ルーク=コリン=ハイウォールは謎の人物だ。ルークの一族の直系に生まれ、幼くして、宿霊の儀式を行ってもいないのに守護霊を宿した。それも文句なしの強力な守護霊を。それが明らかになった時、アストリンゲント王国の有力者たちは、事実を知ることが出来たのは一部の人たちだけだが、希望を抱いた。百年以上続く戦争を勝利に導く英雄が、アストリンゲント王国を建国した英雄王の再来が、誕生するかもしれないと期待したのだ。
ただ王国の有力者たちは現実を知っている。どれだけ強力な宿霊者であったとしても、たった一人で国同士の戦いを勝利に導けるはずがない。期待を現実に変えるには、彼と共に戦う仲間が必要だ。救国の五家の始祖たちのような仲間が。
そう考えた彼らは、とても国を動かす実力者とは思えないような愚かな試みを始めた。英雄たちの中核となるだろうルークの周りに同世代の、それも守護戦士になれる可能性が高い子供たちを置いておけば、その中から彼と同じような強力な宿霊者が出てくるのではないかと考え、実際にそれを実行したのだ。特殊幼年学校の設立だ。
だがその試みは失敗した。強力な宿霊者が新たに生まれるどころか、その中心となるはずだったルークを失うことになった。人々の希望は絶望に変わった。それでも彼らは戦い続けなければならない。英雄たちの誕生という夢が泡となって消えても、戦い、勝利しなければならないのだ。
ただこれまでと同じでは勝利を得ることは出来ない。アストリンゲント王国は変わらなければならない。そしてまた有力者たちは愚かな試みを始めることになった。国の指導者を決め直すという、激しい内乱に繋がるかもしれないような、馬鹿げたゲームを。
長く続く戦争で、人々は病んでしまっているのかもしれない。もしくは、全てをやり尽くしたと考え、藁にもすがるような思いで、愚かと分かっていても、それを行うしかないと思っているのかもしれない。王国の現状を、ティファニー王女はこんな風に思っている。
(……いけない、いけない。勉強に集中しないと)
気が付くと思考が目の前の本から離れていた。ティファニー王女は明日から士官学校にまた通い始める。欠席してしまった講義の内容を勉強しておこうと、こうしてテーブルに座っているのだ。
(……真面目、なのね)
勉強に集中出来ない理由はある。テーブルの向こう側ではサーベラスが調べものをしている。謎の人物が、すぐ目の前にいるのだ。それがなんだかティファニー王女は不思議だった。自分が人生を狂わせてしまった、勘違いのようだが、人物とこうして一緒に勉強している状況が信じられないのだ。
「何か?」
「えっ?」
そのサーベラスがじっと自分を見ている。それにも気づかないほど、ティファニー王女の思考はどこかに飛んでいたということだ。
「……何もないのであれば良いです。失礼しました」
サーベラスの視線がまた手元の書物に向く。城の書庫から持ち出してきたものだ。その全てが守護霊に関わる内容が書かれたものであることをティファニー王女は知っている。書庫から持ち出す許可を得る上で、それは確認されている。
だが守護霊の何についてサーベラスが調べているのかまでは知らない。かなり速いペースで頁をめくっている様子から、特定の事柄であることが分かるくらいだ。
「……何について調べているのですか?」
少し躊躇いながらも、ティファニー王女は直接尋ねてみることにした。お互いにもっと知り合いたい。そういう気持ちがあるのだ。
「守護霊についてですけど?」
何を当たり前のことを、という顔で答えてくるサーベラス。話を曖昧に終わらせたくて、わざとそういう顔を見せているのだ。
「守護霊の何について調べているのかを聞きたいのですけど……駄目ですか?」
ティファニー王女はそれで諦めなかった。サーベラスが、わざと惚けて見せていることに気づいていないからでもある。
「……王女殿下にはいずれバレますか。宿霊者と守護霊が入れ替わるという現象が過去になかったかを調べています。事例がなくても、元に戻す方法が分かればそれで良いのですけど」
「……どうして、そのようなことを調べているのですか?」
宿霊者と守護霊が入れ替わったなどという話をティファニー王女は聞いたことがない。そんなことがあり得るとも思わない。サーベラスが、そんなことを調べるのに時間を費やしていることが不思議だった。
「ご自身の守護霊に聞いてみたらいかがですか?」
「えっ……」
「……あれ? もしかして守護霊と話が出来ない、いや、会話ではなく情報伝達が出来ないのですか?」
ティファニー王女であれば、自分の守護霊が何者であるか見抜くはず。そう考えて、サーベラスは正直に入れ替わりの事実を話そうと考えたのだが、彼女の反応は思っていたものとは違っていた。
「……私は出来ません。でも、貴方は出来るのですね?」
