午前中は郊外で、これ以上は限界と思うくらいまで自分の体を苛め抜き、彼女と合流して情報を交換し合ったり、相談したりして時を過ごす。午後はまず勉強。歴史書を読み、その内容に、裏にある真実に思いをはせる。それが終わると剣術の稽古、なのだが、それはまだ真似事だ。自家に仕えている騎士たちが鍛錬している様子を遠くから眺め、その真似をするくらい。本格的な鍛錬は行えていない。これは彼の悩みだ。
真面目に学ぶことなくサボり続け、それを注意してくる騎士は脅したり、それに屈しなければ、両親に嘘をついて辞めさせようとしたりと悪行を重ねた報い。そうなのだが、その記憶のない彼には反省の思いなど湧いてこない。自分を避ける騎士たちに恨みを持ってしまう。いつかは何とかしなければならない。そう思っているだけで、時が過ぎている。悩みではあるが、他にやることが多すぎて、いっぱいいっぱいなので、焦りが生まれないのだ。
勉強と剣術の見学が終わると魔力の訓練。これはどんどんそれに割く時間が増えている。少しずつだが確実にやれることが増えてくる。それに比例して訓練すべきことも多くなるのだ。
さらに泥棒の技の他、いくつかの鍛錬を終える頃には、外はすっかり暗くなっている。夕食を部屋に運ばせ、紙に書き溜めてあるものを読みながら済ませる。この人生での記憶として定着しているものは整理し、そうでないものは繰り返し読む。
食事を終えると水浴び、日によってはお湯浴び。体を洗い流しながら、日々の鍛錬について考える。次の段階に行けるものはないか、もっと工夫したほうが良いものはないかなど、焦りに引きずられないように、冷静な頭で考えるようにしている。
部屋に戻って、また本を読み、ベッドの上で呼吸法の訓練。そうしているうちに、眠りに落ちている。これが彼の一日の流れだ。
「……それと、こいつと一緒に鍛錬することに何の関係がある?」
お昼少し前、いつものように彼女がやってきた。だが今日は一人ではない。同い年くらいの男の子を連れている。一緒に鍛錬をする為、ということだが、彼にはそうする理由が分からない。
「君はもっと人と接したほうが良いと思うの。一日の内で、私以外と話をすることなんて、ほとんどないでしょ?」
彼の日課を聞いていると自分以外の他人が一切、登場してこない。登場してきても会話をしているようには思えない。
「……仮にそうだとして、何か問題か?」
似たようなことを一日家庭教師のアオグストにも言われている。彼としてもまったく気になっていないわけではない。だからといって、積極的に他人と関わろうという気持ちにはなれていないが。
「問題でしょ? 友達が私一人なんて寂しいじゃない」
「お前は……まあ、良い。つまり、こいつを俺の友達にしろと?」
お前は友達ではない、とは最後まで言い切れなかった。否定した時の彼女の反応を恐れたのだ。ただ、連れてきた男の子を友達にしろという話については受け入れられない。
彼女の服も彼にとってはかなり粗末なものだが、男の子の服はそれ以上。それは服なのか、と尋ねてしまいたくなるほどだ。
「何か問題が?」
彼が口にしたのと同じ言葉で返してくる彼女。勝気な性格が表に出てきている。
「問題はある。まず、こいつは俺と友達になることを望んでいるのか?」
とてもそうは思えない。彼と彼女の会話を聞いている男の子は、明らかに怯えている。彼が怖いということではない。まだ彼個人は恐れられる存在ではない。身分違いなのは彼の服装を見るだけで分かる。そんな彼と友達になるという話がされているだけで、恐れ入っているのだ。
「……望んでいるわよ。そうじゃないと連れてこないもの」
「本当に?」
とてもそうとは思えない。だが求めていないのであれば、男の子はどうして素直についてきたのだろう、という疑問が生まれる。
「本当……とりあえず、座ってゆっくりと話をしましょう。食事でもしながら」
その答えは彼女が教えてくれた。実に分かりやすく。
「…………」
ジト目で彼女を睨む彼。
「な、何? いつものことじゃない?」
その視線に動揺を見せる彼女。彼に睨まれて、最後の一言は余計だったと気が付いたのだ。
「お前な……今日そうしたとして明日はどうなる? また新しい友達を連れてくるのか? 最終的に俺には何人の友達が出来る?」
この男の子に昼食を提供したとして、それで何になるのかと彼は思う。貧しい家の子は彼一人ではない。郊外で暮らしている農民は、極一部の豪農を除いて、皆、貧しい。彼だけを救っても事態は何も解決しない。
「そうだけど……私は彼を知った。知ってしまったら、放ってはおけない」
「だから、そうやって一人、二人を救っても」
「一人、二人も救えない人間にそれ以上の人を救えるはずがない」
彼のような理屈で、目の前で困っている人を見捨てる者は少なくない。「見捨てている」なんて意識はなくても、結果としてそういうことになる。それを彼女は知っている。
