朝早く出た彼が屋敷に戻るのは日が暮れてから。そんな生活が長くなっている。彼にとっては本当の家よりも、彼女の家のほうが遥かに居心地が良い。彼女と魔法や勉強についての談義をしたり、彼女の父親と喧嘩の稽古をしたりと自分の家では出来ないことがある。今の彼にとって重要なことが家では出来ないのだ。居心地の良し悪しだけが、滞在時間を決めているわけではない。
たださすがにその状況を実家は放置してくれなくなった。別に普段、彼がどこにいようと構わない、というのは彼が勝手に思っていることだが、実際にもそれほど問題にはならない。実家にとっての問題は、彼が平気で約束をすっぽかすこと。城で行われるパーティーや北方辺境伯家と極めて関係が深い、派閥の一員と言っても良い貴族家相手のイベントに、次の次とはいえ、北方辺境伯を継ぐ予定の彼がいないというのは都合の悪いことなのだ。
「……付き人……俺は太夫か?」
そこで実家が考えたのは、彼に使用人を付けるというもの。北方辺境伯家の仕事をするのではなく、彼の為だけに働く使用人だ。当然、彼がそんな存在を喜ぶはずがない。彼の為だけに働くというのは建前で、実際は北方辺境伯家の意向に従う使用人だ。彼の為にはならない結果になるのは、目に見えている。
「はい? ご質問の意味が分からなったのですけど」
「分からなくて良い。お前が分かる必要があるのは、自分は無用な存在だということだ」
「……そう思われないように努力致します」
いきなりの拒絶。かなり気難しいという話はあらかじめ聞いていて、こういう事態は予想出来ていた。だが、正面から言われると、さすがに使用人も傷つく。彼に駄目だしされるのは、北方辺境伯家に役立たずと評価されることと同じなのだ。
「無理だな。お前の能力なんて関係ない。俺は他人にずっと側にいられるのが嫌なのだ。誰であろうと存在そのものが、俺にとっては無用なのだ」
頑張ってどうにかなることではない。彼は一人で行動したいのだ。相手の能力も性格も関係ない。実家に自分がどこにいるかを知らせる存在は、無条件で邪魔なのだ。
「どうすれば認めていただけるのでしょうか?」
「働きを認めて欲しければ、俺の付き人なんて辞めることだ。辞めて別の仕事をするのだな」
「……付き人を辞めるということは、職を失うことになるのですが?」
断られたので別の仕事をさせてください。こんな言い分を受け入れてもらえるはずがない。彼は北方辺境伯家から追い出されることになるだろう。
「ん? お前、俺の付き人をやる為だけに雇われたのか?」
北方辺境伯家で働いていた使用人を自分の付き人にしようとしているのだと彼は考えていた。
「はい。そうです」
「……それは引き受ける奴がいないからだな。お前、騙されたな」
元々、北方辺境伯家で働いていた使用人で、彼の付き人になりたいなんて人はいない。彼はこう考えている。そして父親と家宰などの上級使用人もそう考えたのだ。
「騙された……いや、でも、レグルス様が私を受け入れてくだされば」
「そんなに北方辺境伯家で働きたいか?」
彼にとって北方辺境伯家は仕えるに値しない家だ。完全に偏見だが。
「普通はそうだと思いますけど……」
普通の人は北方辺境伯家で働けることを喜ぶ。他の守護家と並び、王国貴族の中で最も裕福な貴族家の一つなのだ。その権力も絶大。使用人であっても、周りの見る目が違う。上級使用人にまでなれば、貴族の中にもへりくだる者が出るくらいなのだ。
「……じゃあ、百歩譲って付き人は許してやる」
「本当ですか!? ありがとうございます!」
「ただし、お前の仕事は屋敷で俺の帰りを待つことだ」
付き人はいても良い。側にいなければ。給料を払うのは彼ではない。困ることはないのだ。
「……それがバレたら、すぐに首になると思います」
「バレないようにしろ。これは命令だ」