「出来ません」
「……出来ますよね?」
「出来るはずがないじゃないですか。五家の当主じゃあるまいし。私は見習い守護兵士ですよ?」
守護霊から情報を得ることが出来ないのであれば、ルーが何者かを見抜くことは出来ないはず。サーベラスは話しかけた真実を誤魔化すことに決めた。かなり強引であっても。
「……嘘つき」
「はい?」
「私は貴方のことをもっと知りたいと思います。クリフォードのことも。共に戦う仲間なのですから、お互いを知って、信頼しあえる関係になりたいのです」
「……相手を知ることと、信頼できるかは、別だと思います」
真実を知ったティファニー王女が、自分を信頼するとはサーベラスには思えない。多くの人の血で汚れている自分を、なんとも思わずに受け入れるような性格ではないと考えているのだ。
「サーベラスは相手を知らないまま、信頼出来ますか?」
知ったからといって必ず信頼できるようになるとは限らない。これはサーベラスの言う通りだとティファニー王女も思うが、何も知らない相手を信頼出来ないのは間違っていないと思う。
「知っても知らなくても信頼出来ません。知ったと思うのは相手の一面に過ぎません。それも自分に見せても良いと思う一面です」
「そうかもしれませんけど、それではしゃみしすぎます」
「…………あっ、大丈夫です。言いたいことは分かりました」
言い直そうとするティファニー王女を制するサーベラス。気を使ったつもりなのだが、ティファニー王女の赤く染まった頬は、すぐには元に戻らない。
「私はまったく気にしませんので、王女殿下も普通に。いちいち恥ずかしがっていたら会話になりません」
「……そうですね。でも、言い訳に聞こえるかもしれませんけど、普段は出ないのです。今はたまたま」
「でも……『しゃみしい』ですか……前は『さみちい』だったような?」
初めて会った時もティファニー王女は「寂しい」を上手く言えなかった。それをサーベラスは覚えている。サーベラスもその時の様子を実際に見ているが、さらにルーの鮮明な記憶を何度も伝えられて、覚えてしまったのだ。
「よく覚えていますね?」
ティファニー王女の頬がわずかに膨らんでいる。またサーベラスにからかわれていると思っているのだ。
「あの頃は、実際に寂しかったですから。その境遇から救おうとしてくれた女の子のことは、よく覚えています」
サーベラスにからかっているつもりはない。過去の出来事を、ルーの感情だが、懐かしんでいるだけだ。
「……本当に毒を?」
病に倒れたのはティファニー王女が貼ったお札のせいではなく、毒を盛られたからだとサーベラスは言った。本当にそうなのか、まだティファニー王女は気になる。お札を貼ったあと、守護霊が消えたという事実があるのだ。
「前にもお話しした通り、明確な証拠はありません。ただ、お札のせいでないことだけは確かです」
ティファニー王女はまだ悪霊払いのお札のせいだと思っている。それに気づいたサーベラスは、それをはっきりと否定した。
「でも悪霊、ではなくて守護霊がいなくなった覚えが……」
「王女殿下が本気で心配してくれているのが分かったので、気を使って、気配を消しただけです。消え去ったわけではありません」
これは事実。可愛い女の子がルーの為に頑張っているので、その気持ちに応えてやろうと思って、サーベラスは気配を消してみせたのだ。
「守護霊が?」
「……そうなりますね。王女殿下も気配を抑えたければ、これをどうぞ」
こう言ってサーベラスがテーブルの上に転がしたのは黒い宝石がついたネックレスだった。
「これは、何ですか?」
「身につけると守護霊の気配を抑える……力を弱めるが正しいですか。そういうものです」
「そんなものがあるのですか?」
そのような物の存在をティファニー王女は知らない。どういう目的で、誰が作った物なのかが気になる。
「私には無用の物ですので、差し上げます。元々の持ち主はこれを自分の素性を隠す為に使いました。ただ本来の目的もそうであるとは限らないと私は思います」
気配だけを消して、強さはそのまま。そういうものではないことは、実際に試してみて分かっている。このネックレスを身につけると霊力が弱まる。霊力の強さを隠す為だけに作られたものとは、サーベラスには思えない。他の使い道もすぐに思いつけるのだ。
「……例えばどのような用途を考えているのですか?」
「もっと強力な物であれば、身につけた宿霊者の霊力をほぼ無力に出来るかもしれません。もっと凄くて、近づくだけで霊力が使えなくなるようなものであれば、さらに便利ですね」
「分かりました。調べてもらいます」
使い方によっては、かなり危険な道具。その存在を無視するわけにはいかないとティファニー王女は考えた。ただ、自分では調べることは出来ないので、ウイリアム王子を通して、王国の機関に依頼することになる。
