幼い頃から周囲は常に温もりを感じさせてくれる雰囲気だった。誰もが自分に笑みを向け、何か行えば褒めてくれた。そうであることが当たり前だった。
世の中に悪意というものが存在するのを知ったのは八歳の時。父に剣を教えてもらえることが決まったあとだった。
剣の稽古初日。その場には一つ年上の兄がいた。兄がいることは知っていた。いつ会えるのかと楽しみにしていた。ようやくその日がやってきた。だが同じように喜んでくれると思っていた兄は、自分に厳しい視線を向けてきた。とても喜んでいるようには思えなかった。その理由が分からなかった。
とにかく兄の視線が、態度が嫌だった。生まれて初めて、嫌な人というものに出会った。兄弟であるのに何故、兄は自分を嫌うのか。自分に嫌われるような態度をとるのか。その理由は少しずつ分かってきた。周囲を見る目が少しだけ変わった。
さすがはオティリエ様の御子。嬉しかったその言葉を嫌いになった。周りは自分を認めているのではない。母を認めているのだ。それが悔しかった。
周囲のそういう目を変えてやろうと思った。それに兄はとても役立ってくれた。剣術などは、最初の頃こそ先に習っていた兄に劣っていたが、すぐに追いつき、追い越した。それ以外のことでも、まず兄に負けるということはなかった。誰もが自分の優秀さを認めてくれた。褒めてくれた。それでもまだ周囲の視線に母の影を感じることはあったが、徐々にそれは気にならなくなった。自分が認められていることに変わりはないと思えるようになったのだ。劣等感など知ることはなかった。
彼が現れるまでは。彼は兄のように、悪意とまでは言わないが、好意的な態度を向けてこない。自分から接触を試みたが、それを喜ぶどころか迷惑そうな態度を見せた。父に恨みを持っているから。理由はそれだと思っていたが、そうではないことが徐々に分かってきた。彼は自分を嫌いなのではない。興味がないのだ。それはある意味、兄よりも酷いと思った。
では自分も彼を無視すれば良い。そう思ったが、それはうまく行かない。彼は常に自分の一歩も二歩も先を行く。彼のことを気にしないではいられない。そんな存在は初めてだった。
言い訳は出来ない。スタートは同じだった。同じ任務で彼は自分には成し得なかった成果をあげてみせた。同じというのも言い訳だ。彼のほうが人数では不利だったのだ。
自分とは何が違うのか。素直にそう考えて、教えを乞うことにした。だが彼の考えは理解出来なかった。生まれ育った環境がまったく違う。だがそれで任務の結果に差をつけられることになるのか。やはり分からなかった。
軍法会議にかけられた。さらに次の任務は失敗と評価されるような結果だったと聞いた。だが父はベルクムント王国との戦いにおいて、彼に重要な役割を与え、彼は想像をはるかに超える戦果をあげてみせた。「戦況に何の影響もないはずの場所に置いたら、たまたま敵が裏をかいてきただけだ」と言う人もいた。だが、「裏をかかれたにも関わらず、とてつもない戦果をあげたことはどう説明するのだ」と尋ねたら、何も答えられなかった。その人の言葉は、自分を慰めるために作られたもの。それを知って、劣等感が湧いてきた。周囲は自分以上に彼を認めているのだと分かったからだ。
また彼は新しい任務を与えられた。どのような任務かは分からない。幹部の他は任務に直接関わる人しか知ることは出来ない。そういう任務であることだけが分かった。また差をつけられたと感じた。
「……私はどうすれば良い?」
「えっ? はい……えっと……申し訳ございません。何の話でしょうか?」
一人で考え事に耽っていると思ったら、いきなりどうすれば良いかと尋ねてきた。ジギワルドの右腕とされるファルクでも、さすがに何のことか分からない。
「……あっ、ごめん。声にするつもりはなかったのだけど、漏れていたようだね?」
頭の中で考えていたつもりだった言葉。それが声になっていたのだ。
「何か、お悩みですか?」
