物語が始まるとすぐに、アリシア・セリシールは苛めを受けることになる。名家ではあるが貧乏貴族家の出であるアリシアが、ジークフリート第二王子と急接近したことを妬んだ女子学生たちの仕業だ。さらにその彼女たちを裏で操っているのはサマンサアン。動機は他の女子学生たちと同じだ。自分の婚約者に近づくアリシアが目障りだから。
アリシアにとっては辛い日常が続くことになる。これがゲームでの設定なのだが、今のアリシアは別のことで辛い想いを抱いている。
両親の死。その事実だけでなく、アリシアはその死の裏にある真実を知った。レグルスがそれを教えてくれた。
ようやくレグルスは話をする機会を作ってくれた。聞きたいことは山ほどあった。だがアリシアはその全てを聞くことは出来なかった。
「お前の両親を殺したのはブラックバーン家だ。お前の両親だけでなく、同い年くらいの女の子も殺されている。お前として。この意味は分かるな? 二度と実家に近づくな。ブラックバーン家にも、俺にも。両親の死にわずかでも意味を持たせたいのであれば」
レグルスはこれだけを、アリシアの心をこれ以上ないほどに動揺させるこの話だけをして、去って行った。その彼を、彼女は引き留めることが出来なかった。頭の中がグチャグチャでそれどころではなかったのだ。
今も頭の中は整理出来ていない。レグルスが告げた言葉の意味は理解出来ている。自分の両親が殺されたのは、平民のリサという存在を消す為。アリシア・セリシールの真実の過去を消し去る為だ。北方辺境伯家というアルデバラン王国貴族の頂点に立つ家に嫁ぐに相応しい身分。セリシール公爵家の養女になったのも、両親が殺されたのも、その為。
アリシアはブラックバーン家を恨む、という単純な気持ちにはならなかった。アリシア・セリシールを作り上げたのはゲーム。ゲーム主人公として転生した自分のせいで、両親は殺されたという思いも生まれたのだ。
レグルスにとって想定外の感情だ。アリシアが未来を知っていることをレグルスは知っている。だが、それがゲーム知識であることなど分かるはずがない。同じ転生者であってもレグルスは、あくまでもこの世界の人間。異世界のゲームというものを知らないのだ。
アリシアは自分が犯した罪に、自分にはどうにも出来ない罪であることは分かっていても、思い悩んでいる。両親の死をどう受け入れれば良いのか、分からないでいる。
「……アリシア……もしかして、その、知ってしまったのかな?」
一晩中泣き続けたアリシアの目は腫れてしまっている。それを見れば、何か彼女にとって悲しくなるような出来事があったのは誰でも分かる。
ただジークフリート第二王子は、その理由を勘違いしている。
「……何のことでしょうか?」
ジークフリートが勘違いしていることは、アリシアにはすぐに分かった。アリシアに本当の両親がいることなど、ジークフリートが知っているはずがない。実際には可能性はなくはないが、アリシアはそう思った。
「レグルスの……犯した罪のこと」
「…………」
両親のことなど知らないはず。そうであるのに、ジークフリートの言葉はそれを知っていることを示している。と思うったのは、今度はアリシアの勘違い。ジークフリートが言っているレグルスの罪は別のことだ。
「……やはりそうか……婚約者が人殺しだったなんて知れば、それは悲しいだろうね?」
「…………」
さらにジークフリートは真実を知っていると思われる言葉を口にする。王子ともなると、このような真実も知る立場にあるのか。アリシアはこう思った。
「しかも百人を超える大量殺人なんて……アリシア、私に出来ることであれば何でもする。遠慮なく頼って欲しい」
ただ続く言葉は、お互いの勘違いを気づかせるものだ。
「大量殺人、ですか?」
「……もしかして、この話ではなかった? レグルスが平民を百人以上殺したという話を聞いたのではない?」
ここでジークフリートも自分の勘違いに気が付いた様子を見せる。
「……どうして、そんなことに?」
ジークフリートの話は、一時的にアリシアに両親の死の衝撃を忘れさせた。レグルスが百人を超える平民を殺したという衝撃の事実が、そうさせた。
「質の悪い者たちと揉めた結果だと聞いている。トラブルがあったとしても、さすがに度を過ぎているね。多くの人を殺す理由として、認められるものではない」
「…………」
