新たな人生が始まるとすぐに前世での彼の記憶は急激に削られていく。半月もすればそのほとんどは残らない。さらにその後も緩やかに記憶は薄れていく。
その進行と共に彼の感情も変化する。前世が終わる瞬間の憎しみと悲しみ、悔いと虚しさが入り混じった複雑な感情は徐々に解きほぐされ、子供らしい、という表現が適切かは分からないが、単純なものに変わっていく。敵だから嫌い。嫌な奴だから嫌い。さすがにここまでではないが、それに近い感情だ。
最後の瞬間の感情を持ち続けていられれば、運命は変えられたかもしれないと思ったこともある。出会った瞬間に命を奪う。そんな行動に出られるほどの強い憎みが消えないままであれば。
だが、それは叶わない。そんなことをさせない為に、世界は彼の心をリフレッシュしようとするのだ。
世界に逆らって、少しでも記憶を残せていることを喜ぶべきかもしれないが、そんな風にも彼は思えない。そもそも世界が自分自身に働きかけるなんてことは、まったく考えたことがない。せいぜい神の非情さを恨むくらいだ。その恨みも、彼の不信心さに比例して、弱いものだ。
ただ彼もただそうなるがままに任せているわけではない。抵抗はしている。記憶が残っているうちに、重要なことは書留め、それを何度も読み返すことで、新たな人生で得た知識として記憶するというものだ。
それを行うには残す記憶、諦める記憶を選択しなければならない。結末を変える為に必要だと思う知識を選ぶのだ。
そんな中、この何回かの人生で必ず残している知識がある。泥棒の技だ。何故、大貴族家の彼がそんな技を学ぼうと思ったのか。常に後手に回ってしまう口惜しさや、繰り返す裏切りへの怒りが彼に情報の重要性を教え、その情報を得る為にその技を必要とした。
ただ、最初にその知識を得るきっかけを得たのは偶然だ。彼の人生に偶然などあり得るのかとなるが、ストーリーとは関係のない場面では、割と流動的な人生を送っている。もちろん、その場面で彼がストーリーに干渉するような行動を起こせば別。逆に世界が干渉することになる。その境界は曖昧だ。プログラマー、ではなく神のみぞ知るというところだ。
とにかく、彼はその機会を得た。よりにもよって北方辺境伯家に忍び込むという大それたことを行った泥棒を、たまたま眠れずに起きていた彼は見つけ、捕らえた。その場で殺してしまってもおかしくない状況で、その時の彼は「この男の技は仕えるかもしれない」と思った。思って、その泥棒の命を助ける代わりに、それだけでなく報酬まで支払って、技を伝授してもらったのだ。
(……やっぱり、改めて習う必要はないかな?)
最初は偶然であったが、その後は必然。彼はその泥棒が侵入する日に待ち構え、捕らえて、技を伝授させていた。だが、今度の人生ではそれは必要ないのではないかと思っている。技が必要ないということではない。知識をもとに練習すれば、技を身につけられると考えているのだ。
(……指先の感覚は練習が必要だな)
父親に、信頼できない家臣たちにも内緒で手配した道具。特注品のそれを使って彼は、屋敷の鍵を開けようとしている。どうすれば良いのかは分かる。だが、実際に使うには指先の繊細の感覚が必要。それがなければ時間がかかり過ぎてしまう。
(開いた)
時間はかかったが鍵を開けることが出来た。時間を短縮するには、繰り返しの訓練が必要だが、それは行えば良いだけのことだ。問題にはならない。
(……道具作るのに金使ったからな。まあ、来月までは今ある鍵で練習しよう)
彼の鍵開けの技術は、前世においてはだが、かなりのものだ。習うだけでなく、北方辺境伯家の権力と財力を使って、あらゆる鍵を手に入れ、その構造を調べ尽くした。だがそれはもう少し大人になってから。今の彼では、まだ自由に出来る資金は少ないのだ。
(他にもやることは沢山ある)
学んだ技術は鍵開けだけではない。彼は泥棒の技と認識しているが、その中身はかなりのもの。国の諜報機関のメンバー、その中でも一部の者たちが持つ特殊技能に匹敵するものなのだ。
(とりあえず、寝るか)
ただ寝るわけではない。泥棒の技の訓練の為だ。ベッドに横になり、心を静める。徐々に呼吸を小さく、細くしていく。吐く息を、人の匂いを放つのを限界まで抑え込む。当然、ただそれを行うだけでは苦しい。そこからが訓練だ。目的は体の活動を最低限のものにすること。心臓の鼓動さえ、常よりも緩やかにするくらいの意識。動物が冬眠している時のように。命をつなぐ、ぎりぎりまであらゆる動きを抑え込む。
文字にするのは簡単だが、実際にそれを行うのは容易ではない。体が余計な反応をしないように、心を無にする。それでいながら意識を体の中に、わずかな動きさえ感じ取れるように。感じ取り、その動きを制御出来るように。細い血管の中を流れる血の流れさえ。
(……あっ)
意識が平常に戻って失敗。失敗なのだが。
(……魔力……今のは魔力なのか?)
