夏休みが終わり、新学期が始まった。アリシアとしてはそれなりに満足出来る夏休みだった。鍛錬そのものは、かなり充実したもの。学院での授業よりも身になると思えるほどの中身だった。王国騎士団で鍛錬が出来たのだ。アリシアに、それに付いていけるだけの能力があるからこそだが、学院の授業よりも優れたものであるに決まっている。
それでもアリシアが「それなり」と思ってしまうのは、レグルスのことが気になってしまうから。結局、夏休み中はエリザベス王女の卒業パーティー以外では一度もレグルスに会えなかった。パーティーの時も、エリザベス王女の一件とジークフリートが付きっきりであったせいで、最初の挨拶程度で終わってしまっている。
別の機会を作ろうにも、レグルスは相変わらず、ブラックバーン家の屋敷には寄り付かないでいる。夏休みとなれば尚更だ。そうなるとアリシアの伝手は、リキか花街しかない。郊外に行っている様子がないことはキャリナローズの話で分かっていたが、それでも実際にリキに会って話を聞いてみた。結果は分かっていた通り。リキには「近頃は、まったく会っていない」と言われた。
そうなると残るは花街。だがその花街でもレグルスの居場所を知ることは出来なかった。何度か顔を見せたことは分かった。だが、とにかくレグルスは忙しいようで、言葉通り、顔を見せて一言二言残しただけで、帰って行ったというのだ。
「何でも屋」の場所も分からない。キャリナローズに教わった場所は、もぬけの殻だった。リキが知っていた場所も同じ場所。花街では、まったく情報を得られなかった。
花街はレグルスの差し金だ。「何でも屋」の商売は怪しげなものも多い。それはアリシア、アリスには知られたくないと言って、口止めさせたのだ。それを無視してアリシアに教える人はいなかった。桜太夫が少し懸念していた、花街との付き合いが浅いことが、アリシアにとっては災いした形だ。
結局、今日の日を迎えることになったアリシア。
「あのさ、さすがに私も自国の王女と競うのは気が引けるというか、遠慮が生まれるのよね?」
久しぶりに会ったフランセスに、いきなり嫌味を言われることになった。
「……ごめんなさい」
「ごめんなさいじゃなくて、ちゃんと繋ぎとめておいてくれないと困ると言っているの。格上の王女殿下を妻にした男に、第二夫人なんて許されると思う?」
王女であるエリザベスは、北方辺境伯家の公子であるレグルスよりも格上となる、国内では唯一の存在だ。自国の王女を妻にして、第二夫人、第三夫人なんて持つことを許されるはずがない。それでは王家を侮辱したことになってしまう。
そうなるとフランセスは立場を失ってしまうことになる。もともとレグルスの第二夫人の座は約束されたものではないのだが。
「一応、私は婚約者ですから」
「その座が安泰だと良いけど。ブラックバーン家にとって、どうなのかしら?」
「どうというのは?」
レグルスではなく、ブラックバーン家の名を出したフランセス。貴族であればその意図はすぐに分かるのだが、アリシアはそうではなかった。
「名家というだけが取り柄の貴女と、名家なんて評価を超越する王家。どちらがブラックバーン家にとって望ましいかよ」
「…………」
フランセスの言い方では、自分に勝ち目はない。アリシアはそう受け取った。
「この教室では言いづらいけど、可能性はあるわね」
だが、フランセスの考えはアリシアが理解したつもりのものとは違っている。ブラックバーン家に限らず、辺境伯家が無条件で王家との婚姻を喜ぶとは思っていないのだ。
「……よく分からないのですけど?」
「もう……王家との婚姻は必ずしもありがたいものではないってこと。でも、すでに別の守護家がそれを進めている。それをブラックバーン家がどう考えるかよ」
周りに聞こえないように声を潜めて、アリシアに説明するフランセス。すでにジークフリートとサマンサアンの婚約が成立している。同じ守護家であるミッテシュテンゲル侯爵家に対抗、もしくは牽制する意味で、ブラックバーン家がエリザベス王女の輿入れを求める可能性はあるとフランセスは考えたのだ。
「どうして王家との婚姻をありがたがらないのですか?」
アリシアはここから分からない。こういうことは、学院の教科書には書かれていない。学ぼうという意思を持ち、実際に時間を使わなければ、得られる知識ではないのだ。
「たとえば、嫁ぐ時には多くの使用人が付いてくる。その人たちは得た情報を実家に届ける役目を与えられているの」
「なるほど」
「跡継ぎが出来たあと、母親の意向が強く働く可能性がある。夫が先に、それも早く亡くなるようなことになれば、思いのままってことにもなり得るわ」
「……そんな、結婚して何十年も経った後でもですか?」
アリシアにはこの感覚は理解出来ない。結婚した後もずっと実家を優先しなければならない気持ちはないのだ。
「貴女……何を学んできたの?」
