王都郊外にある農地は、一握りの大農家の物。その何十倍もの農民は、その大農家に悪条件で雇われ、酷使されている。これがこれまでの常識だった。その常識が今、崩れようとしている。多くの人が気づかないままに。
最初は小さな、当事者たちにとっては命を賭けるほどのものだが、抵抗から始まった。それが大きな変化に繋がると考えなかったのは、既得権益を持つ側としては甘すぎたと言えるのかもしれない。
「……農民が働こうとしない? それがどうした?」
報告を受けたミッテシュテンゲル侯爵家の上級使用人は、その甘い考えを持つ一人。結果として、この一人の愚かな者の判断が全てを決めたようなものだ。
「どうした、とは……収穫出来ないまま、作物を駄目にしてしまうことになります」
使用人の反応は、問題を報告に来た大農家の主には納得できないもの。「それがどうした?」で済まない問題であるから、こうしてわざわざ報告に来ているのだ。
「……働く意思のある者たちだけでやらせれば良い」
「雇っていた者たち全員が、待遇改善を求めて、仕事を拒否しているのです」
「愚かな。ではその者たちは全員解雇して、新たに雇えば良い」
雇われ農民などは、いくらでも替わりがきく。侯爵家の使用人はこう考えている。まったく間違っているわけではない。替わりはきく。替わりがいるのであれば。
「今の時期はどこも人手が必要です。手が空いている者などいません」
今は繁忙期。どの大農家でも人手が必要な時期だ。新たに別の農民を雇おうと思っても、簡単には人は集まらない。
「では、ある程度は要求を呑むのだな。全てを無駄にするよりは良いだろう」
「……承知しました。ただ、その分のコストが増えますので」
仕事を拒否している人たちの要求を呑むという選択を、主は覚悟していた。そうであるのにこうしてミッテシュテンゲル侯爵家に相談しに来たのには、二つの期待があってのこと。ひとつはミッテシュテンゲル侯爵家の強権で事態の解決が図れないかということ。これは使用人の口から出てこなかった。そうであれば、もう一つ。要求を呑むことで増えるコストの取り扱いだ。
「それは当家の預かり知らぬところ。そちらの勝手にするが良い」
「勝手とは?」
「勝手は勝手。交渉の責任はそちらにある。当家はただ約束のものを、約束通りに収めてもらえればそれで良いだけだ」
「そんな……それではこちらの利が」
ミッテシュテンゲル侯爵家に収める税、ではなく裏金。影で支援してもらうだけにしては高額なそれを、コストが増えても変わらぬ金額で収めることになれば、当然、大農家に残る利は減ることになる。それを引き下げてもらうことが、もう一つの期待。だが、その期待はあっさりと裏切られた。
「きちんと管理出来ていなかったことに問題がある。今回のことを教訓として、改めるのだな」
「…………」
さらに責任を全て押し付けられた。主はそう受け取った。ミッテシュテンゲル侯爵家に渡す裏金が少なく済めば、もっと言えば、なければ雇い入れている農民たちの待遇はもっと良いものに出来た。ミッテシュテンゲル侯爵家にも責任の一端はあるのだ。
肝心な時に、このような態度を向けられるのであれば、何のために裏金を収めているのか。主の心にミッテシュテンゲル侯爵家への強い不信感が植えつけられることになる。これが大きな変化のきっかけとなった。
◆◆◆
平日は学院での授業。それに道場での鍛錬が加わった。週末だけに長時間行うよりは、短い時間でも毎日稽古したほうが良い。こう指導されてのことだが、その短い鍛錬が、とんでもなく厳しいものになっている。弟子入りしたのはレグルスだけでなく、オーウェンとジュードも加えた三人だが、都合が良いというべきか、教える側も三人。休む間もなく、一対一での稽古が続けられることになるのだ。王国から評価されなかった舞術であっても、稽古の厳しさは他流と変わらない。少人数である分、辛さは主流となっている流派よりも上といえるくらいだ。
そんな平日を過ごしているレグルスは、休日はある程度、体を休めることにしている。体を休めるといっても、のんびりとした時間を過ごしているわけではない。何でも屋の仕事をしているのだ。
「……交渉は成功か。まあ、良かったじゃないか」
リキから、相談した雇われ農民たちの待遇改善が実現したと聞いたレグルスの反応はこれ。リキの思うようなものではなかった。もっと喜んでくれると思っていたのだ。
「何か不満が?」
「不満? 当事者じゃない俺が不満を持つはずないだろ?」
「じゃあ、何か気になることがある?」
質問を間違えたことにリキは気が付いた。レグルスの言う「当事者ではない」こと、興味が薄いことについては、正しく質問しないと、面倒くさがって答えてくれないことをリキは知っている。
「今回は上手く行った。だからといって次も成功するとは限らない。これをきちんと分かっているのかと思っただけだ」
「……そこはちょっと。アオの言いつけを守って、接触しないようにしているので」
要求がさらにエスカレートする可能性をレグルスは心配している。それが分かったリキだが、話せることはない。レグルスに言われた通り、当事者たちと接触しないようにしていたのだ。今回、成功に終わったことで、相手のほうからリキにその報告をしてきたが、それ以上の話はしていなかった。