指先をかすったように感じた、かすかな体内の動き。それは魔力ではないかと彼は思った。彼女が教えてくれた感覚。呼吸法の訓練で行うことは、魔力を掴むのと同じことではないかと思った。
普段は感じ取れない血液の流れさえ感じられるように。それが出来るのであれば、魔力も感じ取れるはず。実際に彼は、かすかな動きに触れた。そういう感覚を得た。
(もう一度)
今の感覚は偶然の産物、ということで終わらせてはならない。もう一度、最初から。まずは逸る気持ちを、大きく深呼吸して落ち着かせてから、呼吸を細めていく。意識を内に、内に、深く潜り込むように。外からの情報は音も空気の流れも、何もかもを遮断。自分の体の内だけが全て。体と意識を同化させていく。意識に触れる何かを探っていく。
何度も訓練すれば出来るようになる、というものではない。その時は、不意に訪れるものであることを、彼は過去の経験で知っている。
人としての気配を消す。生きている気配を消し去る。それでも体は生きている。体内は外から見えない、感じられない活動を続けている。それを感じ、抑え込み、さらに気配を消し去るのが、呼吸法なのだが。
(……掴んだ!)
最後まで行くことなく、彼は意識を表に戻した。呼吸法とは別に求めていたものを、完璧とは言えないまでも、手に入れることが出来たからだ。
(これを……ああ、逆を行うのか)
呼吸法では気配を消し去る為に体内の動きを抑え込む。だがそれでは意識を戻した時には体内の感覚は失われてしまう。魔力の活性化はそれとは違う。意識を戻しても感覚を失わないように、動きを抑え込むのではなく、激しくさせるのだ。だから「活性化」なのだ。
呼吸を整え、意識を内に。何度か行って、かつての感覚を掴んできた。人の体は外の世界とは比べるまでもなく小さい。だが、その小さな体に意識を潜り込ませると、一気に空間が広がったように感じる。様々な活動がその世界では行われている。血管を流れる血液に乗るようにして体中を巡る。あくまでも感覚。実際に血液に乗ることなど出来るはずがないが、そんな感覚で意識を全身に巡らせていくのだ。
今、ベッドの上に寝ている彼を見ることが出来る人がいれば、死んでいるのかと思ってしまうだろう。それくらい彼の活動は静かに、小さなものになっている。仮死、とまではいかないが、それに似た感じだ。
当然、そのような状態で長くいられるはずがない。それを可能にしているのは、全身に広がっている魔力。血液とは異なり、血管という通り道を必要とすることなく、全身に浸透していく魔力だ。
彼が学んだ泥棒の技は、魔法なのだ。
◆◆◆
「出来るようになったの!? すごいじゃない!」
次の日、彼が彼女に昨晩のことを話したら、彼女はとても驚き、褒めてもらえた。
「俺のこと馬鹿にしているだろ?」
だが彼は褒められているようには思えない。彼女は自分よりも遥かに先に行っている。上から目線で、馬鹿にされていると受け取ってしまう。
「どうして馬鹿にしていることになるの? 私は褒めているの」
そんな彼の気持ちを彼女は分からない。彼が思っているような見下した気持ちなど一切ないのだ。分かるはずがない。
「……お前はとっくに出来ている」
「えっ? 何? 私に負けていると思って、悔しがっているの?」
彼の気持ちを、少しだが、分かっても彼女は笑顔。そんな風に彼が思っていることが面白い。子供っぽくて可愛いと思うのだ。
「……悔しがってはいない」
「どうして? 悔しがったほうが良いでしょ?」
「どうして?」
「どうして」が続く。彼には彼女の、彼女には彼の考えていることが分からないのだ。
「悔しいと思えば、それが頑張る力になる」
「ああ、確かに……悔しくは思っている」
「何、それ? 私に言われたからって、急に悔しがらないでよ。ああ、さては、悔しいと思っているのを認めるのが悔しかったのね?」
相手が何を考えているか分からないなんてことは、普通のことだ。二人が敵対関係になる間柄だがらということではない。分からないから尋ねる。そうしてお互いに相手を理解していくのだ。
「それじゃあ、子供みたいだろ?」
「子供でしょ?」
