学院生活の状況が、アリシアにとっては良い方向に、一気に傾くことになった。アリシアを、ある意味、サマンサアンよりも強く敵視していたフランセスが、その態度を一変させたことがその理由だ。
自分を助けてくれたアリシアに恩を感じて、というのがフランセスが態度を変えた一番の理由だが、それだけでもない。その場に現れるはずのないレグルスが姿を見せたことは、常に彼がアリシアのことを気にかけていることを示している。アリシアが、レグルスが貸してくれた服をフランセスに渡すことなく自分で着たことは、彼女の好意、独占欲と言えるくらいの強い好意を表している。
アリシアがレグルスとジークフリート第二王子を天秤にかけているという話はデマ。レグルスが自分を口説いたのはアリシアを守る為。普段は決して見せることのない親し気な様子も目の当たりにし、二人は心の底から相手のことを想い合っているのだとフランセスは知った。
そうなるとアリシアを敵視している自分がフランセスは恥ずかしくなった。どう考えても邪魔者は自分のほう。二人の間に強引に割り込もうとしている自分のことを客観的に考えると、恥ずかしくなってしまったのだ。
ただ、だからといってフランセスは完全に身を引いたわけではない。第二夫人は第二夫人に相応しい態度で、そう決まったわけではまったくないのだが、二人に接するようになっただけだ。レグルスには以前のように強く自分をアピールすることなく、柔らかい態度で。アリシアに対しては正妻を立てるという意味で、一歩引いた立場で。
レグルスとアリシアはそこまでされる必要性は感じていないのだが、そのほうが好ましい態度であることは間違いない。フランセスと接する機会は確実に増えて行った。さらに三人が当たり前に話している様子を見た他の女子学生たちも、自分たちのこれまでの態度は間違いだったかもしれないと考え、特にアリシアへの態度を変えていく。敵であった人たちが味方に変わっていったのだ。
ではサマンサアンはどうかとなると、敵意は持ち続けているが、手足を減らした彼女に出来ることは減った。それだけではない。アリシアに、サマンサアンから見ると寝返ったとなる女子学生たちは自分の悪事を知っている。自分の命令でアリシアに嫌がらせをしていたなんて話を、ジークフリートにされてしまうことを恐れて、動きがとれなくなった。学院に平和が訪れた、はさすがに大げさだ。
「アリシア、今度、旅行に行かないか?」
変わらないのはジークフリート第二王子。アリシアへの積極的なアプローチが止まることはない。
「……旅行、ですか?」
「あっ、小旅行。日帰り旅行。郊外の保養地は知っているかな? 避暑地として人気な場所」
「いえ、知りません」
アリシアにとって郊外は鍛錬を行う場所。暑かろうが寒かろうが関係ない。
「それほど大きくはないけど湖があってね。施設もそれほど立派ではないけど、普通にある。今の季節に避暑というのは違うけど、それでもそれなりに気持ちが良い場所だ」
「はい……」
この人は、実は人の好さだけが取り柄の馬鹿なのではないか。こんな失礼な思いがアリシアの頭に浮かんだ。「それほど」を繰り返されて、誘われた女の子が喜ぶはずがない。さらに「それなりに気持ちが良い」という表現もどうかと思う。
「もちろん、他にも誘うけど……どうかな?」
「他にはどなたを誘われるのですか?」
正直、アリシアは乗り気ではない。その上、サマンサアンも同行なんてことになると、さらに気が重くなってしまう。
「誰が良いかな?」
「……ジークにお任せします」
聞かれても答えられるはずがない。サマンサアンを外しては、変な誤解を生むかもしれない。彼女以外も名を上げた人と上げなかった人、それぞれ思うところが出てくるはずだ。少し周囲が落ち着いたところで、そういう面倒ごとは勘弁してもらいたい。アリシアはこう思っている。
「そうか……では私のほうで考えてみる」
「場所については私にお任せいただけませんか?」
「えっ? あっ……アン」
アリシアが、ジークフリートを馬鹿と疑う理由がもう一つある。教室で話をしていれば、当たり前だが、サマンサアンの耳にも会話の内容が届く。婚約者がいる前で、別の女子を口説く、ジークフリートにはそういうつもりはないのかもしれないが、神経も理解出来ないのだ。
「郊外には我が家が保養地として使っている私有地がありますの」
「ミッテシュテンゲル侯爵家の私有地? 初めて聞いた」
「内輪だけで使う公にしていない場所です。でも、学院のご友人たちとの思い出作りの為であれば、父も使用を許してくれるでしょう」
「ご友人」と言う時にサマンサアンは、アリシアに笑顔を向けた。偏見かもしれないと分かっていても、アリシアには恐怖しか感じない笑みを。
「そうか……」
ジークフリートはサマンサアンの提案に、まだ乗り気ではない。アリシアとの距離を近づける目的の小旅行に、婚約者が同行する。それで目的が果たせるはずがない。
