「僕ってけっこう格好良いかも」。近頃、ルーはそう思うようになっている。霊としての自分のことではない。元々は自分の体であったルークのことだ。切れ長の瞳に長いまつ毛は女性的であるが、幼さが薄れ、精悍さが表れてきた顔は、ひ弱さを感じさせなくなってきている。骨と皮だけであった体も、まだ痩せてはいるが、異常さを感じさせることはなくなった。肉、それもそれなりに鍛えられた筋肉がついてきているのだ。ここまで来るのにおよそ二年。ルークは十五歳になっている。
これまでの努力を思うとルーは泣きそうになる。自分が努力した結果ではないと分かっていても。血の滲むような努力。まさにこの言葉通りの努力をルークは続けて来た。きしむ関節を激痛に耐えながら動かし続ける。それがようやく、それなりに自分の力だけで動かせるようになるとすぐに体を鍛え始めた。筋肉などないに等しい体での鍛錬。一度しゃがんで立ち上がろうとするだけでも、額には脂汗が滲む。倒れても倒れてもそれを繰り返すルーク。ミアが本気で怒って、それを止めたのは一度や二度ではない。見ているほうが辛くなってしまうほどなのだ。
それでもルークは体を鍛え続けた。食事を人並にとれるようになると、それはさらに激しさを増していった。実際には、最初の頃のそれは、普通の体の人には、それほど厳しい内容ではない。だが、それをほぼ体力が無の状態から行っているルークの姿は、ルーには感動なしでは見られなかったのだ。
「……まあまあかな?」
ルーが初めて聞く言葉。これまで一度もルークは鍛錬の結果に満足している様子はなかったのだ。
「ここまで良く鍛えられました。私もお仕えしてきた甲斐があります」
ルークの言葉に侍女のミアも感動している様子だ。二年間毎日見ていて、ほとんど表情を変えない、常に冷たい雰囲気を漂わせているミアが時折見せる感情の変化を、ルーも分かるようになっている。
「これで最後みたいな言い方しないで」
「……お役目は果たしたと思います」
ミアにとっては二人三脚で過ごしてきた二年間。ようやく、ここまできたという達成感がある。ただこれで最後のような言い方をしたのは、それだけが理由ではない。自分の任務の終わりを感じているのだ。
「まだミアさんには手伝ってもらいたいことがある」
「それはもちろん、お手伝いします」
任務の終了が告げられるまではルークの頼みを断る理由はない。ルークの鍛錬が今日で終わるわけではないことも分かっている。
「じゃあ、戦い方を教えて」
「えっ……?」
「体力がついてきたから、そろそろ次の段階と思って」
ルークが満足した様子を見せたのは、次の段階に進める体力がついたと思ったから。体づくりはこの先もずっと続けるつもりだが、いよいよ最終段階、あくまでも一つの区切りとして、に入れると思ったからだ。
「……それは私ではお役に立ちそうにありません。旦那様に相談してみましょうか?」
「そうかな?」
「なっ?」
いきなり顔面に伸びて来た拳。予想外の素早い攻撃にもミアは反応した。反応してしまった。最小限の動きで拳を避けると、体を横にずらして伸ばされたルークの腕を押さえる。そのまま関節を決めに行くところで、ミアは自分の失敗に気が付いた。
「僕くらいは余裕で相手出来そうだけど?」
「……気づいていましたか……そうだろうと思っていましたけど」
「何のこと? 僕はミアさんにこの先も僕の相手をして欲しいだけさ」
逆にミアの腕を押さえて、蹴りを放つルーク。その蹴りをミアは膝を曲げるだけで躱した。そこから体を沈めて、ルークの手を引き離す。今度はルークが膝を曲げて、蹴りを躱す番だ。
「……反応は悪くありません。ですが体力がまだ万全とは言えませんね?」
「それは分かっている。でも体力がつくのを待っていられない。今の体力でどこまで戦えるかも確かめないと」
「……確かに、それは必要かもしれません」
今度はミアが先手をとってきた。放たれた拳を躱すルーク。舌打ちは自分の動きに満足していない証。次撃もミアに奪われてしまったのだ。防戦一方のルーク。
(……どういうこと?)