転生前の彼女はもっと大人だった。彼も、何度も人生を繰り返していて、自分が子供だという意識がない。そんな相手のことを知らない二人は、お互いに相手のほうが子供だと思っているのだ。
「……まあそうだけど」
「その子供が魔力の活性化を出来るようになったのだから凄いことだわ。そして私も凄い」
新しい人生が始まって精神が子供に戻っている彼に比べると、彼女のほうが大人だ。彼女の精神年齢がこの世界の大人のそれと同じかというと、それは違うが。
「まだ静かにしていないと出来ない。こうして話しながら、運動しながら出来ないと意味がない」
「それは慣れでしょ? 活性化が出来るようになったのなら、あとは繰り返し練習すれば良いだけ」
「だから、活性化するにしても、まず魔力を掴まなくては駄目だろ?」
呼吸法を使わなければ彼にはこれが出来ない。これでは実戦では役に立たない。常に、戦闘が始まる前に時間の余裕があるはずがない。そうであれば詠唱を使ったほうがマシだ。
「……えっと、活性化してから掴む、でしょ?」
「魔力を掴まないで、どうやって活性化する?」
「あれ? こう、なんとなくこの辺りに有って、それをぶわって」
彼女は自分のお腹をなでながら、彼に説明しているが、抽象的すぎて理解出来るはずがない。
「……魔力って腹にあるのか?」
「丹田って知っている?」
「ああ、呼吸する時に意識する場所。へその下あたりだな」
呼吸法における最初の段階で意識するところ。呼吸と意識を整える、準備段階だ。
「呼吸する時、そんなところを意識するかしら?」
「気持ちを落ち着ける時だ。いつもそうしているわけじゃない」
「深呼吸って、そう? あっ、もしかして正しい腹式呼吸ってそうなの?」
彼女にとっては新しい知識。彼の言う呼吸について興味を惹かれている。
「そのなんとか呼吸は知らないが、普通の呼吸とは違う。俺は毎晩、寝る前にやっている。丹田に意識をおいて、呼吸を整える。安定したらそこからさらに呼吸を静かに、小さくしていく。感覚は一定に。意識は内にこもる感じ」
「それをするとどうなるの?」
「頭が空っぽになる。実際に空になるわけじゃあないからな」
彼が学んだ呼吸法は気配を消す為のものだが、効果はそれだけではない。特別なものではない、とは言い切れないが、気持ちが落ち着くや、頭の疲れが取れた感じがするなどの効果も感じられるのだ。
「当たり前。なんとなくわかったけど、そんなの毎晩やっているの?」
「一応、勉強も鍛錬も頑張っているつもりだからな。頑張った分、休む時はしっかりと休めるようにしないと。これはなんとなくだけど体も楽になる気がする」
体の効果は魔法に近い。魔力を体に巡らすことで、回復魔法ほどの効果はないが、人の体が持っている自己免疫力や自己再生力を刺激するのだ。
「ええ、それ良いな」
要はヨガやマインドフルネスのようなもの。ヒーリング効果がある呼吸法だと彼女は理解した。彼に劣らない鍛錬をしている彼女としては、彼の話を聞くと自分もやりたくなる。
「……教えようか?」
「ほんと? ありがとう!」
満面の笑顔を向けてくる彼女。こういう反応になるのは彼も分かっている。何度も見た笑顔なのだ。
「じゃあ……ああ、あそこ。あそこに寝て」
背中が痛くならないような平らな場所を選んで、指さす彼。
「……エッチなことしない?」
「するか!?」
お約束の彼女の冗談に、お約束のように大きく反応してしまう。何度も会って話をしているうちに、こういうやり取りが自然になってしまったのだ。
場所を移動して、彼女が地面に寝転がったところで呼吸法の説明が始まる。
「まず、丹田に俺が手を置くから」
「ほんとにエッチなことしない!?」
これは少し本気が混じっている。冷静に考えれば、地面に横になって男の子にお腹をなでられるというのは、ちょっと異常な状況だ。彼女は少し恥ずかしくなっている。
「しない! 自分の手でも良いけど、他人の手のほうが刺激が強い。意識を集中するには良いんだ。俺もこうやって教わった」
「……じゃあ、良い」
ちょっと恥ずかしいが、呼吸法を教わる為であれば仕方がない。新しい知識を得ることに彼女は貪欲なのだ。
「俺の手ではなく触れられている自分の体に意識を向ける」
「分かった」
「話さなくて良い。最初に段取り説明したほうが良いか」