「アリシア、どうかしら? 私、もっと貴女のことを知りたいと思っているの。将来、もし、なんてことがあった時の為に、私たち仲良くしておくべきだわ」
「将来……もし……」
サマンサアンが何を言いたいのかアリシアは分からない。この言葉の意味をすぐに察することなんて出来ない。
「そうだね。二人ももっと仲良くなったほうが良いね」
未来を夢想しているジークフリートでなければ。
「では、決まりですわね? 早速、今晩、父に話しておきますわ」
「ああ、頼むよ」
これで、まさかの小旅行の開催と、アリシアの参加は決定。アリシア本人には何が何だか分からない状況だ。この状況の答えを教えてくれたのは。
「私とアリシアのようになりたいってことよ」
フランセスだった。
「それは……言いづらいけど、和解ってこと?」
「ちょっと違う。万一、アリシアが第二夫人になった時の為に、今のうちから立場をわきまえさせるってことよ。方針転換したのね? それに王子殿下もまんまと乗って、誘いを受け入れた。やっぱり頭の良い人だわ」
「…………」
色々な意味で言葉を失ってしまうアリシア。やはり、サマンサアンは怖い女性。そして仲良くなったフランセスも、あっさりとそれを見破る油断出来ない人だと、アリシアは思い知らされた。
◆◆◆
小旅行は二週間後には実現することになった。行く先はミッテシュテンゲル侯爵家の私有地。予約の必要はない。準備も全てミッテシュテンゲル侯爵家が手配してくれることになった。それは悪いと遠慮する人は、アリシアは内心そう思っていたが、誰もいない。結果としてミッテシュテンゲル侯爵家がホスト役ということになった。皆、準備を任せるのは当然のことという認識なのだ。
小旅行の参加者は、アリシアが思っていたよりも少数だった。以前開かれたパーティーとは異なり、今回の小旅行は私的なもの。王国は張り切る必要のないものなのだ。
ジークフリートとアリシア、サマンサアン。その三人にキャリナローズ、クレイグ、タイラーの同級生であり、守護家出身の三人が加わって、六人。決して仲が良いとは言えない三人が参加することにアリシアは驚いたが、私的なものであっても王家や同じ守護家からの誘いであれば礼儀として参加するものだと、レグルスに教えられた。
そのレグルスは今回は不参加。同じクラスの仲間だけという理由で外されたのだ。レグルスには文句はない。ジークフリートは喜び、アリシアを除く他の参加者も厄介者のレグルスがいないほうが気が楽。ということで、誘わないことに反対する人もいなかった。
そのレグルスの代わり、というのもおかしいのだが。
「その子犬、暴れないの?」
「大丈夫です。ケルは大人しいので」
アリシアはケルを連れて行くことになった。最近、自分自身もそうだが、ケルを郊外に連れていけていない。運動不足なので連れて行って欲しいとレグルスに頼まれたのだ。
「ケル……変な名前ね?」
こんなことを言いながらもキャリナローズはケルに興味津々の様子だ。
「正式にはケルベロスという名です。でも呼ぶには長いからケル」
「ふうん。まあ……可愛いけどね」
「そうですよね? ケルはとても可愛いのです」
ケルを可愛いと褒められて、嬉しそうなアリシア。満面の笑みを浮かべながら、ケルの頭を撫でている。彼女がケルとこれだけの時間を過ごすのは、まだリサであった時以来。久しぶりに可愛がれて、嬉しくて仕方がないのだ。
「……貴女も可愛いわね」
「えっ……?」
「そういう顔するのね? いつも、もっと澄ました顔をしているから、真面目そうな顔して、実は気難しいのだと思っていたわ」
キャリナローズが知るアリシアは、アリシア・セリシールを演じている彼女。本人は意識していないが、感情が普段の彼女より薄い。実際にどうかは関係なく、そう見える表情をしているのだ。
「そんな風でしたか……」
「まあ、大きな声では言えないけど、色々あったみたいだからね」
キャリナローズもアリシアへの虐めについては知っていた。同じ教室にいては、興味がなくても、分かる。ただ、それだけではないのは。「大きな声で言えない」というキャリナローズの言葉で分かる。虐めの背後に誰がいるか知っていることを、その言葉が示している。
「……私、そんなに虐めたくなる顔していますか?」
「はっ?」
「入学してから友達が出来なくて……最近はようやく友達と呼べる人が出来ましたけど」
アリシアにとって友人と言える存在は、フランセスくらい。普通に話が出来る同級生は他にもいるが、親しいと言える関係ではないのだ。
「別に良いでしょ? 私だっていないわ」
「そうなのですか?」
「……友達でしょ? 必要ないじゃない」
キャリナローズにも友人と言えるような存在はいない。東方辺境伯家令嬢である彼女に、遠慮なく話せる同級生などいない。同格である今日の参加者たちは、家同士が冷戦状態。仲良くなれるような立場ではない。
「必要です。友達がいると日常が楽しくなります」
