花街の花は美女と喧嘩。その喧嘩が今日も行われている。ただ、今日の喧嘩は花とするには賑やかさが足りない。始まったばかりの時は、いつものように野次馬の歓声でそれなりに盛り上がっていたのだが、今は皆が固唾をのんで中央で戦う二人を見つめている。彼、レグルスと敵側の男のタイマンを。
「しつこいガキだな!? これで終わっちまえ!」
彼よりも遥かに大柄な男が、ほぼ真上から拳を振り下ろす。それを受けて前のめりに倒れそうになる彼だが、なんとか堪え、堪えるだけでなく低い姿勢から相手の脇腹に向かって、拳を振り上げていく。
「ごっ……こ、この野郎!」
それをまともに受けた男だが、すぐに反撃に移ってきた。力一杯振り上げた足を受けて、大きく後ろに吹き飛ぶ彼。
「どうだ!? 俺の勝ちだ!」
地面に仰向けに倒れた彼に向かって、勝利を宣言する男。
「……か、勝手に、決めるな」
だが彼はまた立ち上がってきた。美男子と評することが出来る彼の顔は、殴られた跡が腫れあがってボロボロ。かなりのダメージを受けている。
「……このガキ……さあ、来い! 次こそ決着つけてやる!」
対戦相手のほうも、少し彼よりもマシな程度で、ダメージは大きい。こんなはずではなかったのだ。男はかなりの喧嘩自慢で、負けられない喧嘩だということで大金で雇われている。子供に苦戦するなど予想外のことだ。
「ああ、望むところだ。勝つのは俺だけどな」
彼にとっても最強の敵。だが、ここで負けるわけにはいかない。彼にとって最強は、目指す背中はマカライ。こんなところで躓くわけにはいかないのだ。
「うおぉおおおおっ!!」
雄たけびをあげて、相手に突っ込んでいく彼。相手もそれを真正面から受け止めるつもりで、構えを取っている。二人の拳と拳が交差する。後ろに吹き飛んだのは、対戦相手のほうだ。
それを見て周囲からどよめきがあがる。彼の勝利、まさかの勝利を彼が手に入れたと思ったのだ、だが。
「…………うわあっ!?」
わずかの間の後、相手は声を上げて上体を起こしてきた。決着はまだ。観衆の喜びは束の間で終わった。
「……倒れてねえのか……とんでもないガキだな」
彼が目の前に立っているのを見て、男も立ち上がる。
「さあ、来い……おい? お~い?」
構えをとって声をかけた男だが、彼のほうは腕をだらりと下に降ろして、無防備な姿勢で突っ立っているだけ。
「……まさか……立ったまま、気絶してやがるのか?」
すぐ目の前に迫っても彼は動かない。男が軽くおでこを突くと、彼はゆっくりと仰向けに倒れて行った。男が思った通り、彼は立ったまま気絶していたのだ。
「なんて奴だ……」
子供だからと侮る気持ちは、とっくに消え失せている。だが、さらに男は彼に感心することになった。気絶しても倒れない。嘘みたいな意地に、素直に感動したのだ。
「……なるほどな。二代か……」
一部の者たちは彼を二代と呼んでいる。最強の喧嘩屋、マラカイの二代目という意味だ。それが男には気に入らなかった。ガキがマラカイの二代目を名乗るなんて許せないと思っていた。同じ喧嘩屋として、ポッと出のド新人にそんな呼ばれ方を許すわけにはいかないと思って、この喧嘩を引き受けたのだ。
「だが、まだまだだな。まだまだだが……今日のところは勝ちを譲ってやる。俺の負けだ」
男の敗北宣言。それを耳にした人々は、にわかに事態を把握できなかった。状況はどう見ても彼の負け。そのはずなのだ。
「おい!? お前、何を馬鹿なことを言っている!?」
真っ先に反応したのは男を雇った側。男が彼に負けを認めれば、彼ら全体の負け。そういう喧嘩になっていたのだ。
「馬鹿なって、負けたから負けたと言ったんだ」
「どうして負けになる!? 小僧はひっくり返っているじゃないか!?」
彼は地面に仰向けに倒れ、男は立って普通に話をしている。どう考えても勝ったのは男のほうだ。
「その前に俺は地面に倒れて気絶した。先に負けていたってことだ」
「そんな……気絶していたとしても、わずかな時間だろ?」
「そのわずかな時間で、こいつは俺にとどめを指せたかもしれない。そうされていたら俺は気絶から回復することなんて出来なかった」
男はこういうが、彼が同時に気絶していれば、実際に気絶していたのだが、とどめなんてさせない。やはり男の勝ちなのだが、そんな微妙な勝利など男は求めていない。そこまで自分が追い込まれたことで負けを認めているのだ。
「……そうだったという証拠はない」
「そうでなかった証拠もない。それで勝利を宣言しても、見ている奴らが納得しねえだろ?」
文句があるなら周りで見ていた者たちに判断を委ねればいい。出来るものなら。男はこう言っている。観客の多くは彼びいきだ。男が味方している側を嫌っているという言い方も出来る。判断を委ねれば、良くて引き分けというところだ。
「……大金を払って、このざまか?」
それは男を責めている者も分かっている。
