アリシアは、さすがに両親の死を知った時ほどではないが、酷く落ち込んでいる。ここまで落ち込むことになるとは思っていなかった。完全な不意打ちで、心の準備がまったく出来ていなかったというのはあった。心の準備などを必要と思わないほど、安心しきっていたということだ。
だが、それは間違いだと思い知らされた。自分だけがレグルスにとって特別な存在ではないと、エリザベス王女に思い知らされた。目の前で、それをまざまざと見せつけられることによって。
(フランセスさんの時は平気だったのに……)
フランセスとレグルスの関係を知った時は、今ほど落ち込まなかった。奪われるという危機感はなかった。そもそもレグルスと自分は家族のような関係。男女のそれとは違うと思っていた。そうであるはずだった。
(……弟が幸せになるのは嬉しいこと……こう思えるはずだったのにな)
自分とレグルスの関係。婚約者という公式のものとは別に、本当の関係はどういうものなのか。姉弟という関係が、アリシアには望ましかった。離れ離れになったとしても姉弟は姉弟。婚約者よりも、夫婦よりも強い結びつきでありたかった。
自分の今の気持ちは弟を思う姉のそれなのか。可愛い弟を他人の女性に奪われると、姉は今のような気持ちになるのか。そうであって欲しいとアリシアは思う。
(……いやいや、だって婚約解消しないと……するか……そういうことか……)
レグルスと自分が結婚することはない。それはゲームストーリーで決められている。これは分かっていたことだ。分かっているからアリシアは姉弟でありたいのだ。婚約という関係を失っても、レグルスとの繋がりは続く。そうでなくてはならないのだ。
(ん? サマンサアンは?)
ただ、ゲームストーリー通りに進むのであれば、レグルスの相手はサマンサアンであるはず。そもそも、エリザベス王女という登場人物は、アリシアの記憶にはないのだ。
(……どういうこと? ストーリーが変わっている? それは良い変化なの?)
ゲームストーリーが変わろうとしているのかもしれない。ただ、それは良い変化なのか。レグルスが敵となる設定が変わらないままであれば、変化は危険なものだ。ハッピーエンドのストーリーから逸れていく可能性があるのだから。
(……私は……誰?)
どうしてこのような時に、ゲームストーリーを気にしてしまうのだろうとアリシアは思った。ただレグルスへの想いに心を悩ませているだけでいられないのだろうと。
結局、自分の想いはこの程度のもの。レグルスへの想いよりもゲームの主人公でいることが大事なのだ。主人公としてのハッピーエンドを求めているのだと思って、またアリシアは落ち込んでしまう。
(……どうして私は、アリシア・セリシールなのかな?)
リサのままでいられたら両親が殺されることはなかった。レグルスとの関係も、あのままでいられた。もし、レグルスが間違った道へ進もうとしたら、全力で止めた。止められなかっとしても同じ道を進めた。敗者になるのが決まっているとしても、きっと自分はその道を選ぶ。レグルスと二人で最後まで、悔いがないと思えるくらいまで抗ってみせるのも悪くないと思える。
(…………)
前に進むのが怖くなる。アリシア・セリシールでいるのが嫌になる。この先、いくつの選択をしなければならないのか。その選択を後悔しないでいられる自信が、アリシアにはない。すでに後悔してしまっているのだから。
「アリシア! 危ない!」
「えっ?」
危険を告げる声。それに驚いたアリシアだが、ただ驚いているだけではいられない。目の前を通り過ぎた銀色の輝きがそれを教えてくれた。
「……誰?」
剣を振るってきた相手に、何者かを尋ねるアリシア。答えがないのは分かっている。気持ちを整える時間が必要だっただけだ。
「問答無用。死ね」
当然、答えは返ってこない。刺客の応えは、剣だった。振り下ろされてきた剣。アリシアは体をわずかにずらして、それを避けた。
だが、それは間違い。余裕で見切ったはずの剣は、角度を変えて襲い掛かってきた。一気にそのスピードをあげて。 咄嗟に体を沈めて、避けるアリシア。それで攻撃を避けきれるとは思っていない。相手の剣を確認することなく、全身の力を使って、大きく横に跳んだ。
視界に迫ってくる銀色の閃光が映る。追撃を躱せるかは五分。アリシアは覚悟を決めた。
「逃げろ!」
「えっ……あっ……」
その剣を遮る影。危険を知らせてくれた人物だ。レグルス、ではない。一瞬そう思ったアリシアだったが、彼であればアリシアとは呼ばないはず。声も彼とは違う。アリシアも知るジークフリートの声だ。
「何者だ!?」
「…………」
「誰であろうと、アリシアに危害を加えようという者は許さない。この私、ジークフリートが相手をしてやる」
このジークフリートの名乗りを聞いた刺客は、あっさりと身をひるがえして、逃走に移った。それをジークフリートは、追うことはしない。
「大丈夫かい?」
「……はい。ありがとうございます」
「物騒な世の中だね? ああいう危険人物は、世の中には多くいるのかな?」
