ミッテシュテンゲル侯爵家が保養地として使っている私有地。湖の畔に建てられたそれは正に別荘そのもの、それも驚くほど豪華な施設だった。
当たり前だ。それに驚いているのはアリシアくらいで、他の参加者は何の感動もない様子だ。王家と守護家の彼らにとって、これくらいの施設は驚くに値しない。ミッテシュテンゲル侯爵家のこれも、近場でちょっと楽しむ程度のもの。領地にある別荘はもっと大きく豪華な施設なのだ。
こんな所であれば泊まりでも良かったかも、なんて現金なことを考えたアリシアだったが、今更そんなことは言えない。それを喜ぶのはジークフリートくらいで、他の参加者には白い目で見られるのが分かりきっている。
「……人が多いな。いつもこんなに人を入れているのか?」
南方辺境伯家のタイラーは使用人の多さについては、意外に思っていた。アリシアには分からない疑問だ。
「いえ。季節外れですから、しばらく使っていないのでお掃除や整備の為に特別に多く人を入れました。私たちが到着する時には終わっていると聞いていたのに、ごめんなさい」
「謝る必要はない。想定外のことでもあったのだろう。うちの別荘でも良くあることだ。一番酷かったのは野獣に荒らされた時だな。掃除どころか、ほぼ建て直しになった」
「まあ、野獣というのはそんなに狂暴なものなのですね? 私は経験がなくて分からないわ」
「そのほうが良い……俺はそういう訳にはいかないか。野獣どころか猛獣を相手にすることになる」
これを言うタイラーはすでに非常勤騎士に進むことを決めている。大きな戦争が行われていれば戦場に向かうこともあるが、大抵は国内治安が仕事。その国内治安には猛獣討伐も含まれているのだ。
「猛獣で済めば良いさ。魔獣討伐だってあり得るよ?」
会話に入ってきた西方辺境伯家のクレイグも非常勤騎士の道へ進む。さらにキャリナローズもそうであることをアリシアは知っている。早く子供を生まなければならないはずのキャリナローズが、非常勤騎士になるという意味を、今のアリシアは考えてしまう。
「せっかくだから、それくらいの手柄は挙げたいね」
「それは本気で言っているのか?」
アリシアにとっては既知のことも、タイラーたちにとってはそうではない。王子であるジークフリートが非常勤騎士に本気でなる気だとは思っていなかった。
「国の為に働きたいと思うことは駄目なことかな?」
「同じ働くにしても働き方があると俺は考えている」
王子であるジークフリートが、何のために非常勤騎士として手柄を挙げようと考えているのか。国の為なんて言葉を信じるタイラーではない。
「私は第二王子だよ? 城でやれることは限られている」
「なるほど……」
跡継ぎ争いの為、をジークフリートは匂わせているが、それをそのまま受け取ることもタイラーはしない。それは今のところ何も言わないクレイグも同じ。国の為という口実での人気集め。王家への国民の支持を高める為だと二人は考えている。
そうであれば、クレイグも同じ道に進むことになる。王家、そして南方辺境伯家だけに名を成さしめるわけにはいかないのだ。
「もう一学年も半ば以上が過ぎた。残りの期間でもっと鍛えないと」
雰囲気が悪くなったことを感じたジークフリートは話題を転じた。こういうことには敏感なのだ。アリシアに対してだけが鈍感なのだとも言える。
「……俺たちの世代で何かを成し遂げたいけどな」
辺境伯家の人間としてではなく、一人の男として名を挙げたいという気持ちがタイラーにはある。彼が非常勤騎士になろうと考えたのも、その気持ちからなのだ。
「この四人、いや、失礼、六人でね」
「クレイグ殿、その失礼は誰に対してかしら?」
最初にクレイグは誰を外したのか。聞かなくても分かっている。自分とアリシアだ。だが、同じ守護家である自分を数に入れられないことにサマンサアンは納得できない。一言言わないと気が済まない。
「サマンサアン殿は厳しいね。そこは聞かないで終わらせるところでしょ?」
「では、答えは聞かないでおくわ」
追及することはしない。自分が外されたのは明らか。それをはっきりと言葉にされても屈辱を感じるだけだ。
「ありがとう。何かと言っても魔獣討伐以上のものはあるかな?」
「あるだろ? 王国は国内にもいくつもの火種を抱えている。それを落ち着かせるのも大事なことだ」
