両親の顔はよく覚えていない。幼くして亡くしたというわけではない。両親と暮らしていた記憶はある。ただ、窓一つない昼でも暗い部屋の中から、外の光を背にした人の顔はよく見えなかったというだけのことだ。実際はそれだけではないのだが、ルイーサはそう思っていた。思い込もうとしていた。
物心ついた時には、ずっと暗い部屋の中で過ごしていた。外に出ることは許されなかった。何故外に出てはいけないのか、はじめは分からなかった。そんなことを考えることもなかった、というのが正確だ。外の世界を知らなければ、部屋を出ていきたいと思うこともない。暗い部屋の中がルイーサの世界の全てだった。
その世界が広がったのは両親が与えてくれた絵本によって。自分の知らない世界がそこには描かれていた。絵本と共にそれを読む為の光が与えられた。手の届かない高い位置に採光用の小さな窓、というより穴が空けられられたのだ。わずかに外の音が聞こえて来た。すぐそこに、自分の知らない世界があることを知った。それでも外に出ることは許されなかった。
外の世界が存在することを知っても、両親以外の誰かがいることを知っても、寂しいとか辛いとか思うことはなかった。ルイーサにはルイーサの世界があった。友達がいた。ルイーサが望めば、友達はいつでも、どんな姿ででも現れてくれた。絵本に描かれていた世界の中で、一緒に遊んでくれた。
ただその友達といると、両親に酷く怒られた。泣かれたこともある。二度と友達を呼び出すなと言われた。何度も約束させられた。だが、友達という存在を知ってしまうと、その存在を失うことが辛くなる。会えないことが寂しくなる。ルイーサは両親に隠れて、友達に会うようになった。両親が部屋を訪れる機会も減っていった。
ある日、世界が変わった。きっかけはちょっとした思いつき。外の世界を覗いてみたくなった。でもそれは出来ない。ならば、せめて友達には見せてあげたいと思った。出口が、ルイーサでは決して届かない高い位置にある採光用の穴だけでも、友達には何の支障もない。ルイーサがそう望めば、友達は一瞬でそこに登れた。そこから外に飛び出して行けた。
少しして外が騒がしくなった。何が起きているのかルイーサには分からない。外に出た友達が何を見ていても、ルイーサには分からないのだ。
彼女は知らなかった。絵本の世界から飛び出してきた友達は、人々に恐怖を与える存在で、こんな場所にいるはずのない存在であることを。大きくなる騒音を煩わしく感じて、友達に帰ってもらったが、騒動は収まらなかった。次の日も、その次の日も外で誰かが騒いでいる。何を騒いでいるのかは、ルイーサには分からない。その時は分からないままに終わってしまった。ルイーサは部屋を出ることになったのだ。二度とその場所に戻れなくなったのだ。
遊び相手はいつからかルイーサを助けてくれる存在になった。追われていても逃げるのは簡単だ。自分そっくりの友達を、隠れている場所とは別の方向に走らせれば良い。それでも追う者がいれば、別の友達を、さらに別の友達を。逃げ切れるまで友達に助けてもらえば良かった。その友達のせいで追われる身となっているのだが、ルイーサにはそれが分からなかった。恨む相手は追いかけてくる者たち。自分を捨てた両親。友達は関係ないと思っていた。
ただ、逃げ続けているのは馬鹿馬鹿しくなった。一方的に追われていることに我慢がならなくなった。友達と協力して反撃することを考え、実行に移した。追っ手を倒すことが出来た。
追われる機会は激減した。その代わりに、まれに現れる追っ手は、それまでよりもかなり手強くなった。友達に頼るだけでは駄目だと思い、自分自身を鍛えることにした。
強くなれば、その強さを頼られることも増えて来た。金の為に人を殺した。なんとも思わなかった。数えきれないほど何度もルイーサは、彼女にとっては、意味なく殺されそうになっているのだ。金を稼ぐという理由があるだけマシだと思った。
