ベルクムント王国の状況は悪化している。ただそれに気が付いているのは、まだ極限られた人たちだけ。国政に関われるような立場にある人たちだけだ。アルカナ傭兵団との戦いでの連敗が原因ではない。国王が引き起こす粛清の嵐が、さらにその激しさを増しているのだ。
清廉と評されている人たちが次々と国政の場から排除され、その真逆とみなされている人物が代わりに登用されていく。そうなると事は国王だけの問題にとどまらない。私欲を優先する者たちによる悪政が行われることになる。まだその影響は目に見える形では現れていないが、それも時間の問題。やがて国民への悪影響も出てくるはずだ。
「傾城、傾国、歴史の中での話としてその存在を知っていたが、まさか目の前に現れることになるとは」
「申し訳ございません」
「いや、カーロが謝るのはおかしい。それとも君が裏で糸を引いているのかな?」
今の状況をもたらしているのはヘルツ。これはもう疑う余地がない。ズィークフリート王子もカーロもここまでの事態になるとは思っていなかった。ズィークフリート王子は父である国王が女性に狂い、悪政を行っている状況が未だに信じられないでいる。カーロも、まさかここまでヘルツが異常な事態を引き起こすとは考えていなかった。
「冗談を言っている場合ではないと思います」
「冗談でも言っていないと、正気でいられない」
「……申し訳ございません」
「また……」
この件に関してカーロは謝ってばかりだ。ヘルツを止められない自分を責めているのだということは、ズィークフリート王子もすでに分かっている。だが彼女を、父王を止められないのはズィークフリート王子も同じなのだ。
「彼女の行方は分かりましたか?」
ヘルツを止めるどころか、その居場所もカーロは分からなくなっている。それを調べる術をカーロは持っていないのだ。
「陛下の側だね。彼女にとって一番安全なのは陛下の隣。そこにいれば陛下の権力が守ってくれる」
「城の奥ということですか?」
「カロリーネなら心配いらない。追い出されたのだから心配いらないはおかしいかな? でも、連絡がとれる場所にいるのだからやはり良いことか」
カロリーネ王女は城の奥から追い出された。この事実もヘルツが国王の側にいると確信する理由。今、城の奥は国王が認める者以外、一切の出入りが出来なくなっている。大勢の近衛騎士が昼夜を問わず、厳しい警護を行っているのだ。そこまでして守らなければならない存在が奥にはあるということだ。
「王女殿下はどちらに?」
「本城の隣に立つ塔。そこに母上と共にいる」
「そのような場所が」
城には何度か登っているが、その塔の存在をカーロは知らなかった。
「本来は監獄として使うものだからね。塔といっても、外からは見えないようになっている」
「…………」
カロリーネ王女がいるのは監獄の中。それを知ってカーロは言葉を失ってしまった。
「だから「本来は」と言った。王家の人間が罪を犯した時に使われる場所だから、住み心地は悪くないはず。実際に暮らしたことがあるわけではないけどね」
また冗談を口にするズィークフリート王子。カーロを心配させないように、気を使っているのだ。
「……助け出さなくて良いのですか?」
「逃亡したとされ、罪に落とす口実に利用される。これは私も同じだ。いつでも逃げられるようにしているのは、わざと。逃げれば叛意がある証とされ、重罪に問われることになる。王家の人間であっても国王への反逆となれば死罪に出来るからね。これは皆の一致した意見だ」
「そこまでのことを……」
王妃、そして自分の子供たちを罠にはめようとしている。そこまで非道な真似が出来る国王が信じられない。それをさせているであろうヘルツの気持ちが理解出来ない。奔放なところがあり、人に誤解されることは多いが、根は良い人。カーロの知る彼女はそういう女性なのだ。
「今はなんとかこれ以上、力を削られないようにすること。地位を失ってもやれることはある。その為の力まで奪われるわけにはいかない」
これを言うズィークフリート王子は最悪の事態を覚悟し始めている。相手が望む通りの反逆を、相手が望むのとは異なる形で実行することを考えているのだ。
「……彼女に会うことが出来れば、なんとか」
事の元凶であるヘルツさえ殺してしまえば、少なくとも国王の悪行は止められる。カーロもまた覚悟を決めている。仲間であるからこそ、自分が止めてやらなくてはならないと考えているのだ。
「難しいだろうね? すでに相手は君がこちら側であることを知っている。もしかすると、もっとも警戒されているのは君かもしれない。気を付けたほうが良い」
「……貴族たちの動きは?」
「まだ見えない。だから気を付けたほうが良い」
カーロの養父であるヴァルツァー伯爵がヘルツの側について、カーロを殺そうとする可能性もある。国王に逆らえばただでは済まない。ズィークフリート王子も責める気にはなれない。カーロに警告し、そういう機会を作れないようにすることしか出来ない。
「彼女のことは、こちらに任せて欲しい。色々と聞くことはあるだろうけど、君は直接関わらないほうが良い」
「……分かりました」