「愚者のこと。なんだか差をつけられたような気がして」
「ああ……悩む必要はないのではありませんか? 今回の任務には彼が適任であった。そういうことかもしれません」
そうですね。差が付きましたね。なんてことは口に出来ない。白々しいと思いながらも、ファルクはこんなことを言うしかなかった。
「本当にそう思っている?」
「彼の優秀さは私も認めております。ただ、ジギワルド様と比べるものではないとも思っております。傭兵団の上級騎士として優秀であるということだけが、ジギワルド様に求められる資質ではありませんので」
ジギワルドが目指すのは父であるディアークの後継者としての立場。この点ではファルクの言っていることは正しい。
「そうだね……その通りだと思うけど、やはり気にしないではいられないね。同世代に上を行かれるのは気分が良いものではない」
「……そのお気持ちは必要だと思います。ただ、今は次の機会に備えて努力を続けることしか出来ないかと」
ヴォルフリックに対する競争心はあったほうが良いとファルクは思う。もしも思っている可能性が事実であれば、ジギワルドはヴォルフリックに負けているわけにはいかない。オトフリートとは比較にならない強敵なのだ。だが、では何をすれば良いのかとなると、答えが見つからなかった。任務を与えられなければ成果をあげることは出来ないのだ。
「努力か……そうだな。今はそれを続けるしかないか」
ジギワルドには一つ絶対にやるべきことがある。自分たちが行っている努力が、はたしてヴォルフリックたちのそれに比べてどうなのかということを、きちんと確かめることだ。
だがその機会も先に伸びてしまうことになる。ヴォルフリックたちは任務を始める為に、すでにシャインフォハンを発ってしまったのだ。
◆◆◆
シャインフォハンを発ったヴォルフリックたちの最初の目的地は、ノイエラグーネ王国の都ヤーヒンテン。キーラたち星のメンバー、メンバーといっても狼シュバルツと伝書烏たちだが、も同行している。ディアークの許しが出たのだ。
今回の任務はアルカナ傭兵団にとってもかなり難しい任務。愚者のチームでは上手く行かなかった時の為にバックアッププランも用意しているが、それは中央諸国連合の意向に沿った形のベルクムント王国従属国への侵攻作戦。本格的な再戦に繋がるような形にはなって欲しくない、なってしまうとしても局地戦で終わらせたいアルカナ傭兵団としては、バックアッププランを発動させることなく、事を収めたいという思いがある。キーラを支援に出すことで、その可能性が高まるというのであれば、要望に応えないという選択はない。もちろん、通常の情報伝達はキーラが都に行かなくても支障がないという前提があっての許可だが。
「……思っていたよりも伝書烏の拠点を作るというのは大変なのだな」
キーラが同行してきたのは任務の為に新たな情報伝達網を作る為。ヤーヒンテンはその最初の一つであるのだが、その為の作業はクローヴィスが思っていたよりも、ずっと長く時間がかかっている。ただその場所に来て覚えさせるだけでなく、そのあと、何度も街の外から覚えさせた場所に戻るという行動をキーラは伝書烏とともに繰り返していた。
その間、愚者のメンバーは街の外で野営だ。
「別に良いんじゃない? どうせ、すぐに発てないのだから」
クローヴィスの呟きにブランドが反応した。クローヴィスの鍛錬の相手をしているので、聞こうとしなくても耳に届くのだ。
「あちらのほうが困りものだな。傭兵団もどうして受け入れてしまったものか……」
クローヴィスの視線の先には二百人ほどの騎士や従士がいる。パラストブルク王国の人たちで、ほとんどがフルーリンタクベルク砦に共に籠っていた人たちだ。その彼らは任務への同行を申し出てきた。パラストブルク王国とノートメアシュトラーセ王国の間で話はついていると言って。
クローヴィスたちが野営しているのは彼らのせいでもある。二百人を超える人数で街の宿に泊まっていられないのだ。