「それが良い。面倒ごとに巻き込まれる必要はない。何もなくても、付き合う必要のない人たちだ」
「厳しい評価だな」
「相手がどうこうじゃなく、リキには他にやることが沢山あるはずだと思っているだけ」
リキも今は人を雇う側の身。やるべきことは多くある。他所のことに首を突っ込んでいる場合ではないとレグルスは思っている。
「ああ……これからは人を増やすのも難しくなりそうだからな」
「どういうこと?」
リキの答えはレグルスの想定外。働いてもらう人を増やすのも大切な仕事のひとつだが、真っ先に口にすることとは思っていなかった。
「まだ話が途中だった。待遇改善の影響が広がっている。他の雇い主も条件を見直し始めた」
「ああ、それか」
「予想していた?」
レグルスの口調はそうであることを示している。あまり関わり合いになるなと言われた時点で、レグルスは自分には見えない先を見ているとリキは思っていたのだ。
「騒動を起こされたくないと思えば、条件を良くするしかない。リキへの嫌がらせもそうしたくなかったからだろ?」
「俺は嫌がらせだけで済ませたのに、今回は出来なかったのか」
「まだまだ規模が違うからな」
リキの農地の規模では、雇える人数は多いとは言えない。だが、今回、労働条件を良くした農家の主はリキのところとは比較にならないほど多くの人を雇っている。自分のところの優秀な農民が移籍してしまう可能性もある。無視は出来ないのだ。
「そうやって全体の待遇が良くなるのは良いことだ」
「そうだけど……何か?」
レグルスがリキと話をしていたのは、店の奥の部屋。そこに店に出ていたバンディーが顔を出した。用もなく話の邪魔をするはずがない。こう考えてレグルスは、リキとの会話を中断し、声をかけたのだ。
「お邪魔してすみません。少し面倒そうな依頼が来ておりまして」
「難しい仕事であれば断っても構いませんけど?」
きちんと稼げる商売にしたいという思いはあるが、焦って問題のある仕事を掴むわけにはいかない。失敗が許されるような商売の大きさに、まだまだなっていないのだ。
「難しいとは思えません。ただ、依頼の理由が分からなくて」
「……分かりました。一緒に話を聞きます。リキ、悪いな。今日はこれで」
「いや。こっちこそ仕事の邪魔してすまない。また」
仕事が入ったのであれば、これ以上、長居はしていられない。リキは席を立って、出口に向かった。
「じゃあ、行きましょうか?」
「はい」
店に向かうレグルスとバンディー。といってもすぐそこだ。店の建物は広くないのだ。すぐに店のカウンターに座っている客の姿が見える。身なりは悪くはない。身なりと依頼の良し悪しが合致するわけではないので、レグルスは気にしないが。
「お待たせしました」
「そちらは?」
奥に行って連れてきたのは、かなり若い、子供にも見える男性。客はレグルスが何者なのか気になった様子だ。
「当店の若旦那です」
「若旦那……分かりました。ジョンと言います。よろしくお願いします」
「アオです。こちらこそ、よろしくお願い致します」
身なりは悪くない。言葉遣いは丁寧。良い客だ、とはレグルスはやはり思わない。それどころか、逆の思いが心に湧いた。言葉遣いが丁寧過ぎる。庶民の身なりには合っていないと感じたのだ。
「ご依頼について、確認させていただきます。ある方が花街で遊びたいと思っている。その段取りを私どもに依頼したいということでよろしいですか?」
「はい。ただ、条件が抜けております。誰にも気づかれることなく、です」
「失礼いたしました」
条件を話さなかったのは、わざとだ。客が自ら話すのを、レグルスに聞かせたかったのだ。
「恐れ入りますが、お客様。何故、そのような依頼を私どもに? 遊びの手配であれば、花街の茶屋に頼むのが本筋。この規則をご存じないのですか?」
この時点で、レグルスも確かにおかしな依頼だと思った。花街での遊びの仕切りを頼むであれば茶屋に行くべき。何でも屋なんて、レグルス自身が思うのもなんだが、怪しげなところに頼む必要はないのだ。
「……知っております。ですが、こちらはその茶屋にも誰が客かを知られたくないのです」
「事細かに素性は聞かないと思いますけど……」
外の世界で何者であるかなど、花街では関係ない。素性を隠そうと思えば隠せるはずだとレグルスは思ったが、これについては自信がない。知っているだろう人がいるのだから、その人に説明してもらおうと考えた。
「現金払いであれば、素性は追及されません。最初に金を渡して、この範囲で遊べるだけの遊びをとお願いすれば良いのです」
「……顔も見られたくないのです」
条件が、この時点では少しだけと言えるが、厳しくなった。
「顔を晒さなくても金は払えると思いますが……顔を隠したまま、花街で遊びを?」
「無理ですか?」
「無理とは申しませんが……ご本人はそれでよろしいのでしょうか?」
これは素直な感想。顔を隠してまで花街で遊びたい。そんな強い気持ちを持っているのは、花街の男衆であったバンディーとすれば、嬉しいことだが、それで本人が楽しめるのかが心配になってしまう。