経験を重ね、稼げる額も大きくなった。ルイーサを捕らえようと思う者も、殺そうとする者も現れることはなくなった。自分は最強。自分を脅かすものは何もない。ルイーサはそう思うようになった。
ただ、幼い頃と変わらず、いつも一人だった。友達が友達ではないことを大人になったルイーサは知っている。友達だと思っていた存在は、自分が思う通りに動くだけの影。幻だった。
寂しいとは思わない。ずっと一人だったのだ。そう自分に言い聞かせていたルイーサだったが、暮らしは荒れていった。酒に溺れ、誰彼かまわず喧嘩を売った。力を誇示する事だけが目的の毎日だった。周囲はそんなルイーサを恐れ、さらに近づく者がいなくなった。言葉を発する機会さえ、減っていった。一人の世界をルイーサは生きていた。
そんな生き方を一変させたのはディアークとの出会いだった。自分に近づいてきたディアークに、いつものように喧嘩を売った。そして、負けた。完敗だった。
それでも何度も挑み続けた。何度戦っても勝てなかった。動けなくなるまで戦い続けた。そんなルイーサを応援してくれる人が現れた。「惜しかったですね。次は頑張りましょう」と言ってきた女性はディアークの仲間。はじめは馬鹿にされているのかと思ったが、そうではなかった。怪我の手当をし、食事の用意もしてくれた。それだけではない。戦い方のアドバイスまでしてきた。
おとぎ話に出てくるお姫様かと思うくらいに美しいその女性、ミーナは強かった。幻影を使わない、素の自分では絶対に勝てない。ルイーサがそう認めるほどの実力だった。
ディアークに挑み続ける日々。それは彼らと共に過ごす日々。ルイーサがこれまで経験したことのない、本当の友達と過ごす毎日に変わるのにそう時間はかからなかった。強く大きいディアークはルイーサの憧れの存在となった。生まれて初めて恋というものを知った。強く美しい、人懐っこい笑顔が可愛らしいミーナは妹のような存在であり、憧れの存在でもあった。ディアークとミーナなら、心から二人の幸せを願えた。
ミーナが亡くなったことでもっとも心の平衡を失ったのはルイーサなのかもしれない。叶うことのない想いは繋ぎ止めてくれていた重しを失い、さまようことになった。全てを忘れて打ち込む何かもルイーサにはなかった。残った仲間たちと過ごす場所。仲間をつなぐ目的。アルカナ傭兵団がルイーサの全てとなった。
「……絶対に認めない」
その居場所を奪う者、壊す者は誰であろうと許さない。そんな奴が自分のもっとも大切な存在であるディアークとミーナの子供であるはずがない。
「負けを負けとして認めないのは大人げないわ」
そんなルイーサの心の内はトゥナには通じなかった。
「……次は勝つ」
「ええ。次は頑張ってね。連敗なんてことになったら、面子は丸つぶれ。外を歩けなくなるわ」
「もっと言い方があるでしょ? ミーナは……いや……なんでもない」
トゥナとミーナを比べるような言い方は良くない。トゥナも大切な仲間。ミーナと違う形でルイーサの人生に彩を与えてくれた存在なのだ。
「……ああ、そういうこと? 彼に負けて、団長と出会った頃のことを思い出していたのね? それでミーナ。そうよね。ミーナは私と違って、優しく介抱してくれていたものね?」
「それ、言葉にしなくて良くない?」
完璧に読まれた心の内を他人によって言葉にされると、かなり恥ずかしい思いをすることになる。
「嫌味も含まれているから。私だって裏では色々とお手伝いをしていたわ。ルイーサと面と向かうのは怖かったから」
「それも嫌味ね」
「怖かったのは事実よ。それよりもルイーサ。彼との戦いで団長と出会った頃を思い出して、それで認めないというのは無理がないかしら?」
それはシュバルツとディアークを重ねているということ。それで「息子とは認めない」は無理があるとトゥナは思う。
「トゥナは彼を団長の息子だと認めるの?」