「……俺には、多くの人を救えるほどの力はない。こいつだけを救っても……いや、良い」
彼がこの男の子を救ったとしても感謝するのは男の子だけ。手を差し伸べられなかった他の人たちは、逆に恨みに思うだろう。こう思った彼だが、最後まで言葉にすることは止めた。人に感謝される為に、なんて考えは、彼女が嫌うものだと思ったのだ。
「今は一人だけでも、将来はもっと多くの人の為になる何かが出来る。そのさらに先はもっと多くの人たちの為に。私は、そうありたい」
「……お前はそうだろうな」
彼女はこの国の王妃になる。慈愛の心を持つ素晴らしい王妃候補だと人々に称えられることを彼は知っている。彼の人生が終わったあと、きっと今言ったことを実現するのだろうと彼は思った。たった一人の女性の為に生きる自分とは違うと。
「君だって、そうでしょ?」
「……俺にはそんな立派な志はない。ないが、今はお前より俺のほうが力がある。俺自身ではなく家の体だけどな」
「つまり?」
「一緒に鍛錬すれば良いのだろ? もちろん、こいつが望めばという条件付きだ」
目の前の男の子一人くらいを救うことはしてみようと彼は思った。そもそも救うなんて言えるほどのことではない。一緒に鍛錬をして、昼食を一人分多く用意させるだけのことなのだ。
「望むよね? お昼が助かるだけじゃない。強くなれば働き口を見つけられるかもしれないもの」
「あ、うん」
男の子が付いてきたのは昼食を得られるという理由だけではない。一緒に鍛錬をさせてもらうことのほうが重要なのだ。
「働き口……もしかして国軍兵士、それも職業軍人としての採用のことか?」
「そうそれ」
王国軍兵士には二種類ある。徴兵によって集められた兵士と、王国軍に就職して兵士となる職業軍人だ。職業軍人としての兵士は徴兵と異なり、期間の定め、戦えなくなれば強制的に引退だが、がない。その分、戦場に出る可能性が高まる。命の危険は大きいのだが、身分に関係なく広く門戸が開かれているということで、貧困から脱出する手段として目指す人は多いのだ。
「どうして俺が……」
「何? 引き受けてくれるって言ったじゃない」
「今のは愚痴。将来の王国兵士を支援しても俺には何の利もないからな」
王国軍が強くなっても、まったくとは言わないが、彼には利がない。彼個人としてではなく北方辺境伯家としての利がないのだ。
「自国の軍が強くなることは良いことでしょ?」
「俺の家は北方辺境伯……の軍属貴族だ」
うっかり、実家が北方辺境伯家であることを口にしようとしてしまった彼。途中で気が付いて、咄嗟に誤魔化した。
「ぐんぞく貴族って何?」
幸いにも彼女は誤魔化されてくれた。自分の知らない言葉のほうに気を取られたのだ。
「知らないのか? 四方の国境を辺境伯家が守っていることは知っているよな?」
「それはさすがに知っている」
「だが実際には辺境伯家だけで守れるはずがない。他国との戦争を一辺境伯家だけで出来るはずがないからな」
そこまでの力は辺境伯家にはない。そんな力があれば、それはもう独立国と同じ。王国はなんとかそこまでの力を与えないように、抑え込んできたのだ。
「そうなんだ……」
これは彼女の知識とは違っていた。辺境伯家は周辺国以上の力を持つ、王国にとって危険な存在。こう思っていたのだ。
「そこで軍事においては辺境伯家に従う軍属貴族家というのが存在する」
「……その貴族たちの忠誠ってどこに向いているの?」
軍属貴族の多くが辺境伯家に忠誠を向けている可能性を彼女は考えた。そうであれば辺境伯家はかなりの力を持っていることになる。
「ああ、お前、そういうことにも頭が回るのか。貴族家それぞれあるかもしれないけど、多くは王国に向いているはずだ。軍属貴族はあくまでも軍事において従うだけ。国王に任命された総大将の指示に他の将が従うのと同じことだからな」
だが彼の説明は彼女が考えていたのと違っている。彼が嘘をついているわけではない。これが、彼が知る範囲ではだが、事実なのだ。
「……今の話だと、王国軍は何をしているの?」
「王国軍は辺境伯家とその軍属貴族家軍だけでは守り切れなくなった場合の支援。東西南北どこにでも行けるように中央にいる。もちろん、東西南北にも大きな駐留地はあるけど、その兵の数はそれほど多くないはずだ」
「……そうなると王国軍兵士って思っていたよりも危険が少ないのかな?」
自分の知識とずれがあるが、連れてきた男の子にとっては良い話。彼女はこう思った。
「外国との戦いだけが仕事じゃない。国内治安維持も王国軍の仕事だ。貴族の叛乱なんて滅多にあることじゃないだろうけど、それ以外にも大集団の野盗討伐とか、野獣退治もそうか。あとは知らない。そんなに詳しく調べていない」
「そういうのこそ貴族家軍の仕事じゃないの?」
