王家への挨拶が終わった後は、彼は父親とも別れて、いつものように会場の隅で一人でいる。王家と王都在住の守護五家の関係者が一同に会している場だが、彼にそれらの人たちと親交を深めようなんて気持ちはない。そんなことは弟に任せておけば良い。どうせ北方辺境伯を継ぐのは弟なのだから。こんな風に思っているのだ。
そうでなくても他人と無理して話をするのは気が重い。まして王国中央学院の同級生となる者たちとは、顔を合わせるのも御免だ。彼らは彼に屈辱を与える存在なのだ。
実に都合の良い、ゲーム上であって彼にとっては不都合だが、ことに各家に彼と同級生になる子供がいる、王家には第二王子ジークフリート。中央貴族のミッテシュテンゲル侯爵家にはサマンサアン。南方辺境伯家にはタイラー、東方辺境伯家のキャリナローズに西方辺境伯家のクレイグ。誰もが彼にとって味方と思えるような人物ではない。では彼を除く他の皆は仲良しなのかとなると、それも違う。王家と守護五家の確執は子供たちにも影響を与えることになる。守護五家の間でも抜きん出るのは自家という競争意識があるのだ。
(そんな中で王家はミッテシュテンゲル侯爵家と手を結ぼうと考えたわけだ)
その結果が第二王子とサマンサアンの婚約だ。これ自体は特別なことではない。守護五家から王家に嫁いだ女性は多い。王家には守護五家全ての血が入っているのだ。そして守護五家にも王家の血は入っている。
(だが、その手を王家は離す……それだけの価値がある女。婚約破棄されたミッテシュテンゲル侯爵家はどうしたのだろう?)
婚約破棄後の状況を彼は知らない。記憶を失ったのではない。その前に彼の人生が終わっているのだ。
(屈辱を与えられたミッテシュテンゲル侯爵家が黙っているか? さすがに反乱はないか……それでも関係が悪化しても構わないと王家は考えたわけだ)
人差し指でこめかみをトントンと軽く叩いている彼。いつの間にか身についた癖だ。歴史書を読んで、その裏にある事実を考えている時にこうすると集中出来るのだ。
今、彼の思考はその時と同じようなものになっている。知っている結果から何が起きたのかを推察しているのだ。
(第一王子を追い払い、ミッテシュテンゲル侯爵家との関係悪化も厭わない……まさか……いや、さすがに無理だ。いや、違う。可能性を否定するな。どうすれば出来るかを考えろ)
彼の頭に浮かんだのは実現不可能と思う事態。だが不可能で終わらせては、思考もそこで途絶えてしまう。不可能を可能にする方法、もしくは状況はどのようなものかを考え続けなければならない。
(ミッテシュテンゲル侯爵家が追い込まれたとして辺境伯家はどうする? 見捨てる可能性はあるか? …………あるな。ミッテシュテンゲル侯爵家が反乱を起こしたとなれば、支援なんて出来ない)
サマンサアンは処刑される。そうなるだけの大罪を犯したのだ。その罪に対する処罰が実家のミッテシュテンゲル侯爵家まで及んでもおかしくない。大罪を犯したミッテシュテンゲル侯爵家を擁護しようとする辺境伯家もいないとなれば、王国中央に王家に対抗できる貴族家はいなくなる。
(これだけでは足りない。あれ? 俺も罰せられるのか? 北方辺境伯家はどうなる?)
