リキが鍛錬に加わったことで、彼自身の鍛錬はこれまでのようにはいかなくなった。なんだかんだ手がかかる。自分の鍛錬だけに集中しているというわけにはいかないのだ。
ただ彼がそれに強い不満を抱いているかというと、そうでもない。人に教えるという、これまで考えてこなかった新たな課題が見つかって、その解決に夢中なのだ。結局、彼は考えることが好き。そういうことだ。
「鍛錬の目的を意識したほうが良い」
「目的、ですか?」
リキはただ彼を真似て鍛錬を行っているだけ。目的など考えたことがない。それでは駄目だと彼は気づいて、こんなことを言い出したのだ。
「たとえば、同じ走るでも俺とお前では目的が違う」
「そうなのですか?」
彼と自分で目的が違うなんてことは、リキにとってまったく想定外のこと。同じことを行っていれば目的も同じ、それが当たり前だと思っている。
「そうだ。俺は、ちょっと太っている」
「ちょっと?」
「そこは気にするところじゃない」
近頃はこんな軽いイジリも出来るようになった。最初はかなり怖く感じた彼だが、一緒にいる時間が長くなると、かなり他人に気を使う性格であることが分かる。まして、貴族である彼が平民の自分に気を使うなどというのは、よほどのことだ。
「俺とお前では走る時に体にかかる負担が違う。俺はお前よりも怪我をしやすい。だから俺は足の力をつけることよりも、呼吸を鍛えることを目的としている。苦しくなるまでの時間、苦しくなってから元に戻る時間が効果を図る目安だ」
「ああ、それは分かります」
呼吸についての自分と彼の違いは良く分かる。特に苦しくなってからの回復については、今はまったく比べ物にならない。
「でもお前は俺よりも怪我を気にする必要がない。まったくないとは言わないけど、無理をし過ぎない範囲で足に負荷をかけることが出来る」
「私はそれを、いえ、同時に鍛えるですか?」
「そう。こんな感じで同じことを行っていても俺とお前では意識することが違ってくる。これは目的として分かりやすい話だ」
ここまでは本題ではない。意味のない話ではないが、ここから先が彼がリキに伝えたいことなのだ。
「それをもっと細かく考える」
「細かくというのは?」
「川を遡る鍛錬をやっている。お前は体のどこが一番辛い?」
「……あれ?」
川上に向かって川の中を走る鍛錬は、結構辛い。だがどこが一番辛いと聞かれると、リキは答えに困ってしまう。全身という答えしか思いつかないのだ。
「川登りに限った話ではないけど、意識していると体のどこに力が入っているかが分かる。それと、どこに力が入りにくいかも」
「……力が入りにくい場所ですか。どこでしょう?」
「それは鍛錬しながら確かめろ。伝えたいのは俺とお前では筋肉の付き方にも違いがあるということ。俺たち二人の差だけじゃない。体の右側と左側でも差がある。そういうのを意識して見つけ、弱いところを鍛えるようにする」
これはリキと自分で同じ鍛錬メニューで良いのか、という点から考えたこと。今のリキに独自の鍛錬メニューを用意するというのも違うと思い、同じメニューでどう違いを出すかの答えを見つける為に、二人の違いについても考えてみたのだ。
リキに話した通りのことをやってみて、自分の体で確かめてみた。そうすると利き腕があるように、他の部位にも左右で違いがあることが分かった。それはきっと良くないことだと彼は考えたのだ。
「自分の弱点を、細かく体のこの部分というところまで見つけるということですか」
「そう」
「分かりました。やってみます」
とにかく彼を信じて付いていく。リキにはこの選択しかない。他にないから仕方なく選ぶということではない。彼を信じて駄目なら仕方がない。リキにとって彼は、そう思える相手ということだ。
◆◆◆
彼女について分からないことがある。彼女の実家は貧乏貴族家。ただ、貧乏ではあるが、古くから続く名家。アルデバラン王国によって滅ぼされた国の王家に繋がる、辺境伯家よりも歴史ある名家だ。その伝統と誇りが、収入を超える支出を生み出し、それでもなんとか体裁を整えようと無理を続け、結果として誰もが知る没落貴族となってしまったと彼の記憶にはある。
そんな見栄っ張りの家であるので、礼儀作法には関しては、かなり厳しい。代々続く礼式だけが今となっては唯一、他家に誇れるものとなっているのだ。
だが彼女は、そんな家に育ったとは思えないガサツさ。口調も仕草も庶民の娘と変わらないように彼には思える。そんなだからこそ、気持ちが解れてしまい、毎日のように会っていても抵抗を覚えなくなったのだが、だからといって疑問が解消されるわけではない。
今の彼女は彼が知る過去の人生での彼女と同一人物とは思えない。もしかしたら本当に人違いではないのか。そんな思いが、とうとう彼を動かした。
(……屋敷の場所、調べておけば良かった)
彼女の実家がある場所は彼の記憶にはない。彼にとって重要な情報ではなかったのだ。だが記憶にないのであれば、調べれば良かったのだ。そうしておけば、こうしてコソコソと彼女の後をつけるなんて真似をしなくて済んだ。
前を進む彼女は彼の存在に気が付いていない。尾行、というより気配を消すことは彼の得意のひとつ。泥棒の技の中でも代表的なものだ。
(……あいつ、寄り道するつもりか?)
