彼が開墾許可を申請した場所は内壁からはかなり離れた場所。これまで鍛錬を行っていた場所からさらに外壁に向かって、二時間は歩かなければならない場所だ。当たり前だが、内壁に近い耕作地に適した場所は、とっくに誰かの所有地になっている。新しく開墾を始めようとすれば、離れた場所に行くしかない。離れていて、それでいて水の確保がしやすい場所を選ばなければならない。
「……それが、ここ、なのですか?」
今日初めて、この場所に連れてこられたリキ。所有者になるはずの彼が今日初めて場所を知った、だけでなく、開墾を始めるということもさっき聞いたばかりだ。
「そうだ。すでに農作地になっている土地から離れている場所を選んだ」
「それはつまり、水が近くにないということではないですか?」
幼い頃から家の手伝いで農作業をやらされているリキだ。門前の小僧、ではないが自然と農業についての知識が頭に入っている。
「水が近くにないのではなく、水場が近くにない」
「何が違うのですか?」
「水はある。ただその水源がまだ見つかっていなくて、すぐに使えるようになっていないだけだ」
水源は近くになる。だからこそ彼はこの土地を開墾地として選んだのだ。
「……水源なんて、どうやって見つけたのですか?」
水源の貴重さもリキは知っている。用水路の整備が不十分な農作地もある。離れた場所から水を運ぶ苦労もリキは知っているのだ。
「実は偶然。ケルが見つけてくれた」
子犬のケルベロスはケルと呼ばれるようになっている。アオ、リサ、リキと三人が三人とも二文字で呼び合っているので、ケルベロスもいつの間にか二文字で呼ばれるようになったのだ。
「犬が水源を……それは便利ですね?」
「便利?」
「あっ、賢いですね?」
「そうだ。ケルはとても賢い。おかげで人には無価値に思えるこの場所を自由に開拓出来る」
ケルにすっかり愛着を持つようになった彼。他人のケルに対する見方も気にするようになっている。畜生扱いは許せないのだ。
「でも、私たちがここをきちんと農作地にすることが出来れば、他の人も集まってきますね?」
「その頃にはこの周辺一帯は俺たちの物になっている」
「……確か、一度に開墾が許される土地の大きさは決められていると言っていませんでしたか?」
開墾許可申請が出来る土地の大きさは決まっている。すぐに開墾出来ない、もしくはする気がないのに、申請するだけして土地を独占しておこうとする行為を許さない為だ。
この周辺一帯を自分たちの物にするには何回の申請が必要になるのか。一度の申請で届け出られる土地の大きさでも開墾には年単位の期間が必要。その間に必ず誰かが申請するはずだとリキは思う。
「水源が近くにあることを知られなければ良い」
「はい?」
「離れた場所から水を運んでこなければならない土地を、わざわざ開墾場所に選ばないだろ?」
水源があると知られなければ、この場所を特別の農作地にするのに条件が良いという場所ではない。他の人が開墾しようとは思わないはずだと彼は考えている。
「それ……せこくないですか?」
開墾の話を彼から聞いた時、リキはとても素晴らしいことだと思った。自分の家と同じような貧農が皆、救われると思った。だが彼は、それを独占しようとしている。リキが最初に思った志の高さなど感じられない。
「せこい? 確か……ズルいという意味だったか?」
「……そうです」
つい口にしてしまった言葉。彼は怒り出すのではないかと、身構えたリキだったが、
「じゃあ聞くけど、この辺りの土地を何十人もで分け合って、皆が裕福になれると思うか?」
「それは……多分、無理です」
「そうだろ? だからまずお前がこの一帯の大地主になって人を雇えるようになる。他のところよりも良い条件で人を雇うんだ。それだけでも喜んでくれる人はいるはずだ」
「……それはまあ」
豪農に雇われる農民たちの待遇はかなり悪い。働いても働いていも暮らしは楽にならない。支払われる賃金が労働に見合っていないのだ。リキの家はその搾取されている側。大変さは子供でも良く分かっている。
「その結果、生活に余裕が生まれるようになれば、自分もリキのようになろうと思う人が出てくるはず。同じように開墾して、自分の農作地を持つようになる」
「……かもしれません」
「そこから先はその人の努力次第だろ? 頑張れば、リキ以上の広い農作地を持てるようになるかもしれない。豪農と呼ばれるまでになるかもしれない」
何から何まで面倒を見ようなんて考えは彼にはない。上を目指すのであれば、それを実現できるだけの努力が必要。彼はその努力を続けている。失敗しても失敗しても諦めないで続けようとしている。
結果を得られる人は努力の人であって欲しいと思っている。
「……なんとなく分かりました。施しを受けるだけでは駄目ということですね?」
「そんな感じ……水源の話はここまでだ」
水源の存在を知られたくない人たちの姿が見えた。申請場所の確認に来た役人たちだ。
「……リキというのは?」
彼らが待っていた場所にたどり着いた役人は戸惑っている。この場にいるのは子供二人。待っているはずの申請者はいないと思ったのだ。