自分も罪を犯しているはずだと彼は考えた。そうなると自分と自分の実家も処罰されている可能性がある。だが自分自身のことなのに、彼はそれが分からない。
「何をぼんやりしている?」
「…………」
「何を! ぼんやり! している!?」
「……うるさいです」
自国の王子に向かって「うるさい」とは何事か、という態度だが、第一王子にはそれが許される。彼に文句を言われるのを分かっていて、大声を出したことは分かっているのだ。
「何をボケっと考えているのだ」
「ああ……えっと……開墾地の申請について知っていますか?」
王家が内乱を起こす可能性を考えていました、なんてことを言えるはずがない。彼は咄嗟に考えて、それらしい話題を選んで、口にした。
「開墾地の申請……知らんな。何のことだ?」
「郊外の空き地を開墾するには許可申請が必要です。開墾が終わったら登録申請も。開墾された農作地は登録申請に記された所有者の物になります」
「さすがにそれは知っている。開墾を奨励し、郊外に住む者たちの暮らしを豊かにする為に考えられた制度だな」
第一王子は十五歳、すでに成人だ。周りの評価は低くても、将来の国王として知っておくべきことは、嫌でも教え込まれる。
「……郊外に住む人たちの暮らしは豊かとは言えません。多くが雇われ農民で、安い賃金で働かされています」
「それは……そうだから、頑張って開墾すれば良いのではないか?」
「そういった人たちには、開墾を行う時間の余裕も金もありません。そして最大の問題は、文字の読み書きが出来ない人々に、申請なんて出来るはずがないということです」
考えていたことを誤魔化す為に選んだ話題だが、いざ話し始めると感情が高ぶってくる。頑張っている者たちが馬鹿を見る。開墾制度はそういう、彼にとって受け入れ難い結果を生み出すものだと思っているのだ。
「……文字の読み書きが出来ない。学ぶ機会……などあるはずないか。しかしそれでは……」
開墾制度は、勉強する機会を与えられない貧しい人たちを救う制度にはなり得ない。第一王子もこの事実に気が付いた。
「さらに申し上げれば、開墾された農作地は開墾作業を行った者ではなく、申請書に記入された所有者の物になるのです。この意味もお分かりになりますよね?」
「…………」
頑張って開墾しても申請書を書けなければ自分の物にならない。そもそも開墾制度そのものを、文字を読めない人々は、文字が読めてもそういったものがどこで公示されているか分からなければ、知ることは出来ない。開墾制度は貧しい人を救う制度ではなく、すでにある程度の財産を持っている人をさらに豊かにする為の制度。第一王子はこの事実を知った。知って、愕然となった。
「……なんてことを考えていました。面白い話ではなかったでしょ?」
「面白いとかそういう問題では」
「他の人に話しても退屈に思うでしょう。これでこの話は止めましょう」
彼は自分たちの話に聞き耳を立てている人たちの存在に気が付いた。今の話は、捉えようによっては王国批判に繋がることに気が付いた。
「……そうだな。どうせなら、もっと盛り上がる話が良いな」
彼の言葉の意味に第一王子も気が付いた。周りが言うほど愚鈍な人物ではないのだ。
「そういえば、この間、花街という場所に行ってきました」
「なんと? 花街というのは、あの花街か?」
第一王子は花街の存在を知っていた。そしてそれがどういう場所であるかも知っている。反応がそれを示している。
「他に花街はないと思いますので、その花街です」
「それで? どうだった?」
「華やかな街でした。王都にあのような場所があるなんて初めて知りましたので、とても驚きました」
その華やかな街に濃い影があることも、すでに彼は知っている。それでも花街は、魅力的な街だった。彼女の両親の存在が、こう思わせているところはかなりあるが。
「それで……どうだった?」
また第一王子は同じ問いを口にした。彼の答えは求めるものとは違ったのだ。
「太夫道中というものに出くわしまして、桜太夫という女性を見る機会を得たのですけど、とても綺麗な人でした」
「そうか……綺麗だったか……その、たゆう、どうちゅう? それは何だ?」
彼が綺麗というのだから綺麗なのだろう。第一王子はこう思った。そもそも彼が他人を褒めることなどない。そんな彼が前回のパーティーで、妹であるエリザベス王女の容姿をべた褒めしたので、第一王子は二人の婚姻なんてことまで考えたのだ。
「花街の女性には位があるそうです。太夫はその最上位に位置します。その太夫が行列を作って、街を歩くことを太夫道中と言います。幼い可愛い女の子も行列に加わっていて、鈴を鳴らしながら歩きます。とても華やかで賑やかです」
「……良いな。私も見たいな」
彼の話を聞いて、花街に興味を持った第一王子。
「見に行けば良いではないですか?」
「馬鹿。私が行けるはずないだろ?」
「誰であろうと花街は受け入れます。花街の中では男は男でしかありません。外でどんな身分であろうと、一人の男として扱われるのです」
