王国中央学院は身分に関係なく誰でも入学出来る学校だ、というのは当然、建前。平民は、貴族の子弟のようにほぼ無条件で入学出来るわけではなく、一般入学試験に合格しなければならない。文字の読み書きも出来ない庶民の子が、試験に合格できるはずがないのだ。貴族の子弟以外で入学出来るのは、王国に仕えている文官の子や有力貴族家の上級使用人の子、あとは商家や富裕農家など子供に教育を受けさせることが出来る財力を持つ家の子くらいだ。
そうであるからといって庶民から不満の声などあがらない。勉強する時間が、学校に行く時間が無駄。少しでも働いて金を稼いでもらいたい。そう考える親が大多数なのだ。
現実を見れば、間違った考えではない。王国中央学院の履修コースは大きく文系と武系に分かれる。平民の子はほぼ全員が文系を選び、卒業後は親と同じように王国の文官になるか、貴族に仕えるか、家を継ぐかのいずれか。士官の伝手がない庶民の子が、奇跡的に試験に合格して入学出来ても、新たな道が開ける可能性は限りなく無に近い。
この世界の人々の多くは、生まれた時から将来が決まっている。どのような家に生まれるかが全て。主人公のアリシアは、例外中の例外ということだ。
「失礼だが、アリシア・セリシール殿?」
「はい。そうですが?」
入学初日、決められていた教室の席に座っていたアリシアに声をかけてきた男子学生がいた。
「初めまして。私はジークフリート。王国の第二王子です」
「えっ? は、はじめまして」
慌てて席を立って、頭をさげて礼をするアリシア。いきなり、ジークフリート第二王子に声をかけられるなど、まったくの想定外。他のことに気を取られていたこともあるが、かなり驚いている。
「先日、お城に来ていたそうだね?」
「……はい。王女殿下に招かれて、伺いました」
「私は予定があって参加出来なかった。挨拶出来なくて申し訳ない」
これは嘘。エリザベス王女がジークフリート第二王子に声をかけなかったのだ。エリザベス王女がレグルスへの思いを、あからさまにする相手はジュリアン第一王子、そしてレグルス本人だけ。先日、それにアリシアも加わったが、ジークフリート第二王子は違うのだ。
「いえ。謝罪して頂くようなことではございません。こうして王子殿下にお声を掛けて頂いただけで光栄です」
この状況でジークフリート第二王子とどう接するべきか、アリシアは悩んでいる。相手は将来の結婚相手。恋に落ちるはずの相手なのだ。
「学院ではそういう堅苦しいのは無用だよ? 私のことはジークで良い。君のことはアリシアと呼ばせてもらうよ」
「え……はい」
ジークと呼ぶことには躊躇いがある。アリシアと呼ぶと言われて「それは駄目」とは言えない。どう答えるべきか迷ったアリシアだが、了承を口にした。どうせ、そう呼び合うことになる。少し早まるくらいは良いかと考えたのだ。
「あまり学院のことは知らないのかな? さすがに身分に関係なく入学出来ることは知っているよね?」
「はい。知っています」
「学院で学んでいる間は、身分は関係ない。同級生に畏まって話をされても困るよね?」
ジークフリート第二王子は学院内での平等を保とうと考える人物。王子である彼がこういう考え方であるので、貴族家の生徒もそれに倣い、この学年は風通しの良い雰囲気になる。表向きは。
「そういうことですか。分かりました」
ジークフリート第二王子の気さくさは、自分だけに向ける特別な対応。アリシアはそれが勘違いだと分かって、少し恥ずかしくなった。
「では、私のことはアンと呼んで」
「えっ?」
そこにいきなり割り込んできた女子学生の声。
「サマンサアン。王子殿下、いえ、ジークの婚約者ですわ」
「…………」
それが悪役令嬢サマンサアンだと知って、呆然とするアリシア。サマンサアンの視線には、すでに嫉妬が込められている。さらに続く想定外の展開の早さにアリシアは動揺が収まらないでいる。
「何か?」
「いえ。では……アン。アリシアです。初めまして。これからよろしくお願いします」
敵との初めての出会い。この時を迎えて、今更だが、アリシアはひとつの事実に気が付いた。良く知っているはずの登場人物たちの顔を忘れていることを。何故だか分からないが、ゲームの映像の記憶が消えているのだ。
「アリシアは、レグルス殿の婚約者でしたわね?」
「はい。そうです」
「大変ね。よくご実家が許したものだわ」
「アン、それは……」
サマンサアンの言葉にジークフリート第二王子は苦い顔だ。初対面のアリシアに、そうでなくても、あえてこの場で言うことではないと思っている。
「……喜んでいましたけど?」
ただアリシアは、サマンサアンの言葉の意味が分からない。当然、ジークフリート第二王子が眉をひそめている理由も。
「もしかして、ご存じないの?」
「アン、そこまでだ。第三者がどうこう言うことではないよ」