「私がそうです」
「お前が? 子供ではないか?」
目の前の子供がリキだと知って、呆れ顔の役人。それも仕方がない。子供の悪ふざけだと思ったのだ。
「年齢は関係ないと申請の時に聞いた」
だがそういう態度は彼の嫌うもの。苛立ちを顔に浮かべて、彼は子供であっても問題ではないはずだと主張した。
「年齢は関係ない。だがきちんと最後まで開墾をやり遂げることが出来るかは重要だ」
「最後までやり抜くに決まっている」
「それは私が判断することだ。しかし……きちんと土地の調査もしていないようだな? 子供だから当たり前か」
役人のほうも彼に対して悪感情を持った。彼の応対がどうであれば、態度は悪くなっただろう。この仕事で特別に得られるものはないと分かったのだ。それはつまり、多くの場合、得られる何かがあるということだ。
「……開墾しても無駄だな」
「それを決めるのは実際に開墾する俺たちではないのか?」
「助言してやっているのだ。頑張って開墾しても、この場所では農作物は育てられない。何年も無駄な労力を使うくらいであれば、他で働いたほうがマシだ」
これは完全な出鱈目を言っているわけではない。役人は近くに水源があることを知らない。農作地に出来ても、かなり苦労する場所だと思っている。
「無駄かどうかも頑張る俺たちが決めることでは?」
「分かりきっていることを試す必要などない。お前たちの申請は無効だ」
「お前にそんな権限はない。お前の仕事は計測をして、俺たちが開墾して良い場所を示す為の杭を打つこと。それだけだ」
この役人の仕事、というか手続きについて彼は調べ上げている。今のように言いがかりをつけられた時に反論出来るように、知識を入れてきたのだ。
「……大人をなめるなよ?」
「なめてはいない。俺は事実を話しているだけだ」
「却下だ。お前たちの申請は却下! そう決まった!」
役人はもう申請を認めるつもりがなくなっている。彼の態度が悪いこともかなり影響しているが、そういう不当なことを平気で出来る人物ということだ。
「だからお前にそんな権限はない」
「そんなものは関係ない! 私が却下と言ったら却下! この決定は変わらない! 調査は終わり! 帰る!」
二人に背を向けて、本当にこの場から離れて行こうとする役人。これで終わりと彼は諦めるわけにはいかない。
「……では! 別の場所で話し合うことにする!」
切り札をここで切ることに決めた。
「別の場所で? 私はもう話し合うつもりなどない。今更、詫びても無駄だ」
「誰が謝罪すると言った。俺はしかるべき場に訴え出ると言っているのだ」
「馬鹿な。そんな脅しに引っかかると思っているのか?」
訴えると言われても役人はなんとも思わない。そんなことが子供に出来るはずがない。仮に出来ても王国の役人が負けることなどあり得ない。
「思ってない。俺は訴えると言っているだけだ。お前がどう思うかなど関係ない」
「……子供の訴えなどまともに取り上げられるはずがない」
これを言う役人はまだ分かっていない。普通の子供に、決定の不当性を訴えるなんて発想が生まれるはずがないのだ。
「そうだろうな。でもそれは支援者次第だ」
子供の訴えがまともに受け取られないことなど彼にだって分かっている。だが、原告が農家の子供であっても無視できない支援者が付けば話は別。
「支援者だと?」
「俺が支援する」
「ふっ……勝手にしろ」
支援者というのが彼自身のことだと知って、役人の顔に安堵の表情が浮かぶ。子供が一人から二人になっただけ。元々、役人は子供二人を相手にするつもりでいたのだ。何も変わっていない。
彼が何者か知らない間は。
「ああ、勝手にする。お前にはこの俺、レグルス・ブラックバーンと争うことを必ず後悔させてやる」
「はっ。それはまた、農民にしては大層な名…………ブ、ブラックバーン?」
ブラックバーンの姓を知らない役人はいない。庶民であっても知っている人は多い。王国の守護五家のひとつ、北方辺境伯家の姓なのだ。
「楽しみだ。これから先のお前の人生がどうなるかが」
一役人の身で、よほどの後ろ盾がない限り、北方辺境伯家に逆らって無事でいられるはずがない。国政に携わる立場でなくても行政組織への影響力はある。他の辺境伯家も普通であれば黙っていない。役人に辺境伯家が舐められるなど許されることではないのだ。
「……ほ、本当に……貴方は?」
「北方辺境伯家の出来損ないか。こう聞きたいのか?」
「め、滅相もございません。も、申し訳ございませんでした!」
その場に跪いて土下座する役人。北方辺境伯家の人間というだけで恐ろしいのに、よりにもよって傍若無人の出来損ないが相手となると、ただただ謝るしかない。本当に人生を台無しにされかねない。平気でそんなことが出来る相手、という認識なのだ。
「……謝罪する時間があったら、とっとと測量して、開墾地の場所を確定しろ」
「は、はい!」
これは役人にとっては救いの言葉。やるべきことをやれば、少なくとも訴えられることはないかもしれない。こう思える言葉だ。
慌てて、てきぱきと仕事をこなし始める役人。もう却下なんて絶対に口にしないのは間違いない。