「いや、無理です! 屋敷にいるのですよ!?」
ずっと屋敷にいて、それが周りの人たちに知られないはずがない。すぐに仕事をしていないことがバレてしまうはずだ。
「やっぱり、面倒だな……」
「そこをなんとか」
付き人として雇われたこの男は、粘り強い。そういう人物だから選ばれたのだ。あっさりと諦めてしまうような人に、彼の付き人など勤まるはずがない。ほとんど接点のない北方辺境伯家の人たちでも、これは分かる。
「……分かった。屋敷から一緒に出てやろう。帰りも待ち合わせをして、一緒に帰ってくる。これでバレないはずだ」
「どうして、ずっと一緒に行動させてもらえないのでしょうか?」
付き人として雇われた立場からすれば、どうして彼がここまで同行を嫌がるのかが分からない。この事情までは、屋敷の人々も男に伝えていない。伝えようにも伝えられない。その人たちも知らないのだから。
「どうして? 無理だから」
「その無理な理由を知りたいのですが?」
「ああ……じゃあ、付いてくれば分かる。俺もこれ以上、時間を無駄にしたくないからな」
こんな話をしている間に時間が過ぎていく。それだけ鍛錬の時間が短くなってしまう。彼は説明を省いて、身をもって無理であることを体験してもらうことにした。その結果――
「……無理。あんなのに付いていけるはずがない」
付き人は無理な理由が良く分かった。内壁の門までは良い。だがその先、彼は驚くべき速さで走るのだ。一般人である付き人に付いていけるはずがない。
早々と追いかけるのを諦めた付き人。粘り強い男だが、気持ちだけではどうにもならないこともある。
「すぐに帰ってくるのだろうか?」
「彼なら戻りは午後の一時くらいだな?」
「えっ?」
独り言に答える人がいた。それに驚いた付き人が声のしたほうに視線を向けてみれば、それは門番だった。
「さっき一緒に出て行った子供のことだよな? 戻りはいつも一時くらいだ」
「いつも?」
「ん? 一緒にいて聞いていないのか? 彼はいつもこの時間に郊外に出て行って、午後一時くらいに戻ってくる。もう三年くらい続いているな」
毎日毎日、ほぼ同じ時間に門を通る彼。門番をやっていれば覚えないはずがない。遥かに頻度が少なくても、定期的に門を通る人のことは覚えているものなのだ。
「三年間、毎日……そうでしたか……」
門番の話で、今日だけ特別、自分を撒くために走ったのではないことが分かった。これが毎日のことであれば、行動を共にすることなど出来ない。彼の言った通りだ。
「不思議な子だな。北方辺境伯家なんて家に生まれたのに、実に気さくで、親し気に話してくるから、ついこちらも普通に話してしまう。あっ、不思議な子なんて言い方も問題か」
「……気難しいところは、まったくないですか?」
北方辺境伯家から聞いていた話と全然違う。気難しくて人を寄せ付けないところがある。そんな風に育ってしまったので、問題を起こさないか心配で、側に人を置いておきたい。これが付き人を募集した理由だったはずなのだ。
「気難しい……ああ、もっと子供の頃は、かなり人見知りだったな。ただ、無愛想ではあったが、物分かりは良かったと思うが」
人間不信ではあるが、新たな人生が始まったばかりで大人な心がまだ残っていた時期。北方辺境伯家の権力を利用することはあっても、子供のような我儘は言わなかった。それが門番には、ただの人見知りとして記憶されているのだ。
「確かに……」
結局、付き人を首になることは避けようとしてくれている。側に置けない理由も明らかになり、納得いくものだ。愛想は悪かったが、最後には自分のことをきちんと考えた対応を考えてくれた彼を、気難しいというのか、付き人は疑問に感じている。
「あのまま成長してもらいたいものだ。あのままの彼で、北方辺境伯となってくれれば……まあ、そういうことだ」
