空を舞う数十匹の翼竜。その翼竜に乗るのはサルタナ王国の竜飛士だ。かつてのサルタナ王国竜飛士団に比べてしまえば、その数はかなり少なくはあるが、それでもこれだけの数を揃えることが出来るようになったのだ。
侵攻してきたカストール帝国によりサルタナ王国の王都が陥落してから五年の歳月が経つ。王都陥落後も各地で抵抗を続けてきたサルタナ王国だが、遂にその力を再結集し、反攻に打って出る時がやってきた。その反攻軍の旗印の一人は、まだ年若いサルタナ王国王女ティファニーだ。
「王女殿下、出撃の準備が整いました」
先発部隊の指揮官であるハロルド一等騎士が出撃準備の整ったことを告げてきた。
「そう……ディーノを見なかった?」
いよいよ出陣。この時になってもティファニー王女が気になっているのはディーノのこと。幼い自分をカストール帝国の追っ手から守り続け、ここまで導いてくれた恩人のことだ。
「あの男なら逃げ出しました」
「逃げた? ディーノが?」
逃げ出すような男ではない。そうであればとっくの昔にティファニー王女を見捨てていたはずだ。
「これから戦いだというのに卑怯な男です。敵前逃亡ですから見つけ次第、罰するべきです」
ハロルド一等騎士はディーノに対して良い印象を持っていない。その気持ちをそのまま言葉にしてティファニー王女に告げた。
「それは越権ではないかな? 処罰を決める権限は王女殿下のみがお持ちになるものだ」
ハロルド一等騎士をたしなめたのは近衛騎士のクロード。ティファニー王女の逃避行に最初から同行し、ディーノと共に困難を乗り越えてきた男だ。
「はっ。出過ぎた真似を致しました。申し訳ございません」
クロードは王都陥落前から近衛騎士であり、今は指揮官となったティファニー王女の右腕と称される人物。そのクロードにはハロルド一等騎士も逆らえない。
「もう良いわ。いつまでも皆を待たせていられない。先発部隊に出陣の命令を伝えてきて」
「はっ!」
ティファニー王女の指示を受けてハロルド一等騎士は部隊に戻っていく。その背中を見送りながら、ティファニー王女は小さくため息をついた。
「……探させましょうか?」
ティファニー王女のため息の意味をクロードは分かっている。
「……いいわ。私には彼を引き留める資格はないもの」
「そのようなことはありません」
「そんなことある。私は……彼に恨まれているもの」
ディーノが自分を守り続けていたのは自分への忠誠心からではない、まして好意からでもない。母親に頼まれたから仕方なく、そうしていたのだ。ティファニー王女はそう思っている。
「……恨んでいる相手をここまで守ってこられるものでしょうか?」
「でも……」
「出会ってからもう五年ですか。今となってはあっという間ですが……色々ありました」
「……そうね」
この五年間。ディーノと出会ってからの五年間は、様々なことがあった。よくここまでこられたものだとティファニー王女は思う。
五年前の自分は何の力もない子供だった。今も力があるとは思えないが、こうして人を率いる立場になろうと考えられるくらいには成長している。そんな自分になれたのは、その五年間があったからこそ。亡くなった母が導いてくれたディーノとの出会いがあったからだとティファニー王女は思っている。
◆◆◆
――鬱蒼と木々が生い茂る深い森の中。全く整備されている様子のない、獣道と言ったほうが相応しい山道を、旅装束の一行が歩いている。身に纏ったマントのフードを深々と被っている五つの人影。冷たい風を避ける為だけが理由ではない。こんな場所では出会う人などまずいないと分かっていても、顔を隠す習慣が彼らにはあるのだ。
一行のうちの二人は五年前のクロードとティファニー王女。彼らはカストール帝国の追っ手から逃げているところだった。
「ティファニー様。大丈夫ですか?」
前を歩いていたクロードが振り返って声を掛ける。
「……う、うん。大丈夫」