なんらかのトラブルがあったとしても、百人を超える人を殺すなど異常なことだとアリシアも思う。だが、彼女はジークフリートと違い、どうしてレグルスがそのような真似をしたのかを考えた。彼女が知る彼はそんな真似をする人ではない。だが、まさにレグルス・ブラックバーンの所業だとも言える。
ゲームが設定通りに進んでいる。アリシアの頭にはこの考えが浮かんでいる。
「アリシア。出来ることは何でもするつもりだ。だから、遠慮なく私を頼って欲しい」
またジークフリートは自分を頼るように言ってきた。その真意はどこにあるのか。ゲームのことを考えたことで、アリシアの心は冷静さを取り戻した。あくまでも一時的に立ち直っただけであっても。
「君には幸せになる権利がある」
もし自分がゲームストーリーを知らないアリシア・セリシールであれば、レグルスの所業を知って、どう思うだろうかと彼女は考えている。大量殺人を行った人間と結婚なんてしたくない。こう思うのが普通だ。
ジークフリートは自分を頼れと言ってきている。何を頼るのかと考えた。レグルスとの婚約を解消したい。これを頼むのだろうと思った。
そうして悪であるレグルスと別れ、ジークフリートと結ばれることになるのだろうと彼女は思った。それがヒロインであるアリシア・セリシールの選択なのだ。
では彼女の選択はどのようなものになるのか。結論は出ない。彼女はジークフリートの言葉に、何も返すことなく、沈黙を守った。
◆◆◆
彼女はアリシア・ブラックバーンとしてゲーム世界に転生した。転生世界の主人公として、ヒロインとして生きていくことになる。待っている未来は、この世界での強国アルデバラン王国の王妃。幸運な転生だった。
転生し、間違いなく自分がこの世界の主人公であると確信出来た時、彼女はその幸運を大いに喜んだ。赤い月が夜空に浮かんでいる日だった。
あの日以来、赤い月を見ることはない。当然だ。赤い月は三百年に一度の出来事。生きている間に二度見ることなど出来るはずがない。
今日も夜空に浮かんでいるのは普通の月。そうであっても美しい月を眺めるのは悪くない。心に広がっていた悲しみが、わずかではあるが、薄れる気がした。
だが夜空から視線を地面に移せば、すぐにまた悲しみが強くなる。物言わぬ墓石は、そんな彼女を慰めてはくれない。
「……花。そういえば、この前もあったかな?」
わずかな慰めは墓に添えられている花。誰かが亡くなった両親を思ってくれている証だ。
「……ごめんなさい。今日を最後にするね」
もうここに来るのは最後にしようとアリシアは考えている。レグルスの言葉、「両親の死にわずかでも意味を持たせたいのであれば」の意味を考えた結果だ。
リサとしての過去を消し去り、アリシア・セリシールとして生きる。そうでなければ、両親の死はなんの意味もないものになってしまう。それは駄目だとアリシアは考えた。
「リサであった私。さようなら」
リサとしての過去に別れを告げる。これが彼女の選択。悩みに悩んで出した結論、のはずだ。それを声に出す彼女には、まだ無意識の迷いがある。自分に言いきかせる為に、声に出す必要があった。
立ち去ろうにも足が動いてくれない。本当の気持ちが、彼女が体を動かすことを許さない。涙が、また涙が零れてしまう。「ここに居たい」という思いを叫びたくなってしまう。
「おや? お前さん、どうしてここに?」
そんな彼女にかけられた声。
「…………」
自分を知っている人の言葉。それにアリシアは反応出来なかった。
「……リサは死んだはずだね。じゃあ、お前さんは誰だい?」
「……私は……従姉です」
「おや? 親戚がいたのかい? それはアオが喜ぶね。天涯孤独で可哀そうだと思っていたけど、それは良かった。本当に良かった」
声を掛けてきた女性、彼女も知る近所のお婆さんは、あっさりと嘘に騙されてくれた。彼女を親戚だと信じて、とても喜んでいる。
「毎日毎日、花を摘んできて墓に供えているアオを見ていると不憫で不憫で。涙を堪えられないよ」
「……アオが花を?」
「ああ、そうだよ。家族が亡くなってから毎日さ。もうどれくらい経つかね? 歳取ると月日の経過が分からなくてね」
老婆の話を聞いて、アリシアが涙を堪えられなくなった。両親が亡くなってからずっと彼はお墓に花を添えてくれている。家族の死を悲しんでくれている。彼女の知る彼が、老婆の話の中にいる。
「そのアオは?」
「家にいないのかい? だったら、花街じゃないかね? 夕方出かけている時は、大抵が花街に行っているはずだよ」