「でも、ジーク。私はアリシアが可哀そうで」
同情などしていない。ジークフリート第二王子に近づいた、近づいたのはジークフリートのほうからだが、アリシアに悪意を向けているだけだ。
「あの……どのようなお話か分かりませんが、何かあるのであればレグルス様に直接お聞きします。レグルス様を見かけませんでしたか?」
教室に来てからずっとアリシアはレグルスの姿を探していた。だが、彼は一向に姿を現さない。どうしたのだろうと考えているところに、ジークフリート第二王子が話しかけてきたのだ。
「ああ……本当に知らないのか。レグルスはこのクラスにはいない。別のクラスだよ」
「別の……そうでしたか」
レグルスとはクラスが違っていた。ゲームでもそうだったかと考えたアリシアだが、思い出せなかった。
「クラスは違っても同じ学院に通っているのだから、いつでも会えるよ」
「アリシアが同じクラスに移れば良いのでは? お望みなら私から頼んであげますわ」
私とサマンサアンは言うが、実際にはミッテシュテンゲル侯爵家から学院に申し入れることになる。さらにそれに北方辺境伯家が同意するとなれば、要求を拒絶することは学院には出来ないはずだ。
「アン、そういうことは良くないね。この学院では私たちは一生徒に過ぎないのだよ?」
「……そうですわね。アリシアの気持ちを考えてのことでしたけど。ごめんなさい、アリシア」
「いえ……」
自分を置いて、勝手に話が進んだり、戻ったりしている。これがこの先ずっと続くとなると、かなり疲れる学院生活になりそうだとアリシアは思った。いっそのこと、こちらからお願いしてクラスを変えてもらおうかとも。
ジークフリート第二王子と距離が開くことになる可能性があるが、まだ心が固まっていない今のアリシアは、そういうことを気にしないのだ。
「アリシアには礼儀作法など色々と教えて欲しいわ」
「私なんて……人に教えることは出来ません」
「謙遜は無用よ。セリシール公爵家は作法には厳しいお家だと聞いていますわ。教官たちはきっと大変ね?」
アリシアは謙遜などしていない。セリシール公爵家が礼儀作法に煩い家であるのは事実だが、守護五家のひとつミッテシュテンゲル公爵家令嬢であるサマンサアンに教えることなど、あるはずがない。しかもアリシアのそれは一年ちょっとで身につけた程度のものなのだ。
「ああ……私は武系に進みますから」
「えっ……?」
「武系にも礼儀作法の授業があるのであれば別ですけど……あるのですか?」
「……私には分かりませんわ」
アリシアが武系に選択するなど、サマンサアンにとっては想定外のこと。礼儀作法について持ち上げて、ハードルを高くして、恥をかかせてやろうという目論見は失敗に終わることになる。
「私の記憶では、武系に礼儀作法の授業はないね。しかし、アリシアはどうして武系を選ぶのかな?」
「私は昔からお転婆で、両親を困らせておりました。おしとやかにしているよりも、体を動かしているほうが好きですので」
「そうだとしても……いや、本人の希望は尊重するべきだね? ただ武系は試験がある。合格出来ると良いね?」
「はい。頑張ります」
武系コースに進むには試験に合格しなければならない。難しい試験ではない。授業についていける体力があるか確かめる為だけの内容だ。ただ、普通の貴族令嬢は合格しない。幼少期は別にして、普段走ることも、長く歩くことさえない人たちがほとんどなのだ。
ジークフリート第二王子は、アリシアをその普通の貴族令嬢だと思っている。すぐに自分の認識が間違っていることが分かるが。彼にとっては喜ばしいことだ。
◆◆◆
アリシアとは別のクラスになったレグルス。そうなったのには訳がある。アリシアを避ける為にレグルスが働きかけたのではない。働きかけを行ったのは、多くの貴族家たちだ。レグルス・ブラックバーンと自家の子弟を同じクラスにして欲しくないという声が、堂々とか控えめにかはその家の力関係によるが、数多く王立中央学院に寄せられた結果だ。
「……なんか雰囲気悪くない?」
教室に入ったジュードは、なんとなく不穏な空気を感じている。嫌な視線を送ってくる者が何人もいるのだ。
「お前の殺気を感じているのだろ?」
「違うから」
レグルスも同じ空気を感じているが、それを気にする様子はない。他人からそういった目を向けられることには慣れている、というのもあるが、それだけではない。
「ジュード。言葉遣いに気を付けろ。今は公式の場だ」
ジュードの言葉遣いをオーウェンが注意する。これはもう彼の担当のようなものだ。オーウェン自身は公私で態度を変えることはない。そもそもレグルスの側にいる間は、常に公だと考えているのだ。
「今が?」
「学院にいる間はずっとだ。切り替えられないのであれば、ずっときちんとした態度でいろ」
「気を付けます。レグルス様、どうされますか?」