彼女の実家がどこにあるか知らないが、今進んでいる道の先に貴族の屋敷などないことは分かる。貴族の屋敷があるのは城の周辺。表中央大通りをまっすぐに進んだほうが早い。だが今歩いているのは、表通りを外れて、さらに裏通りの路地を奥に進んだ場所。貴族の屋敷があるような場所ではない。
(なんか……怪しげな場所だな。こんなところを歩いていて、あいつ大丈夫なのか?)
周囲の雰囲気は徐々に怪しげなものに変わっていく。路上で寝転がっている人。昼間っから酒らしきものを飲んでいる人。どの人の目からも生気が感じられない。
そうかと思えば、目つきの鋭い、どう見ても堅気には思えない人もいる。こんな場所に来るのは初めてだが、彼女のような女の子が歩くには危険な場所だと彼には思える。
(……強いから平気か……いや、能力は高いけど戦闘そのものはまだこれからと言っていたな)
彼女は強い。だがそれは何年も後の彼女のこと。今の彼女は、同年代の子の中では飛び抜けた能力を有しているが、戦闘能力という点ではまだこれから。彼と同じで教えてくれる人がいないと言っていたのを彼は覚えている。
(あれって……まったく)
心配していたら案の定、怪しげな男が彼女に近づいてきた。こうなったらもう隠れている場合ではない。怪しい奴から彼女を守ろうと彼は動き出した、のだが。
「ただいま!」
「おお、帰ったか。危ないことはなかったか?」
「大丈夫」
彼女はその怪しげな相手と明るく挨拶を交わしている。
「そうかそうか。それで……そいつは誰だ?」
「そいつ……? げっ!?」
彼女が後ろを振り返ってみれば、そこには呆気にとられた様子の彼がいた。いるはずのない彼が。
「……あっ、えっと……初めまして。俺はただの通行人です。お気になさらずに」
「ただの通行人は、そんな風に挨拶しねえだろ? 娘のお友達、なのか?」
彼女も彼のことは知っている様子。ただの通行人なんて嘘であることは明らかだ。
「娘……はい。お友達というか……お友達です」
お友達以外の何と自分を説明するのか。結局、彼には思いつかなかった。
「そうか……それで? 用件は何かな?」
自分で友達なのかと尋ねたが、そうではないのではないかと父親は疑っている。彼の服装は上質な物など知らない父親が見ても、高価だと分かる。庶民の中でも一際貧しい家の娘である彼女の友達であるはずがないのだ。
「落とし物を届けに来ました」
これは、あらかじめ、彼女に見つかった時の為に用意しておいた言い訳。
「それはわざわざどうも」
「はい。これ」
実際に落とし物はある。食べきれなかったパンだが。
「わ・ざ・わ・ざ・どうもっ!」
苦々しさを、これ以上ないってほどに表情に出して、お礼には聞こえない礼を言う彼女。
「そんなに怒ることないだろ?」
そういう態度に出られると、彼も後を付けたことなど横に置いて、文句を言いたくなる。
「後をつけられて、怒らないでいられると思う?」
「それは……お前が変な方向に行くから、心配になって」
「……嘘つき」
「分かった。後をつけたことは謝る。ごめん。でも、心配したのは本当だ。なんか、物騒な雰囲気だから」
お前の父親が怪しい風体だから、とは言えない。それに全くの嘘でもない。治安の悪そうな場所を歩く彼女を心配したのは事実なのだ。
「……私の家はここ。君の家とは大違いでしょ?」
「大きさは俺の実家のほうが上だな。でも、違うことが良いこともある」
実家を自分の家だと心から思えたことなどない。不自由ない生活が出来るのはありがたい。将来の為の鍛錬を思う存分出来るのも生活の心配を一切する必要がないから。だが、そこに住む人々のほとんどは、彼にとっては敵。敵のアジトで暮らしているようなものなのだ。
「明日の食事にも困るような家より、悪いことなんてある?」
「ある……けど、それをお前に言ってもな。生活面では俺は遥かに恵まれている。それは分かっているし、それをお前が羨ましく思うのは当然だ」
「君って……金持ちには金持ちの、貧乏人には分からない苦労があるってことね?」