「多くはないと思いますけど……」
通り魔事件は元の世界では何度か聞いた。だが、この世界でどうなのかは、アリシアには分からない。襲ってきた相手が、通り魔であるかも怪しいものだ。
「これからは家まで送って行くよ」
「……ジークはどうしてここに?」
王子である彼が、気軽に街中を出歩くとは思えない。どうしてこの場にジークフリートがいるのか、アリシアは不思議だった。
「ああ……えっと……送って行こうと思って」
「はい?」
「……分かった。白状するよ。もう少しアリシアと一緒にいたいと思って……その……追いかけてきた。追いかけてきたのだけど、話しかけるタイミングが掴めなくて……」
躊躇いながら、ずっと後をつけていたことを白状するジークフリート。「ストーカーだ、気持ち悪い」とはアリシアは思わない。ジークフリートの不器用さが、少しおかしかった。
「今日もこのまま、家まで送りたいのだけど……良いかな?」
「……はい。ありがとうございます」
断る気にはなれなかった。このまま一人で家まで歩くのは嫌だった。また頭の中を色々な思いが駆け巡り、気持ちが落ち込んでしまうのは分かっている。それは嫌だった。
ずるい女かもしれないと思う。ジークフリートの好意に付けこんでいる酷い女だと。でも今は、それを伝えても、きっと笑顔を向けて許してくれるジークフリートの存在がありがたかった。
◆◆◆
ブラックバーン家は年に何度か教会を訪れることになる。熱心な信者とはとても言えないが、世間の評判を気にする貴族家としては、何事も最低限の義務は果たさなければならない。教会への寄付だけでは、その義務を果たしたとは言えない。打算的な家と、金を払っている側が打算的と受け取られるのはおかしな話だが、思われては寄付している意味がない。教会に対して、それなりに敬意を払っていることを示す必要があるのだ。
最低でも、新年と家族の誕生月で年五回。今日はレグルスの腹違いの弟、ラサラスが誕生月なので、祝福を受ける為にやってきている。
礼拝堂の入口近くにある待合室。高位の人たちの為に用意された広く、豪奢な部屋で待つブラックバーン家の人々。その表情には少し苛立ちが見える。いつになく待たされているのだ。
「お待たせして申し訳ございません」
ようやく準備が整った。そう思って立ち上がろうとした人々だが。
「教皇様は、貴家のレグルス様と先にお話があるとのことですので、それが終わるまで、もう少しお待ちいただけますよう、お願い致します」
準備が出来たことを伝えにきたのではなく、さらに時間がかかることを告げてきた。しかも、その時間はレグルスと話をする為だと言う。
「レグルスと猊下が、ですか?」
レグルスの父、ベラトリックスは、それを聞いて戸惑っている。次期北方辺境伯で、王都の屋敷では最上位の自分であれば分かる。だが、レグルスと話をする理由は、まったく見当がつかない。これまで、まともに会話したこともないはずなのだ。
「そう長くはかからないはずです」
「……分かりました。ただ、レグルスは……」
珍しく一緒に来た。だが、教会に着くとすぐに姿を消している。いつものことで驚くことはない。この年齢になってまで同じ行動を取ることは驚く、というより、呆れるべきことだが。
「すでに礼拝堂に入られております」
「そうですか……では、我々はそれが終わるのを待ちます」
レグルスの側にも教皇と話をする意思があるということ。レグルスが同行してきたことも、このことに関係があるのかと思ったが、そうだとしても謎は解けないままだ。
事情はあとでレグルスに聞くしかない。そう考えて、ベラトリックスは引き続き待つことにした。それ以外に選択肢はないのだ。
その頃、礼拝堂にいるレグルスは――
(……こうして、じっくりと眺めるのは初めてか)
礼拝堂の一番前の席に座り、周囲を眺めていた。とてつもなく高い天井、彩られたガラス。そこから差し込む陽光。左右の壁には神話を彩る神々が描かれている。何度も見たはずの光景。だが、今のそれはとても新鮮に感じられる。
記憶を失っているからではなく、生まれ変わった後に訪れた時も、興味を持って眺めることはしていなかったのだ。
(…………神なんて信じていないのだけど……自分を救ってくれない存在を信じたくないのか)
厳粛な雰囲気。そう感じるように演出されているのだと分かっていても、独特な雰囲気は否定できない。素直に神を信じることが出来れば自分も救われるのか。こんなことも思ってみたが、すぐに否定した。自分はきっと神が救うべき存在ではない。そう思った。
礼拝堂に響いた靴音が、何者かの訪れをレグルスに伝えた。ゆっくりと立ち上がり、その人物、教皇を迎える。
「そのような礼儀は無用です。お座りください」
「猊下でなくても、こうするのが礼儀ですから」
「……それもそうですか。では、一緒に座りましょう」
そのまま礼拝堂の最前列に並んで座る二人。視線は二人とも正面を向いたまま。教皇としては、そのほうが話しやすいのだ。