「認めるも認めないもない。事実は何かというだけのことよ。それに、彼が団長の子だとして何が問題なの? 親が誰であろうと彼は彼の人生を歩むと思うわ」
「……そうかもしれないけど」
シュバルツの父親が誰であるのかに、一番拘っているのはルイーサ。シュバルツは父親が誰であるかなどそれほど気にしていない。そうであることはルイーサも分かっている。
「傭兵団は変わろうとしている。そのきっかけを作ったのは彼かもしてない。でも、変えるのは私たちよ。拗ねてている暇なんてないから」
「別に拗ねてない」
「だったら宴の間に行きましょう。団長たちが待っているわ」
城ではアルカナ傭兵団の上級騎士を集めた食事会、忘年会が行われている。トゥナは大会後、ずっと引きこもっているルイーサを誘いに来たのだ。過ぎた年を振り返り、訪れる時に思いをはせる、その会にはルイーサも絶対に参加するべきだと思って。
◆◆◆
トゥナがルイーサを忘年会に誘っている頃。すでに他のアルカナ傭兵団の面々は集合を済ませ、会が始まろうとしている。もっとも欠席しているのはルイーサとトゥナだけではない。シュバルツとキーラの姿もそこにはなかった。
「キーラは仕方ないとして、シュバルツも来ないのか?」
キーラはどのような催しであろうと基本、参加しない。ディアークも最初から出席は諦めている。だがシュバルツの参加は望んでいる。彼がいる前で色々と話したいことがあるのだ。
「仲間たちと食事会をしているそうです」
「まだ予定が被ったのか」
エマとの約束と予定が重なったのはこれが二度目。事前に確認しておかなかったことをディアークは後悔した。
「クローヴィスも同席しておりますので、遅れても顔は出すはずです」
「クローヴィスも?」
エマたち黒狼団の仲間だけではなく、クローヴィスもその食事会に参加している。それをディアークは意外に思った。
「わざとだと思いますので」
「あの野郎……」
傭兵団の忘年会に参加するのが嫌で、シュバルツは別の用事を作ったのだ。それを察してクローヴィスは自分もその食事会に参加することにした。顔を出すだけでも良いので、この場に連れてくる為だ。
「ルイーサさんもその内、トゥナさんが連れてくるでしょう。皆をこれ以上、待たせるのは申し訳ないので始めてしまいませんか?」
「そうだな……よし! では始めよう!」
ディアークの開会の言葉を受けて、給仕役の人々が一斉に動き出す。まずは乾杯の準備。テーブルの上に置かれているグラスに赤ワインが注がれていく。全員の準備が整うまで、少し待ちの状態だ。
「……あら、オトフリートは飲まないの?」
オトフリートの席のグラスに注がれたのは赤ワインではなく、オレンジジュース。それに気が付いたアデリッサがオトフリートに声をかけた。
「す、少し、調子が悪くて……」
「体の具合が悪いの? オトフリート……大丈夫? 顔色が悪いわよ?」
オトフリートの顔は真っ青。少し悪いだけ、で済むような体調にはアデリッサには思えない。
「だ、大丈夫です。本当に少しだけ気分が悪いだけですから」
「無理しないほうが良いわ。陛下に言って休ませてもらいましょう」
「大丈夫です。静かにしていれば治りますから」
「無理するような場ではないわ」
大丈夫だと言われても、それで終わりにはアデリッサは出来ない。オトフリートは何者にも代えがたい存在。アデリッサにとって生き甲斐だ。万が一などあってはならないのだ。
ディアークに退席の許しを得ようと立ち上がって声をかけようとするアデリッサ。
「平気ですから!」
オトフリートはそうさせまいとして、アデリッサを押さえつけようとするのだが、勢い余って彼女のグラスをひっくり返し、床に落としてしまうことになった。
「どうした? 大丈夫か?」
それが結局、ディアークの注意を引くことになる。
「失礼いたしました。オトフリートが具合が悪そうなので、退出のお許しを得ようと思ったのですが……」
ここまで強くオトフリートが拒否するとはアデリッサは思っていなかった。