「作戦の練り直しが必要になった。ただ今のところ、手助けになるとは思えない感じだね?」
人数が増えることは悪いことではない。ただ問題は、パラストブルク王国の騎士や従士である彼らに盗賊の振りが出来るのかということ。いずれはアルカナ傭兵団が裏で糸を引いていることは知られるとしても、最初は油断させておかないと都合が悪いのだ。
「ヴォルフリック様には彼らを使うつもりがあるのだろうか?」
そのヴォルフリックは、今もそうだが、日中はほとんど狼シュバルツとの戦いに時間を費やしている。一緒にいられるうちに少しでも多く戦う機会を持つ。そう決めているのだ。
「まったくないというわけではないかな? そうじゃなければ、鍛錬なんてさせないでしょ?」
パラストブルク王国の騎士たちもまた合流してからずっと日中は鍛錬を行っている。ヴォルフリックに指示された通り、ひたすら走り込みを行うなど地味な鍛錬を、内心でどう思っているかはブランドたちの知るところではないが、文句を言うことなく黙々とこなしていた。
使う気がないのであれば、ヴォルフリックはそんな指示はしない。ブランドはそう考えている。
「……良いのか?」
「何が?」
「今回も……その……仲間があれなのではないか?」
今回の任務でも黒狼団の仲間が動くことになるのではないか。そうであればパラストブルク王国の人間は邪魔なはず。クローヴィスは、こう聞きたいのだが、なんとなく正面から聞くのは躊躇われてしまう。クローヴィス自身も黒狼団の一員ではない。秘密にされる側の人間なのだ。
「仲間たちが手伝うってこと?」
「まあ、そうだ」
「そうだろうね。広範囲での活動になる予定だから、僕たちだけでは手が回らない。頼れる相手がいるのであれば頼るでしょ?」
ブランドは黒狼団の仲間が動くことを隠そうとしない。ここで隠しても無駄なのだ。今回の計画は裏でこっそり動くだけでは済みそうもない。何人かはクローヴィスも顔を会わせることになる。
「そうか……パラストブルク王国にも知られることになるが?」
「ヴォルフリックはどう考えているか知らないけど、僕は構わないと思っている。だって僕たちの時は止まらなかったからね」
「……時が止まらなかった、というのは?」
パラストブルク王国の人たちに黒狼団の存在を知られてもかまわない理由であるのだろうが、その意味がクローヴィスには分からない。
「ヴォルフリックが復讐の為に傭兵団に残ると決めた時、僕たちはただ待つだけの時をしばらく過ごすのだと思っていた。でも、実際にはそうならなかった。僕たちは前よりもずっと早く、大きく動いている」
「……だから?」
「今の僕たちを知られても、半年後、一年後の僕たちは同じではないってこと。ヴォルフリックもそうだね」
黒狼団は、かつてはまったく考えていなかったな形で成長しようとしている。ブランドはそう感じているのだ。
「そうか……ヴォルフリックと呼ぶのだな?」
ブランドは、真実を話す時はヴォルフリックをシュバルツと呼ぶことが多かった。無意識に話している時が多かったからだが、では今はどうなのかとクローヴィスは思った。ブランドの言葉を素直に受け止めて良いのか迷ってしまったのだ。
「だって今、シュバルツの名はあの狼の物でしょ?」
「あっ……確かに」
ヴォルフリックと狼シュバルツは何度も立ち合いを行っているが、今のところ圧倒的に狼シュバルツの勝ち越し、というかヴォルフリックは一度も勝てていないのだ。
「先は分からないけどね。ヴォルフリックはまた大きく成長しようとしている。僕としてはこれ以上の差が付けられない為に、君に頑張ってもらいたいのだけど?」
狼シュバルツと戦い始めて、ヴォルフリックはまた一段強くなろうとしている。動きが変わってきているのがブランドには、はっきりと分かるのだ。ブランドとしてみれば、自分も成長する為に鍛錬の相手をしているクローヴィスにもっと頑張ってもらわなければならない。今のクローヴィスでは無理だと分かっているが。