この国はもっと良くなるのではないか。これは口に出来ない。今のこの国は良くないと言っているように聞こえてしまう。
アルデバラン王国は大国へと成長している。領土は広がり、豊かな国になってきている。だが国も豊かさは、そのまま庶民たちの豊かさには繋がらない。庶民にとっては、門番のような軍人にとっても、戦争が続いていることによる悪影響のほうが大きいのだ。
そんな王国の現状があるから、彼女は人々に求められるようになるのだ。
◆◆◆
午前の鍛錬を終えて戻ってきた彼。付き人がその場でずっと待っていたことには驚いたが、だからといって同行を許すことにはならない。郊外にいる時は、まず居場所は特定できないはずだが、彼女の家は違う。そこで待っていれば、必ず彼は現れるのだ。そんな場所を実家に知られるわけにはいかない。
ただ、この彼の認識は甘い。北方辺境伯家の力を見くびっている。彼がどこにいるかを調べる力が北方辺境伯家にはある。付き人を付けたのは、彼が北方辺境伯家としての予定を無視することのないようにさせる為なのだ。
付き人は表通りで時間潰し。命令を無視した場合を考え、今度は本当に付けてきても撒くつもりで裏路地を移動して彼女の家に辿り着いた彼。早速、勉強を始めようとしたのだが。
「たまにはちょっと付き合ってよ」
「たまには? いつも付き合っているだろ?」
彼女の「たまには」の意味が彼には分からない。午前はいつもの様に一緒に開墾作業を行い、昼飯を食べた。付き人の手前、別々に戻ってきたが、こうして彼女の家で合流して、これから一緒に勉強だ。これでどうして「たまには」という言葉が彼女の口から出てくるのか理解出来ないのだ。
「そういう面倒くさいこと言わない。いつもとは違うことをやりたいから、手伝ってって言っているの」
「だったらそう言えば良いのに。何をするつもりだ?」
「じゃあ~ん」
彼女が彼に見せたのは、無駄に底が厚い靴。実に歩きづらそうな、実用性にはほど遠い靴だ。
「その『じゃあ~ん』って何だ?」
ただ彼が気になったのは彼女が口にした言葉。靴が何かは分かっている。すでに彼はそれを履いている女性を見たことがある。桜太夫も同じように底が異常に厚い、歩きづらそうな靴を履いていたのだ。
「……効果音」
彼が驚かなかったことに不満気な彼女。
「こうかおん? それも分からない」
「もう良い。とにかく肩貸して」
効果音も彼には通じない。ただこれに関しては彼女は不満ではなく、安堵している。彼が自分と同じ転生者である可能性がさらに、すでに彼女はほとんど疑っていないが、低くなったのだ。
「肩? 人に肩を借りないと歩けないのか?」
「最初はそうするものだって、母さんが教えてくれた」
「えっ……あ、ああ。そう。そうなのか」
彼女の母親が太夫について教えた。これを聞いて動揺した彼だが、なんとか誤魔化した、つもりだった。
「やっぱり知っていたか。そうだと思った」
この引っかけには、あっさりと彼は引っかかった。こういう誤魔化しが下手な、必ずしもそうではないのだが、ところも彼女が彼を疑わない理由だ。
「偶然だ。たまたま知り合いと話をしているところに出くわして、聞いてしまった」
どのような話だったかまでは教える必要はない。教えるべきではないと思っている。
「それで私に隠した」
「俺が話して良いことではないだろ?」
「……それもそうか。君は家族じゃあ……まっ、気を使ったわけだ」
家族ではない。これを口にすることを彼女は躊躇った。彼女自身は彼を家族のように思うようになっている。彼もそうであって欲しいと思っている。否定する言葉を口にしたくなかったのだ。それで彼が傷ついてしまったら、とも思った。
「どっちが……肩を貸せば良いのだな……横に立つのか?」
「そう。靴を並べて置いて、肩を借りて一気に」
