桜太夫の行列と共に花街を歩くことになったナラズモ侯爵。道中の好奇の目は心に痛かった。花街の人々は、行列がいつもの太夫道中とは違うことを知っている。ナラズモ侯爵が花街を訪れた理由を知っているのだ。事情を知らない客を除いて、事の成り行きがどうなるかは今日の花街における最大の関心事。誰もが注目していた。
それを周囲の様子で知ったナラズモ侯爵の心に、また卑屈な感情が膨らんでしまう。晒し者にされているような状況なのだ。そうなるのも仕方がない。それに、それで良いのだ。実際に晒し者にされているのだから。
目的の茶屋に到着すると、知った顔が何人か、外に出て待っていた。茶屋の主人と使用人たちだ。ナラズモ侯爵は、なんとか気持ちを奮い立たせて前に出て、桜太夫に向けたと同じような態度で、彼らに向かって謝罪した。
その決着はどうなるのかと、頭を下げながら、心配していたのが。
「これは……どういうことだ?」
茶屋の中に引き入れられたと思ったら、宴会が始まっていた。
「頭を下げただけで許される。そんな甘い花街だと思いましたか?」
しかも隣に桜太夫が座っての宴会だ。
「……いや、そうは思っていなかったが……これは、どういう場なのだ?」
「茶屋の主人が一番喜ぶのはお金。ナラさんには、思いっきりお店にお金を落として頂きます。それで破産しようが、こちらは知ったこっちゃありませんよ」
「そういうことか……」
「ぼったくりは致しませんので、その点はご心配なく。花街は信用第一ですから」
謝罪の意味で大金をこの店で使う。それについては侯爵は文句はない。正規の料金でというなら、破産の心配も無用なはずだ。ただ心配、というより、不思議なのは桜太夫の雰囲気。事が起こる前よりも、なんとなく、親しみを感じるのだ。
「では、まずは一献」
「あ、いや、今日は酒は」
自分の酒癖の悪さを侯爵は自覚している。ここでまた酔っぱらって、とんでもない行いをしてしまうわけにはいかない。そう考えた。
「それはいけません。お酒の上での失敗を、お酒から逃げることで取り繕うのは違うと思いますよ?」
「酒から逃げる……そうかもしれないが……私の酒癖の悪さは昔からで……」
「……どうしても不安なら、こう考えたらどうですか? 信頼してくれた人を裏切ってはいけないと」
「それは……」
桜太夫が誰のことを言っているのかは分かる。感謝もしている。それでも侯爵は自信がない。酒癖の悪さを昔から。直せるものなら直したい。ずっとこう思ってきたが、飲んでしまうと駄目なのだ。自分を見失ってしまうのだ。
「……仕方ないですね。今はまだ無理でも、すぐに分かりますよ」
「何が分かるのだ?」
「答えを急がない。まずはゆるりとお過ごしください」
桜太夫のお付きの女性たちにより、音楽が奏でられる。落ち着いた雰囲気の音楽。侯爵も、何度も聞いたことがある、はずの音楽だ。
だが、心静かに音楽に耳を傾けるのは、実はこれが初めてのこと。演奏が始まる頃には、いつもすでに酔っていたのだ。まだ軽い酔いであった時もあっただろうが、演奏に意識を向けたことがなかった。それに侯爵は、今初めて気が付いた。
花街でしか聞くことの出来ない音楽。それをこれまで楽しむことをしてこなかったことを知った。
「……良い音色だ」
自然と演奏を褒める言葉が口から漏れ出る。それが聞こえたから、というわけではないのだが、女性たちの演奏に熱がこもる。穏やかだった音楽は、力強く、激しいものに変わる。弦が鳴る音ひとつひとつが心に響く。自分の心臓の音まで共鳴しているように感じられる。
やがて訪れた静寂の時。
「……素晴らしい! 見事な演奏だ!」
一拍遅れて、侯爵の演奏を絶賛する声が部屋に響いた。
「ありがとうございます。では盛り上がってまいりましたところで、さらに賑やかに」