「オトフリート、大丈夫か? 具合が悪いのなら、無理しないで休め」
「いえ、大丈夫です。たいしたことないのですが、母がいつもの調子で……申し訳ございません」
「謝る必要はない。大丈夫ならそれで良いのだ」
アデリッサが過保護なのはこの場にいる皆、どころか城の皆が知っていること。いつものそれが始まったのだと思って、ディアークは少し安堵した様子を見せている。
「アデリッサ様。ルイーサさんのグラスで良ければ」
床に落ちてしまったグラスの代わりに、すぐ隣のルイーサの席に置いてあったグラスを差し出すアーテルハイド。
「ありがとう」
「母上! 新しいグラスを貰ったほうが!」
御礼を告げてグラスを受け取るアデリッサの横で、オトフリートは別のグラスを用意にするように言ってくる。
「使っていないグラスですよ? 何の問題もありません」
以前であれば、アデリッサもオトフリートの言うようにしたかもしれない。床に落ちたのであれば新しいのを求めるのは当然のことだ。だが、今の彼女はアーテルハイドの好意を無にするような真似は出来なかった。それを拒否して、給仕係を働かせるような真似を躊躇った。エマのところの客は床に落ちてもすぐに拾えばOKと言う。そんなルール?を知ってしまったのだ。
「しかし……」
「変な子ですね? これ以上、皆を待たせるわけにはいきません。それくらい分かるでしょう? では、陛下。お騒がせしました」
オトフリートの態度をいぶかしみながらも、アデリッサはディアークに会を先に進めるように伝える。自分たち親子の不手際で会の始まりをこれ以上、遅らせるわけにはいかない。皆に悪いという思いだけでなく、オトフリートの評価を落とすことも避けたいのだ。
「確かにこれ以上のお預けは可哀そうだな。乾杯は済ませることにしよう。長い挨拶もあとだ。皆、この一年、本当にご苦労だった。乾杯!」
「「「乾杯っ!!」」」
とにかく乾杯は済ませて、飲み食いを出来るようにしてやろう。そう考えてディアークは用意しておいた言葉も、後回しにすることにした。酒が入って気持ちが緩み、それぞれが自由に意見を言い合える雰囲気になってからのほうが良いという思いもあってのことだ。
アルカナ傭兵団はそのあり方を変える。それは皆が納得して、皆で進めていくものだとディアークは思っている。そうなって欲しいと考えているのだ。
「母上!」
だがオトフリートとアデリッサの騒ぎは乾杯の後も続いていた。オトフリートの声に続いて、グラスが割れる音が部屋に響く。
「何をしているの!? 危ないでしょう!?」
自分が持っていたグラスを払い落としたオトフリート。アデリッサには彼が何をしたいのか分からない。
「オトフリート!? 貴方は何をしたいのですか!? 説明なさい!?」
皆の前であろうと、こうなったら関係ない。場を乱すオトフリートの行為は、何もなかったことには出来ない。事情を明らかにし、この場で謝罪させようとアデリッサは考えた、のだが。
「団長! 飲まないください! 皆も飲むな!」
「えっ……?」
アーテルハイドの叫びが、そんな甘い状況ではないことをアデリッサに教えてくれた。
「オトフリート! 説明してもらおう! 酒に何を盛った!?」
オトフリートの行動はアデリッサにグラスの中の酒を飲ませないようにしたもの。すぐ目の前でその様子を見ていたアーテルハイドにはそれが分かった。では、何故、オトフリートはアデリッサに酒を飲ませたくなかったのか。
「……オ、オトフリート? 嘘よね? 貴方……馬鹿なことは考えていないわよね?」
その理由はアデリッサにも分かる、そうであって欲しくはないと心の底から思っていても。
「オトフリ……! な、なに……?」
さらにオトフリートを問い詰めようとしたアーテルハイドだったが、それを邪魔する者がいた。アーテルハイドの腹から突き出ている剣。それは形ばかりの会場警護担当であったはずの、近衛騎士のものだった。
これ以降、忘年会は惨劇の場に変わることになる。