彼の日課が変わった。その内容ではなく、それを行う場所を変えたのだ。午前中の鍛錬を行う場所もそう。開墾地まで歩いて二時間の道のりを走りぬき、現地で彼女とリキの二人と合流。開墾作業で汗を流す。途中でリキへの指導を兼ねて魔法の訓練。魔力の活性化から制御までを何度も何度も繰り返す。さらに魔力で身体強化した状態で、開墾作業を再開。それが終わると、彼とリキは軽く走って川まで行き、水の中を走り、泳ぎ、流されていく。流れ着いた先で、途中で別れた彼女と再合流。昼食をとる。
従来はここで解散。午後からは彼は屋敷で勉強を行う時間だったのだが、これも変わっている。彼は一度屋敷に戻って着替え、持てるだけの本を持って彼女の家に向かう。そこで勉強することにしている。付き合い始めて片時も離れたくないから、ということではない。彼女の勉強の為だ。本を買う金のない彼女に自分が持っている本を貸しているのだ。
普段の二人とは違い、無駄口を叩くことなく黙々と本を読んでいる二人。会話は時々、彼女が分からないところを彼に聞くくらいだ。
「……今更だけど……お前、文字読めるんだな?」
珍しく彼のほうから言葉を発した。平民には文字を読めない人も多いということを彼はここに通うようになって知った。ふと、彼女が難しい本を当たり前に読んでいることを疑問に思ったのだ。
「勉強したからね」
「勉強って……」
それは勉強しなければ読めるようにはならない。彼が知りたいのは、どうやって勉強したかだ。そんな彼も自分がどのような勉強をして文字を読み書き出来るようになったのか知らない。記憶にない。
「うちの娘は頭が良いからな」
そこに割って入ってきたのは彼の父親だ。二人が黙って勉強しているだけなので、退屈だったのだ。
「頭が良くても勉強しないと読み書き出来ないと思うけど?」
「俺は勉強なんかしたことねえけど、言葉をしゃべれる」
「……確かに。でも、文字はな……」
確かに言葉は自然に覚える。きっちり勉強しなければ文字を覚えることは出来ないとは言い切れない。ただ、この家にも、家の周りにも文字が溢れているようには彼には見えない。
「坊。頭で考えてばかりだと人間がちっちゃくなるぞ」
「はあ……で、ぼんって?」
分かるようで分からない父親の話。その中でも「坊」は彼にはまったく意味が分からなかった。
「そりゃあ、アオのことだ」
「俺? どうして俺がぼんになる?」
「アオくらいの子供のことは坊って言うんだ」
「へえ。知らなかった」
彼の頭の中にはまったくない知識。ちょうど勉強している時だったこともあって、世の中には自分の知らないことが沢山あるのだと、改めて彼は思った。
「知っているはずないわ。その人はある人の真似をしているのよ。子供のことを坊なんて呼ぶのは、私が知る限り、その人だけよ」
今度は彼女の母親だ。ただこれは勉強の邪魔をしている父親の話をさっさと終わらせようという気持ちから発せられた言葉。
「いいじゃねえか。誰の真似しても」
「別に真似することを悪いとは言っていないわ。悪いのは二人の邪魔をすることよ」
「あ、ああ……本を読んでいるだけだと退屈だと思ってよ」
退屈なのは父親自身だ。父親はせっかく彼が来ているので、もっと楽しい時間にしたいのだ。
「もう、しようがないな。そんな暇ならアオと喧嘩でもすれば?」
「ちょっと? 駄目よ」
彼と喧嘩しろと父親に言う彼女。それを止めようとする母親。彼には状況が良く分からない。
「どうして暇だと俺と喧嘩することになる?」
彼は疑問に思ったことをそのまま彼女に聞いてみた。退屈と喧嘩が彼の頭の中で結びつかないのだ。
「立ち会ってみればってこと。父さんは馬鹿みたいに強いの」
「へえ」
強い相手との立ち合い。それには彼も興味が惹かれる。
「どうすれば父さんみたいに強くなれるか聞いたこともあるけど、物心ついた時から強かったって。天才ってことね」
「喧嘩の天才か……」