言葉遣いをすぐに改めるジュード。これも毎度のことだ。しばらくすれば元に戻ることになる。ジュードだけの問題ではない。レグルスがこういう改まった態度を嫌がっているのを、あからさまにするのが悪いのだ。
「別にどうもしない」
「ですが、なんだか気持ち悪くないですか?」
入学初日で悪意と受け取れる視線を向けられる。気分の良いものではない。ジュードはレグルスほど、こういうことに鈍感になれないのだ。
ただレグルスもまったく気にしていないわけではない。悪意を向けられることについてはどうでも良いが、その理由は、はっきりさせたいと思う。それによってその相手への対応を考えなければならない。
「……じゃあ、そろそろ聞いてみるか。おい! そこのお前!」
いきなり大声で教室にいる生徒に声をかけるレグルス。その途端、嫌な視線は怯えに変わった。
「お前! そこの僕は関係ありません、って、そっぽ向いているお前だ!」
続く言葉で、周りにいる生徒たちの動揺はさらに激しくなる。誰が呼ばれているのか。自分ではないことを皆が祈っている。
「……細かい特徴言うか? その前に素直にこっちに来たほうが良いと思うけどな?」
さらに脅しを言葉に込めるレグルス。ここまで来て、ようやく相手は観念した。呼ばれていた生徒は、ゆっくりとレグルスたちに向かって歩いてきた。
「……それで?」
さきほどとは反対に声を潜めて、その生徒に問いかけるレグルス。
「どうやらワ組との抗争の件が、生徒たちに知られているようです」
問いかけられた生徒は、レグルスの求める答えをすぐに返した。他人の振りをして、別行動をとっていたエモンなのだ。
「へえ……なるほどな。それで俺はこのクラスか」
普通であればレグルスはアリシアと同じ、彼のほうこそがアリシアのクラスになるはずなのだ。ジークフリート第二王子とサマンサアンだけでなく、他にも辺境伯家の子弟がいるクラスに。
だが、レグルスはそのクラスではなく、ここにいる。平民が圧倒的に多数のクラスに。
「おかしいと思います。平民の生徒が噂を知っているのですよ?」
「意図して流したのは間違いない。問題は誰がそれを行ったか。心当たりがあり過ぎて分からないな」
北方辺境伯家の公子である自分に嫌がらせをしようと思う者は少なくないはずだとレグルスは思う。他の守護家などはもっとも怪しい。
「もう少し調べてみます」
「ああ、頼む」
怯えた雰囲気を身にまとって、レグルスたちから離れて行くエモン。エモンは情報収集係。しばらくは、バレなければずっと、ブラックバーン家とは無関係を装う予定だ。
「……ここまでしますか」
この対応にオーウェンは少し呆れている。学院生活を送るだけ、とオーウェンは思っている、なのに素性を偽って、仲間を潜り込ませるなんてことは大げさだと思っているのだ。
「実際にすでに役に立った」
「確かにそうですが……」
「入学して初日に悪い噂を流されるんだものね? 良い家に生まれるってのも大変だ」
ジュードも、オーウェンとは少し考えは違うが、レグルスの対応に呆れている。学校に通うだけであるはずなのに、いきなり謀略の類だ。貴族の世界はろくでもないと思っている。
「こういうのを繰り返して、生き残ったのがお前の言う良い家ってことだ。仕方ないな」
政争に負けていればブラックバーン家は今の地位にいない。他の守護家も同じだ。正しいとは思わないが、強く非難する気持ちもレグルスにはない。自分自身も、具体的なことは忘れているが、同じようなことを過去に繰り返していたはずなのだ。
「参考までに教えてくれる? あんたを貶めて、何の得があるの?」
「ジュード。レグルス様だ」
「はいはい。っで?」
いちいち言い直す気には、もうジュードはなれない。オーウェンの注意を軽く流して、レグルスに答えを促した。
「それが分かれば、やった奴も分かるだろ?」
「もっと調べないと分からないか」
「もともと評判の悪い俺を、さらに貶める必要性。しかもあの件で。これはヒントだけどな」
レグルスの評判は元々、かなり悪い。北方辺境伯家の出来損ない。これはずっと前から言われていることだ。だが噂を流した人間は、同じ悪評でも、ワ組との抗争を選んだ。これが相手を突き止めるヒントになるとレグルスは考えている。
「……考えるのは任せる。僕の仕事は別にあるからね」
「だから、学院では殺せないからな?」
「それはどうかな? 初日からこの調子じゃあ、期待しても良さそうだけどね?」
「……やばい。否定できないかも」
この段階で、レグルスにとっては嫌がらせ程度のこととはいえ、謀略の類を仕掛けられた。まだ初日だというのに。こんな調子で学院生活が三年間続くと思うと、先が思いやられる。自分の人生は、そんな頻繁に何かが起きるようなものなのか。久しぶりに、記憶を失っていることを恨めしく思うレグルスだった。