「……あ、あの」
彼の素性を知って、ビビっているのは役人だけではない。リキも同じだ。彼が貴族家の人間であるのは分かっていたが、まさかその貴族の頂点に位置する辺境伯家とは想像もしてこなかったのだ。
「今の秘密。リサには絶対に言うな」
「……分かりました」
「それと態度も変えるなよ? あいつに怪しまれる」
「いや、それは……」
態度を変えるなと言われても、そう簡単にはいかないとリキは思う。辺境伯家などリキにとっては雲の上の存在。こうして話していることも夢ではないかと思ってしまうような相手だ。
「すぐに慣れる。俺は俺だからな」
「……ああ……そうですね」
だが、「俺は俺」という彼の言葉で、リキの心は解れることになった。無礼を働いてはいけない、なんてことを今更気にしても意味はない。彼はずっとリキや彼女の態度を許してきている。それはこの先も変わらないはずなのだ。
さらに彼は役人にも自分が関わっていることについて、強く口止めをする。これに関しては役人は慣れたものだ。表に出たくない人というのは他にいる。書類に書かれていることが全て正しいわけではない。役人はこれを知っているのだ。
◆◆◆
開墾許可は正式には役人が役所に戻り、登録手続きの為の内部書類を作成し、その手続きの全てが終わった段階で出るのだが、それまで何もしないでいられるほど、彼は気長ではない。許可が出るのはほぼ確定となれば、すぐに次の行動に移る。開墾を始めたのだ。
「さすがにちょっと遠くない?」
その時は彼女も合流していた。これまで通りの鍛錬メニューをこなしてからやってきたのだ。
「俺はここまで走ることにした。走り込みの時間が多くなるけど、まあ、そろそろメニューを変えても良いころだ」
「それはどうして?」
彼女は彼の鍛錬内容について、かなり興味を持つようになっている。何度も話をして、彼がかなり考えた上で内容を決めていることを知った。その考えも納得いくものなのだ。
「痩せた」
「……ああ……痩せた……確かに痩せた。なんだろう? 毎日会っていると……気づけないほど、会っているということか」
今ではもう毎日のよう、ではなく、本当に毎日二人は会っている。毎日顔を合わせているので微妙な変化に気づかないのだ。そうであることに改めて気が付いて、自分の心が揺れたことに彼女は戸惑った。最初はこんな関係になるとは思っていなかった。彼の態度はそれを許すようなものではなかったのだ。
「……俺はどれだけお前に貢いだのだろう?」
「貢いだって、毎日パンを……いやいや、それでも『貢いだ』は言葉が悪い。恵んであげたくらいにしておいて」
毎日毎日昼食の面倒を見てもらってきた。近頃は家にも、普段は食べられないようなものを持ってきてもらっている。かなりお世話になっているのだ。
「違いが俺には分からない。それに実際には気にしてない。お前のおかげで学べたことは沢山あるからな」
「なんか気味悪い。アオのくせに褒めるなんて。それに痩せて少し……いやいや……アオだから」
痩せて引き締まった彼は、恰好良いと言われてもおかしくない容姿になっている。この変化にも彼女は気が付いていなかった。意識することがなかった。
「お前の心の中で、何が考えられている? アオだからって何だ?」
「変態は変態ってこと」
「誰が変態だ!?」
「お前だ!」
いつもの二人のやり取り。それを横で聞いているリキは、ほっとしている。「俺は俺」という彼の言葉はその通り。自分が無用な意識をしなければ、何も変わらないのだと、改めて思えた。
「真面目な話に戻す。開墾も鍛錬の一つと俺は考えている。実際にかなりの力仕事だろうからな」
「確かにそうね」
邪魔な木を切り倒し、根を掘り起こす。石や岩も同じ。土を何度も何度も掘り起こし、邪魔なものを排除して農作地に変えていく。大変な作業だ。
「ただ、開墾についてはあえて負荷を強くするというのは、おまりやらないつもりだ」
「それで鍛えられる?」
「魔法を鍛えられるか試す。特に補助魔法は、かなり開墾の役に立つはずだ。上手く使えれば、という条件付きで」
鍛錬の為にと、いたずらに長く開墾を続けるつもりは彼にはない。今の自分が出来る全力で開墾に取り組む気だ。それが結果として鍛錬になる。これまでとは違い実践的なやり方にならないかと考えているのだ。
「なるほど。それなら私も手伝える」
「ん? お前、手伝わないつもりだったのか?」
「まさか。手伝うつもりはもちろんある。でも力仕事は違うかなって。ムキムキな筋肉ではなくて、しなやかな筋肉を私は目指しているの」
「それは見た目……じゃないな。戦い方か」
鍛え、魔法を行使することで力を高めることは出来る。だが同じように鍛え、魔法を行使した男性を上回れるかとなれば、それは難しい。彼女はこう考え、自分の持ち味を作ろうとしている。おそらくは男性に優ることが出来る面として、俊敏さを鍛えようとしているのだと彼は考えた。
「アオを見ていると、単純な力では敵わないなと思って」
「そうか? リサには負けそうだけどな。単純な力で」
「どういう意味?」