まず左足を靴に乗せ、彼の肩に手を置いた体勢から、軽く地面を蹴って右足も靴の上に乗せる。着物を着た太夫はこんな靴の履き方はしないのだが、そこまで忠実に行う必要はない。彼女はこの靴で歩きたいだけなのだ。
「っで、底を引きずるようにしながら円を描いて、前に置くと。反対の足も同じように」
丁寧に足を動かしながら、少しずつ前に進む彼女。
「俺はいつまで肩を貸していなければならない?」
「もうちょっと我慢してよ」
「これはアレだろ? 体幹ってやつを鍛える為だろ?」
彼女が何故こんなことをやろうと思ったのか、彼はすぐに気が付いた、太夫に憧れたからではない。不安定な靴を履いて歩くことで体幹、この言葉は彼女が彼に教えた、を鍛える為だ。
そうであるなら自分が支えていては鍛えられないのではないかと思った。
「そうよ。よく分かったね?」
「それは分かる。お前は美しさよりも強さだからな」
そもそも彼女に美しさを磨く必要があるのか。何もしなくても彼女はすでに美しいのだ、なんてことは彼は思っていない。長く一緒に居過ぎて、普段は意識することがなくなっているのだ。
「それ、むかつく」
「俺が肩貸していたら鍛錬にならない」
「そうだけど……これが思ったより、難しくて」
ふらつかないようにするには体幹は大切だ。だがぶれないように意識するだけでは上手くいかない。右足から左足、その逆の体重移動を滑らかに行わなければならない。足から足だけでなく、かかととつま先の間での体重移動も。これが彼女の思うようにいかないのだ。
「どこが難しい?」
彼女の体のバランスを確かめようとした彼。
「ち、ちょっと! 動かないでよ!」
ただ動くタイミングが悪かった。彼女が彼の肩に体重を預けた時だったのだ。支えを失って、一気にバランスを崩す彼女。そのまま地面に倒れていく彼女だったが。
「……重い」
倒れる前に、彼が彼女を支えていた。
「重くない……から……」
彼の体に抱きかかるような姿勢になってしまった彼女。思わず抱きしめてしまった彼の背中は、筋肉質で逞しかった。それを思った彼女は、心臓の鼓動が早まるのを感じている。
「……は、早く立てよ」
それは彼も同じ。彼女に抱きつかれた形の彼だが、その彼の腕も彼女の背中に回っている。「重い」は心の動揺を隠す為の言葉。自分と同じかそれ以上に鍛えられているはずの彼女の体は、思っていたよりもずっと柔らかかった。耳をくすぐる彼女の髪は、郊外で嗅ぐ風の匂いがした。彼の好きな匂いだった。
「ち、ちょっと待ってね」
両手を彼の両肩に置き、押すようにして体勢を立て直す彼女。真正面から見る彼の顔。この距離で彼の顔を見るのは初めてのこと。毎日見ている顔であるのに、初めて見るように感じた。
良く見ると紫がかっているように見える彼の黒髪。生意気そうと思っていた切れ長の目は、少し大人っぽく見える。ぽっちゃりとした子供っぽい顔は、すっかり変わっていた。それに今更ながら、彼女は気が付いた。
「…………」
「…………」
翠色の大きな瞳がじっと彼を見つめている。曇りのない美しい瞳が。自分の心を見透かしているかのような、その瞳に自分の心がどんな風に映っているのかと、彼は思った。
形の良いピンクの唇。これも柔らかいのだろうかと彼は思った。それを確かめたいと思った。
「おやおや、いつも仲の良い兄妹だね?」
「えっ?」「あっ……」
近所のお婆さんの声で、我に返った二人。正気になると、それはそれで恥ずかしい。
「いつも仲良くはない」
「そうね。喧嘩ばっかり」
お婆さんの言葉を否定することで、その恥ずかしさを誤魔化そうとした。
「それはお前が絡んでくるからだろ?」
「アオが絡ませるようなことをするからでしょ?」
そしていつものように言い合いが始まる。ただ、それを見てもお婆さんの感想は変わらない。本当に仲の良い兄妹だと改めて思うだけだ。