花街では外の身分など関係ない。特に太夫を相手にする男性はそうだ。一人の男として魅力があるか。それを問われることになる。もっとも、かなりの金を使うことになるので財力は必要だ。金だけでは太夫の心は買えないということなのだ。
「ほう。益々興味が湧いてきた」
「そうでしょうね? とても楽しそうなお話ですもの」
「えっ……? あっ……リ、リズ、どうした?」
割り込んできたのは妹のエリザベス王女。かなり不機嫌なのは顔を見れば、すぐに分かる。
「どうした、ではありません。大きな声で何を話しているのかと思って、近づいて聞いてみれば」
「……それは……つい」
この場がどのようなものか忘れて、夢中で花街について聞いていた。やらかしてしまったことを、エリザベス王女の指摘で、第一王子は気が付いた。
「レグルス」
「えっ、俺? じゃなくて、私ですか?」
「その女性は……私と……綺麗……ですか?」
「はい? えっと、綺麗な人です。花街の太夫は見た目も教養も一番でなければならないそうですから」
エリザベス王女が聞いているのは、こういうことではない。
「レグルス、妹は自分とその女性のどちらがお前の好みかを聞いているのだ」
「えっ?」「兄上! 何を言うのです?」
否定するような言葉を発したエリザベス王女だが、実際に聞きたいのは、第一王子が言った通りのことだ。
「……太夫が花街で一番だとすれば、王女殿下は王国で一番の女性です。比べる必要はありません」
実際は太夫は花街だけの一番ではなく、王国で、世界で一番の女性。そう評価されるような女性でなければならないのだが、それをこの場で正直に話すほど、彼は馬鹿ではない。
「……貴方も……痩せて……あれですね。とても嬉しく思います」
彼は自分の為に痩せた。第一王子が思ったことを同じようにエリザベス王女も思っている。それを嬉しく思い、見違えるほど見た目が良くなった彼への評価が、最大限に高まっている。
「……ありがとうございます?」
何故、自分が痩せて、エリザベス王女に喜ばれるのか彼は分からない。パーティーの開始前に第一王子に言われたことを、もう忘れている。そもそもエリザベス王女が自分に好意を持つ可能性など、まったく考えていないのだ。
これは彼がエリザベス王女を良く理解していないせいだ。彼が太っている時からエリザベス王女の評価は公平だった。見た目で人を判断する人ではないのだ。
◆◆◆
花街で遊ぼうと思えば、まず茶屋と呼ばれる場所に行き、そこで酒と食事を楽しみながら望みの女性を店の主人に伝えて、女性が所属するお店に取り次いでもらう。指名相手がいないのであれば、店の主人が客との話から好みの女性を推察し、そういった人がいるお店を選んで、取り次ぐことになる。あとは、店の男に連れられて女性が茶屋までやってきて、多くの場合は一緒に食事をしてから、店に行く。要は同伴出勤だ。どれくらい店で過ごすかは、馴染み具合による。あと客の懐具合も当然、影響する。茶屋での飲食代は客持ちなのだ。
それが太夫相手となると桁違いの金額になる。太夫は大勢を引き連れて、茶屋までやってくる。彼が見た太夫道中は、この時のことだ。そして客は、その同行者全員の飲食代を持つことになる。それも、きっちりとしたコース料理。その茶屋での最高級コース料理を全員に振舞うことになるのだ。さらに飲み物代、そして、芸を振舞う同行者たちへ渡すチップ代もある。普通の人が出来る遊びではない。貴族の中でも裕福な者、あとは豪商くらいしか楽しめない遊びなのだ。しかもそれを継続して続ける馴染み客になれる者など、そういるものではない。
「桜太夫……お客様は少々、飲みが過ぎているようです」
到着した桜太夫に店の主人が警告する。この客からは指名を受けるのはこれで三度目。酒癖の悪さは分かっている。
「……そう」
桜太夫にとっては嫌な客だ。だが、金は持っている。何度も太夫と遊べるだけの金持ちだ。店にとっては上客。そして桜太夫にとっても。
太夫の稼ぎは多いが、稼ぎのないお付きの女の子たちの生活費を負担しなければならないなど出費も多い。その点で、馴染みになってくれる客は大切だ。まして桜太夫は、太夫の中での評価が低い。半人前と見られていて、本当の意味での上客、花街の客として相応しい気質を持つ男がついていないのだ。
「では、ご案内します」
「よろしく」
行列を作ったまま、廊下を歩く一行。一番若い女の子二人が先頭なのは変わらないが、桜太夫は一番後ろに下がっている。そうするしきたりなのだ。
女の子二人が客が待っている部屋の扉を開ける。
「おお! ようやく来たか! 待ちくたびれたぞ!」
大声で叫ぶ客。喜んでいる声だが、こういう応対は望ましいものではない。静かに、何時間待たされようと心静かに待つのが良い客とされている。誰に強制されるわけでもない。自然とそれが出来るから良い客なのだ。
「あっ……」
扉を開けた女の子が、中の様子を見て、小さく声をあげたまま動かなくなった。
「何をしている! さっさと入ってこないか!」
その様子を見て、また大声をあげる客。だが、女の子は二人とも動こうとしなかった。固まってしまっている二人を見て、何が起きたのかと心配になった二人より年上の女の子が前に出て、中の様子を確かめる。