今度は初手から力強い賑やかな演奏が始まる。激しいというのとは違う、聞いているだけで心が沸き立つような陽気な音楽だ。
さらに場を盛り上げるのは、マラカイ。羽織の両端を手で持ってピンと広げ、おどけた顔で踊り始めた。右へふらふら、左へふらふら。くるくると回ったかと思えば、どんと高く跳び上がる。凧を真似た、なんともお道化た踊りだ。
「おい! アオ、お前も盛り上げろ!」
「ええっ!? 俺の出番まだっ!」
マラカイは部屋の隅っこにいるアオにも参加するように言ってくる。
「出番は今だ! 良いから来い!」
さらに踊りに参加するように促された彼は、素直に前に出て、見様見真似で踊り始めた。
「これは……」
彼が何者か知っている侯爵にとっては、少し驚きの状況だ。パーティーで踊られるダンスとはまったく異なる、道化師のような踊りを、北方辺境伯の孫が大勢が見ている前で行っているのだ。
ただ当の本人は、恥ずかしがっている様子はなく、お道化た顔を見せて周囲を笑わせている。その様子を見て、侯爵の顔にも笑みが浮かんだ。
「いいぞ、アオ! さすが二代目!」
周囲も大喜びだ。
さらに、今度は彼が、桜太夫の付き人の、一番若い女の子二人を前に引き出していく。さすがに少し照れながらも、愛らしい顔に笑顔を浮かべて、踊る二人の女の子。本当に楽しんでいるのが見ていて分かる。見ている側も、女の子たちの微笑ましい様子に心が温かくなる。
「さあさ、ナラさん! さあさ、ナラさん!」
四人の掛け声が部屋に響く。侯爵を踊りに誘う声だ。
「では、ナラさん。いってらっしゃいませ」
さらに桜太夫に送り出す言葉を告げられ、侯爵は恥ずかしそうな笑みを浮かべて、前に出る。前に出てしまえば、照れている場合ではない。照れる気持ちはすぐに楽しさに変わる。周囲の笑い声が心を沸き立たせる。
「あっ、そらっ! それっ! あっ、それそれそれそれっ! あっ、そらっ! それっ! あっ、それそれそれそれっ!」
踊る五人をはやし立てる声が、周囲から投げられる。開け放たれた扉。あまりの賑やかさに、他の客まで見物しているのだ。
周囲の声に合わせて動く五人。どの顔にも笑顔が浮かんでいる。踊っている人々が心から楽しんでいれば、それを見ている人も楽しくなる。見ている人が楽しんでいれば、踊っているほうはもっと盛り上げようと頑張ってしまう。踊りながら侯爵は、それを感じていた。これまでの自分の過ちを知った。
「いよ~う! はっ!!」
最後の締めはマラカイ。彼の声に合わせて、事前に示し合わせたかのように五人はぴたりと動きを止めてみせた。
「いいぞ、いいぞ!」「お見事!」
拍手が鳴り響く。茶屋全体が大盛り上がりだ。
「……いやあ、疲れた。こんなに動いたのは、いつ以来だろう?」
女の子二人に手を引かれて、席に戻った侯爵。謝罪に来たことなど、すっかり忘れて、宴を楽しんでいる。これで良いのだ。侯爵も周りを楽しませているのだから。
「お疲れ様でした。冷たいお酒を用意しております」
「…………」
「嫌なお酒になるとお思いですか?」
「……いや、なるはずがない」
こんな楽しい宴の場で、どうして悪酔いするだろう。酔うという意味では侯爵はとっくに酔っている。この場の雰囲気に酔っているのだ。
グラスに注がれた冷えた酒を口に運ぶ侯爵。口に含んだ酒を、目をつむって、ゆっくりと喉に流し込んだ。
「……美味いな。本当に美味い酒だ」
好きな酒だが、こんな風にじっくりと味わったのはいつ以来か。いつから味わって飲むことを忘れてしまったのか。
「本日のお楽しみはまだこれから。ここから先は、ゆっくりとお楽しみくださいな」
「ああ」
また演奏が緩やかなものに変わる。それに合わせて踊り始めたのは、いつの間にか、きちんと着物に着替えた彼と、艶やかな着物が良く似合う美少女。
