最初は小さな、揺らぎのようなものだった。言葉の中にある音、イントネーションのどちらとも違う揺らぎ。上手く説明出来ないそれが何を意味するかなど、最初はまったく分からなかった。
その意味を教えてくれたのはカードゲーム。相手が嘘、はったりを口にしている時は言葉が揺らぐのだと気づいた。そうなるとその手のゲームでは、ほぼ無敵。どうにも出来ない強運を持つ相手には通用しないが、駆け引きの勝負になればこちらが圧倒的に有利となり、カードゲーム好きの仲間内で自分はヒーローになった。その仲間たちが少数派であったとしても、運動が得意な奴らには馬鹿にされていたとしても、自分は満足だった。自分たちの世界で輝ければ、それで良かったのだ。
そんな世界が一変したのは、子供の遊びだと思っていたカードゲームが、大人の世界にも存在すると知った時。それで金を稼げると知った時。ギャンブルは自分の天職だと思った。
実際に自分は成功した。さすがに百戦百勝とはいかなかったが、その世界で強者と呼ばれる存在になれた。大金を手に入れることが出来た。世界は一気に広がった。
友達が増えた。恋人も出来た。それも複数人。さらに一夜限りの相手となると、数えるのも馬鹿馬鹿しくなるほどだった。誰も彼も自分が手にした金目当て。それはすぐに分かった。「俺とお前は親友だ」「貴方のことを愛しているわ」。彼らが口にする言葉には揺らぎがあった。自分の周りには嘘つきしかいなかった。
最初はそれに傷つくこともあったが、やがて慣れた。世の中は嘘まみれ。嘘をつかれているのは自分だけではないと分かっていた。本気で愛し合っている振りをしているだけで、どの恋人にも、夫婦にも嘘はある。親友、仲間、そんな言葉こそが嘘。真実だけを語り合っている者たちなんて、どこにもいなかった。それが当たり前。世の中なんてそんなものだと思っていた。その一方で、心の奥底で奇跡を願ってもいた。
いつか自分を本当に愛してくれる人が現れる。それを求めていた。そして奇跡は訪れた、はずだった。
「私は貴方のことなんて好きではないわ」
「嘘だ。君は僕を愛している」
自分を好きではないという彼女の言葉には揺らぎがあった。彼女は自分を愛してくれていた。
「……貴方と人生を共にするつもりはないの」
「どうして? 君は僕を愛してくれている。一緒に生きていきたいと思っているはずだ」
嘘をついても無駄だ。自分には嘘を見抜く力がある。彼女の本当の気持ちが分かる。
「……仮に私が貴方のことを愛しているとしても、貴方とは生きていけない」
「嘘……じゃない?」
彼女の言葉には揺らぎがない。そんなはずはないのに、揺らぎを感じ取ることが出来なかった。
「嘘か本当かがそれほど大事? 貴方にとっては言葉が全てなの?」
「言葉が全て?」
彼女が何を言いたいのかが分からなかった。分からないことが答えだと気づけなかった。
「……私は愛されたいの。私の子供を愛してほしいの。そういう人と生きていきたいの」
「君は僕を愛している。君の子は僕の子だ。僕たちは一緒に生きるべきだ」
彼女は自分を愛してくれている。金目当てではなく、自分自身を愛してくれている。二人の間には子供も生まれている。結婚するのが当たり前。嘘をついて別れようとする彼女の気持ちが分からなかった。
「……私は貴方を愛している。子供は貴方の子でもある。だから、何? 貴方は私たちを愛していないでしょ?」
「……そんなことはない。僕は君たちを愛している」
「嘘。そんな嘘で、私は騙されないわ」
彼女は自分の言葉を嘘だと判定した。そんな能力は持たないはずなのに。彼女には人の言葉の真偽を判定する資格なんてないのに。
「君に何が分かる?」
「貴方には何が分かるの? 貴方には私の気持ちなんて分からない! 考えようともしないじゃない!」
「僕には分かる!」
自分には分かる。人が嘘をついているか、真実を告げているか分かるのだ。彼女は嘘をついている。嘘をついて自分から離れようとしている。自分と子供を引き離そうとしている。そんなことは許せなかった。
「分からない! 分かるはずがない! もう私の人生に関わらないで! 私と子供を自由にして!」
「分からないのは君だ! どうして離れ離れにならなくてはいけない!? 君は僕を愛している! それは真実だ!」
「……ええ、愛しているわ。そして愛しているのと同じくらいに貴方を憎んでいる」
「……真実、だ」
彼女は真実を話している。やはり、自分を愛していた。そして憎んでいる。自分は分からなくなった。彼女は自分を愛しているのか、憎んでいるのか。どちらなのか判断出来なかった。