彼女の母親は「この母にしてこの子あり」という言葉がそのまま当てはまる、とても美しい人だ。彼はまだ知らないが、王都にある歓楽街で働く女性の中で、頂点に位置していたという人なのだ。そして父親は、母親似で良かったなと彼女に言ってしまいそうになるくらい厳つい風貌の人だが、喧嘩の天才。
彼女の外見と強さは両親から受け継いだもの。彼女もまた天才ということだ、と彼は思った。
「な、何?」
じっと自分を見つめる彼に、少し照れた様子の彼女。
「いや、じゃあ、お願いしようかな?」
「おお、そうか! よしよし、大丈夫。手加減するからな」
彼の言葉を聞いて大喜びの父親。母親は苦い顔だが、彼がその気になったので、止めようとはしなかった。
家の外に出る四人。中で立ち合いを行えるような広さではないのだ。だからといって道端で行うのもどうかと思うが。
「喧嘩したことはあるのか?」
「ない」
「そうか……じゃあ、まずは好きにやってみろ。いいぞ、来い!」
父親のほうはかなり余裕。十歳の子供相手ということで舐めているということではなく、実際に父親は強いのだ。悪党の世界から足を洗ったことを良く思っていない元仲間たちでも、軽々しく手出しすることは出来ないと思うくらいに。
好きにやってみろと言われた彼は、とりあえず殴りかかってみる。
「駄目駄目! もっと力入れろ!」
だがそれは軽く躱された。ならばと言われた通り、もっと力を込めて殴りかかってみる。
「違う違う! 腕じゃねえ! 足に力を入れろ! こんな感じだ!」
ズンという地面を踏み込む音が聞こえたと思ったら、すぐに風切り音が耳に届く。風圧で彼の髪がなびいた。
「……ええ」
こんなものを食らってしまったら一撃で死んでしまうのではないかという拳。
「ビビるな、ビビるな。人はそう簡単には死なねえ。それに当てる時は加減するから」
「……確かにビビっている場合ではないな」
これに怯えていて強くなれるはずがない。彼女の父親は手加減しているのだ。実戦、殺し合いではないのだ。それに、彼は過去の人生で、人殺しを経験している。今更、死を、殺すことを恐れるのはおかしい。
父親を真似て踏み込む足に力を込める。それにつられて動く上半身。その勢いのまま、まっすぐに拳を前に伸ばしていく。
「おお! 今のは良いな! その調子だ!」
「今のか」
彼にも確かな手ごたえがあった。その感覚を忘れないうちに次撃。
「力入れすぎ!」
これは失敗だ。意気込み過ぎて、力が入ってしまった。その感覚も分かる。もっと上半身はしなやかに。これを意識してまた拳を伸ばす。
「良いな! もっと足に力! 腹にも力!」
父親の助言に従って、力を込める。腕が伸びていく感覚が、気持ちよくなってきた。
「良いぞ! 次だ! どんどん続けろ!」
気持ちがうきうきしてくる。鍛錬なのに顔に笑みが浮かぶのを抑えきれない。楽しくて楽しくて仕方がない。彼は時を忘れて、彼女の父親との鍛錬に集中していった。
「いやあ、坊! いいじゃないか! 思っていたより遥かに才能あるぞ!」
鍛錬が終わってからも父親は彼を誉め続けている。
「……何、ニヤニヤしているの?」
そして彼のニヤニヤも止まらない。
「えっ? 俺、ニヤニヤしているか?」
彼女に指摘されて初めて彼は、自分がにやけていることに気が付いた。
「そんな、にやけ顔初めて見た。どうした……もしかしてだけど、褒められたことないの?」
どうして彼は普段見せない笑顔を見せているのか。それを考えた彼女はひとつの可能性を思いついた。
「……記憶にはないな」
「そっか……」
彼が人嫌いになるにはそうなるだけの理由がある。当たり前のことだ。だがその理由が何か彼女は考えたことがなかった。彼の家庭があまり良いものではないことは気づいていたが、それに深入りすることをしてこなかった。彼がその点については壁を作って、誰にも立ち入ることを許さなかったからだが。