「……まずは御礼を」
「無用です。報酬を頂いて行ったこと。それに、その件に猊下は関係ありません。我々は別の人から依頼を受けて、仕事を行ったのです」
依頼はロイからのもの。教皇が知らないところで行われている。建前ではなく、実際にそうだ。教皇が殺人を許すはずがないのだ。
「原因は私にあります」
「依頼人には依頼したい理由がありました。猊下がどう考えられていようと、依頼は行われたはずです」
ロイにはロイの理由があった。妹を、祖父を守りたいという理由だ。教皇が何もしなくて良いと伝えていたとしても、彼は止まらなかっただろうとレグルスは思う。
「……私は責任を負うことも許されないのですか?」
「少なくとも私は、それを認めません。私が知るだけで六人。他に何人が命を落としたのですか?」
「……分かりません」
教会内での処分について、教皇はすべてを把握していない。追放処分を受けた人が誰かは知っている。だが、追放だけで終わったとは思えないのだ。それでは秘密を守れないことくらいは、教皇にも分かる。
「それでは責任を負うことなど出来ないでしょう?」
「……ロイは……恐ろしい存在になってしまいました」
教会内で処分を実行したのはロイ。少し話を聞いただけで、かなり苛烈なやり方であることは分かる。そのやり様を不安に思い、伝えてきた者がいて、教皇は知ったのだ。
「私が知る限り、猊下と教会を守る為の行動だと思いますけど?」
「分かっております。ですが、ずっとそうでいられるのでしょうか? どこかで間違った方向に力を使ってしまうことにならないでしょうか?」
ロイにはロイの正義がある。眉を顰めるような方法をとっているとしても、自分と教会の為になると信じて行動していることを教皇は知っている。だが、ずっとそうでいられる保証はない。たとえば祖父である自分がいなくなった時、ロイはどこに向かうのかと考えると、不安しかないのだ。
「……その時は、我々にお任せください」
「えっ……?」
「しかるべき措置を行います。それが我々の責任の取り方。猊下では出来ないことを行うのが我々の仕事ですから」
ロイを、今のロイを生み出した原因が自分にもあるとするならば、責任を負わなければならない。生み出してしまった化け物を排除しなければならない。それが必要な事態になればの話だ。
「そんなことは……」
「そういう結末を望まないということでしたら、猊下が正しい方向に導いてください。それが出来るのは、猊下以外にいないはずです」
そうならないようにすれば良い。祖父であり、血で汚れていない教皇には、自分とは違うやり方があるはず。自分には出来ないことが出来るはず。こうレグルスは考えている。
「……私は……また傍観者でしたか……」
今回の件で自分は何もしていない。手を汚すことから逃げていた。そうであるのに、それを為したロイの将来を憂いている。レグルスが責任を追う必要はないと言う理由が、ようやく分かった。関わり合いがないから責任を感じることはないというのではなく、傍観者に責任を負う資格はないと言われていたのだと。
「上手くいかなくても我々がいます。そう思えれば、少しは気が楽になりませんか? 猊下の場合は逆ですか」
「……やれることはやってみます。今度こそ」
「では、私はこれで。さすがにこれ以上待たせては、我慢できなくなる者が出てきそうですので」
待っているブラックバーン家の人々を口実にして話を終わらせ、席を立って歩き出すレグルス。父親たちがいる待合室の方向ではない。このまま帰るつもりなのだ。
「……貴方は!」
その背中に教皇は声をかける。最後にひとつだけ、どうしても聞きたいことがあったのだ。その声を受けて、振り返ったレグルス。
「貴方は……貴方のことは……」
ロイの暴走はレグルスが止める。では、それを出来る力を持つレグルスは誰が止めるのか。ロイよりも、遥かにレグルスのほうが恐ろしい存在であることは、教皇にも分かっているのだ。
「……ご安心を。俺を止める人はいます。その人であれば、必ず俺を止められるはずです」
「そういう人が……」
「猊下もいずれ会うことになるでしょう。いつかは分かりませんが、必ず。その人こそが、真に猊下が頼るべき人なのです。猊下が求める世の中を作り上げてくれる人です」
「…………」
レグルスにとって、その人はどのような存在であるのか。彼の言葉で、教皇はそれを考えさせられることになった。レグルスが言う「止める」は、殺すということ。ロイに対して、レグルスはそうすると言っていたのは明らかなのだ。その自分を殺す人物を、笑顔で称えるレグルス。その気持ちが教皇には分からない。
教皇は気づいていないのだ。レグルスがもっとも恐れているのは自分自身であることを。自分が今の自分ではなくなり、多くの人々に災いをもたらす存在となってしまう可能性を考え、恐怖を感じていることを。
そうなってしまった時、自分を止めてくれるはずのアリシアを、レグルスが誰よりも大切に思っていることを教皇は知らない。