「いつか貴方の心は私に向いてくれると信じていた。子供が出来たことを喜んでくれると思っていた。でも無駄だった。私はもう待てない。子供の為にも別の人生を選ぶわ」
「別の人生って……」
彼女の言葉に揺らぎはない。彼女は嘘をついていない。自分は彼女に心を向けていなかったのか、子供が出来たことを喜ばなかったのか。そんはずはないと思うが、彼女は嘘をついていない。
「貴方には関係のない人生よ。街も出るわ。もう二度と会うことはない」
「……君は騙されている。誰かが君に嘘をついているんだ!」
「騙されてなんていない! 彼は私を……! 私を……愛してくれているわ。貴方と違って」
「…………」
やはり彼女を騙している奴がいた。それが分かった。彼女を嘘から守らなくてはならない、そう思った自分は、彼女を騙している男を排除しようと考えた。自分にはそれをやらせる力、金があった。そして、それは、成功した。その男の言葉の真偽を確かめることなく。
彼女を救った。そのはずだった。だが彼女は、嘘つきがいなくなったのに、自分から離れて行こうとした。まだ他にも彼女を騙している奴がいる。そいつを探させた。そいつが接触出来ないように、彼女を安全な場所に置いて守り続けた。そのつもりだったのに。
「絶対に貴方を許さない。死んでからも恨み続けるわ」
こう言って、真実を告げて、彼女は自分の目の前で死んだ。子供もすでに死んでいた。奇跡は、自分を、彼女と子供を幸福にはしてくれなかった。
しばらくして自分は捕まった。彼女を監禁し、殺したという容疑で。そんなことはしていない。自信を持って、自分は真実を述べた。嘘をつかなかった。その結果、罪に落とされた。真実は自分を救ってくれなかった。
分かっていたことだ。この世界は嘘にまみれている。真実なんてものは存在しない。そんな世の中なのだ。
「彼女は貴方に心を見て欲しかったのではないかしら? 心を見せて欲しかったではないかしら?」
「心を見る?」
「嘘か本当かは、それを語る人の心次第だと私は思うわ」
占いに使うカードを操りながら彼女はこう言った。刑期を終えて、無事に生きていられる幸運に感謝すべきだと頭では分かっていたが、心は生きることを喜んでいない。途方に暮れている自分に、何か道しるべを示して欲しいと思って、たまたま目についた占い師に話を聞いてみた結果だ。
「……人によって嘘か真実かは変わるということか?」
「そうよ。そうね……私たちはこの世の中を変えるわ。もっと良い世の中に、人々が幸福に暮らせる世の中に変えようとしている」
「……真実だ」
世の中を変える。そんなことが出来るはずがない。出来るはずがないのに、彼女の言葉に揺らぎはなかった。
「同じことを貴方が言ったらどうかしら?」
「……嘘になる」
自分はそんなことが出来るとは思っていない。同じことを言っても、それは嘘だ。
「今はそうね。でも、貴方が本気でそうしたいと思えば、それは真実になる。どうかしら? 私たちと一緒に真実にしてみない?」
「一緒にというのは?」
「一緒にいましょうってこと。別にすぐにその気になれなんて言わないわ。私たちの側にいて、私たちを見て、その心を知って、自分はどうしたいかを考えて欲しいの。お互いを知り合うには時間が必要でしょ?」
「……分かった」
この時の自分はまだ言葉にとらわれていた。彼女は真実を告げている。だから信用出来る。そんな風に考えて、その日、初めて会う彼女と一緒に行動することを決めたのだ。
これが彼女、トゥナさんではなく、ディアーク様、自らが誘ってきたのであればどうだったか。自分はどういう選択をしたのか。それを比べることが出来ていたら、その時点で自分は理解出来たかもしれない。大切なのは言葉ではなく、その真偽だけではなく、それを語る人なのだということが。
自分は死んだ彼女の言葉だけを聞いていた。その言葉の裏にある心を知ろうとしなかった。子供が確かに自分の子であると、彼女の言葉で判断し、それで終わらせた。子供はどちらに似ていたのだろう。思い出せなかった。彼女は自分の何を好きになってくれたのだろう。聞くことをしていなかった。自分は彼女のどこが好きだったのだろう。考えていなかった。
それを知った時、ようやく自分は自分の罪の重さを知った。だからこそ人を裁く仕事に就いた。自分の愚かさを忘れない為に。