「それが良いと思います」
「……つまり、サーベラスの守護霊は意思を通じ合うことが出来るだけでなく、自分で自分の気配を消すことも出来るのですね?」
上手く話を逸らすことが出来た。サーベラスのこの考えは甘かった。
「かつては出来たということです」
だがすでにサーベラスは答えを用意していた。会話をしながら、ルーにも手伝ってもらって、思いついたものだ。病に倒れる前の強力な守護霊を宿していた時のこと。これは良い答えだと二人とも思っている。
「……優れた守護霊を宿すというのは、どういう感覚なのですか?」
「それ、私に聞くことですか?」
「サーベラスは英雄王の再来と呼ばれるほどの力を宿していました。そんな周囲の期待をどう思っていたのか、気になって……」
背負うものの重さ。それをティファニー王女は感じている。それを背負わせてしまったと思っているウイリアム王子は、良い相談相手であっても、共感はしてくれない。父であるアレクシス三世王は、ティファニー王女よりも背負うものは大きいかもしれないが、やはり共感は生まれない。これについて相談出来る相手がティファニー王女にはいないのだ。
「まだ子供だったので何も考えていません。周囲がそんな風に思っていたことも知らなかったので、王女殿下の想いは分かりません」
ただサーベラスもティファニー王女に共感出来ない。彼は、ルーは、周囲の期待など感じていなかった。自分の存在は否定されているとまで思っていたのだ。
「そうですか……」
「……ただ、王女殿下は周囲の期待に応える為に戦おうとしているのですか? 目的がそれだけであれば、戦うことは諦めたほうが良いと思います」
「諦めるだなんて……そんなことは出来ません」
背負ったものを放り出すなんて真似は出来ない。ティファニー王女はこう思う。そんな無責任なことは出来ないと。
「私は……いえ、私は平気ですが、この先、王女殿下に心から仕える人が出来た時、貴方はその人たちに、自分の為ではなく他の人の為に死ねと言うのですか?」
「……私は仕えてくれる人を死なせるようなことは」
「戦いというのは綺麗ごとでは済まないと思います。貴方は私にこう言ったではありませんか。貴方の罪を私のものとして受け入れると。貴方の戦いとは別の話かもしれませんが、貴方はこの先、人殺しを命じることになるかもしれません。人を殺しに赴く人は、自らが死ぬ危険を背負って行くのです。それを全て他人のせいにするつもりですか?」
ティファニー王女は人の上に立つ身。人を殺せと命じることも、死ねと命じることも、言葉は違っても、あるとサーベラスは考えている。その命令は、彼女が他人の期待に応える為に出すものであってはならない。それこそ無責任だとサーベラスは思う。
「……私は、弱いですね」
向けられる期待に押しつぶされそうになり、そこから抜け出す言葉をサーベラスに求めてしまった。それが自分の弱さ。弱いからプレッシャーに耐えられないのだとティファニー王女は思った。
「勝ち目がない戦いに立ち向かう人が弱いはずがありません。期待に応えられない自分を恐れるのであれば、最初から応えようとしなければ良いのです。貴方は、貴方がやりたいことを行えば良いのです」
「私がやりたいこと」
「……それで失敗しても、誰かが貴方の想いを引き継いでくれる。そうであれば、道半ばで倒れるとしても最後の時を笑っていられます。そうであることを私は知っています」
理不尽な死に方であったはずだった。それでも彼女は最後の時に笑みを浮かべていた。何故、そういられるのかサーベラスには分からなかった。分かるのは自分とは違うということ。自分と彼女を隔てる深い溝の存在だった。
「貴方はそう思って生きているのですね?」
「いえ、違います。私は想いを引き継ぐことから逃げ出した人間です。だから……そうあった人を忘れられないだけです」
自分は彼女とは違う。彼女との約束も守れない。そんな自分に生きる価値はないと何故か思った。生きるべき人が死に、死ぬべき自分が生きているのは間違いだと思った。今も同じ。死ぬべき自分は早く死に、生きるべきルーに人生を返さなければならないと思っている。
「そうでしたか……」
サーベラスはいつ、どのような経験をしたのか。忘れられない人とは何者なのか。彼には多くの隠し事がある。それをティファニー王女は分かっている。結局、今も彼は謎の人物のままだ。
その謎の人物がこうして自分の目の前にいる。この不思議をどう考えるべきなのか。運命という言葉がティファニー王女の頭に浮かんだ。そのすぐ後に、運命という言葉に頼ることの愚かさを反省した。運命が全てを解決してくれるわけではない。自らの努力が運命を切り開くのだ。こう考えるべき。きっとサーベラスはこう言う、とティファニー王女は思った。