「かまいません」
「そうですか……当日はお一人で?」
「それは……分かりません。私が同行する可能性もなくないのですが、絶対とは言えません。こちらに同行をお願いすることになるかと」
依頼に来ておいて、当日は同行出来ない。別の予定があるからという感じでもない。話の意味が、この時点では、レグルスもバンディーも理解出来ない。
「茶屋にお願いするにしても。色々と制約がおありになるようだ。まずは条件を全て話してもらえますか? その上で、実現出来るかを茶屋に相談してみる。交渉だけを我々が引き受けるというのも出来ますが?」
「……分かりました。本人が何者であるかは絶対に知られてはなりません。顔を見られるのも駄目です。遊びと申しましたが、一般的な、その、花街のそれではなく、宴席を設けるだけで結構です」
「あとは?」
ここまでは、それほど難題ではない。何の為に顔を隠す必要があるのかと疑問に思うが、それ自体はずっと何かを被っていれば良いだけのこと。怪しげに思う者がいようが、顔を見られなければそれで良いのだ。
「その場に呼ぶ女性は決まっています」
「なるほど。名は?」
「分かりません」
「名が分からなければ呼べません。それ以前にどこの茶屋に頼めば良いのかも分かりません」
どの女性でも全ての茶屋で指名は出来る。規則ではそうだが、暗黙のルールというものがある。指名出来る茶屋を決めておくことで、強引な客引きなどで花街の評判を悪くすることを防げる。これだけが理由ではないが、そうなっているのだ。
「年齢は分かります。いつ花街で働くようになったのかも。これで調べられますか?」
「……花街で働き始めた時期は、どこまで具体的なのですか?」
一月に何人も、逆にゼロの月もあるが、花街に来る時がある。年齢と働き始めた時期だけで、特定できるとは限らない。
「年と月は分かります。これで分からないのであれば、該当する女性を全員呼んでもらってもかまいません」
「全員……店をまたがる可能性もあるわけですか」
そんな遊び方をする客は、バンディーが知る限り、これまでいない。過去にはいたのかもしれないが、今それを出来るかとなると、難しいと思う。
「かなりの金額が必要になります。女性が何人かによって、かなり変わってくるかと思いますが、ご予算の範囲はいかほどですか?」
レグルスは、出来る出来ないを考える前に、条件を全て聞き出そうと考えている。バンディーに比べると、花街について無知といえるレグルスだが、かなり難しい調整であることくらいは分かる。一つ一つを考えても意味はないと考えているのだ。
「……条件が整うのであれば、それなりの金額はお支払い出来ます」
「花街はぼったくりは致しません」
「その、ぼったなんとかというのは?」
客は「ぼったくり」という言葉を知らない。あえて使った意味があったというものだ。
「必要以上に高額な請求を行うことです。ただ、異例と言えるご要望ですので、定価があるとは思えません。二人だから二倍という風にはならないと思います」
「それは分かります」
「他に条件はございますか? なければ女性の年齢と働き始めた年月を教えてください。それで調べてみます。なんとか見つかりそうな場合は、さらに花街と全ての条件が整うかの交渉を行うという段取りではいかがでしょうか?」
これを言うレグルスは、依頼を引き受けることを決めている。最後まで実現出来るかは分からない。ただ、依頼主に強い興味が生まれたのだ。
「……分かりました」
「では、本日は手付金を。千コバンになりますが、今日お支払いになられますか? それとも後日、改めてとされますか?」
「その金額であれば今日支払っていきます」
客は懐から革袋を取り出すと、中から千コバン硬貨を取り出して、カウンターに置いた。
「では。領収書を用意いたしますので、少しお待ちください」
このレグルスの言葉を聞いて、バンディーが領収書を用意するために動き出す。
「手付金をお支払いいただきましたので、本日から調査を開始します。調査結果をお伝えするのに、どちらに伺えばよろしいですか?」
「……こちらから伺います。また来週」
「調査結果が出ていない可能性もございます」
客の返答はレグルスの予想通りのもの。素性を隠そうとしているのだ。住まいなど教えるはずがない。それでも、さらにレグルスは求めてみた。
「そうなったら、また翌週に来ます」
「承知しました。では、こちらが領収書になります。本来は契約書も作るのですが、署名出来ないのであれば意味はないと思いますが?」
「無用です」
依頼人は契約書を作らないことを許した。どうせ偽の署名なので契約書としての有効性などないだろうが、それでも口約束だけで信用出来るものなのか。
そういうことではないとレグルスは考えている。依頼が果たされることなく、さらに手付金が返ってこなくても相手は構わない。庶民の恰好をしているがそれは偽装で、千コバンを失ってもなんとも思わない身分なのだ。話の途中で分かっていたことだが、まだ分からないところもある。なぜ、ここまで素性を隠そうとするのか。それがレグルスがこの依頼を引き受けようと思った理由だ。