もう愚か者には戻りたくない。だから自分は、自分の耳ではなく心を信じることにした。信じるべきは自分の心に届く言葉を口にした人物。その人物がどう考え、何を選ぶか。それを知るまでは自分は何もしない。それで死ぬことになっても後悔はしないと。死んだあともずっと自分を、恨みであろうと、想い続けてくれている彼女に恥じるような真似はしたくないと決めたのだ。
◆◆◆
ノートメアシュトラーセ王国に新王が立った。オトフリートがその新王だ。オトフリートとその同調者たちが押さえているのは王都シャインフォハンのみ。間違いなく対抗勢力になるであろうジギワルドと彼が率いる軍勢を野放しにしたまま、王を名乗るのは性急すぎる。なんていう意見は出なかった。そのような状況であるからこそ、王となる必要があるのだ。
オトフリートたちが恐れるのは、ジギワルドが王を名乗り、中央諸国連合加盟国の支持を取りつけてしまうこと。聖神心教会の支援を受けておいて、中央諸国連合の盟主であり続けようなどという考えは虫が良すぎる、ということにはならない。中央諸国連合が対立しているのはベルクムント王国とオストハウプトシュタット王国の両大国であって、聖神心教会ではないのだ。聖神心教会が異能者と呼ぶアルカナ傭兵団を良く思っていないのは分かっていても、両国と教会を一体だと考えている人はいない。そこまでの影響力を聖神心教会は持っていないのだ。今は。
とにかく今は自勢力の拡大を急ぎたい。オトフリートたちはそれを最優先に考え、色々と動いている。そしてもっとも身近な動きは。
「審判のヨハネスが言うことを聞かない? 何故だ?」
「分かりません。とにかく味方にはならないと言い張っております」
アルカナ傭兵団内で反乱に同調していなかった人物を味方にしなければならない。シュバルツとキーラの二人を逃がしてしまった時点で、計画は大きく狂っているのだが、だからといってそれで諦めるわけにはいかないのだ。
「騙そうとしたのではないか?」
「ヨハネスの能力は皆、分かっております。意味のない嘘はついていないはずです」
「そうだと良いが……」
本当にそうなのか。セバスティアンの言葉をオトフリートは疑っている。セバスティアン本人はまだ信頼できる相手だとオトフリートも思っているが、他の者たちには同じだけの信頼を向けられていないのだ。
「どうされますか?」
「言うことを聞かないからといって、殺すわけにもいかない。気が変わるまでどこかに閉じ込めておくのだな」
神意のタロッカに認められた人物を、安易に殺すわけにはいかない。オトフリートたちも神意のタロッカとそれに認められる人物を集めることは続けるつもりなのだ。それを引き継ぎ、実現することが自分たちの正当性を示すことになると考えている。
「肝心の真意のタロッカなのですが」
「見つかったのか!?」
オトフリートたちにとって最大の誤算の一つが、神意のタロッカを手に入れることが出来なかったこと。それがなくてはアルカナ傭兵団を、名称は別にして、受け継ぐことの正統性がない。
「見つかったと言いますか、持っているだろう人物を特定出来ました」
「それは誰だ?」
「ヴォルフリックです」
「…………」
シュバルツが神意のタロッカを持っていると聞いて、黙り込むオトフリート。城外にいたはずのシュバルツが、それを持っていることの意味。すぐにそれに気が付いたのだ、
「エアカード殿が調査した結果、アーテルハイドが息子にそれらしき物を渡してるところを見ていた者がおりました」
「……何故、すぐに奪おうとしなかった?」
神意のタロッカを入手することは絶対に成功させておかなければならなかったことのひとつ。それをただ見ていたということが、オトフリートには許せない。
「目撃者は教会の人間です。それが何かを理解していなかったのでしょう」
「……そうだとしてもクローヴィスを逃がさなければ……は意味のないことか」
たられば、を口にしても意味はない。そういうことは他にいくつもあるのだ。
「クローヴィスはヴォルフリックに合流して、そのまま王都を脱出しました。クローヴィスがそのまま持っている可能性もありますが、一緒に行動しているはずですので、在り処は同じでしょう」
「奴の足取りは?」
持ち主は分かっても、その持ち主がどこにいるか分からなければ手に入れようがない。答えは分かっているが、オトフリートは一応、聞いてみた。
「分かりません。ジギワルドと合流していなければ良いのですが……」
「それはない」
シュバルツがジギワルドと行動を共にする可能性は極めて低いとオトフリートは考えている。シュバルツにはそれを選択する理由がない。もし、復讐を考えるにしても自分たちの力だけでそれを行おうとするはずだと。