ルーには何が何だか分からない。今、目の前で繰り広げられている戦いは、これまでの鍛錬とは質が違う。相手を傷つける訓練で、その術をルーク、だけでなくミアも身につけているのだ。
「反応は悪くないという言葉は取り消します」
「分かっている」
ミアの攻撃にルークは対応しきれていない。避けるのに精一杯で反撃に移る余裕がないのだ。
「持久力にも問題がありそうです」
「た、確かに」
ある程度、筋力はついたといっても心肺機能は劣ったまま。これまで鍛錬を行ってきた中で、自然と少し回復しているが、鍛えてきたわけではない。部屋の中では持久力を鍛える鍛錬は行えていない。負荷が足りないだけ、とも言えるが。
「……ここまでにしましょう。これ以上は意味がありません」
ルークは思うように動けなくなっている。これでは体の動きを確かめることにはならない。動けないという事実はもう分かったのだ。
「……こ、これは……よ、予定、外だった」
持久力の不足はルークの頭の中にはなかった。最終段階に入れるという判断は甘かったのだ。
「部屋の中でも鍛える方法はあるはずです。調べておきます」
「ああ……あ、ありがとう」
つまり部屋の外には出してもらえないということ。だからといって諦めるわけにはいかない。今の環境で鍛えるしかないのだ。
「……汗が凄いですね。お体を拭きましょうか?」
「えっ……ああ、お願いしようかな?」
ミアに体を拭いてもらうことには慣れている。排泄物の始末までしてもらっていたのだ。今更、恥ずかしがることではない。そうなのだが、ルークは普段とは違う反応を見せている。ミアに、いつもとは異なる雰囲気を感じているのだ。
ミアのほうはいつもと変わった様子を見せず、ルークの衣服を脱がしていく。いつもと違うのはルークを立たせたまま、体を拭き始めたこと。いつもであれば服を脱いだあとは、ベッドの上で体を拭いているのだ。
「……どう受け取れば良いのかな?」
さらにミアはいつもとは違う行動を見せた。汗をぬぐっていたタオルはすでに床に落ちている。今、ルークの体を撫でているのはミアの唇、そして舌だ。
「……普通に仕事をしているだけだと受け取ってください。この先はいつもと変わりません」
「そう……だね」
ミアの体がゆっくりと沈んでいく。その唇はルークの下半身を滑り、ゆっくりとそれを口の中に含んでいく。これはいつもと違う行動ではない。ある時点から、ベッドの上でも行われていたことだ。違いがあるとすればミアの動き。いつものただの処理とは異なる卑猥な動き。
(……ち、ちょっと?)
それにはルーが驚いてしまう。ルークがミアに体を触られることで反応してしまうようになった時から、ミアがそれをおさめる場面は何度か見ている。初めは正視、という表現はたとえだが、出来なかったが、ミアがいかにも仕事という感じで手際良く処理していることが分かるようになってからは、それほど気にならなくなっていた。
だが、今、目の前で行われている行為は、明らかにそれとは違う。そういう知識を持たないルーでも、体を持たないルーでも、男としての本能を刺激されている気分になるものだ。
(悪い。ちょっと静かにしていてくれ)
(……するけど)
ルークもいつもとは違うことを感じている。それは最初に問いを発した時からだ。
「これが仕事?」
もう一度、ルークは確認したくなった。実際にそれを声にした。
「……仕事以上にはなりません。ただ隠す必要が……正体を隠す必要がなくなったので遠慮するのを止めただけです」
「そうか……そうだね」
あくまでも仕事。そう割り切らなければならない。ミアがルークの世話をしているのは、それを命じられているから。任務の終了を命令されれば、すぐに離れることになり、二度と会うことはない。それはルークにも分かっている。分かっているから、尋ねてみたのだが、違う答えを得ても何かが変わるわけではない。二人の人生がこの先も重なり続けることは、決してないのだ。
◆◆◆
行為を終えて、ミアは部屋を出て行った。その瞳は、はっきりと分かるほど、愁いを帯びている。ルーはますます、訳が分からなくなった。分からないのであればルークに聞けば良い。そう思ったルーだが、すぐに問いかけることは出来なかった。ベッドに腰かけているルークの表情も、声をかけるのを躊躇うような暗いものだったからだ。
(……大丈夫?)