「あれだな。あえて駄目なところを言うとすれば、坊の攻撃は綺麗すぎるってとこだ」
「綺麗すぎるってどういうことだ?」
「なんというか……こう体の動き? 流れ? とにかく上手くはまった時は良い」
「それを意識してやっていた。駄目なのか?」
彼は足の踏み込みから腕が伸びていくまでの一連の動きを、いかに滑らかに、連動させて出来るかを試みていた。手ごたえを感じる、その動きが正しいと思っていたのだ。それを駄目だと言われると、どうして良いか分からなくなる。
「一発で決めてやろうなんてのなら良い。でも、それもタイマンでしか通用しねえ」
「た、たいまん?」
「ああ、一対一の喧嘩だ。だが喧嘩なんてそんな綺麗なもんじゃねえ。敵味方入り乱れて、敵が抱きついてきたり、背後から体当たりかましてきたり、グチャグチャだ。そんな中で綺麗な攻撃なんて当たるもんじゃねえんだよ」
彼女の父親の戦いは大勢での喧嘩。騎士が一対一で正々堂々と戦うなんてのとはまったく違う。では役に立たないかとなると、彼はそう思わない。戦場で行われる戦いも綺麗な戦いなんかではない。彼女の父親が言う喧嘩と同じか、もっとドロドロな殺し合いの場であることを彼は知っている。
「じゃあ、どうすれば良い?」
「そうだな……まずはこの腹、体の中心でどんと構えることだな」
自分の腹を力強く叩いてこれを言う彼女の父親。だがこれだけでは彼には理解出来ない。
「バランスが大事ってこと?」
「バランスとかそういう綺麗なもんじゃなくて、ドンって感じだ。もっと力強い……揺るぎないって感じか」
「揺るぎないか……なんとなく分かったかな? 腹か……」
ふらついても体勢を崩さないように上手くパランスを取る、ではなく、そもそもふらつくことのない芯の通った構えが出来るようになる。こういうことだと彼は理解した。その中心が腹というのは、まだ感覚として掴めないが。
「あとは、踏ん張る時とそうしない時の判断。これは経験だな。周りの様子を常に把握することも必要だ」
「踏ん張る時とそうしない時というのは?」
彼女の父親の説明は、彼が理解出来ないレベルだからかもしれないが、感覚的ですぐにイメージが出来ない。分からなことをとにかく聞くことに彼はした。
「動かないように耐える時と、動きに乗るって感じか。たとえば、腕伸ばしてきてみろ」
言われた通りに彼が手を伸ばすと。
「おおっ」
彼女の父親はその手を引っ張ってきた。前に倒れそうな体をなんとか堪えようとした彼だが、さらに腕を引かれたことで、前に倒れることになった。
「今のはきっと耐えないほうが良かったな。反対の手で殴るか、いや、体当たりのほうが良いか。頭突きも有りだな」
「……なるほどな」
敵の力を利用しろということ。仮にバランスを崩したのが敵の力によるものでなくても、その動きに合わせて、次の、その時の状況にもっとも合った動きを選択する力を身につけろということだと彼は理解した。
「多くは経験で身につけることだ。俺なんかは坊よりももっとガキの頃から喧嘩喧嘩の毎日だったからな。自然に分かるようになった」
経験は、それが何であれ、人を成長させる。天性の才能を持つ人でも、それを磨くには経験が必要。ただ彼には、彼女にもだが、その経験を得る機会はない。ひたすら基礎を磨く為の鍛錬を続けている。
「おお、そうだ! 坊、今度、俺の仕事場に来い!」
「あなた! それはさすがに駄目よ!」
「見ているだけだ。それに、ただ見ているだけの子供にちょっかい出すような奴らの喧嘩に俺は加わらない」
仕事場に来い、が何故か喧嘩の話に変わった。また彼には意味の分からない話だ。
「うちの父さんの仕事は何でも屋。頼まれればなんでもやります、なのだけど、依頼は喧嘩の助太刀ばかりなの」
説明は彼女がしてくれた。喧嘩も彼女の父親の仕事のひとつなのだ。
「喧嘩ってそんなに頻繁にあるものなのか?」
喧嘩も仕事のひとつであることは分かった。だがそれで稼げるほど依頼があるのか、彼は疑問に思う。