「……そうだとすると、一番可能性が高いのはベルクムント王国の王都ラングトアということになります。人を送るべきだと思うのですが」
シュバルツの行先で最有力なのはもともと暮らしていたラングトア。他に宛がないのであれば、そこに人を向かわせるしかないとセバスティアンは考えている。ただ、問題は誰を向かわせるかだ。
「……他の者たちの足取りは掴めたのか?」
行方不明なのはシュバルツだけではない。人選については他の状況を聞いてから考えることにした。
「ベルントが大怪我を負ったのは間違いないようですが、死体はまだ見つかっておりません。ルイーサも同様です」
ベルントとルイーサはかなり激しい戦闘を行った結果、かなりの深手を負わせたことが確認されている。致命傷となってもおかしくない怪我だ。
「……逃げ切った可能性もあるな」
「可能性は否定出来ません。トゥナ、ルーカスの二人は目撃情報もありません。ルーカスの仕事柄、隠れて逃げる方法を知っていたとしてもおかしくありませんので、一緒に逃げている可能性があります」
「二人が……ジギワルドと合流する可能性はあるな」
トゥナとルーカスの繋がりをオトフリートはよく知らない。それはそうだ。二人には特別な繋がりなどなかったのだから。二人が行動を共にする理由は何かと考えた結果、オトフリートは仲間を殺された復讐を思いついた。それはジギワルドと共通の目的に出来るものだ。
「トゥナの未来視がどのような悪影響を与えるかは分かりません。ですが、ルーカスが敵に回れば、こちらが不利になるのは間違いありません」
ルーカスとその従士たち、という呼び方はルーカスのチームでは微妙だが、の諜報能力は敵に回すと厄介だ。すでにキーラの情報網は失われているが、ノートメアシュトラーセ王国内での戦いであれば、その影響はまだ少ない。距離が近いので馬などでカバー出来る。だが情報を集めることも出来ないのであれば、カバーする意味もなくなってしまう。
「……リーヴェスをラングトアに向かわせろ」
「相性が悪そうですが?」
ラングトアには戦いに行くのではない。最終的にはそうなるかもしれないが、まずはシュバルツを説得して、味方につけるように試みることが必要だとセバスティアンは考えている。その点で、リーヴェスは不適任だとも。
「他の者が相手でも同じだ。奴を無条件で信用する者などいない」
「だからこそ現場にいさせなかったのですが……失敗でしたか」
リーヴェスは反乱当日に旗幟を鮮明にしていない。逃げた者を捕らえる、もしくは殺す必要が出た時に、味方を装って近づけるようにする為に距離を置かせていたのだ。というのはリーヴェスへの説明。実際は信用ならない人物なので、計画の詳細を教えなかっただけだ。そうであれば最初から仲間にしなければ良い、というわけにもいかない。リーヴェスも神意のタロッカに認められた人物なのだから。
ただ周りに信用されていないリーヴェスでは、味方を装うことは難しい。役割を与えたことは失敗だったとセバスティアンは考えた。
「相性の悪い二人なら手を組むこともないだろう。そもそも奴が簡単に説得に応じるはずがない。失敗して元々くらいで考えれば良いのだ」
「……そうだとしてもヴォルフリックの力は」
セバスティアンはシュバルツの能力を高く評価し、味方にするべきだと思っている側。失敗して元々、とは考えづらかった。
「奴を説得するには俺自らが足を運ばなければ無理だろう」
「……すぐには難しいですか」
今、オトフリートがノートメアシュトラーセ王国を離れるわけにはいかない。まして、ラングトアまでの長旅となれば、はたしていつ実現出来ることか。セバスティアンにとって、もっとも大切と思う人材、そして神意のタロッカが手に入らないという事実は、強い不安を生むものだ。
「居場所さえ分かれば、母上に頼んで交流を続けてもらうという方法もある。リーヴェスには居場所を突き止めることだけを任せるのでも良い」
「なるほど」
オトフリートの母、アデリッサはノートメアシュトラーセ王国内でもっともシュバルツと親しい人物。周囲からはそう見える。実際に愚者のメンバーを除けば、その通りである。
ただ、いくらアデリッサであってもシュバルツの生き方を変えるのは無理。オトフリートにはそれが分かっているが、セバスティアンや他の者たちを安心させる為には、こう言うしかない。シュバルツを味方に出来る可能性も、何人かにとっては、オトフリートに従う理由になっているのだ。
ヨハネスが聞けば、一発で嘘と見抜くその言葉も、他の者たちには分からない。そういうことだ。