対外戦争は順調で国内は平穏、と言える状況ではあるが、何も問題がないわけではない。特に大きな問題は、王国に併合された旧占領国の中でも反抗的な貴族家、そして少数民族。二つを分けて考えるのはアルデバラン王国の見方であって、少数民族と呼ばれている人たちも、大きな戦争がなかっただけで、自分たちの領域が侵されていると考えている。どちらも侵略者に対しての反抗心を抱いている勢力だ。
「……全てを平定しようと思えば、非常勤騎士というわけにはいかないね?」
「それは分かっている。さすがに全てを、なんてことは考えていない。一つを平定するのに、戦いは何年も続くだろうからな」
簡単に平定出来るような勢力であれば、王国をとっくに動いている。腫物を刺激して、より強い痛みを受けるようなことにはなりたくない。こういった考えで警戒はしながらも放置しているのだ。
「戦わなければ駄目なのですか?」
「えっ?」「はっ?」
「国内を落ち着かせるのに、絶対に武力が必要ですか? 私は違うと思います」
アリシアは全てを武力で解決するようなやり方は認めたくない。自分がこの先、戦いの渦中に飛び込むことになるのは分かっている。それこそ、少数民族とも戦うことになる。だが、力だけで解決することが正しいことだと思えないのだ。
「理想論で現実の問題が解決するなら誰も苦労しない」
「理想で解決出来る可能性があるのであれば、あらゆる苦労を背負い込むべきです」
「……君、こういう性格だったのか?」
女性特有の甘い考え、などと受け取って一言で黙らせようと考えたタイラーだったが、アリシアには通用しなかった。彼女であれば、あっさりと理想論を引っ込める。タイラーはそう考えていたのだ。
アリシアはまだ本当の自分を知られていない。後に多くの人々の期待を背負う彼女の可能性を、彼らは知らないのだ。
「私はただ力だけでは解決できないこともあると考えているだけです。力で抑え込むだけでは、より反発する力もあります。相手に合わせて対応を変えることは理想論とは違います」
「……これは、参った。君の言う通りだ。深く考えることなく否定したことを謝る。すまなかった」
「いえ。私のほうこそ生意気を言って、申し訳ありません」
相手に下手に出られると、アリシアも恐縮してしまう。意外に素直な人。タイラーに対するこの感想も、偏見というものだ。高位貴族の子弟は傲慢だなんていうのが決めつけであることは、アリシアはすでに知っているはずなのだ。
「でも現実には話し合いでの解決は難しいよ? 彼らが求めているのは王国からの独立。それを認めるわけにはいかない」
二人のやり取りを聞いて、クレイグも話をする気になった。アリシアの考えに否定的な意見だが、議論しようと気持ちは持ったのだ。
「……本当にそこまでのことを考えているのでしょうか?」
「王国の支配を受け入れないというのはそういうことじゃない?」
「そうだと思います。でも、支配の方法というものがあるのではないですか? まったく異なる文化、風習を持つ人たちに王国のそれを無理やり押し付けては、その人たちはアイデン、いえ、自分たちの存在そのものを否定されていると感じるのかもしれません」
これは全て自分で考えたことではない。こういう少数民族がこの世界に存在することをゲーム知識として知っていたのだ。それを彼らに分かるように説明しようとしているのだ。
「文化、風習を認める……それで支配したことになるのかな?」
「王国が求めるものは何でしょうか? 忠誠心? それとも税金? あとは何があるのでしょう?」
「なるほどね。まず第一に静かに暮らしてくれること。その次が、その少数民族から、彼らが暮らす土地からしか手に入れられない物の交易。ここまでで我慢出来れば、彼らが何語を話そうが、何を信じようが関係ないか」
完全支配。アルデバラン王国民としての完全同化。そんなものを求めるから難しいことになる。必要なことを絞り込めば、妥協する余地はある。王国が妥協すれば、相手も折れるかもしれない。アリシアの説明にクレイグは納得した。
「アリシア……君は?」
そんなやり取りに、ここにいる誰よりも驚いているのはジークフリートだった。アリシアは美しい外見を持つだけでなく、武の才能もある。それだけで十分であったのに、このような政治向きの話まで出来る。しかも相手は守護家の二人、それなりに教育を受けている二人なのだ。
「あ、あの、話題を変えましょうか?」