「花街……分かった。ありがとう」
花街に行くと彼女は決めた。迷いなどない。彼に会いたい。その想いが抑えられなかった。老婆の話を聞いて「アオはアオ」というリキの言葉が、心の中にはっきりと思い出された。
◆◆◆
大木戸橋を渡って花街に入る。学院の制服であるマントをまとい、フードで顔を隠して。そんな彼女を気にする人はいない。女の子が一人で何を、なんて考える人はごく少数だ。花街で働いている人たちであれば、「ああ、また新しい女の子が花街にやってきた」と思って、「どこの店だろう」くらいまでを考えてそれで終わり。若い女の子が花街を歩いているなんてことは珍しくないのだ。もし、王立中央学院の制服を知っている人がいれば、疑問を持つこともあるだろうが、それを知る人は花街には滅多にいるものではなく、さらにそこまで注意深く歩く人を見ている人となると皆無だ。
彼女が向かっているのは、かつて訪れたことがある茶屋。そこしか彼女は知らない。彼がそこにいなくても、どこにいるか聞けば教えてくれるだろうという考えもある。
花街の賑やかさは、以前、来た時と変わらない。心を沸き立たせてくれる。両親との思い出は、そんな心に水を差すものだが、それでも懐かしさが少し勝り、彼女の心を温めてくれた。
もうすぐ目的地の茶屋。彼女の足を止める言葉が聞こえたのは、そう思った時だった。
「早くしねえと終わっちまうぞ!」
「分かっているよ!」
「てめえがグズグズしているせいで、ザックとアオの喧嘩を見損ねちまう! 前回は接戦だった! 今回も絶対に面白え喧嘩になるのに!」
「まだ終わったと決まってねえだろ!? 文句ばかり言ってねえで、お前こそ急げ」
花街の客と思われる男二人の会話。それが彼女に彼の居場所を教えてくれた。二人の後を追いかける彼女。途中でどこに向かっているか分かった。
先にある広場。花街の喧嘩はそこで行われる。父親のマラカイが助っ人した喧嘩もそこで行われた。彼女はそれを見学しているのだ。
少し進むと歓声が聞こえてきた。広場はかなりの盛り上がりであることが分かる。さらに足を速める。聞こえてきたのは。
「アオ! 行けえ!」
「ザック! ガキに負けてんじゃねえぞ!」
「二代! ザックになんか負けんな! 今日こそ勝てっ!」
アオと、おそらくは対戦相手であろうザックという名の人を応援する声だった。アオがいる。彼女は、何故か胸が高鳴るのを感じた。
「アオっ!! 行けえぇっ!!」
どうやらアオには熱い声援を送ってくれる人がいる。相手のザックを応援する声もあるが、感じる熱意と声の数はアオへの応援のほうが圧倒的だ。
どんな喧嘩が行われているのか。早くそれを知りたいと彼女は思った。アオが、これだけ人々を熱狂させているのは何故なのか。それを知りたいと思った。
ようやく見えてきたアオの姿。
「あっ……」
思わず彼女の口から声が漏れる。背中を向けているアオ。その前には、地面に倒れている男性の姿が見えた。
「……勝った! 俺の勝ちだぁ!!」
空に向かって拳を突き上げ、勝利を宣言するアオ。まとっている羽織が風にたなびいている。その羽織の背中には『二代 胆勇無双』の文字。その意味が、彼女には良く分かる。アオは、喧嘩屋マラカイの後を継いだのだ。
「よっ! 二代っ!!」
「でかした、アオ!」
「アオ、てめえのせいで大損だ! でも、良い喧嘩だったぞ!」
花街の花は美女と喧嘩。両親に教えられた言葉が胸に染みる。アオは、花街の花となっていた。亡くなった父親の代わりに。
観衆の声に応えて、何度も拳を突き上げているアオ。照れ屋の彼らしくない行動だが。
「……アオだ……アオだ!」
紛れもなくアオは、彼女の良く知る、彼女が大好きなアオだった。アオに再会出来た喜びに彼女の心は震え、我を忘れて駆け出させた。
「アオ!!」
「えっ……おわっ!」
勢い良く飛び込んできた彼女を、咄嗟に抱きかかえたアオだったが、完全に受け止めることが出来ずに地面に倒れてしまう。激しい喧嘩の直後で弱っているのも、倒れてしまった原因だが。
「弱っ。鍛え方が足りないな」
彼女にとっては揶揄うネタでしかない。アオがアオであるように、彼女もアリシアでなくリサに戻っている。
「お前……やっぱり馬鹿だな」
「馬鹿って言うな!」
「馬鹿だろ? ここにはお前の顔を知っている人が沢山いる。そんな元気じゃあ、死人が化けて出たなんて思ってもらえないからな」