口では大丈夫と答えているが、フードから覗くティファニー王女の顔には疲労の色が浮かんでいる。
「もう少し頑張って下さい。日が暮れる前には目的地に着きたいと思いますので」
「分かった……」
人が踏み入ることなど滅多にない森の奥。どんな危険な獣がいるかもしれないこの場所での野営は出来るだけ避けたい。それはティファニー王女にも分かっている。
「もうそろそろだと思うのですが……」
クロードはこんなことを言っているが、実際には目的地までどれくらいあるか分かっていない。この森に入るのも初めてなのだ。
わずかな情報を頼りにここまでやってきたクロードたちだが、もう少しきちんと調べてからにするべきだったと後悔し始めている。もっとも調べている余裕も調べる方法もないのだが。
――黙々と山道を歩き続けていた一行。太陽もかなり西に傾いている。こうなっては野営もやむなしと諦めかけていた時、それは現れた。
「クロード様! 翼竜が!」
「何だと!?」
後から聞こえてきた部下の叫び声に、クロードは慌てて振り返る。目に入ったのは空を飛ぶ二匹の翼竜。そして、それに跨がる竜飛士の姿だった。
「翼竜を投入してくるとは……」
サルタナ王国において翼竜は貴重な戦力。カストール帝国がそれを戦場ではなく、自分たちの捜索にまで使ってくるとはクロードは考えていなかった。
「どうしますか?」
「どうするも何もない。迎え撃つだけだ」
完全に日が暮れていれば、逃げるという手段も考えられる。いくら空の上からでも、灯り一つない真っ暗な森の中に隠れている人を見つけられるはずがない。だが空はまだ明るい。この時点で背中を向けて逃げるという選択はないとクロードは判断した。
背中に背負っていた弓を持ち、近づいてくる翼竜に向けるクロード。他の騎士も同じように弓を空に向けている。
「……三人で何とか撃ち落とせ」
「「「はっ!」」」
翼竜の鱗は固い。矢の一撃で撃ち落とそうと思えば、それを貫けるだけの剛弓と急所を射貫く腕が必要だ。クロードにはそれがある。だが、他の三人はそこまでの腕ではないのだ。
「放て!」
クロードの号令で一斉に矢が宙を飛ぶ。クロードの矢は見事に空を飛ぶ翼竜の顎を貫いた。クルクルと回りながら落ちていく翼竜。乗っていた竜飛士も振り落とされて、地に落ちていく。だが、敵はもう一匹。
「ちっ!」
舌打ちをしながらまた弓を構えるクロード。もう一匹は目の前に迫っていた。部下たちは射落とすことが出来なかったのだ。
「ティファニー様を守れ!」
部下に指示を出しながら、狙いを定めるクロード。だが、それは上手くいかなかった。狙いを定めようにも、翼竜は変則的な動きで宙を飛び回っている。そのあまりの激しさに竜飛士が振り落とされてしまうくらいに。
「……どういうことだ?」
遠くに飛び去っていった翼竜。何が起こったのか分からずに、クロードは呟きを漏らす。
「……動くな」
そこに突然聞こえてきた何者かの声。それを聞いて驚いている他の騎士たちとは正反対に、クロードはホッとした表情を見せている。声でそれが何者か分かったのだ。
「ディーノ、俺だ。クロードだ」
「そんなことは分かっている。何をしに来た?」
「決まっているだろ? お前に会いに来た」
「じゃあ目的は果たしたはずだ。帰れ」
歓迎にはほど遠い態度。クロードには予想出来ていたことだが、それで諦めるわけにはいかない。
「姿くらい見せたらどうだ?」
周囲に生い茂る木々の陰に潜んでいるのだろうが、クロードにはそれがどこか皆目、見当がつかない。
「その必要はない。そもそも俺はお前の顔など見たくない」
「会いに来たのは俺ではない」
「……それも分かっている」
「ディーノ、ティファニー様だ」
「…………」
ティファニー王女の名を告げても相手からは何の応えもない。この反応がどのようなものかクロードには読めない。ただ相手に考えさせるきっかけになったのは間違いないと思うだけだ。