現時点ではカーロに出来ることはない。単身、城に乗り込んでヘルツを討つなんて真似は彼には出来ない。シュバルツでも難しいはずだ。臨戦態勢の城を一人で落とすのと同じようなものなのだ。
「さっそく、ひとつ聞きたい。彼女の何がここまで魅力的なのかな? さっきの話ではないけど、傾国の美女ってどういう女性なのだろう?」
ヘルツを良く知るカーロであれば、父王がおかしくなる理由も知っているのではないか。ズィークフリート王子はこう考えた。理由を知ることによって解決策が見つかるのではないかと、わずかに期待して。
「それは……もともと彼女は男を引き付けるものを持っています。それに加えて、その、性技が、優れていて」
「せいぎ?」
「……夜の営みの時に使う技です」
王子相手では、どう表現するのが適切か。これを考えた結果の答えだ。
「そういうものが……陛下はそれに? いや……なんというか……」
情けない。この言葉がズィークフリート王子の気持ちにもっとも近い。
「ただ、おそらくはそれだけではないと思います。悪い薬も使っているのではないかと」
「……悪い薬……中毒性のあるものかな?」
「はい。確信はございません。ただ、ここまで酷い状況になった相手を私は知りません。陛下相手だから特別というのはあるのかもしれませんが、それでも……」
ここまで相手を狂わせ続けられるものではない。そこまでの能力ではないはずなのだ。それが出来るのであれば、黒狼団はヘルツの物になっていた。彼女がそれを望めばの話であり、そうなったとしてもシュバルツ他、何人かは彼女に従わないので、黒狼団とは呼べない組織となるだろうが。
「解毒方法は知っているのかな?」
「……知りません。解毒方法を知らないのではなく……」
「解毒出来るかもわからないのか……つまり、女を排除しても……陛下は……」
ヘルツから解放されても薬に縛られたままとなる可能性がある。元の国王には戻らないということだ。
「……入手先について調べてみます。前から持っていたものではないはずなので、入手先があるはずです。その入手先の何者かは解毒法を知っているかもしれません」
黒狼団ではそういった薬に関わることは一切禁じられている。貧民街で薬に侵された人を知り、その惨さ、非道さを目の当たりにして、どんな立場であっても関わってはならないと決めたのだ。
黒狼団の掟を破ったヘルツは、もう仲間とは言えない。まして他人に苦しみを与えた側となれば、裏切りと判断されてもおかしくない。シュバルツがラングトアにいてくれたら、放っておかないはずだとカーロは思う。自分には出来ない何かを行ってくれたのではないかと思ってしまう。だがシュバルツはいない。彼を頼ることは出来ないのだ。
◆◆◆
黒狼団の情報網はキーラのおかげで大きく改善した。今のところは情報網というより情報線。ベルクムント王国の都ラングトアからグローセンハング王国、シュタインフルス王国を経由して、ノイエラグーネ王国に至り、そこからノートメアシュトラーセ王国まで伸びる情報線。そのうち、グローセンハング王国から終点のノートメアシュトラーセ王国まで伝書烏を飛ばせるようになっている。グローセンハング王国にまでキーラを連れていく口実も、連れて行ったとしても伝書烏に教え込む時間もなかったので、シュタインフルス王国までは一方通行となってしまうが、それでも人を動かさないで済む区間が出来ることは黒狼団にとってありがたい。他のことに人手を割けるのだ。
「……何かありましたか?」
伝書烏が運んできた伝書を読んだあと、ずっと黙り込んでいるロート。その様子が気になってローデリカは声をかけた。
「ああ。仲間がおかしなことになっているのだが……信じられなくて」
伝書に書かれていたのはベルクムント王国で起きている出来事について。ヘルツが巻き起こしているとされている混乱についてで。嘘の報告が届くはずがない。それは分かっているが、ロートには信じがたかった。
「何か問題に巻き込まれたのですか?」
「いや、問題を起こしているようだ。ただ、書かれているようなことをする奴ではないはずで……」
エマに対抗意識を燃やし、シュバルツを誘惑していたヘルツだが、それだけのこと。エマ本人に危害を加えるようなことは一切なく、それどころか黒狼団では数少ない同性として色々と気を使ってくれていた。性格はまったく異なるが、エマにとって姉のような存在だ。
そのヘルツが大国ベルクムント王国を混乱させている。しかもカーロが止めても言うことを聞かないという。ロートの知るヘルツとは重ならないのだ。
「読ませてもらっても良いですか?」
「ああ」
手に持っていた書状をローデリカに渡すロート。躊躇いのないその行動がローデリカは嬉しかった。言葉で言われるよりも、こういうことのほうが、仲間と認められているという実感を与えてくれるのだ。
「……ベルクムント王国はこんなことに……もともと指示していたことではないのですか?」
ここまでの事態になるのは想定外だったとしても、国王に近づいたのは黒狼団の指示。この可能性をローデリカは考えた。
