絶対的な切り札、とされている、ベスティエを投入しながらの敗戦。しかも送り込んだ千名の部隊が一人も帰還してこないという惨敗だ。この結果を知ったシュタインフルス王国の動揺は凄まじい。やや誇張も含みながらベスティエの恐ろしさを世間に知らしめていたことが、動揺を拡大させることになってしまっているのだ。アンドレーアス王の王権を支えてきた重要な要素のひとつが失われた。こんな風に捉える人は少なくない。
この敗戦の影響は、ベスティエを利用してきたアンドレーアス王が一番良く分かっている。誰よりも動揺しているのはアンドレーアス王だ。貴族たちの反抗心を押さえつけてきた重石がなくなったのだ。反乱に大きな影響が、アンドレーアス王にとっては悪影響が出るのは間違いない。
「……反乱軍の本拠地は掴めたのか?」
「いえ。ただ逃亡してきた兵士たちの話ではクノル侯爵の領地に向かおうとしていたということです」
「なんだと?」
クノル侯爵の名が出たことで、アンドレーアス王の表情がさらに険しさを増す。
「数人ですが逃げ出せた者が見つかりました。その者たちの証言では反乱軍は捕虜とした王国軍の騎士や兵士を連れて、クノル侯爵領に向かおうとしていたようです」
「……間違いないのだな?」
「複数人が同じ証言を行っております」
同じ証言を行っているのは事実だ。ただ、目的地はクロノ侯爵領だと反乱軍から聞かされ、わざと逃げる隙を与えられただけ。実際には反乱軍本隊はクロノ侯爵領には向かっていない。この事実をアンドレーアス王が知ることもない。
「……ライヘンベルク王国の状況は?」
「特に変化はございません」
ライヘンベルク王国からの回答は相変わらず「知らぬ存ぜぬ」だけ。それはそうだ。それが事実なのだから。
「国境に張り付いていた軍を動かす」
「陛下!?」
アンドレーアス王の決断に対して、声をあげたのはトリスタン王子。
「これ以上、無駄に軍を遊ばせてくわけにはいかん! 今のままでは各個撃破を許すだけだ!」
その声を批判ととらえたアンドレーアス王は、声を大きくして軍を動かす理由を告げる。
「軍を動かすことには反対いたしません。ただ、その軍はどこに向かわせるおつもりですか?」
「決まっておる。クロノ侯爵領だ」
「まだクロノ侯爵が黒幕であるという証拠はあがっておりません」
「証拠は十分そろっている! これ以上、反乱軍の勢力を拡大させるわけにはいかん! お前にはそれが分からんのか!?」
このままでは反乱軍の勢いは増すばかり。それを許すわけにはいかない。統治者としての資質をベルクムント王国に問われるような事態になっては、本当に玉座を失うことになってしまうのだ。
「しかし……」
トリスタン王子もその事情は分かっている。愚王と陰で評されていても、ベルクムント王国がアンドレーアス王を支持しているかぎり、国王としての立場は揺るがない。逆にその支持が他者に移れば、シュタインフルス王国の王位はその人物のものとなってしまうのだ。
ただ、いまだにトリスタン王子はクロノ侯爵が反乱の黒幕だとは思えない。コンラートの策略を疑っているのだ。
「……クロノ侯爵が黒幕であるという証言は得ております」
ここで報告を行っていた臣下が割り込んできた。
「なんだって? そんな報告は受けていない」
「申し訳ございません。証言は得たのですが、その証言者は亡くなってしまいまして。再度、生きた証人を得てからご報告をと考えておりました」
「それは間違いのない証言なのか?」
証言者が亡くなったのは苛烈な拷問のせい。トリスタン王子はそう考えている。拷問が辛くて嘘の証言をした、もしくはさせられた可能性があると。
「証言を疑うことに何の意味がある?」
「陛下……」
だがアンドレーアス王は真実の追求など必要としていない。証言を得た。この事実だけで彼には十分なのだ。
「大至急、ベルクムント王国に使者を送れ。反乱の事実を伝え、救援を要請するのだ」
「よろしいのですか?」
「先を越されるよりは良い」
アンドレーアス王は反乱を起こされたという事実を知られることよりも、クロム侯爵が先にベルクムント王国と接触することを恐れている。悪政を訴えられ、貴族の支持は自分にあるとベルクムント王国に伝えられ、その事実を認められることを。自分であればそうすると考えているのだ。
これにより、シュタインフルス王国内での反乱の事実はベルクムント王国に伝わることになる。実際にはシュタインフルス王国内がごたごたしていることなどベルクムント王国はすでに知っているが、公式に動くきっかけを与えることになるのだ。