だがこの世界の、貴族の女性であれば、当たり前のこと。もちろん、実家よりも夫や子供を優先する女性はいる。だが、結婚する前はそうあることが当然だと教え込まれているのだ。
「……教わったからといって、納得できるとは限りません」
フランセスの問いで、自分の失言に気が付いたアリシア。咄嗟に考えた言い訳で誤魔化そうと考えた。
「やっぱり、アリシアは変わっているわ。でも……人を好きになるって、そういうことかもしれないわね?」
「…………」
「何よ?」
「そういう気持ちが分かるようになったってことですか?」
レグルスは、フランセスにとって実家よりも優先したい相手になった。そういう意味だとアリシアは受け取った。これまでなんとも思わなかった二人の関係が、今は気になってしまう。
「心配する相手を間違えているわよ。今は王女殿下の話をしているの」
「そうですけど……」
安心が揺らいでいる今は、レグルスの周りにいる女性全てが気になってしまう。その中でもフランセスは、特別気になる女性の一人なのだ。
「あっ……」
「えっ?」
フランセスの視線が自分から逸れた。その理由を探して、彼女の視線の先にアリシアが目を向けてみれば、入口で教室の中を覗いているレグルスがいた。
軽く手をあげているレグルス。だが、その視線が自分に向いていないことに、アリシアは気が付いてしまう。
「…………」
アリシアよりも先に気が付いたのは、レグルスの視線の先にいたフランセス。すでに席を立って、レグルスのところに向かっている。その背中を無言で見つめるアリシア。
「へえ、そういう顔もするのね?」
「えっ……あっ……キャリナローズさん……」
自分はどういう顔をしているのかと、キャリナローズに言われて思ったアリシア。見られたくない顔であったのは間違いない。
「嫉妬するくらいなら、ちゃんと捕まえておけば良いのに」
「……フランセスさんにも、同じようなことを言われました」
「彼女が? ああ、あっちね? あれは、私が見ても胸にグッときたわ。ずっと押さえ込んできた感情が溢れ出てしまった瞬間を見てしまった感じ」
「意地悪ですね?」
キャリナローズの言葉で、パーティーでの光景がまざまざと頭に浮かんできた。他の誰も立ち入ってはいけない瞬間。それはレグルスの婚約者である自分も例外ではないと思い知らされた瞬間のことを。
「冗談として話すしかないでしょ? それとも真面目に受け取るつもり?」
「真剣な想いを冗談にして良いとは思いません」
「そうじゃなくて……分かっていないのか。まだ少ないけど、貴女に身を引くように求める声があがっている」
「えっ……?」
どうしてそうなるのか。この手の話は、アリシアが理解出来ないことばかりだ。
「王女殿下の想い人を奪うような真似は臣下として許されないって声」
「どうして、私が奪う側になるのですか?」
婚約者である自分のほうが奪われる側。そうであるはずなのに、自分を責める声があるというのは納得いかない。
「理不尽だと思うのは分かる。でも、そういう考えの人もいるのよ。王家の意向に従うのが臣下の努めって」
「それは……言葉では分かりますけど」
この世界には、明確な身分制度がある。国王の命令には絶対服従、とまでアルデバラン王国では実際にはなっていないが、そうであってもおかしくない世界だ。そうであることを、この様なことで、アリシアは実感することになった。
「これ以上、話が大きくならなければ良いけど。レグルスへの風当たりも強くなる可能性があるわ。彼なら軽く受け流しそうだけど……」
ブラックバーン家はどうなのか。真向から批判する相手はいないだろうが、このようなことで、さらに一部の勢力相手とはいえ、自家の評判を悪くすることを良しとするか。この辺りのことはキャリナローズにも分からない。レグルスとアリシアが婚約に至った経緯を彼女が知っているはずがないのだ。
二人の関係は思わぬことで揺れることになる。キャリナローズが言う通り、レグルスにとっては何でもないことであるとしても。
◆◆◆
レグルスとエリザベス王女の噂は、結果としてサマンサアンに屈辱を与えることになる。二人の結婚ということで話が進めば、フリーになったアリシアをジークフリート第二王子が放っておくはずがない。学院内は、こんなゴシップで盛り上がっている。そこに、今、ジークフリートの婚約者であるサマンサアンの存在が出てこないのだ。
すでにサマンサアンとジークフリートの婚約関係は破綻している。ここまではっきりとした意識は、噂話で盛り上がっている人たちは持っていないのだが、存在を無視されているということがサマンサアンには許せないのだ。
そのサマンサアンの怒りの向け先は、噂話をしている有象無象ではなく。
「ええ……俺ですか……」
レグルスだった。
「……自分のことを『俺』と言うのですね?」
ただその怒りは、わずかではあるが、レグルスの反応で和らぐことになった。レグルスが自分のことを「俺」と言ったことに驚いたのだ。