「これは……?」
その女の子もまた、固まってしまうことになる。何か異常事態が起きている。自らの目でそれを確かめようと前に出た桜太夫の目に移ったのは。
「…………」
素っ裸になって踊らされている店の使用人だった。
「おお、桜太夫! 太夫も部屋に入って、一緒に見ろ。少しでも退屈しのぎになれば程度でやらせてみたが、案外楽しいものだぞ」
客がやらせたことであるのは、これで明らかになった。
「お待たせして……」
申し訳ありません。前座は終わりにして、宴を楽しみましょう。こう続くはずの言葉が口から出てこなかった。客は自分を待つ間の退屈しのぎで、裸踊りなんてものを使用人にやらせたのだ。自分が到着すればそれで終わり。終わりにする為の言葉だった。
だがそれで終わらせて良いのかという思いが、それを口に出せなかった。お世話になった姉さんの言葉。「太夫は花街の誇り。人々の期待を裏切ってはいけない」という言葉がそれを許さなかった。
「待たせて悪かったわね。服を着て、お下がりなさい」
発した言葉は、裸踊りをさせられていた使用人に向けたもの。
「安心して。この客は二度と、ここへは来ないから。仮に来ても客扱いする必要なんてないから」
「太夫……」
驚きで目を見開く使用人。桜太夫の口からこんな言葉が出てくるとは思っていなかった。これを聞けば客がどういう反応をするかは、使用人にも分かるのだ。
「おい、桜太夫! 今のはどういう意味だ!?」
「あんたが思っている通りの意味だよ」
「なんだと!? 貴様! そんなふざけた口をきいて、許されると思っているのか!?」
案の定、客は怒り出した。その剣幕に、桜太夫以外の人たちは怯えている。
「許されるに決まっている。客として相応しいかどうかを決めるのは私。この桜太夫が決めるんだよ! あんたは最低の男さ! 花街で遊ぶ権利なんてないね!」
「……こ、この……売女風情が無礼な! 儂は侯爵だぞ! 貴様のようなものが対等に口をきける相手ではないのだ!」
「外界の身分を持ち出すなんて、ほんと、野暮な男だねえ。身分だけで敬われたいなら、さっさと他に行きな! 花街じゃあ、肩書なんてなんの意味もないんだよ!」
桜太夫に、男の怒声に怯える様子は一切ない。ここで引くわけにはいかない。脅しに屈するわけにはいかない。太夫は花街の頂点に立つ身。その太夫である自分が、この男に屈するのは花街が屈するのと同じこと。こう考えているのだ。
「……ふざけるな!」
口で勝てないので暴力で。男は実に安直で、最低な選択をした。酔いでよろけながらも、その拳はまっすぐに桜太夫に向かう。それさえも正面から受け止めてみせようと微動だにしない桜太夫。
「女性に暴力なんて、野暮を通り過ぎて下種だな」
男の拳が桜太夫に届くことはなかった。殴りかかった男の拳は、力強い手に遮られた。背中に「胆勇無双」と書かれた羽織を着た男の手に。
「じ、邪魔するな! 使用人は引っ込んでいろ!」
「勘違いすんじゃねえ。俺はここの使用人じゃない。通りすがりの客だ。だから、お前に遠慮する必要なんて、まったくねえ。さらに、ボロボロになったお前がその辺りで野垂れ死のうが関係ない」
「…………」
言葉で勝てなければ暴力で。だがその暴力でも勝てない相手が現れた。それが分かった男の顔から一気に血の気が引いていく。本当に自分は殺されかねない。そんな雰囲気を相手から感じるのだ。
「少しは酔いが冷めたかな? 酒に飲まれるなんて野暮な真似はこれを最後にするんだな。花街は酒なんてなくても楽しい場所だ」
「……わ、私は」
少し相手の雰囲気が和らいだのを感じた男。そう感じさせるように彼女の父親が言葉を選んだのだ。
「では、今日のところはお帰りを。それで良いだろ?」
「あ、ああ。帰る」
命が助かった。そう思った男は荷物をまとめて、そそくさを店を出ていく。
「……ありがとうございます」
事はなんとか収まった。収めたのは自分ではなく、彼女の父親。桜太夫はそう思っている。
「桜太夫に礼を言われた。これは末代までの誇りにしねえとな」
「またそんな……」
桜太夫には彼女の父親への親しみがある。お世話になった姉さんの夫、というだけではない親しみだ。
「お見事だった。花街の花は美女と喧嘩、中でも桜は一際美しく咲き誇る、てな感じだな」
「…………」
父親の言葉に心が震える。嬉しくて涙が出そうになる。誰よりも、一人前になったと認めてもらいたい二人。そのうちの一人の言葉なのだ。それでもここで涙するわけにはいかない。太夫は気高く、気位高く。簡単に涙を見せるような女であってはならないのだ。
「じゃあ、俺はこれで」
涙を見ることのないようにと、あっさりとした雰囲気でその場を離れていく。肩で風切り、羽織をなびかせて歩く背中は、桜太夫も良く知っている。
「相変わらず、粋な背中だねえ。憎い男だよ」
口調を、かつてのものではなく、桜太夫としてのものに変えて呟く。大人になったつもりで見ても、憧れの背中は、やはり今も眩しかった。