◆◆◆
戦いを終えた反乱軍本隊が向かった先は山中の拠点。三十人ほどの捕虜も一緒だ。指揮官である騎士がほとんど。それ以外にも、反乱の黒幕はアルカナ傭兵団であるという事実に気が付いた人は全員連れてきている。今はまだ真実が明らかになっては困るのだ。
残りの捕虜は、シュタインフルス王国が掴んでいる通り、クロノ侯爵領に向かった。クロノ侯爵が受け入れるかどうかなど関係ない。確かに反乱軍が捕虜を連れて、クロノ侯爵領に向かったということを、目撃されることが目的なのだ。
反乱計画はいよいよ佳境を迎えている。最後の詰めが上手くいくか。しばらくは成り行きを見守りながら、次の行動に備えることになる。
「……生きてる?」
「おっ? 気がついたか?」
ベスティエも山中の拠点に運び込まれている。見捨てるのは忍びない。そんな風にヴォルフリックが思ったからだ。
「……助けて……くれた?」
ヴォルフリックに助けを求めた記憶がベスティエの頭の中に蘇る。溺れる者は藁をもつかむ。そんな心境で求めた救いが叶えられたことにベスティエは戸惑っている。
「まあ。もっとも俺も怪我をさせた一人だけどな。鼻痛くないか?」
「……痛くない」
わずかに鼻を動かしてみて、痛みを確認するベスティエ。何も感じないわけではないが、泣き叫ぶほどの痛みはなかった。
「気絶している間にまっすぐにしておいた……完全にまっすぐかは治ってみないと分からないけど」
「まっすぐ?」
ヴォルフリックに鼻骨を折られたせいで、鼻が曲がってしまっていた。この事実をベスティエは知らない。まっすぐにしたと言われても、何のことか分かっていない。
「と、とにかく、痛くなければ良い。火傷のほうはどうだ?」
少し気まずさを感じたヴォルフリック。自分が怪我をさせた鼻の話は止めて、投爆弾による火傷の具合を尋ねた。こちらのほうが重症であるはずなのだ。
「……平気」
「えっ? 平気は嘘だろ? 見た感じは、かなり痛そうだ」
至近距離で二発の直撃を受けている。破片での傷もかなりの数だが、それ以上に焼けただれた肌はかなり痛そうだ。といっても今は包帯で覆われていて見えない。治療の様子を見た時の感想をヴォルフリックは話しているのだ。
「……平気。俺、戦える」
「いや無理だから」
「戦える! ……い、痛い」
起き上がろうと動いたことで強まった火傷の痛み。それにはベスティエは耐えられなかった。
「ほら見ろ。痛くて戦えないだろ?」
「……痛くなくなったら、戦える」
「そんなに戦うのが好きなのか?」
何度も戦えると口にするベスティエ。何故そこまで戦いを求めるのか、ヴォルフリックは不思議だった。
「……好き……じゃない」
「はっ? だったら戦う必要……ああ、もしかしてお前……戦えなくなったら殺されると思っているのか?」
「…………」
好きではないのに戦う。ベスティエにはそうせざるを得ない事情がある。それがどのような事情かは、ヴォルフリックにもすぐに思いつくものがあった。自分が生かされている理由をベスティエは知っている。ずっと言われ続けてきたのだ。
「先のことは分からない。お前がどういう道を生きるかはお前の自由だからな」
「自由……自由なんてない」
「ある。あっ、いや、自由がどういうものかなんて俺も知らないから断言は出来ないか。でも、お前の人生はお前のものだ。そう考えて生きる権利はあるはずだ」
自分は自由なのかと聞かれると、そうではないとヴォルフリックは思う。アルカナ傭兵団で働いているのは、強制されてのことだ。それ以外にも様々な束縛がある。そこから解き放たれようと足掻いてきたが、自分は完全に自由だと言い切るのは、少し違うと思う。
「……人生って何?」
「難しい質問を……人の生きざま? これじゃあ、分からないか……なんだろう?」
「分からないのに自分のもの?」
「……人生には形がないからな。こうだと決まったこともない。だから自分で作り上げていくしかない。自分で自分のものにするんだ。少なくとも、人に無理やり、型にはめられるよりは楽しいと思う」
世の中には理不尽なことが沢山ある。貧民街で暮らしていれば、嫌でもそれを思い知らされる。だからといって全てを諦めては何も変わらない。こう思ってヴォルフリックたちは自分たちで自分たちの未来を切り開こうと考えた。この選択が間違いではないことは、ヴォルフリックには断言できる。