「それはない。俺たちが取り込む必要があるとすれば、もっと下。犯罪を取り締まるところの現場責任者とか、そういう立場の奴だ。国王なんて取り込んでも良いことはない。そんな目立つ真似をして、存在を知られれば全力で潰されてしまう。まあ、知られてはいるけどな」
カーロの存在は黒狼団にとって良かったのか、悪かったのか。黒狼団が関わっていないことを説明出来ているという点は良い。だが、カーロがいなければ、そもそもヘルツが黒狼団であることは知られなかったはずだ。
「この女性の暴走ということですか……」
「そうなのだが、俺にはここまで暴走する理由が分からない。国というものは国王を押さえれば、どうにでも出来るものなのか?」
ロートにはこのあたりのことは分からない。元貴族であったローデリカであれば分かるかと思って、尋ねたのだが。
「……私も答えは持っていません。国王は絶対的な権力者ですから、どうにでも出来るといえば出来ます。でもその絶対的な権力を支える存在があるはずで、その存在がどう考えるかで変わってくると思います」
ローデリカは国王の絶対的な権力に負けた。だがローデリカが負けたあと、その絶対的であるはずだった国王は実権を失った。この地、シュタインフルス王国でも国王は失脚した。ロートの問いにローデリカは自信を持って答えることは出来ない。
「この国だと王太子が背き、軍も王太子に従ったのが決め手だったな。やはり、軍か」
「軍事力を握ったほうが勝ち。これは間違いないと思います。でも、軍の指揮権は国王が持っています。軍が背く理由が、それも多くが納得する理由が必要です」
将軍の一人が反旗を翻しても、騎士や兵士が付いてこなければ力にはならない。王子を旗頭としていても同じだ。国王は倒すべき存在だと圧倒的多数が考えなければ、あっさり潰されるか、勢力が拮抗していれば泥沼の戦いになるだけだ。
「……このままでは反乱側が勝利し、全てを奪われてしまう。この危機感を与えたからか」
シュタインフルス王国で国王を倒す、ではなく交替させたのは、反乱側が強すぎたから。そう思わせることで、これ以上、戦いを継続するべきではないと、そのためには国王を退かせなければならないと王国に考えさせたから。
その点で、今のベルクムント王国はまだ追い詰められていない。ズィークフリート王子側が一気に味方を増やせる状況にない。
「さらに混乱が広がり、誰の目にも見えるようにならないと止められないというのは、辛いですね」
それまでに多くの人が苦しみにあえぐことになるかもしれない。それを考えるとローデリカは胸が痛む。
「それを避けようと思えば……暗殺だな。国王が死んでしまえば、王子が後を継ぐことになる。ただその前にヘルツを逃がす段取りをしておかないといけない。王子がヘルツを生かすはずがないからな」
「本気で暗殺するつもりですか?」
仲間を逃がすことまで考えているロート。それを聞いたローデリカは、彼は本気で国王を暗殺するつもりなのだと思った。国王暗殺となれば、それは大罪も大罪。ヘルツのやっていること以上の罪ではないかと思ってしまう。
「事態を止めて、さらにヘルツを助ける為には、そういう方法があるってことだ。実行するとは決まっていないし、出来るのかも分からない。ただ、これからこの情報をシュバルツに届けて、そこからさらに伝書が戻ってくるのを待って動いたのでは遅いだろうからな。とりあえず何人か先に送っておいたほうが良い」
「そうですね……」
仲間を助ける為であれば大国の国王を暗殺することさえ考える。まだどういう決定になるか分かっていなくても、必要とあれば先に動く。この一件は、黒狼団がどういう組織なのかをローデリカに分からせてくれる。
ただこれは一面に過ぎない。カーロからの続報が届いた時、ヘルツがどのような手段で国王を操っているかが明らかになった時、ローデリカはこれとは違う別の一面を見ることになる。その時は、まだ少し先だ。
◆◆◆
二人どころか四、五人でも余裕で寝られるのではないか。そう思えるほど広い天蓋付きのベッドの上でヘルツは仰向けに寝ている。貧民街で暮らしていた頃は、このベッドの広さくらいの場所が、家であったこともある。ただたんに雨露をしのげれば良い。それだけの建物、と呼ぶのも躊躇うような場所で暮らしていた時もあるのだ。その当時に比べると今は別世界。この世界で最高といえるくらいの贅沢を味わえる。
だがそれを喜ぶ気持ちはもうない。すぐ隣から聞こえてくるかすかな寝息さえ、ヘルツの神経を苛立たせる。
「……羊が一匹、羊が二匹」
ベッドの上に転がっていた錠剤をまとめて掴むと、腕を上に伸ばして一つずつ落としていく。羊を数えながら。眠りたいのに眠れない。ヘルツはほぼ毎晩こんな時を過ごしている。
すべてが落ちたところで、またそれを掴んで腕を伸ばす。
「……死にたい、死にたくない、死にたい、死にたくない」
感情を感じさせない声。ヘルツ自身、自分が何を呟いているのか分かっていないのだ。
「……死にたい、死にたくない、死にたい、死にたい、死にたい」
目じりから零れ落ちた一筋の涙。何を悲しんでいるのか、今のヘルツにはそれも分からない。