「頻繁にはない。あればうちの暮らしはもう少しマシになるかもね? それに、父さんは弱いほうへの加勢ばかりを引き受けるから、一回の稼ぎも少ない」
「弱いほうに加勢すると報酬が少ないのか?」
弱いほうが強いほうよりも加勢を必要としているはず。そうであれば、より良い条件を提示してくるのではないかと彼は思った。
「それはね……説明が難しいな」
そうなるには訳がある。ただ彼女はそれをどう説明すれば良いか悩んでしまう。
「この人が助太刀する喧嘩は特別でね。ただの喧嘩とは少し違うの」
そんな彼女に代わって、母親が口を開いた。母親のほうが事情を良く知っているのだ。
「花街を仕切っている組織はいくつもあって、揉め事が絶えないのよ。アオくんは花街も知らないわね? 北東区にある繁華街。大人の為の街ね」
「……なんとなく分かった」
薄っすらとだが、そういう場所が存在することを彼は覚えていた。きっと過去には訪れたことがあるのだろうと思ったが、そこまでの記憶は残っていない。
「その揉め事を解決する手段として喧嘩があるの」
「……喧嘩で物事を決めて良いのか?」
揉め事というのが、どのようなことなのかまでは分からない。だが、喧嘩の勝敗だけで決着をつけられるものではないことは、想像がつく。要は裏社会の争いなのだ。
「殺し合いよりはマシ。そうならない為に、花街を仕切る親分さんが取り決めたの。いくつも組織があるといっても根は同じ。親分さんにしてみれば子供たちが殺し合うなんて受け入れられないのよ」
「……その親分さんが決めれば、喧嘩にもならないのでは?」
喧嘩で揉め事の決着をつけることを強制できる力があるのであれば、その親分がどちらの言い分が正しいか決めれば良いと彼は思う。それならば喧嘩にもならない。
「きっと、どちらか一方を選ぶというのは難しいものなのよ。それに親分さんは喧嘩が大好きだから。花街の花は美女と喧嘩なんて言葉があるくらいだもの」
親分は絶対権力者ではない。組織間の利害を調整し、花街をひとつにまとめる役目だ。敬われても支配はしない。これは今の親分だけでなく、代々守られてきたルールなのだ。
「……理解は出来ていないけど、そういうものだということは分かった」
「それで本題ね。喧嘩を売るのは劣勢なほう。このままではどうにもならなくなるから一か八かの勝負をかけるの」
「ああ、分かった……でも、それだと恨まれない?」
組織間の揉め事の決着をつける為の喧嘩。劣勢に追い込まれているほうに資金力があるはずがない。組織の力と稼ぎの量は比例する。彼女の父親は常に金のない組織の手助けをしているのだ。
ただそうなると、敵側の組織から恨まれるのではないかという心配は生まれる。
「それはない……と言いたいところだけどね……」
「昔はそんなことはなかった。喧嘩が終われば、全てを水に流してまた競い合う。理不尽な真似をする奴らがいたら、それ以外の皆が協力してそいつらを追い出した。そうすることで花街は守られてきたんだ。まっ、これは親分から聞いた話だけどな」
小さな対立はあってもどの組織も花街を盛り立てようという点では一致していた。余所者が花街を食い物にしようとすれば、一丸となって戦った。だが今は、内に花街を食い物にしようと考える者たちがいる。喧嘩が終われば、また元通り一つになって、なんてことは通用しなくなっているのだ。
「……大丈夫なのか?」
「大丈夫だ。恨まれているのは分かっているが、親分の目が黒いうちは喧嘩の仕返しなんて許さねえよ」
彼の視線が彼女の母親に向く。その親分は、おそらくはかつてほどの統率力を失い、別の者が取って代わろうとしている。その親分とは異なる考えを持つ者だ。先日、盗み聞きしてしまった話の内容はこういうことだった。
彼の視線に気が付いた母親は目を伏せる。母親も分かっているのだ。これまでのようにはいかなくなることを。だが、それをこの場で話す気にはなれなかった。