ひとつひとつ順番に説明していては、彼女は意識を集中できない。そう思った彼は、最初に手順を説明しておくことにした。
「まず俺の手に触れられている場所に意識を向ける。そこから意識を沈める」
「意識を静める?」
「これは多分、人によって違う。皮膚からもっと体の中に入っていく感覚。俺は仰向けの状態なので皮膚の上の感覚を下に落としていく、沈めていくイメージを持っている」
「意識を沈める」は彼の感覚。これについては人それぞれやりやすいイメージがある。訓練を繰り返して彼が得たイメージがそれだったということだ。
ただ彼女の問いはこういうことではない。
「ああ、静かにじゃなくて下に落とすね」
「そこ? まったく……続ける。そうなったら俺は手を離す。俺が手を離したことを感じるようでは駄目。意識を体の内に向けられていないってことだ」
「思っていたより難しそう。でも、魔力の活性化に似ている気がする」
ヒーリング効果を得るだけにしては、やけに難しそう。彼女はそう思った。ヒーリングというより魔力活性化の訓練のようだと。この感覚は正しい。
「そう。俺はこの呼吸法をしていて魔力を掴んだ。体内に意識を向けるという点で同じなのだと思う」
「そっか。それなら出来るかも。やってみる」
「ああ」
彼女のへその下に彼は手を置く。目をつむって呼吸を落ち着かせる彼女。意識を丹田のあたりに向ける。
(ん?)
自分の手に何かが触れた。彼女の服とは異なる感覚。それが何かと手のひらに彼は意識を向ける。
「……あっ、んあっ……」
「えっ?」
それと同時の漏れる彼女の声。普段の彼女からは想像できない大人っぽい、艶のある声だ。ただ、それはわずかな間のこと。
「もう! この変態! エッチなことするなって言ったでしょ!?」
すぐにいつもの彼女に戻った。
「ええっ!? 俺は何もしていないから!」
「体の中を撫でまわした!」
「そんなこと出来るはすないだろ! 俺は……俺は……もしかしてアレ、お前の魔力か?」
体の中を撫でまわすなんてことが出来るはずがない。彼にそんな真似をした心当たりが、あった。手の平に触れた何かを探った覚えがあった。
「……多分。ええっ……魔力を他人に触れられるとあんな感覚なの?」
「知らない。どういう感覚だ?」
「変態……変態、変態、変態! 変態に痴漢された感覚よ!」
口で説明するのも恥ずかしい感覚。これを彼女は変態の一言で表現した。
「俺は変態じゃない! 呼吸法を教えようとしただけだ!」
彼にとってはただの悪口だが。
「……お嫁に行けなくなるところだった……私はリサ。貴方の名前は?」
「いきなり、何?」
「お嫁に行けなくなったら責任取ってもらおうと思って……は冗談で、さすがに名前を知らないままは変かなと思って」
彼らは自己紹介をしていない。彼は自分の素性を彼女に知られたくないので、わざと隠していた。彼女のほうも同じだ。彼が何者かは分かっていないが、自分のことは知られたくない。これは将来の為だ。将来、有名になった時に過去の自分を知られたくない。こう考えているのだ。
「ああ……お前はリサというのか?」
「そう」
彼の知る彼女の名前はリサではない。では人違いだったのか、とは彼には思えない。そうであれば良いという思いはあるが、そんな期待をしても裏切られるだけだという思いがある。
「俺は、アオグスト」
彼女が偽名を使うのであれば自分も。そうでなくても本名を名乗るつもりはないが、嘘をつく後ろめたさは薄れた。
「アオグスト……なんかお爺さんの名前みたい」
ある意味、正解。アオグストは彼の一日だけの家庭教師であった老人の名だ。
「名前を付けられる時は皆、赤ん坊だ。名前に子供っぽいはあっても爺みたいはない」
「確かに。じゃあ、よろしくね。アオ」
「……よろしく、リサ」
俺の名はアオグストだ、という言葉は飲み込んだ。どうせ偽名だ。アオグストであろうと縮められてアオになろうと同じこと。今はそれで良い。
自分の本名を知られれば、今のようではいられなくなる。自分も今のように彼女と接することは出来なくなる。今の二人の関係は仮初のもの。そうであれば誰でもないままに、関係を続けて行けば良い。彼はそう思った。