彼女が登場した瞬間にどよめきが上がった。周囲の人たちも初めて見る女の子。こんな美しい付き人が桜太夫にいたのかと驚いているが、これは勘違いだ。
「……彼女は?」
「私がお世話になった姉さんの娘です。花街に来てくれれば、間違いなく、一時代を作ることになるでしょうね」
「だろうな」
太夫になるのは当たり前。その上で、どれだけの高みに昇るのか。花街の一時代を築く、という桜太夫の言葉は現実になるだろうと侯爵も思った。
「あら、ひどい。私はもう眼中になしですか?」
「あっ、いや、将来の話だ。その前に桜太夫の時代がある」
「だと良いですけどね?」
二人の踊りは、この日の為に大慌てで覚えたもの。踊りそのものは拙いものだ。だが、そんなことは関係ない。見る者を問答無用に惹きつける魅力が彼女にはある。一緒に踊っている彼にもあると桜太夫は感じている。
時代を造るのはこういう人たち。二人の両親が選ばなかった道を歩んで欲しいと桜太夫は思った。望みが叶えられることなど、決してないことなど分かるはずがない。
「……今更だが、この場はどういうものなのだ? ただ謝罪の為に金を使うだけの場とは思えない」
「ナラさんの汚名返上の為の場ですよ。しかも、それを遥かに超えるものになるのは間違いのない場」
「遥かに超えるというのは?」
汚名返上はなんとなく分かる。華やかで楽しい宴を開く、実際には任せっきりだとしても、ことが、それに繋がるのだろうと。だが「それを遥かに超える」という桜太夫の言葉の意味は、侯爵には分からなかった。
「もうすぐ分かります。おかげで私一人がこの宴を楽しめていないのですよ?」
「それは?」
「今は二人の踊りを楽しみましょう」
「あ、ああ」
それを今話すつもりはない。桜太夫の気持ちを侯爵はきちんと読み取った。
意識を前で踊っている二人に向ける侯爵。驚くほどの美少女と踊っている彼。見ているだけで二人の親しさが分かる。お互いに相手の失敗をみつけては小さく舌を出しているのだ。
踊りの雰囲気を壊してしまう仕草なのだが、それはそれで見ている者の心を温めてくれる。外見だけであれば冷たさを感じさせるかもしれない二人に、親しみやすさをまとわせているのだ。
「……アオは……花街には良く来るのか?」
「たまに父親に連れられてきているみたいですね? 私自身は会うのはこれで二度目ですので、詳しいことは分かりません」
「父親と……」
次代の北方辺境伯も花街に遊びに来ているのかと思った侯爵だが。
「今回は家族総出で、ナラさんの為に動いています。良い縁をお持ちでしたね?」
「……家族総出?」
彼の父親の顔は良く知っている。それ以外の家族も、パーティーで見たことがある。親しい関係ではないが、いればすぐに分かるはずだと侯爵は思っている。
「さて、いよいよ、お母上の出番。お世話になった姉さんの演奏で踊るなんて、考えただけで心臓が止まりそうですよ」
「それは……」
領地にいるはずの母親がこの場に来られるはずがない。ようやく侯爵は自分が何か勘違い、実際に勘違いしているのは桜太夫のほうだが、していることに気が付いた。桜太夫が言う母親とは何者なのか。その登場に期待した侯爵だったが。
「…………」
その美しさに絶句することになった。あくまでも演奏するだけ。着物は華美なものではない。そういう役割は、たとえ夫の頼みであっても、彼女の母親が引き受けるはずがない。
だが、楽器を持って部屋に入ってきた母親は、とても美しかった。歩くだけで、その所作の美しさに誰もが目を奪われた。
「……ま、まさか、百合太夫か?」
「百合太夫だ」
「花街に戻ったのか?」
周囲のざわめきがその女性が何者かを侯爵に教えてくれた。全盛期に花街から消えた、それこそ一時代を築き上げるはずだった百合太夫の名は、侯爵も知っている。一時代を築いたと言われないのは、たんに太夫でいる期間が短かっただけ。当代一と称される分には文句のつけようのない太夫だったのだ。