花街には彼女を知る人が少なくない。マラカイの娘としての彼女を知る人が。その花街で、多くの人たちが見ている前で、こんな派手な真似をしては、彼女が生きていることがバレてしまう。
「ふふ、その言い方。やっぱり、アオだ」
「何故、ここで笑う? いいからどけ。皆、見ているだろ?」
今の二人は、地面に倒れているアオの上に彼女が馬乗りになっている状態。いきなり現れた美少女とアオの関係性について、皆、興味津々といった様子だ。
アオに指摘されて、彼女も恥ずかしい状況であることに気付いて、慌てて立ち上がる。周囲の視線が、彼女に遅れて立ち上がったアオに集中する。
「……ああ……えっと……俺の恋人です。亡くなった妹に驚くほどそっくりで、それで俺から声を掛けました。付き合ってもらえて良かったです」
「「「おおおおっ」」」
視線に応えたアオの説明に、周囲からどよめきが起こる。
「……以上っ!」
誤魔化す為の嘘とはいえ、かなり恥ずかしいことを大勢に告白してしまったアオ。これ以上、周囲の視線に耐えきれず、彼女の手を引いて駆け出した。
それを見て、また周囲から大きなどよめきが起きたが、それを気にしている場合ではない。とにかく人目のないところに逃げること。それだけを考えて、二人は走った。しっかりと、お互いの手を握って――
「……なるほど、なるほど。大切な妹分を失ったアオのことを心配して、実家がそっくりな女性を探してくれて婚約まで成立させてくれたと……なるほど」
逃げ込んだのはハ組のニールのところ。桜太夫もいる店だ。顔見知りは大勢いても、頼れる相手はニールくらいしか思いつかなかったのだ。
「……そういうことで、お願いします」
アオがお願いしているのは、リサとアリシアが同一人物ではないという話を事実にしてもらうこと。彼女の顔を知る人が多い花街でも、あくまでも良く似た女の子に、強引ではあっても、してもらおうと考えたのだ。
「……分かった。ちなみに名は?」
「アリシア」
「では……花街ではアリスにしようか? 良いかな?」
アリシアは今の本名。花街では別の名が必要だとニールは考えた。だからといってリサというわけにはいかないので、さらに別の名だ。
「アリス……はい、それで」
アリシアからアリスになるのかと彼女は思った。アリスと聞いて思い浮かぶのは「鏡の国のアリス」。異世界に転生した自分には合っている名だとも思った。
「それとなく情報は広めておく。疑われないように、ゆっくりとなので、しばらくはアリスは顔を見せないほうが良いな。別の噂が先行してしまいそうだ」
「大丈夫です。基本、顔を出す必要はないので」
「それはそれで寂しくはあるが、まあ、仕方がないか」
アオの言葉に不満そうに頬を膨らませる彼女だが、文句を口に出すことはしない。ニールの言うことは理解出来る。アオの言葉も事実なのだ。
「では、ありがとうございました。アリシ、じゃなくてアリスか。アリスは、本当はこんな時間まで外出して良い身ではないので、今日はこれで帰ります」
「ああ、分かった」
ニールの応えを聞いて立ち上がる二人。その二人、ではなくアオに桜太夫が近づいてきた。
「汚れは綺麗に落ちなかったようだわ。置いていくなら、もう少し頑張ってもらうけど?」
手に持っているのはアオの羽織。元々は桜太夫がプレゼントした物だ。
「かまいません。喧嘩の汚れは勲章みたいなものですから」
「すっかり喧嘩屋ね。はい、袖」
アオの背中に回って、羽織を広げる桜太夫。慣れた様子で、後ろに伸ばされた腕に羽織の袖を通す。『二代 胆勇無双』の文字が、アリシアには眩しく感じられた。
かつて見た光景。だが母親の役を桜太夫が務めていることに、彼女の胸はざわついてしまう。
「では、アリス。また顔を出してね?」
「……はい。また」
桜太夫の大人の余裕。実際はそういうものではないのだが、今のアリシアにはそう感じられてしまう。アオは父マラカイの背中を追ってくれている。では母リーリエの背中を追うのは誰なのか。その位置にいるのは、どう考えても桜太夫。自分がその位置に立てないことが、彼女は寂しかった。
「……落ち込むな。お前に色気を期待しても無駄なのは皆、分かっているから」
「こ、この野郎……」
「それとも将来に期待か? でもな、少なくとも胸は……」
「変態! やっぱり、お前は変態だ! 最低っ!」
そんな寂しい気持ちを吹き飛ばしてくれるのは、やはり、アオだった。落ち込ませたのもアオだが。