少し時間を空けて、ルーがかけた言葉はこれ。
(ああ……俺は平気)
(ミアさんは平気じゃない?)
ルークの表情が暗いのは、無理をしている可能性もあるが、ミアのことを考えて。こうルーは考えた。もともとミアについて聞きたかったからの問いでもある。
(彼女の正体は教えたよな?)
(ああ……そうだね)
初めてミアがルークの処理をした日。ルーは本気で怒って、ルークを責めた。ずっと尽くしてくれた彼女に、性的な要求をしたことが許せなかったのだ。それに対してルークは謝罪をした上でこう言った。「彼女の正体を確かめたかったからだ」と。
それだけでは意味の分からなかったルーは、その後も説明を求めた。それに対するルークの説明はこうだ。「彼女がしてくれた行為は普通の人が行うようなものではない。体を売ってお金を稼いでいる女性か、体を使って仕事をする間者だ。前者が侍女として仕事をしているとは思えないので、ミアさんの正体は後者。間者だ」と。
その時は納得していなかったルーだが、ついさっき、ミアが戦う姿を見て、それは事実だったのだと認めざるを得なくなった。
(彼女のような人が……なんというか……対象を異性として意識してしまうようになると、この先、辛いだろうなと)
(分からない。どういうこと?)
(この仕事が終われば、彼女には次の仕事が待っているはず。ちゃんと出来れば良いけど)
(それも分からない!)
ルーにはルークが何を言いたいのか分からない。ルークはミアが自分に好意を持っている可能性をわざと口にしていない。彼女の次の仕事がどういうものかも。ルーに伝えるのを躊躇ったのだ。
(……また違う男に同じことか、それ以上のことをしなければならない仕事)
(そんな酷いことを彼女に!?)
(酷いことって……それをさせるのはルーの一族だ)
ミアが仕えているのは間違いなくルーの一族。彼女に命令するのは一族の誰かだ。ルーの一族について詳しいことを知らなくても、そうであることをルークは知っている。
(そんな……どうして?)
(前に話さなかったか? ルーの一族も含めて、この国の駒について。それに、ルー自身も調べたはずだ)
この国には代々、霊力を使って戦う軍人を輩出する一族がある。『救国の五家』と呼ばれる『王=キングの一族』、『女王=クイーンの一族』、『僧正=ビショップの一族』、『騎士=ナイトの一族』、そして『城=ルークの一族』。ルーの家は城の一族だ。王の一族はそのまま王家。では女王の一族は何なのかというと、国王の他に女王も存在するわけではない。女王の一族と呼ばれているのは亡国の危機を救った英雄王の王妃となった女性の実家だ。
「だったら王妃の一族にすれば良かったのに」とルーは言ったが、「ずっとその一族の女性が王妃になるわけではないだろ?」とルークに否定された。そもそも一族の名称はチェスの駒からきている。その選択がそもそも間違いではなかったのか、とはルークも思っているが。
その五家は、優れた能力を持つ軍人を、守護戦士と呼ばれる軍人を輩出する一族、というだけではとどまらない。一つの軍団を形成しているのだ。当主が軍団長でその下に一族の中でも優秀なものを将校として配置。実際には一族だけでは足りないので、五家とは無関係であるが、高い霊力を持つ守護霊を宿した者をスカウトし、将校としている。それらを総称して守護騎士と呼ぶ。さらにその下に兵士が置かれる。王国軍の兵士とは違う。霊力は弱くても守護霊を宿している兵士、守護兵士=ボーンと呼ばれる人たちだ。
さらに五家は特別な能力を持たない一般兵士も抱えている。当初はそうではなかったが、各家が自家の勢力を伸ばしていく中で、そのような形になったのだ。
(……戦争と男性の相手をすることに何の関係があるの?)