「話は後だ。とにかく休ませてもらえないか? ティファニー様もかなりお疲れなのだ」
「…………」
「ディーノ、頼む」
「……分かった」
ようやく了承の言葉を得た。だがそれにホッとする前にクロードは、そしてティファニー王女たちも驚くことになる。了承の声は、すぐ後ろから聞こえてきたのだ。
「いつの間に?」
「ずっと後ろにいた。こっちだ。付いてこい」
ティファニー王女の横を通り過ぎて前に出るディーノ。夕日に照らされたその顔は、彼女が想像していたよりもずっと若く見えた。亡くなった母の知り合いであれば、もっと年上だと思っていたのだが、男の容姿は自分の年齢により近いように見える。
前を歩くディーノはそんな彼女の驚きなど気にすることなく、どんどん先に進んでいく。それを慌てて追いかけるティファニー王女とクロードたち護衛騎士。
ディーノの背中を追って山道を進むと、やがて灯りが見えてきた。先には何かあると分かっていて、それでも注意深く見ていなければ分からないほどのかすかな灯りだ。
「ここだ」
その灯りに近づいた場所、暗闇に立つ建物の目の前で、ディーノは口を開いた。
「ここがお前の家か……」
「ぐずぐずしていないで、さっさと中に入れ」
「おい! 無礼ではないか!?」
クロードに対するディーノの態度に怒気を発する護衛騎士。クロードはサルタナ王国の近衛騎士。「平民の分際で無礼な」というところなのだが。
「いい。こいつの態度は気にするな」
当人であるクロードがその護衛騎士を制する。彼にはディーノにそれを許す理由があるのだ。
入り口の扉を開けて中に入る。真っ先に一行の目に入ったのは、部屋の中央にある囲炉裏。赤々と部屋を照らしている炎だ。
「……暖かい」
部屋の温もりに、ティファニー王女が思わず呟きを漏らした。
「お湯は沸いています。お湯ではなくお茶を飲みたいのであればご自由に。道具は揃っていますから」
「あっ……ありがとうございます」
いきなりディーノに声を掛けられ、驚きながらもティファニー王女は慌ててフードをとって御礼を告げた。淡い金色の髪と青い大きな瞳が露わになる。
正面から向かい合ったティファニー王女とディーノ。ディーノの視線は彼女の顔に張り付いたままだ。
ティファニー王女はこういう反応には慣れている。母親を知っている人には良くある反応。彼女は母親にうり二つとずっと言われているのだ。
ただディーノが他の人と少し違うのは、その表情に喜びが全くなかったこと。多くの人はまず喜び、そして母親の死を思い出して悲しみを表情に浮かべる。だがディーノの顔に浮かんだのはいきなり悲しみ。それも普通の悲しみとは少し違うようにティファニー王女には感じられた。
「あの……」
ただじっと自分を見ているだけのディーノ。どうして良いか分からずにティファニー王女は声を掛けようと口を開いた。
「……どうぞ、奥に」
「あっ、はい」
ディーノに促されて、建物の奥に進む。近づいた囲炉裏の火が、冷えた体を更に温めてくれた。
「お前も座りたければ座っても良いぞ」
ティファニー王女に対する態度とは異なり、クロードへのそれはぶっきらぼうなものだ。
「ああ、そうさせてもらう。だが、その前に話がある」
「俺にはない」
「ディーノ。頼むから話を聞いてくれ。大切な話なのだ」
「お前にとってだ」
「ティファニー様にとってもだ」
「…………」
黙り込むディーノ。自分の為と言われて、どうしてそのような反応になるのかティファニー王女本人は分からない。好意でないことだけは、何となくクロードに見せる態度で分かる。王女である自分の為と言われて黙り込む人に、これまで会ったことがないのだ。
「ティファニー様の手助けをして欲しいのだ」
沈黙を勝手に了承と解釈して、クロードは話を始める。
「……断る」
「ディアーナ様の頼みだとしてもか?」
「何だと?」
「お前に会いに来たのは、ディアーナ様がお前を頼れとティファニー様に伝えていたから。それに従って、我々はここまで来たのだ」