「……楽しい日常なんて必要ないわ」
「どうしてそう思うのですか?」
キャリナローズの言葉を聞いて、アリシアの顔が曇る。楽しさを拒否する理由がアリシアには分からない。分からないことが、心を沈ませる。
「貴女には関係ない」
「そうかもしれません。でも……キャリナローズさんと似た考えの人がいます。私はその人のことを理解したいのに理解出来なくて……なんとかしたいのに、何もしてあげられなくて……」
レグルスと自分の心は繋がっている。アリシアにはその自信がある。だが、レグルスの考えがアリシアには分からない。人生を諦めてしまっているように時折感じ、寂しくなってしまうのだ。
「それって……まさか、レグルスのこと?」
アリシアは自分には友人はいないと言った。そんな彼女が理解したいと思う相手、何かしてあげたいと思う相手は誰かと考えれば、婚約者のレグルスということになる。普通は。ただキャリナローズはレグルスを普通とは思えない。
「そうです」
「……あいつと似ているって侮辱なのだけど?」
「そう思うのは皆さんが、彼のことを知らないからです。私は皆さんが知る彼を知りません。でも、今の彼を一番知っているのは私だと思います」
過去のレグルスに問題があったことはアリシアも知っている。問題があったといっても、かなりの問題児だったという程度のこと。そんなことはアリシアのレグルス評にまったく影響を与えない。アリシアの知るレグルスは、周りが思っているような存在ではないのだ。
「……貴女、彼の事件を知らないの?」
「知っています。その上で、皆さんは彼を知らないと言っています」
レグルスが起こした殺人事件。その原因をアリシアは知っている。三桁の人を殺すのは異常だと思う。だが、そこまでの怒りを、恨みを、自分の家族を殺した相手に持ったレグルスを、完全には否定出来ないのだ。
「……何か事情があった、か。それが私の耳には届かない。そういうことね」
「…………」
このキャリナローズの言葉を聞いて、アリシアは話す相手を間違えたことに気が付いた。東方辺境伯家であれば、事件の真相を調べ上げてしまうのではないか。それでは両親の死が何の意味もないものになってしまう。
「大丈夫。私は彼に興味はないから。ああ、でも貴女の話を聞いて、少しだけ興味は湧いたか。それでも、貴女のほうが面白そう」
「私、ですか?」
「可愛い子。そうやって表情をコロコロ変える貴女のほうが、普段の貴女よりも遥かに魅力的ね」
「……あ、ありがとうございます」
これはもしかして、キャリナローズはあちらの人ということか。そんな設定がゲームにあったか。アリシアの頭の中は混乱している。自分はR18の恋愛ゲームに転生したわけではないよね、と少し怯えている。
「貴女って……」
アリシアの反応がキャリナローズは気になった。他の女の子はこういうことを言っても、褒められていると普通に受け取って喜ぶ。照れる子もいる。だが、アリシアには怯えが見える。同性の自分の誉め言葉にアリシアは他の子が見せない反応を見せている。
「……知っている?」
「何をですか?」
「私には兄弟がいないの。だから私は出来るだけ早く結婚して、跡継ぎを生まなければならないの。でも良い男がいなくて。誰か知らない?」
キャリナローズには兄弟がいない。では彼女が跡継ぎに、とはならない。この世界では女性が当主になることなど、よほど特殊な事情がない限り、認められない。彼女は自分の父親の次の代を、男の子を生まなければならない。それも出来るだけ早く。父親が元気なうちに、最低でも成人、出来ればもっと大人に成長している為に。
「……キャリナローズさんが望まない限り、どのような男性も良い人にはならないと思います」
結婚なんてキャリナローズは望んでいない。アリシアにはそれが分かった。
「……そうね。好きになった人が良い男。それは分かる。でもそれが許されないことは貴女も知っているはずよ?」
アリシアがどういう意図で、それを言ったのかキャリナローズには分からない。分からないが、返す言葉はこういうものしかない。当たり前の返しだ。
「誰もが、誰とでも恋愛出来る世界は……難しいですか……」
自由恋愛は許されない。相手が相応しい家の人であれば良い。だが、そうである可能性は高くない。ただ爵位が合っていれば良いというだけでもない。貴族家の婚姻は政治、外交なのだ。
まだそんな状況であるのに、さらに進歩的な恋愛なんて認められるはずがない。アリシアが知る、このゲームにはそういう設定はないはずなのだ。
「……難しいというか……夢物語ね……」
夢物語と言ったが、夢見ても辛くなるだけ。決して現実にはならないことが分かっているのだから。叶うことのない希望は、心に虚しさを残すだけであることを、キャリナローズは知っている。
そしてレグルスも、現実の非情さに何度も心を打ち砕かれている。アリシアが二人を似ていると感じたのは、そういうところなのだ。