一族についての知識はある。だが、それとミアの仕事がどう結びつくのかが、ルーには分からない。
(戦争は戦場で戦うことが全てではない。その前の準備や見えない戦いのほうが重要なこともある。それを行う組織も必要だってことだ)
(準備……見えない戦い……?)
ルーは戦争についての知識は乏しい。それよりも優先して調べることが沢山あるのだ。
(相手の情報を集めることや、相手に嘘の情報を与えて混乱させること。他にもあるけど、一番多いのはこれ。じゃあ、相手から情報を得る方法は?)
(……もしかして、拷問?)
とりあえず思いついたのはこれ。戦争じゃなくても、無理強いする時に暴力を使うことはある。子供の世界であっても。
(無理やり聞き出しても、相手にそれを知られては情報の価値はかなり下がる。拷問して、そのまま帰さなくても、何かあったと悟られる。手段としては良いものじゃない。金で買収するという手もあるが、信用度が低い。金の為に作り話をする奴もいるからな。裏どりをすることになって、手間がかかるだけだ)
(じゃあ、どうするの?)
(弱みを握って脅す。一番は、情報を漏らしたことを相手に気づかせないで得ることだな)
間者の働きについてすらすらと説明するルーク。どこから得た知識なのだろうとルーは思ったが、これに関しては、なんとなく想像がつく。間者であるミアと対等に、戦闘経験などないルーにはそう見えたのだ、戦えるルークもまた、なんらかの形で戦争に関わる立場の人だったのだろうと。
(それもどうやって?)
(男女の関係になって。人の弱みには色々あるけど、女性関係もそのひとつ。人や家によるが、愛人の存在を知られたくない人は結構いる。それに脅しに使えなくても、体の関係は気持ちを緩める。軽い誘導で大事なことを話してしまったりする。一つ一つは些細な情報でも、それをつなぎ合わせることで重要な情報になるって普通にあることだ)
(……彼女はそういう仕事を)
それを自分の家がやらせている。暗い気持ちがルーの心に広がっていく。
(すぐにどうかは分からない。彼女は見た目よりもずっと若い。もしかしたらこれが初めての仕事かもしれない。そうだとすれば、外の仕事をするにはもっと訓練が必要になるはずだ)
(どうして、それが分かるの?)
自分は「どうして」ばかりだとルーは思う。知識を広げたつもりだったが、まだまだ足りないのだ。分かっていたことだが、改めてそう思った。
(それは……仕事に慣れていれば対象に感情移入することなんてない。心を遮断しないと仕事は成功しないし、続けられない)
男を喜ばす技がまだ未熟だ、とは伝えない。ただ伝えた内容も事実だ。人ではなく物に接している。そう思えなければ、仕事は辛く、心が参ってしまう。だからルークは自分を物ではなく人として、異性として見てしまったかもしれないミアを心配しているのだ。
(心を遮断……ルークは出来ていたの?)
伝えてしまってから、聞くべきではなかったとルーは反省した。だが反省しても遅い。
(……俺は……ここにいる)
ルークの答えはこれだけ。それでもルーにはその意味が、少し分かった。きっと、心を遮断出来なかったからルークは死んだのだと。過去の話をする時に、ルークから漏れ伝わってくる感情。何もない闇の中で吹き荒れる、身も心も凍らせる氷風のイメージ。それがルーの心も闇に沈ませる。流れることのない涙が、流れた気がした。