「楽しい……」
「大変な時もあるけどな。それでも自分たちで決めたことだ。苦しくても楽しい」
「苦しいのに楽しい? そんなのない」
そもそもベスティエには楽しいと思える経験がない。楽しいということは言葉でしか理解できていないのだ。
「ある。これについては断言できる。鍛錬だってそうだ。辛くて苦しいけど、それまで出来なかったことが出来るようになった時は、すごく嬉しいだろ?」
「……分からない」
「えっ……? お前、まさか鍛錬したこともないのか?」
自分が強くなったと感じられた時の達成感。これについてはベスティエも理解できるはずだと、ヴォルフリックは思っていた。だが、ベスティエはそれも知らない。鍛錬をしたことがないのだ。
「努力なしであの強さか……でも、それだと俺に勝てるはずなかったな。俺はお前の何倍も努力した。お前が努力なしだから……何倍だ? 無限倍?」
「分からないけど、きっと沢山」
「お前の可能性も沢山だな。努力すればもっと強くなれる。これまで何も出来なかったのが、沢山出来るようになる。きっと楽しいはずだ」
「可能性が沢山……」
可能性など考えたこともなかった。少なくともベスティエの記憶にはない。幼いころから、ただ生かされていた。命じられれば人を殺した。言われた通りにしても、褒められるどころかさらに疎まれ、蔑まれた。それ以外、何もなかった。
「この先、どうするかは自分で決めろ。少なくとも俺がお前に戦いを強制することはない」
「本当?」
「こんなことで嘘をついてどうする? 俺だって本当は自分のためだけに戦いたい。俺の戦いは、自分の大切な人を守るための戦いだ。でも今はそれだけではいられない。望まない戦いを強いられる側の気持ちは、少しだけだが、分かるつもりだ」
「そう……」
大切な人を守る戦いとはどういうものかベスティエには分からない。彼には守りたいと思う人などいないのだ。
「まあ、ゆっくり考えるんだな。怪我が治るまでは寝ているしかないのだから。今更だけど、俺はシュバルツ。ヴォルフリックとも呼ばれている。どちらでも好きに呼んでくれ」
「……ロンメル」
「ん? あれ? お前も名前二つあるのか?」
ベスティエが名乗ったのはロンメルという名。ヴォルフリックは自分と同じようにいくつか呼び名があるのかと思ったが、それは間違いだ。
「ベスティエは名じゃない」
ベスティエは蔑称。誰が決めたか分からないが、いつの間にかこう呼ばれるようになっていた。それ以前もロンメルという名で呼ぶ人など、彼の記憶の中では、亡くなったはずの両親以外、誰もいなかったが。
「そうか……じゃあ、ロンメルと呼べば良いな。よろしくな。ロンメル」
「ん……」
両親以外で初めて自分を本当の名で呼んだ人物。ロンメルの中で、ヴォルフリックはそういう存在になった。今はまだそれだけの関係に過ぎない、とも言えるが。</p
◆◆◆
シュタインフルス王国軍の敗戦によって大きく心を揺らすことになったのは王国上層部だけではない。反乱の黒幕と、勝手に、されているクノル侯爵も同様だ。ただクノル侯爵の場合は、アンドレーアス王とは異なり、悲観的な心情はあまりない。それとは逆。まさかの可能性を思い、期待が膨らんでいる状況だ。
さらにその期待を拡大させようとする者もいる。コンラートがその人だ。
「貴様の言葉など信じられるか」
コンラートの申し出に対して、拒絶の態度を見せるクノル侯爵。正しい態度だ。だが表に見せている態度と内心が一致しているわけではない。
「無理に信じていただく必要はございません。ただ、国王が有力貴族家を滅ぼすと公言しているのは事実。それに対して、どうなさるおつもりですか?」
「……貴様を捕らえて真実を明らかにするという手もある」
「なるほど。ですが、国王は信じるでしょうか? トカゲのしっぽ切りと考えるのではないですか? いえ、国王が信じる信じないは関係ありませんね? 国王にとって、その真実は必要でしょうか?」
その程度の脅しで怯むコンラートではない。そもそも怯むような状況で、こうしてクノル侯爵と正面から向かい合うことなどないのだ。
「……陛下は事実を捻じ曲げると、貴様は言うつもりか?」
これをコンラートに尋ねるクノル侯爵は、アンドレーアス王が事実を捻じ曲げる可能性を考えている。自分たち有力貴族を討伐する口実として利用されることはあり得ると考えているのだ。