「勝敗は時の運って言葉を知っているか? まあ、これに懲りたら二度と俺に頼まなければ良い。金払いの良い客だから残念だが、負けた俺に文句は言えねえからな」
「…………」
二度と頼みたいとは思わない。だが、頼まなければこの男は敵側に味方するかもしれない。選んだのは無言。無言でこの場から立ち去ることだった。
これで彼の側の勝利は確定。観衆は改めて、大喜びすることになった。
◆◆◆
静かな時間が流れる部屋。演奏も歌もない。酒瓶とグラスが軽く打ち合う音と、時折、会話の声がするだけの空間だ。賑やかな宴の場も楽しいが、これはこれで良い。その空間の中で、ナラズモ侯爵は思っている。
「……男の子って、こういうものなのですかね?」
そのナラさんに桜太夫が問いかける。彼女の視線は同じ部屋で寝ている彼に向いている。喧嘩の痕が生々しい顔で寝ている彼に。
「どうだろう? 私には分からんな。真面目な子供だったとは言わないが、ここまでの喧嘩なんて許される家ではなかった」
内心では彼の家はもっと許さないだろうと思っている。北方辺境伯家の人間が花街で喧嘩しているなんて、普通に考えれば、あり得ないことなのだ。
「勝手なことを言うものではないと分かっておりますけど……背中を追っているのかもしれませんね?」
「ああ……そうかもしれないな。そうであれば、悪いことではない」
マラカイの背中を追っているのであれば、喧嘩で大怪我するくらい小さな問題だとナラさんも思える。良い男だった。男の、おそらくは年上のナラさんが、そう思える男だったのだ。
「そうですね。悪いことではありません。でも……やめさせないといけません」
「怪我が心配か?」
「怪我で済めば良い、と思っております」
彼が相手をしているのはワ組。今、花街でもっとも力がある組で、次の親分になろうという相手だ。それだけであれば、まだ良いが、ワ組の組長ベージルは今の親分とは違う。非道なことを平気で行うという噂なのだ。
「……面倒なことになっているようだな?」
「ナラさんのお耳にまで?」
「親分選挙についての連絡が来た。その中身を知るだけで、どのような状況なのかは想像出来る」
本人の意思以外で親分が交代するという点で、すでに良くない状況であることは分かる。さらに客の投票は選ばれた上客だけなんてルールは、公平なものとは思えない。悪い変化であることはナラさんにはすぐに分かった。
「……花街は変わってしまいます」
「……私は、彼に花街を頼むと言われた。だが、それに応えることは出来そうにない」
花街に介入出来る力はナラさんにはない。ナラさんだけでなく、他の誰にも、国王であっても介入出来ないのだが、そこまでの事情は知らないナラさんとしては、自分の力のなさを情けなく思ってしまう。
「あの人がそんなことを……予見していたのですね?」
「彼でなくても分かっていたのではないか? 太夫もその一人だ」
「そうですね……花街で生きる者たちは皆、感じていました。その多くが悪い変化だと思っているというのに……」
事はその悪い方向に進んでいる。一部の者の欲が、花街を動かしている。それがどうにも、桜太夫には歯がゆい。皆の力をまとめられる人物がいれば。マラカイとリーリエがいればと思ってしまうのだ。
「……悪い変化だと思うなら、止めれば良い」
「アオ?」「起きたか?」
「……痛い……俺、負けたのか……」
気が付けばこんな場所で寝ていた。喧嘩の最中に気絶してしまったのだと、彼にはすぐに分かった。自分は負けたのだと思った。
「負けてはいないそうだ」
「負けていない?」
「相手のほうが、自分が先に気を失ったと言って負けを認めた。アオ個人としては、負けてはいないが、勝ってもいないというところだ」
喧嘩は勝ち。だが彼個人がそれに納得しないことは、ナラさんには分かっている。
「そうか……強かったな……本物って感じがした。まあ、そんな相手に惨敗しなかっただけ良しとするか」
負けても仕方がない。彼にとってそう思える相手だった。真正面からの殴り合いを挑んできた時点で、この男は本物、マラカイと同じかもしれないと彼は感じていたのだ。
「……ひとつ、個人的な興味から質問して良いか?」
「何?」
「勝とうと思えば勝てたのではないか? その年で、あれであれば、ある程度は学んでいるのでは?」
ナラさんの問いは「魔法を使えば勝てたのではないか」というもの。貴族で、しかも辺境伯家の人間であればすでに学んでいて当然。学校に入学する前に、魔法の基礎は身につけているのが普通なのだ。
「喧嘩で武器は持てない。そんな真似したら父さんに軽蔑される」
「そうか……そうだな」
彼はやはり父親の、気持ちの上での父親を意識して喧嘩をしている。最初から分かっていたことだが、それが確かめられた。
「……じゃあ、帰る。手当してくれてありがとう」
「もっとゆっくりしていけば良いじゃないの? まだ痛むのでしょ?」