ジークフリートの反応を見て、少し調子に乗って話し過ぎたと思ったアリシア。議論は止めて、別の、もっと普通の話題に変えようと思った、のだが。
「いや、続けよう。興味深い話だ。戦う相手によって作戦を変えるのは当たり前のこと。そうであるのに、少数民族相手にはそう考えられなかった。戦うという前提にとらわれていた俺は馬鹿だ」
タイラーがそれを許さなかった。実はこの手の話題に彼らは飢えている。格上の彼ら相手に正面から議論を戦わせる相手は学院にはいない。彼ら同士がそういう相手なのだが、意識して話す機会を避けてきた。その結果、彼らにとって学院生活はなんとなく物足りないものになっていたのだ。
この会話はそんな彼らを刺激する。彼らがこれまでよりも接点を持つきっかけになるのだ。
◆◆◆
政治向きの話が終わったあとは、食事を楽しみながら、普通に世間話。この時のほうがアリシアは苦しかった。子供の頃の思い出話などアリシアにはない。彼らには決して話せないリサとしての思い出しかないのだ。彼女が話せたのは、家が厳しくて外出はほとんどなかったこと。それに反発して、ムキになって体を鍛えていたという作り話くらい。救いはセリシール公爵家が貧しいことを皆が知っていること。別荘に遊びに行ったなんて、彼らにとっては当たり前の思い出話がなくても、納得してくれたことだ。
そんな時間が終わり、今は散策の時間。サマンサアンに誘われて、少し離れた場所になる花畑を見に行くところだ。これもまた試練とアリシアは思っていたのだが、訪れた試練は思ってたものと違っていた。
「アンさん! サマンサアンさん! どこにいますか!? 無事ですか!?」
アリシアはサマンサアンとはぐれてしまった。ただはぐれただけであれば、ここまで焦らない。アリシアが懸命にサマンサアンの無事を確認しようとしているのは、まさかの危険が襲い掛かってきたからだ。
「よりにもよって今、野獣が現れる?」
アリシアは野獣の群れに囲まれている。そう思っているのは勘違い。実際は野獣ではなく、猛獣に囲まれているのだ。
どちらであろうとサマンサアンには戦う力はないはず。はぐれてしまった彼女の無事を心配するアリシアだが、危険が迫っているのは彼女のほうだ。
ついに囲んでいるだけでなく、猛獣が襲い掛かってきた。それをなんとか躱すアリシア。すでに魔力を活性化して、戦闘体勢には入っているが。
「もう。素手でどうするの? お父さん、恨むから」
アリシアは武器を持っていない。素手でどうやって猛獣と戦えば良いのか。喧嘩を教えてくれなかった父親のマラカイへの恨み言を口にする。
「ちっ」
猛獣の動きは速い。それでもアリシアが対応できるくらいの動きではある。あくまでも一対一であれば。
「ち、ちょっと……これ、もしかして?」
猛獣は次々と、明らかに連携して襲い掛かってくる。野生の獣とは思えない動き。野生の動きなど知らないアリシアでもそう思う動きを見せている。
「ここまでやるの……?」
どうやらサマンサアンに嵌められた。ここでようやくアリシアはそれに気が付いた。不覚ではある。だがこの段階で虐めを通り越して傷害、それどころか命を狙ってくるとは、さすがに考えていなかった。まだ学院生活中で、ジークフリートとは何もない。そこまでの恨みを買う段階ではないと考えていたのだ。
「どうする? どうする、私?」
助けが来るまでなんとか粘るしかないが、いつ助けが来てくれるのか、そもそも来るのかも分からない。そうなれば、逃げ続けているだけでは状況は解決しない。なんとかして倒すしかないのだ。
「出来るか? いや、出来る! こんなところで死んでたまるか!」
実戦経験はほぼ皆無。悪党に絡まれた時くらいで、今襲ってきている獣は、明らかにその時よりも強敵。悪党にもやられ、なんとかレグルスに助けてもらったアリシアとしては、倒す自信など自然に湧いてこない。無理やり気持ちを掻き立てるしかない。
「ち、ちくしょう」
そうしても恐怖が心を支配する。そうなると動きは鈍ってしまう。きわどい場面が続けば、また恐怖は強まる。悪循環にアリシアははまっていく。そんな彼女の救いは。
「……ケルちゃん? 駄目よ、ケルちゃん! 逃げて!」
彼女を囲む猛獣の間をすり抜けてきたケルだった。だが小さなケルでは、猛獣たちの餌食にされるだけ。そう考えて逃げるようにケルに訴えたアリシアだが。
「はっ……?」
その心配は無用のものであることが、すぐに分かった。
「ケル、ちゃん?」