「すまない……俺も内気功を使えるようになれれば良いのだが、そう簡単ではないのだろう?」
まだ基礎の基礎の段階にいるクローヴィスでは、二段も三段も上にいるブランドと互角には戦えない。それはクローヴィス自身、思い知らされている。
「簡単とか難しいではなく、感覚? 出来る時は、ある日突然出来るようになるものだから」
「そういうものなのか?」
クローヴィスは少しずつ、一段一段、階段を上るように成長していくものだと思っていた。秘密にされていたわけではない。今、クローヴィスがいるレベルはまだ時間をかけて成長していく段階なのだ。
「体の動きを意識する。細部まで感じられるようになると、体中を巡っている何かがあることに気付く。それに気づくことが出来、動かすことが出来るようになれば、壁を越えたってこと」
「体中を巡る……血液とは違うのだろうな?」
「どうだろう? 同じような感じもするけど……血液とも一緒に動いているって感じかな。まあ、この感覚は僕のだから、また違うかもね?」
気というものがどういうものなのか。それはブランドにも説明出来ない。ただあるのだ。そのあるということに気付けなければ、口でどう説明しても、理解出来るものではない。
「自分なりの感覚か……」
「あまり考え過ぎないほうが良いと思うよ? あくまでも感覚だから。その点ではセーレンさんのほうが有利かもね? 彼女はどう見ても感覚で動いている」
「まさか……セーレンに先を越されるのか?」
クローヴィスの脳裏に子供の頃の苦い思い出が浮かんでくる。セーレンに負け続けていた日々だ。今でこそクローヴィスのほうが実力は上であるが、それにはセーレンが父親に鍛錬を禁止されていた影響も大きい。同じ鍛錬を行うようになった今、また追い越される可能性は充分にある。クローヴィスにはそう思えてしまう。
「その考えは悪くない」
「どこが?」
「先を越されるって言い方は、自分も壁を越えられるって信じている証。必ず出来ると信じることは大切だ」
「それはそうだが……」
信じて努力することは大切だ。これはクローヴィスにも分かる。だがその努力は本当に報われるのか。届かない高みを見ているクローヴィスには、信じ切ることが出来ない。
「……悪いくせだね? 特殊能力がそんなに大事かな?」
クローヴィスの気持ちをブランドも分かるようになってきている。特殊能力を持たないことはクローヴィスのコンプレックス。コンプレックスが良いほうに作用する人もいるのだが、クローヴィスはそうではないのだ。
「……特殊能力がなくても父に追いつけると?」
「それは君次第。でも、そうだね……ちょっと可能性を見せてあげる」
「可能性?」
クローヴィスの問いに答えることなく、ブランドは自分の剣、真剣のほうを抜くと、その刃を腕に当てて、一気に引いた。
「おい!?」
それを見て驚くクローヴィス。ブランドの腕からは血が流れ落ちている。本人はなんともない顔をしているが、流れている血の量は、かすり傷とは言えないほどだ。
「これくらいは大丈夫」
「大丈夫って……早く治療しないと。血が流れ過ぎだ」
「だから大丈夫」
心配しているクローヴィスの言葉を無視して、無造作に傷口を手で撫でるブランド。
「えっ……そんな……?」
ブランドの腕にあるはずの傷口はわずかに薄い線を残すのみ。ブランドが撫でた一瞬で傷口は塞がり、血も止まっていた。
「まるで特殊能力みたいでしょ? これくらいのことは出来るようになるってこと」
「……そうか」
特殊能力を持たなくても鍛錬によって常人にはない力を得られる。それを自分に示す為のブランドの行動。そうであるはずなのだが、クローヴィスは、やはり素直に受け取ることが出来なかった。
ブランドは真実を語っているのか、そうでないとすれば、彼は何を隠しているのか。その秘密は彼だけのものなのか。なぜか、こんな思いがクローヴィスの頭の中を駆け巡っていた。