「まだやることがあるから。これからが本番かな?」
「本番?」
この桜太夫の問いには答えることなく、彼は部屋を出ていく。彼にはまだやることがある。喧嘩は、もともとは純粋にマラカイへの憧れから始めたことだが、今は別の目的も加わっている。彼の思う通りに物事が動けば、その目的を果たす為の戦いが始まる。素手にこだわることのない戦いだ。
◆◆◆
この世界での街灯は魔道具が使われている。内壁内だけでも広大な王都を照らすだけの魔道具。その魔力量は膨大だ、などという設定はこの世界にはない。供給問題など存在せず、魔道具は常に夜道を照らしている。
ただ、街灯魔道具が使用する魔力量については考慮されていないものの、設置されているのは王都全体というわけではない。特に貧しい人たちが暮らす地区には、まったくと言って良いほど設置されていない。ただでさえ、物騒な地区を闇が覆うのだ。
彼が、今ではほぼ毎日寝泊まりしている家の周辺もそう。家の中を照らすランプも燃料代が勿体ないからと、どの家も点けないので、一帯が暗闇の中にある。
悪事を働こうという者にとっては好都合。盗む物のないこの辺りで泥棒を働こうなんて愚か者はいないが。
「……ここだ」
その闇の中を移動してやってきた者たち。泥棒ではないが、悪事を企んでいる者たちだ。
「怪我で満足に動けないはずだが、油断はするなよ」
悪党たちの目的は彼。夕方に行った喧嘩の傷が完全に癒えないままに花街を出て、家に帰って寝ているはずの彼だ。
「……行くぞ」
小声で合図をして、一斉に建物の中に入る男たち。五人もの男たちが同時に入るには、かなり狭い建物なのだが、そんなことは考えていないようだ。
うすぼんやりと見える盛り上がった布団。目的の彼であると思って、男の一人が灯りを点ける。他の男たちが次々と剣を抜く音が沈黙の部屋に流れた。
「えっ……う、うわぁああああっ!」
明るくなった部屋に男の叫び声が響き渡る。
「な、何だ!?」「化け物だ!?」
次々と大声で叫ぶ男たち。まさかの事態に大いに動揺している。それはそうだろう。子供が寝ているだけの部屋に入ったはずが、すぐ目の前で、三つの頭を持つ巨大な犬が牙をむいていたのだから。
狼狽する男たち。逃げ出そうと出口に向かったその背中に。
「ぐっ、あああああっ!」
剣が突き立つ。
「良いねえ、その声。これだよ、だから人殺しは止められない」
もがく男を見て、恍惚の表情を浮かべているのはジュード。ブラックバーン家の騎士で、今は彼に私的に雇われている男だ。
「一人で満足か? じゃあ、残りは俺が殺すぞ」
ジュードの横をすり抜け、男たちを追う彼。追いついた一人の背中から腕を前に回し、すぐにそれを横に払う。首から血しぶきをあげて地面に倒れていく男。
その時には、すでに彼は別の男に向かっていた。闇の中で揺らめく漆黒の影。男たちがそれを目にしているのかは分からない。見えていてもそれを気にする余裕などない。
「あのガキだ! 逃げる……なっ……あっ…………」
また一人、男が地面に倒れていく。これで三人。
「そんな……」
「引け! 逃げるぞ!」
五人の味方のうち、あっという間に三人が倒された。怪我で動けない子供を、ほぼ無抵抗の子供をなぶり殺しにして見せしめにする。そんな仕事のはずが、とんでもないことになった。
命大事と逃げ出すことに決めた残った二人、だが。
「逃げられるはずないだろ?」
背中を向けて駆け出した男たち。そんなことで彼から逃げられるはずがない。彼の追う足は、逃げる二人とは比べものにならないくらいに速い。魔法を使えない常人が逃れられるはずがない。
追いついた男の髪を掴み、力ずくで後ろに引き倒す彼。その男にとどめをさすのはジュードの役目、権利とも言う。男の胸に剣を突き立て、ゆっくりと体重をかけていく。
「や、止めろ! 止めてくれぇえええっ!」
男の歎願に意味などない。ジュードは男のそういう声を聞きたくて、時間をかけて殺そうとしたのだ。その声が聞けてしまえば、あとは。
「……この感触……人殺しって最高だぁ」
死の感触を確かめて終わり。男は絶命した。
「おや? 一人、逃がしたの?」
もう一人の男の姿、死体が見当たらない。彼が逃がしてしまったのだとジュードは思った。
「ああ。自分たちが狩る側から狩られる側に変わったことを伝える奴が必要だろ?」
「怖っ」
「まだまだ、これからだ。この先は、今回みたいな楽な戦いにはならないだろうから、そのつもりでいろ」
宣戦布告が終われば、敵もきちんと反撃の準備をした上で、戦いに臨んでくるはずだ。今回のような奇策が通じる可能性は低くなる。厳しい戦いになるはずだ。
だが彼はその厳しい戦いの開始を決断した。本来の人生が大きく動き出す前に、まず間違いなく生きている彼女が王都に戻ってくる前に、復讐は終わらせておかなければならない。自分だけの手で終わらせなければならないと考えているのだ。