彼は人とは変わっている。良いところのほうが多いと思うが、悪いと思える面もある。どうして彼はそうなのか。それを彼女は知らない。知りたいとは思うが、触れてはいけないことのように思ってしまう。
「……良ければ、いや、嫌じゃなければ上がっていくか?」
「父さん!」
「いや、友達を玄関前で帰すのもどうかと思って」
娘の外見に惹かれて、悪い虫が付いてきてしまったのかと心配したのだが、どうやら本当に二人は仲が良いようだ。そうなると、一応は父親として、こう言っておくべきかと思う。
「……ああ、ではお邪魔します」
彼のほうも「嫌でなければ」なんて聞き方をされては、「いえ、帰ります」とは言いづらい。すぐ横で彼女が「嘘でしょ……」と呟いているが、ここは父親の気持ちを優先することにした。
「じゃあ、どうぞ。汚いところだが」
こう言われると、中はどれほど汚いのかと気になってしまう。だが、さすがにこれは謙遜というものだ。建物は古く、あばら家という表現がぴったりだが、中はきちんと掃除され、整理が行き届いている。物がないから、そう思うのかもしれないが。
「……部屋には入れないからね?」
「そんなの求めてない。でも、自分の部屋があるのか」
「一応ね」
彼にしてみれば、「ここで人が住めるのか」と思うほど狭い。全ての部屋を足しても、実家の屋敷の食堂より狭い。父親の書斎よりも狭いかもしれない。そんな広さなのだ。
「お前……平民だったのか?」
「これが貴族の屋敷に見える?」
「そうだけど……どうして鍛錬を? お前も王国兵士を目指しているのか?」
この家に生まれた彼女が何故、鍛錬を行おうと思ったのか。彼は素直にそれを疑問に思った。彼女も将来を知っている。これが分かっていれば、疑問に思うことなどないはずなのに。
「ま、まあ、そんなものかな。とにかくこの暮らしから抜け出したくて」
「……お前なら大丈夫だろ?」
彼女がこのままでいることはない。これを彼は知っている。だが、そういうことは関係なく、彼女の努力は報われるはずだと思ったのだ。
「まあ、私は可愛いからね?」
「えっ……?」
「何、その反応? ひどくない?」
「そうじゃなくて……お前……本当に大丈夫なのか? ここ、治安が良いとは言えなそうだ」
彼女の外見は悪人を引き寄せるのではないか。彼はそれを心配した。貧しい人が暮らす区間になど初めて来たが、そういう知識は持っているのだ。
「……まあ、大丈夫」
危険はある。だがそこまで彼に教えるつもりは、彼女にはない。
「本当か? もし、あれなら……なんて俺に言う資格はないか。人の人生をどうこうする力も権利も俺にはない」
もっと安全な場所で暮らせば、なんてことを彼女に言えるだけの力は、今の彼にはない。彼は北方辺境伯の孫。それだけであって、無位無官の本人には大きな力などないのだ。
「……私は君のそういうところが好き。気休めの言葉よりも、遥かに嬉しい」
「自分には力がない」と彼は言う。だが、そのない力で出来ることを行おうとしてくれる。彼女はそれを知っている。だからこそ、彼に頼ってはいけないと思う。彼との時は永遠ではないと彼女は思っているのだ。別れが決まっている彼に、我儘では済まない負担をかけるわけにはいかないのだ。
「あれだな。きっとお前は寝ていても全てに手が届く、便利な部屋で暮らしているのだろうな?」
彼女の言葉に揺れる心を、冗談で誤魔化そうとする彼。
「ちょっと? それどういう意味?」
彼女もそれに乗った。自分の気持ちが高鳴っていることに、内心で動揺していたのだ。
「俺の部屋はそうはいかない。何を取るにも歩かなくてはならない」
「それにしては体形が……もっと広い、今の十倍くらいの部屋に住んだほうが良いんじゃない?」
「なんだと!?」
なんて言い合いを続ける二人。それを聞いていた彼女の両親も大笑いだ。さらにはその両親が、彼女の過去の失敗談を語りだして、話は大盛り上がり。彼は時を忘れて、彼女の家で過ごすことになった――
「……狭いけど、温かいな。お前の家は」
「そう……じゃあ、特別にまた来ることを許してあげる」
その日はこれでお別れ。これ以降、彼の日課は少し変わることになる。午後の勉強の時間が、彼女の家で過ごす時間に変わる日が出来たのだ。