「すでに捻じ曲げております。反乱討伐軍の再編がなされているようで、その討伐軍の向け先はこちらになっております」
「……だから貴様と協力しろと?」
コンラートの目的はクノル侯爵と共闘関係を構築すること。改めて聞くことではない。話し合いの最初でコンラートは説明している。
「それ以外に生き残る術はないと思いますが?」
「我が領地軍を侮るな。王国軍に負けないくらいに鍛え上げてある」
本当にそうであれば、コンラートと会う必要もない。絶対に勝てるという自信がないから、王国軍相手に連戦連勝中のコンラートの話を聞く気になったのだ。
「そうですか……では仕方ありません。貴家の軍の善戦を期待することにします」
「駆け引きか?」
駆け引きを行っているのはクノル侯爵も同じ。共闘するにしても、少しでも自家に有利な条件にしようとしている。
「いえ。貴家が単独で戦えるのでしたら、それで結構。こちらはその成り行きを見届けた上で、次の行動を考えるだけです」
だがコンラートにとっては駆け引きではなく、無駄な足掻き。追い詰められた状況を打開する為の策を必要としているのはクノル侯爵なのだ。
「……万一、我らが負けることになれば、次は貴様らの番だ」
「分かっております。ですので出来るだけ貴家軍には頑張って頂き、王国軍の戦力を削っていただきたいと思っております」
「……単独でも勝てると? 戦力差はこれまで以上のものになるはずだ」
クノル侯爵も王国軍の動きは把握している。これまで反乱軍が戦ってきた王国軍の規模とは違う。この点についてはクノル侯爵も不安に感じている。
「そうかもしれませんが、我々の戦力も拡大しました。戦力差は侯が考えられているほどではありません」
「他に協力者がいるというのか?」
クノル侯爵の表情がわずかに険しくなる。他家と天秤にかけられていると思ったのだ。
「協力者というか……隠すことではありませんか。ベスティエが加わることになりました」
「なんと!?」
予想外の答えに驚くクノル侯爵。ベスティエ、ロンメルが生きていたという事実をクノル侯爵家は掴んでいなかった。コンラートの交渉材料にするために隠されていたのだ。
「数の上では劣る我々ですが、質ではこれまで以上の力を持ちました。王国軍と単独で戦うことを恐れる理由はありません」
「……では何故、共闘を申し入れてきた?」
自家の価値が一気に下がった思いのクノル侯爵。コンラートの望む状況だ。
「勝利のあとを考えてのことです。国王となることについてベルクムント王国の承認を得る。これは私では無理です。すでにしかるべき立場にいて、国王になるにふさわしい人望を持った人でなければなりませんので」
「ふむ。そうだろうな。ただ……承認を得られるだろうか?」
クノル侯爵の不安点のもう一つ。ベルクムント王国は自分が国王になることを認めるか。承認を得られなければベルクムント王国に討たれることになってしまう。
「候はすでに有力貴族家の支持を得ております。あとは王国軍に勝つだけ。貴族家の支持と軍事的な力、そしてベルクムント王国への忠誠心を示せば、可能性は充分にあります。ベルクムント王国も最前線の国でのもめ事が長く続くことなど望みません。誰が事態を収束出来るか。それを分からせれば良いのです」
「……そうだな」
コンラートの説明には特に目新しい内容はない。普通の考えで、そうであるからこそクノル侯爵も納得できる。
「勝って玉座を手に入れるか、負けて滅びるか。すでにどちらかを選ぶしかない状況です。選択は簡単だと思いますが?」
クノル侯爵には選択肢がない。国王軍に勝つ。勝つためには自家軍を強化しなければならず、その為にこれまで王国軍に対して連勝しているコンラートと組むのは最善の選択だ。たとえ、コンラート自身がどれほど信用ならない相手であっても。
「……共闘の条件は?」
目の前には玉座という餌がぶら下がり、背後では炎が燃え盛っていて下がることが出来ない。前に出るしかないのだ。
「身の安全と贅沢な暮らしが出来る地位。侯爵位などいかがでしょう?」
「……分かった。飲もう」
「では交渉は成立です。必ず勝ちましょう」
満面の笑みを浮かべて、クノル侯爵に向かって手を差し出すコンラート。その手をクノル侯爵は、しっかりと握った。生き残るため、勝って玉座を手に入れるためには悪魔と手を握ることも仕方がない。内心はこんな思いだ。
クノル侯爵は分かっている。分かっていても悪魔のほほ笑みを向けられることから逃げることが出来なかった。