「……デタラメを言うな。ディアーナが生きていた時、彼女はまだ小さかった。そんな話を理解出来るはずがない」
クロードの話を否定するディーノ。それを聞いたティファニー王女は少し驚いた。
ディーノが母であるディアーナと会ったことがあるのは想像がついていた。見ず知らずの人に頼れなどと母が伝えるはずがない。彼女が驚いたのはディーノが、王女であった母を呼び捨てにしていることだ。
「手紙が残されていた。それをティファニー様は読まれて、お前に会うと決めたのだ」
「じゃあ、その手紙を見せてみろ」
「それは……ティファニー様。よろしいですか?」
クロードが勝手に決められることではない。ティファニー王女に手紙を見せても構わないか、尋ねた。
「あっ、うん。でも渡す手紙は別にあるの」
「別?」
「母上がディーノさんに宛てた手紙」
「えっ?」「何?」
驚きの声をあげるクロードとディーノ。クロードもディーノ宛ての手紙の存在は知らなかったのだ。
「ごめんなさい。ディーノさんにしか見せてはいけないって、母上の手紙に……」
「いや、それはもちろん中身まで見るつもりはありませんが……」
さすがに中身を見ることはクロードも出来ない。ディアーナは仕える国の王女だった女性。騎士として仕えていた相手なのだ。ましてディアーナとディーノの関係を知っていて、勝手に中身を見るような真似が出来るはずがない。
「……手紙を」
ディーノがティファニー王女に向かって、手紙を渡すように求めた。
「あっ……うん」
ティファニー王女は、背負っていた皮袋を下ろして中を探り始める。手紙はすぐに見つかった。大切にしていた手紙だ。革袋の中でも丁寧にしまっていたのだ。
「これです」
「…………」
ティファニー王女から手紙を受け取ったディーノは、そのまま何も言わずに外に出て行ってしまった。それを見て、後を追おうかと迷うティファニー王女。
「……せっかくなのでお茶をいれましょう。温かい物を体に入れれば暖まるのも早いでしょうから」
ティファニー王女にお茶を勧めるクロード。彼女の気持ちを察し、ディーノの邪魔をさせないようにしたのだ。
「……うん」
少し躊躇いながらもティファニー王女はクロードの提案を受け入れた。
温かいお茶はありがたい。体を温めるというだけでなくお茶の味を楽しむことも久しぶりだ。お城にいた時は毎日お茶を楽しんでいたティファニー王女。それを思い出して楽しみに、そして少し悲しくなった。
「……ふむ。案外いけるかもしれませんな」
茶葉の香りを嗅いで、クロードが呟いた。その理由はティファニー王女にもすぐに分かる。広がってきた茶葉の香り。それはお城で飲んでいた茶葉に負けないどころか、それよりも良い香りに感じられた。
「どうぞ」
クロードがカップを差し出してきた。ティファニー王女はそれを手に持って口元に運ぶ。お茶の香りを楽しみ、ゆっくりと口に含む。
「……美味しい」
「そうですな。あの男にこんな趣味があったとは驚きました。お前たちも飲め。体が温まるぞ」
囲炉裏に近づくことなく、入り口近くで外の様子を窺っている護衛騎士たちにクロードは声を掛ける。
「……ではお言葉に甘えて」
それに素直に応じる護衛騎士たち。そうしてしまうほど、ここまでの道程が辛かったということだ。それが分かっているから、クロードは護衛騎士たちにも声を掛けたのだ。
◆◆◆
ティファニー王女たちが思いがけず、快適な時間を過ごしている頃。外に出たディーノは建物のすぐ側にある切り株に座って、渡された手紙を読んでいた。
明かりは目の前のたき火。ここは外でお茶を飲んだり食事をしたりする時の為の場所だ。
『ヤッホー! 久しぶりね、ディーノ。この手紙を読んでいるということは私の娘に会ったのよね? どう? そっくりでしょう?』
手紙を開いて見えた一行目に書かれていたのは、王女とは思えない言葉づかいの文章。
(変わらないな。これでも一児の母か?)