外国との戦争はほとんど辺境伯家と軍属貴族が行っている。その一方で、王国軍の役割は思っていたよりも軽い。彼女にはそれがチグハグに感じられた。
「お前ももっと勉強したらどうだ? 王国中央部の貴族家は、まったくと言って良いほど、軍事に力を入れていない。彼らの役目は王国を富ますこと。簡単に言うと商業や農業を盛んにすることだ。軍事にかける金はそちらに回される。だから王国軍が肩代わりすることになる」
「中央の貴族が優遇されているってこと?」
「優遇……それはどうかな? 王国としては王都に領地が近い貴族家に軍事力を持たせたくないのではないか? それに商業や農業が盛んになって税収が増えても、そのすべてが貴族家に残るわけじゃない。軍事負担分は国に徴収されることになる。実際には、負担以上のものが徴収されているか」
経済的に豊かになったとしても、王家を脅かすような存在にはなれない。中央貴族は軍事力を奪うことで、辺境伯家他の王国外周部の貴族家は軍事負担を重くすることで、王家から見た脅威を薄れさせる。そういう政略なのだ。実際には全てが王家に都合良く行くわけではないが、多くの場合はそうなっている。
「……王家は……王家は、あれなのかな?」
守護五家と呼ばれている有力貴族家の横暴が、王国の人々を苦しめている。彼女はこう思っていた。こうであるはずなのだ。だが今、彼から聞いた話では必ずしもそうとは言い切れない。中央貴族から適正な徴税をすればその領地の人々は苦しまなくて済むのではないか。その徴収した税金を辺境伯家を始めとした前線の貴族家に支給すれば、その領地で暮らす人々はもっと楽になれるのではないか。こんな風に思えてしまう。
「言葉にしない利口さはあったか。俺に言わせれば、どっちもどっちだな。お互いに自分たちの利益を最大にしようと考え、行動している。そうじゃなく、譲り合うことをすれば、少しは事態は変わるはずだ」
辺境伯家だって王家を出し抜こうと、裏では様々な策略を行っている。実際に、最前線にあっても軍事負担に苦しむことはなく、辺境伯家は贅沢な暮らしが出来ている。それを彼は良く分かっている。どちらが正義でどちらが悪なんてことはない。
ただ、どちらにも正義があり、どちらも悪でもある、とは彼は考えない。彼にとってはどちらにも正義はなく、悪なのだ。
「……譲り合い」
王家と貴族の譲り合いとはどういうものなのか。なんとなくそうしたほうが良いだろうと思うが、具体的なことまでは彼女には分からない。
「俺にも具体的にどうすれば良いのかなんて分からない。分かっているのは、どちらもこいつの未来なんて考えていないってことだ。ちゃんと考えていれば、きっと今、こいつはここにいない」
暮らしが楽であれば、望んで兵士になろうなんてしないはず。彼はそう思った。配属されたその日に死ぬ。そんな悲劇が当たり前にある軍人になろうなんて思わないはず。
だが、目の前の男の子にとっては、そんなリスクよりも日々の暮らしの苦しさのほうが勝っている。そういうことなのだろうと彼は考えた。自分の知らない苦しみを、目の前に立つ、同い年くらいの男の子は知っているのだと。
自分は貧困を知らない。以前、彼女に言われたことを彼は思い出した。
「……そうかもね?」
「それで? お前、名前は?」
今ここで、この件について話し合いを続けても虚しくなるだけ。王国の、貴族の、実家の嫌なところを思い出すだけだ。彼は王国についての話を止めて、話題を元に戻すことにした。
「……リキです」
「リキな。俺は、アオだ。午前中は毎日、走っているか、泳いでるか、とにかくこの辺りにいる。一緒に鍛錬したければ、好きな時に合流しろ」
「……時間は決まっていないのですか?」
好きな時に合流しろと言われても困ってしまう。どうすれば良いのか、自分では判断が出来ない。これまで、まだ短いと言える人生だが、そんな生き方はしてきていない。
「決めるのはお前だ。お前がどれだけ強くなりたいのか。その為にどれだけの時間を鍛錬に割くつもりなのか。それ次第で、俺が強制することではない」
だが彼は自分で決めるべきだと言ってくる。誰かに強制されて続けるような鍛錬ではない。そんな鍛錬では効果が出ない。こう思っているのだ。
「自分次第……」
「……自分の人生だ。自分で決断するべきだろ?」
自分にはそれが出来ない。これまで出来てこなかった。自分の人生を思うように生きられなかった。その後悔が、口惜しさが、彼にこれを言わせた。
非常識なことだ。平民に、それも彼のように力のない家に生まれた子供に、そんなことは許されない。力のある人々がそれを許さない。その力ある側の彼がこれを言うのだから。
「……分かりました。そうします」
この人は何者なのか。この人の言葉を信じて良いのか。こんな疑問が心に湧いてくるが、今はそれを考えることは止めておいた。とりあえず、許されたことをしてみよう。まずはそれからだとリキは心に決めた。