嫌がらせに対して、エリカに泣き寝入りはさせない。相手に償わせて、二度と嫌がらせをしてやろうなんて思えなくする。これがレグルスの目的であって、賠償金そのものはどうでも良いのだ。
さすがにレグルスも、貴族である彼に平民のエリカに対して頭を下げさせるというのは、反発する人も出てくると考えて諦めた。賠償金はその代わりとしての目に見える償いの形なのだ。
「では、殿下。お騒がせ致しました」
「あ、ああ」
余所行きの口調のまま、ジークフリートに言葉をかけ、教室を出て行くレグルス。そのあとをフランセスが、それに少し遅れてアリシアが追いかけていく。
「……エリカ殿というのは、何家のご令嬢なのかな?」
アリシアが追いかけて行ったことを気にしながらも、ジークフリートは先に気になっていたことを尋ねた。エリカという学生が何者なのか、ジークフリートは分かっていなかったのだ。
「何家といいますか……父親は王国に仕える役人のはずです」
「えっ……あ、いや、そう。教えてくれてありがとう」
「いえ」
何故、レグルスは平民の女子学生の為に、あのような行動を起こしたのか。エリカの素性が分かると、より気になることが生まれてしまった。
本当にエリカが描いた絵には十万コバンの価値があり、それを惜しんでのことかと考えた。レグルスらしい動機だとジークフリートは思う。
ただ、そうだとしても分からないことがある。駄目になったのであれば、また描かせれば良いだけだ。わざわざ賠償を請求する必要などない。
(いや、待てよ……)
そもそも何に対する賠償なのか。ジークフリートは、ようやくこのことに気が付いた。レグルスは何も損をしていない。手に入るはずだった絵が手に入らなかっただけだ。そうであるのに十万コバンという賠償を請求したレグルス。たんに金を手に入れたいだけ。エリカという女子学生は、その為に利用しただけだ。ジークフリートはこう考えた。
彼にとっては納得の結論。望ましい結論だ。真実よりも、ジークフリートはそれに満足した。
◆◆◆
自分の教室に戻ったレグルスは早速、結果をエリカに報告することにした。交渉、というか脅しというべきか、とにかくその結果はほぼ満点。良い報告は迷うことなく話すことが出来る。時を空ける必要はないのだ。
事情を伝え、犯人捜しを手伝ってもらったフランセスも教室に付いてきている。先延ばしにする理由はない。
「……どうして、お前までいる?」
ただアリシアがいることについては、別にいても困らないのだが、一言文句を言わないと気が済まなかった。
「別に良いじゃない。私だって何があったのか知りたいもの」
「聞いていただろ? エリカが描いた絵をあいつが滅茶滅茶にした。エリカが泣き寝入りするのは納得が行かないから、償わせた」
教室にいたアリシアは、やり取りを全て聞いていたはず。彼女に限ったことではなく、教室にいる全員に聞かせようと思ってレグルスは話していたのだ。聞こえないはずがない。
「本当にそんなことしたの?」
「はあ? 本人が認めただろ?」
「それは分かっている。分かっているけど、どうしてそんな酷いことが出来るのかと思って」
レグルスのことを疑っているわけではない。レグルスに追いつめられるまで罪の意識を感じていない様子だった同級生の心が、アリシアは信じられないのだ。
「何も考えていないからだろ? エリカにとって絵がどれだけ大切なものか。大切なものを傷つけられた人の気持ち。自分の行為が知られた時、周りがどう思うかも」
「……そっか」
「まっ、俺が言ったことが正しいかも分からないけどな。悪いことだと分かっていても、出来る人はいる」
自分がそうだ、とまでは言葉にしない。本題はこれではないのだ。
「賠償金は十万コバン。あの感じだと一度に支払うのは無理かな?」
「十万……それは吹っ掛けすぎです。私の絵に……それにそれだと何だか、こちらが悪いことをしているみたいです」
絵を駄目にされたのショックだが、さすがに十万コバンはないとエリカは思う。過剰な要求は脅迫。自分たちのほうが悪い人のように感じてしまう。
「吹っ掛けていない。十万コバンはきちんと査定してもらった結果だ」
「えっ?」「嘘でしょ?」「……?」
レグルスの説明に驚くエリカとフランセス。絵の値段を良く分かっていないアリシアだけが、無反応だ。
「フランセスさん。『嘘でしょ?』は酷くない?」
「ごめんなさい。でも……十万コバン?」
「正直言うと、少し色をつけた可能性はある。家のほうはそれなりにお得意様だから。それでも倍になったなんてことはないはずだ」
レグルスは詳細を説明することなく、鑑定を依頼している。相手は北方辺境伯家の持ち物だと思って鑑定しているはずなのだ。実際に買い取るわけでもないのだから、高めの評価をした可能性は十分にあるが、それでも何倍にもなっていることはない。無名画家の絵を、ご機嫌取りで高額評価するような相手は、取引相手として信用されないはずだとレグルスは考えている。
「……私の絵が十万」
「俺の目も馬鹿にしたものではないだろ? エリカの絵が好きだと言っていた俺は正しかった」
「……ありがとう」
レグルスは自分の絵を認めてくれていた。上手と言ってくれる人は何人もいたが、好きだと言ってくれたのはレグルスが初めてだった。それだけではない。レグルスは、エリカが書きたい絵を認めてくれた唯一の人なのだ。美しい風景画でも人物画でもなく、自分の心から湧き出る何かをキャンバスに映し出しただけの絵を。
人嫌いのエリカがレグルスに、他人から変人と見られる素の自分で打ち解けたのは、それが理由だ。そんなレグルスとの出会いは嬉しかった。だが、レグルス以外にも自分の絵を認めてくれる人がいたことは、もっと嬉しかった。
「これで未来が約束されるわけじゃない。そんな甘いものじゃないのは、ド素人の俺でも分かる。でも、エリカ……無責任かもしれないけど言わせてくれ。簡単に可能性を諦めるのは良くない。ちゃんと考えてみても良いと、俺は思う」
「レグルス……」
後に新時代の奇才、抽象画の母と呼ばれる画家の、これが第一歩。ただその歩みは、順風満帆と呼べるものではない。世に出るまでにこれから十五年。その才能が万人に認められ、名声を得るまでには、さらに十年の時を必要とすることになる。
それでも、生あるうちに名声を得ることが出来たエリカは、苦労はあっても、幸福なほうなのだろう。二十五年の歳月は、彼女が努力に努力を重ね、その才能を具現化する能力を得るまでに必要な年月だったということだ。
その時が来ることを、彼女が自分の力と運だけで世に出てくることを信じて、ただ見守り続けていた人に、その姿を見せられたエリカは幸せだったはずだ。