可愛い子犬だったケルの体は何倍にも大きくなり、頭は三つに増えていた。アリシアが知るケルベロスの姿そのものになった。
「グルルルル」
周囲を囲む猛獣を威嚇するケル。威嚇だけでは終わらない。まばたきするほどの一瞬で、すぐ目の前にいた猛獣の首根っこを噛み、振り回して放り投げてしまう。
「……アオの野郎」
何故、レグルスはケルを連れて行くように頼んできたのか。運動不足解消なんて嘘であることは今、明らかになった。どうしてだかは分からないが、自分の危険を予見して、護衛としてケルをつけたのだ。
その気持ちを嬉しく思う。だが、喜ぶだけで終わるわけにはいかないという想いも湧いてくる。
「……なめるなよ。私は守られるだけの女じゃない! 私は! 喧嘩屋マラカイの娘だぁっ!!」
怯える気持ちは消え去った。目の前の猛獣に向かって大きく足を踏み込み、拳を叩き込む。眩い閃光が空を切り裂き、猛獣が空を舞う。『白銀のアリシア』はゲーム設定の異名。その異名に相応しい輝きをアリシアは放っていた。
◆◆◆
見世物小屋くらいでしか役に立たない。一般にはそう言われている『猛獣使い』の能力だが、実際にはそうではない。一般の人が知ることのない裏の世界でも、その能力は活かされている。暗殺だ。野獣に襲われた不運な事故。こう処理された中のいくつかは、『猛獣使い』の仕業。それを知るのは、そういった暗殺者を雇う必要のある者しかいない。
「な、何なんだ。あの女、あの獣。聞いてねえぞ!」
アリシア暗殺を請け負った男は、道なき山中を必死で走っている。請け負った仕事は失敗した。それも大失敗だ。商売道具である猛獣は全滅に近い被害を受けた。失敗を悟った男が選んだのは逃げること。依頼主への報告からも。
報告になんて行ったら、どんな目に遭わされるか分からない。そう考えたのだ。
「ちくしょう。大損じゃないか」
従えていた猛獣の多くを失った。損害はこれだけではない。暗殺業を続けるには、また数を増やさなければならない。猛獣を手に入れる方法は特殊な市場で購入するか、野生の猛獣を捕らえること。野生の猛獣の捕獲は人の身だけでは危険すぎる。大怪我させることなく捕まえるのに必要なだけの別の猛獣を揃えなければならない。初めは市場で買うしかないのだ。
依頼料を手に入れられず、再建費用は、当たり前だが、自己負担。多大な出費を嘆く男だが、そんな場合ではない。そうであることを男は分かっていない。
「ぐっ……あ、ああ……」
腹部に激痛が走る。何が起きたのかはすぐに分かった。草むらから伸びた剣が、自分の腹に突き刺さっているのだ。
「……楽になれ」
男の耳にこの声は届いたのか。何の反応も出来ないまま、男の頭は体から離れ、地面を転がった。
「……速いな。もう追いついてきたのか?」
男を殺してすぐにレグルスの視界にエモンの姿が現れた。
「はあ……速くはないです。間に合いませんでした。こっちでしたか」
大きくため息をつき、自分の失敗を嘆くエモン。エモンは依頼主、ミッテシュテンゲル侯爵家の別荘の側で男を待ち構えていた。エモンがそっち。レグルスが真逆という配置だったのだ。
「自分が殺されるなんて想定していなかったのだろうな。猛獣使いなんて、常に自分は安全圏にいて、猛獣たちを働かせるだけだ」
「さすが。俺の読みはまだまだです」
どちらを選ぶかは二人で決めた。エモンは依頼主のところに逃げ込むと考え、レグルスはそれをせずに逃げるという意見だったのだ。
「嘘。それらしいことを言っただけ。不誠実なこいつの性格だな。とにかく終わり。帰るぞ」
「良いのですか?」
「この先は王子様が必死で守ってくれるだろ?」
猛獣に襲われたなんて事件があれば、ジークフリートはこれ以上、アリシアを危険な目に遭わせないように必死になるはずだ。自分の役目は終わったとレグルスは考えている。
「それで良いのですか?」
「良いんだ」
また小さくエモンは溜息をつくことになる。堂々と姿を現して、アリシアを喜ばせてあげれば良いのにとエモンは思うのだ。彼女の性格では素直に感謝を口にするかは分からないが、すごく嬉しいに決まっている。
だがレグルスはそれをしない。こうして距離を取る。それがエモンはじれったくて仕方がない。多くのことをレグルスから聞かされる立場になったエモンだが、未来のことまでは、アリシアがこの国の王妃になることまでは教えられていないのだ。教えられていても、エモンは同じ思いを抱くだろうが。