ディーノにとっては懐かしさを感じさせるものだ。王女と臣下。臣下とも呼べないただの一学生であったディーノに対して、ティファニー王女の母であるディアーナはいつもこんな調子で話をしていたのだ。
『なんてね。君がこの手紙を読んでいる時には私はこの世にいない。娘が何歳か分からないし、どれだけ自分に似ているかも分からないわ』
懐かしさを感じて、ほぐれたディーノの心を現実がまた凍らせる。ディアーナは死んだ。十年経った今もディーノはそれを受け入れられないでいた。
『元気でやってる? 幸せな人生を送っているかな? 私には君にこれを聞く資格はないわね。それは分かっているの。私は君の人生を狂わせた。今、君が不幸だとしたらそれは私のせい。恨んでいるよね?』
死の記憶をあまり思い出さないように少し急いで先まで読み進めてみた。だが、その結果はさらに気持ちが重くなるだけだった。
(そんなことはない。俺の人生は狂ってなんていない。君を恨んでなんていない。俺が恨んでいるとすれば、それは……)
ディアーナと出会ったことを後悔なんてしていない。ディーノが後悔しているとすれば、それは自分自身に対してだ。もっと何か出来た。それによりディアーナを悲しませることになったとしても、それでも生きていて欲しかった。
『ごめんなさい。私はまた君の人生を狂わせようとしている。それは分かっているの。それでも私が頼れる人は君しかいない。ずるいよね? 私は君の気持ちを利用しようとしている』
ディアーナに頼まれれば、それをディーノは断ることが出来ない。それを分かった上での頼み。だがそれを卑怯だなんてディーノは思わない。それはディアーナに許された権利であり、ディーノの義務なのだ。
『ティファニーを守ってあげて。彼女の身にどんな危険が迫っているかは分からない。いえ、これは嘘。分かっているから私はこの手紙を残すの。いつか来る、避けられない現実に備えて』
死ぬ前にディアーナが予想していた通りの事態が起きている。ディアーナが特別なわけではない。十年、もっと前から多くの人々が分かっていたことだ。
『ディーノ。今はいつ? 私の時は永遠に止まってしまっているわ。出来るなら君と出会った時で止まってくれれば良かったのに』
(馬鹿。出会った時で止まったら、その先はないだろ?)
『今、月が見えている? 今夜の月は綺麗かしら? ディーノ。時が止まったおかげで、私の心の中の月はずっと綺麗なまま。君との約束は永遠になったわ』
手紙はここまで。これでディーノには十分だった。何をしなければなんて知る必要はない。それが可能かなんて考える必要もない。ディアーナに頼まれたのなら、それをやるだけだ。それで死ねるなら本望だ。
死のうとした。死なせてもらえなかった。では生きてみようと思った。十年経って、その生は何の意味もないものだと分かった。そうであれば最後に、ディアーナの願いを叶えて死ねばいい。そう思った。
「……綺麗な月」
「えっ……?」
どれだけぼんやりとしていたのか。耳に届いたまさかの言葉にディーノは驚いた。ディーノが声のした方向を向くと、そこにいたのはティファニー王女だった。
「あっ……ごめんなさい……ここに来るとき、綺麗だなって……」
「……月を見たことがないのですか?」
素直に月を見た感想を口にしただけ。それはそうだろうとディーノは思った。言葉の裏にある意味を、ティファニー王女が知るはずがない。知っていれば口にするはずはない。
「ゆっくりと見たことはあまり……」
のんびりと夜空を見上げている気持ちの余裕なんてティファニー王女にはなかった。
「……どうしてここに?」
本当は建物の陰で、こちらの様子を窺っているクロードに聞くべきだと分かっているが、そのクロードとはディーノは話をしたくない。
「母上がどうにもならなくなった時は貴方に頼れって。手紙にはなんて?」
ディーノが尋ねたのは「どうして外に出てきたのか」なのだが、ティファニー王女は問いの意味を誤解した。どうでも良いことだ。
「……貴女を守って欲しいと書いてありました」
「それで……?」
「彼女の頼みであれば俺は断れません」
「あっ……良かった」
ティファニー王女の顔が明るくなる。ここまでのディーノの態度で断られるのではないかと心配していたのだ。
「……そこは寒い。もっと火の近くに」
「うん。ありがとう」
言われた通り、たき火に近づくティファニー王女。ディーノが場所を空けてくれた切り株に座る。ぶっきらぼうではあるが、心は優しい人なのだとティファニー王女は思った。
「あの……母上とは?」
ディーノと母親の関係を彼女は知らない。
「……学生時代に仲良くしてもらいました。それだけです」
「そう」
わざわざ「それだけ」と言うのは、そうではない証。それはティファニー王女にも分かるが、それ以上追及することはしなかった。聞いても話してくれないと分かったから。
これがティファニー王女とディーノの出会い。この二人の出会いが世界を変えていく。ただ、この時の二人はそこまでのことを考えてなどいなかった。夜空に浮かぶ月をのんびりと眺めていただけだ。