「ああ、普段は。まさか怒られることになるとは思っていなくて、驚いて素が出てしまいました」
「……まさかって、貴方の責任ではないですか?」
口調は丁寧であるが、どこか冷たい印象であったレグルス。だが今の彼は、サマンサアンでも、人懐っこさを感じさせる雰囲気だった。
「では責任を取って、貴女と結婚します」
「違うから」
「突っ込まれた……サマンサアン殿、いや、もう良いか。サマンサアンさんも突っ込めるのですね?」
「……ふざけないで。私は真面目な話をしているのです」
なんだか調子が狂う。これまでレグルスと話をする時は、気を張っていることが多かった。隙を見せないようにと身構えていた。だが今の彼は、そういう不安を感じさせない。それにサマンサアンは戸惑っている。
「真面目な話、俺とエリザベス王女がどうこうなることはありません。自分で言うのは嫌ですが、そういう展開にならないようにとのことで、婚約が進んだそうですから」
アリシアとの婚約話が進んだ理由をレグルスは知っている。疑問に思って父親に聞いたのだ。父親も隠すような話ではないので、普通に説明していた。
「そう……」
「これを言うと、サマンサアンさんは不機嫌になるかもしれませんけど、問題はエリザベス王女ではなく、以前から変わらず、弟君ですよね?」
レグルスとエリザベス王女の関係がどうなろうと、それによってアリシアとの婚約が解消されようと、本来はサマンサアンには関係ないことだ。ジークフリートが誠実であれば婚約者のまま、そしていずれ妻になるのだ。
「それは……分かっているわ。でも、私にはどうにも出来ない」
「……俺にも正解は分からないのですが、ジークフリート王子と結婚することは、サマンサアンさんにとって正しいことですか?」
「…………」
レグルスの問いにサマンサアンは無言。怒られるのを覚悟して問いかけたレグルスだが、反応は予想外のものだった。
「……すみません。今の問いは間違いでした」
サマンサアンの気持ちは分からない。分からないが、聞いて良い内容ではなかったことは、レグルスも気が付いた。正しいか正しくないかは関係ない。相手を好きか好きでないかも関係ない。貴族家の結婚とはそういうものだ。良く分かっているはずのそのことを忘れて、質問してしまった自分の失敗だとレグルスは気付いたのだ。
「……貴方は、やっぱり変わっているわ」
「よく言われます」
「でも、以前の貴方とは違う。まるで別人のようね?」
「それもよく言われます。でも俺は、残念ながら、レグルス・ブラックバーンのままです。これは変わらない」
中身がどうであろうと、レグルス・ブラックバーンであることに変わりはない。世の中を乱し、愛する人が処刑されるのを止められず、自らも長いとは言えない人生を終えることになる。これがレグルス・ブラックバーンの人生なのだ。
「……貴方は自分の婚約を正しいことと思っているのですか?」
「やり返された……答えですか……どうしようかな?」
「人に聞いておいて、自分は答えないのは良くないと思うわ」
「俺は答えをもらっていませんけど……まあ、良いか。正しいかと聞かれれば、答えは『正しくない』ですね。俺にはその資格がない」
答えを返す義務はない。利もあるとは思えない。それでもレグルスは本音で答えた。騙し合いを続けていても、サマンサアンとの関係性は変わらない。思い切って、成り行きに任せるのも悪くないと思ったのだ。
「資格とは?」
「人並の人生を送る資格? 結婚して、子供を持って、その成長を楽しみに生きるなんてことは俺には許されない」
「……それは、北方辺境伯家の人間だから、ではないのですね?」
そもそも守護家の人間に「人並」なんてあるはずがない。そんなものは良くも悪くも許されていない。だが、レグルスが話したのは、そういうことではないとサマンサアンは感じた。結婚も子供も許されないことではない。逆に義務だ。
「そうですね。俺は、ただ俺であることで、その資格がないのです」
「どうして、そう思うのですか?」
「どうして? どうしてかな? 理由を考えたことはなかったな。ただ、俺という存在をこの世界は認めていないと思っているだけです」
改めてどうしてかと考えると、理由が浮かんでこない。この世界は自分の幸福を許してくれない。残っているのは、この想いだけなのだ。
以前の自分はサマンサアンと結婚したいと思っていたのか。子供を作り、幸せな家庭を築きたいと考えていたのか。レグルスはそれを思った。答えなどないと分かっていても。
「……貴女は……寂しい人ですね?」
「それを俺に言う貴女も。だから俺は貴女を……」
サマンサアンを求めたのか。人々に裏切られ、孤独になった彼女の気持ちに寄り添う為、ではなく自分を慰める為に。
今回の自分はどうなのか。どうなってしまうのか。それは分からない。分からないのが、レグルスは怖かった。