「始まる前に一杯どうだい?」
桜太夫と入れ替わりに侯爵の隣に座ったのはマラカイだった。
「頂こう……彼女はお主の奥方か?」
「ああ。俺には過ぎた女房だ。おかげで花街の皆にはいまだに恨まれている」
侯爵のグラスに酒を注ぎながら、問いに答えを返す。
「子供が……二人?」
「ナラさんは知っているだろ? アオは本当の子じゃねえ、ただ、家族のように暮らしている。気持ちは家族だと思っている」
「そうか……」
彼が北方辺境伯家、ブラックバーン家の人間だと知ったら、どう反応するのか。こんなことを考えてしまった侯爵だが、きっとこの男なら「ああ、そうかい」くらいで終わらせてしまうのだろうと、すぐに思った。
「花街ってのは現実とは違うところにあると俺は思ってる。ここを訪れる者は誰もが何者でもない。自分のなりたい自分になれるのさ」
花街ではないが、彼も自分のなりたい自分になっている。それが自分の家族であることがマラカイは本当に嬉しいのだ。
「自分のなりたい自分か……」
「夢、という表現は儚過ぎて良くねえ感じだが、そんなもんだ。ナラさん、ここでは現実なんて忘れちまったほうが良い。忘れてぇから人は酒に酔いたがる。だが、この場所は酒に酔わなくても、現実を忘れられる場所なのさ」
「なるほど……そうだな」
酒に飲まれるのは現実逃避。領地経営で次々と巻き起こる大小様々な問題に追われ、他家との交流の難しさに疲れ、そういったものから逃げ出したくて花街に遊びに来ていた。だが結局、自分は酒に頼っていただけ。そんなことは花街に来なくても出来るのだ。
「さて、話はもう終わりにしよう。俺の自慢の女房はそれなりに有名な太夫だった。桜太夫はその愛弟子だ。二人の共演なんて、今日を最後に見られねえからな」
「それは、凄いな」
その二度と見られない共演を設定してくれたのは、この男。侯爵は桜太夫の言葉の意味を知った。百合太夫の一夜限りの花街復帰。これが花街の話題にならないはずがない。その娘の初舞台も、今考えれば、凄いことだと分かる。一時代を築く太夫になれば、その初舞台の価値はとてつもないものになるに違いないのだ。
侯爵は自分の為にこれだけのことをしてくれたマラカイへの感謝の思いで、泣きそうになった、さらに。
「……なあ、ナラさん。頼み事しても良いか?」
妻の演奏で舞う桜太夫に視線を向けたまま、マラカイは侯爵に尋ねた。
「私が出来ることであれば、何でも言ってくれ」
「……花街を頼む。俺は花街にとって大切な女を、自分の都合で奪っちまった。それが申し訳なくて申し訳なくて、でも俺には花街を育てるなんて真似は出来ねえ。だからナラさん、あんたが花街を盛り上げてやってくれ」
「……任せろ、と言いたいが、私に出来るのだろうか?」
花街を盛り上げるなんてことは、簡単に約束出来ることではない。こんな凄い男が、自分には出来ないと言っているのだ。遥かに劣る男である自分に出来るはずがないと侯爵は思ってしまう。
「出来るさ。ナラさんは、花街の良さを知ったはずだ。それを楽しむ良い客でいてくれりゃあ、それで良いのさ」
「……分かった。良い客であり続けよう。約束する」
「ありがとうよ」
御礼を告げるマラカイの笑顔はとても魅力的だと侯爵は思った。こんな笑顔を作れる男に、自分もなりたいと思った。今日のこの日、この場所にいて、この男と話せて、本当に良かったと思った。
――これ以上ないほど盛り上がった宴の帰り道。侯爵の立場は一変していた。茶屋での出来事は、あっという間に花街全体に広がっていた。その宴を作った侯爵は、野暮どころか、最高に粋な男だと見られるようになっていた。それはそうだ。同じ宴を開くことなど誰にも出来ない。出来るはずがない。
この日、ナラさんは誰もが憧れる最高の上客だったのだ。