西の空に太陽が沈もうとしている。空を橙色に染めている夕日が、木を組み上げて作られた櫓を同じ色に染め上げている。
多くの人々が周囲を囲む中、ゆっくりと前に進み出たのはジグルス。彼の腕に抱かれているのはユリアーナだ。軍装からドレスに着替え、死に化粧を施されたユリアーナの体をジグルスは櫓の上にそっと乗せ、また元の位置に戻っていく。
代わりに進み出たのはニクラスたち。火のついた松明を持ったニクラスたち。櫓の周りを囲むと、その松明の火を燃え移らせていく。徐々に勢いを増していく炎がユリアーナの体を包み込む。夕日に変わってその炎が人々の顔を赤く染めた。
「……遺体を燃やすのが異世界の流儀ですか」
燃える櫓を見つめながら、ヨルムンガンドが呟いた。蛇人族には火葬という習慣がない。目の前で行われている儀式は初めて見るものなのだ。
「俺たちが生まれ育った国では……亡くなった人の魂は天に昇ると言われている。体も煙として天に昇らせてあげるんだ」
たんに元の世界での葬送のやり方を選んだだけで、火葬にする理由などジグルスは知らない。この世界の人たちも納得しそうな理由を咄嗟に作って、説明した。
「天に昇る、ですか……」
「亡くなってしまった大切の人が天から自分の行動を見ている。そう考えると下手な真似は出来ないだろ?」
「確かにそうですね」
「それに……最後の別れの時間は長いほうが良い。酒でも飲みながら、亡くなった人の話をするのも葬送の一部だから」
遺体が骨だけになるにはかなりの時間がかかる。その間、ずっとジグルスはこの場で見送るつもりだ。彼だけではない。ニクラスたちも同じ時間を過ごすことを、間違いなく選ぶことになる。
「今日のこれは多くの人を送る儀式。朝までかかっても話は尽きないかもしれませんね?」
葬送の儀式はユリアーナだけのものではない。この戦争で亡くなった人全てを送る儀式として位置づけられている。アイネマンシャフト王国と魔王軍の戦いの終戦の儀式でもあるのだ。実際のところ、公式にそう決められたわけではない。戦いが終わり、ユリアーナだけでなく犠牲者全員を弔うことをジグルスが決めた結果、なんとなく皆がそう受け取っているだけだ。
「人の一生だ。一晩かかっても話が終わらないのは当たり前だと思う。話して、話して、疲れてしまうまで話して、眠れば良い」
「……心の傷を癒すのに少し役に立ちますか」
大切な人を失った悲しみはそれくらいでは癒えない。それでも残された人は生きなければならない。どんなに悲しくても疲れれば眠くなる。どんなに寂しくてもお腹は空く。生活は続く。そうして人々は暮らしを取り戻していく。悲しみを胸に残しながらも明日を生きていく。そうならなくてはとヨルムンガンドは思う。
「大切な人は一人だけじゃない。そうじゃないと……」
ユリアーナのような死に方をして欲しくない。大切な人を失って悲しんでいる人がいれば、それを慰めてくれる人がいる。人々の繋がりを大切にする社会でなくてはいけない。そういう国を作らなければならないとユリアーナの死を経験して、ジグルスは強く思うようになった。
「……この場をお借りして、正式に王への従属を誓わせてもらって良いですか?」
一日でも早く、魔族はもう一度ひとつにまとまらなければならない。それを戦いを終えたばかりの人々の前で、はっきりと示そうとヨルムンガンドは考えた。
「誓いはしなくて良い」
「……どういうことですか?」
従属を拒否された。ヨルムンガンドにとっては思いがけないジグルスの反応だ。
「これまで何も考えないで誓いを受け入れてきたけど、魔族の誓いは絶対だ。皆が皆、忠誠を誓ってしまったら、俺が間違った道を進んだ時に誰が正してくれる? 人族に全て任せるわけにはいかないだろ?」
「それは……しかし……」
ジグルスの言っていることは分かる。だからといって、臣従の誓いを簡単に取りやめにするわけにもいかない。
「ほどほどの誓いがあれば良いのに。一度、きちんと調べてもらうか」
「それはそうかと思いますが……その役目が私というのはどうでしょう?」
敵対していた勢力の長だったのだ。臣従の形ははっきりと示さなければならないとヨルムンガンドは思う。そうでないと魔王軍であった人たちの立場が微妙なものになってしまうように思えるのだ。
「俺を倒す力があるのは誰かと考えると、お前しかいない。まあ、一人では厳しいと思うから、なんとかほどほどの誓いを……なければ全員解消すれば良いのか」
臣下の誓いへの拘りはジグルスにはない。本気でなくても良いと思っているのだ。
「……私が間違った考えを起こす可能性は考えないのですか?」
「そうなった時は、また誰かが正してくれる。そいつが間違ったら、また別の誰かが」
「……私たちは正しくあり続けられるでしょうか?」
ジグルスの考えは、ある意味、理想だ。常に正しい、個人の利ではなく国の、国民の利を考えて行動できる人が国を導く。そんな国が実現出来たら良いとヨルムンガンドも思う。だがかなり難しいことであるのは間違いない。
「……出来るだろ? 皆がこの日のことを忘れなければ。戦争の犠牲者になった人たちが、天から自分たちの行いを見ていることを忘れなければ」
理想であってもそれを追いかけなければ、近付くことは出来ない。ジグルスはそれを追いかけるつもりだ。自分の死後も追い続けて欲しいと思っているのだ。
「……そうですね」
二人の視線が自然と空に向く。陽が完全に落ちて星が輝くようになった夜空に。輝きの一つ一つが亡くなった人たち。その輝きに恥じる行いをしてはいけない。その輝きを曇らせるような行いをしてはならない。アイネマンシャフト王国の教育に、この教えが加わることになる。
◆◆◆
アイネマンシャフト王国軍と魔王軍の戦いは終結した。この情報はローゼンガルテン王国に届いていない。届くはずがない。未だにローゼンガルテン王国軍はグラスルーツ近辺以外では行動出来ないでいるのだ。
有益な情報を得られないままに今後の対応を考えなければならなくなったローゼンガルテン王国。これ以上の敗戦は、公式には敗戦という記録はないが、許されない。これはキルシュバオム公爵家だけでなく、ローゼンガルテン王国の政権中枢にいる全員の思いだ、
そうなると計画は万全の上にも万全を期すことになる。王国騎士団長が進言していた総力戦という方向に作戦は進むことになった。
キルシュバオム公爵としては面白くない。だが、さすがにブルーメンリッター単独で戦って勝てると思うほど楽観的ではない。そうであれば自勢力の軍事的な力であるブルーメンリッターだけを消耗させるわけにはいかない。他公国軍も参戦させたほうが良いと考えを変えることになった。戦いのあとを考えた結果。真実を知る人がいれば、十分以上に楽観的だと忠告したことだろう。
「ラヴェンデル公国軍は領境からリリエンベルグ公国に侵攻することになったよ」
公国への出兵命令を承認する会議に、国王代行として出席したアルベルト王子。その内容を部屋に戻ってすぐにクラーラに説明している。自分は軍事的経験は皆無。才能も乏しいと考えているのでクラーラに頼ることにしているのだ。
「ラヴェンデル公国軍単独での侵攻ですか?」
無謀な要請だとクラーラは思う。リリエンベルグ公国西部は割と落ち着いている。ブルーメンリッターが得た情報に基づいての決定なのは分かるが、その情報の信憑性はかなり低いとクラーラは考えているのだ。
「王都に寄らせたくないのだろうね?」
「どうしてですか?」
「私に会わせたくないという風に言い方を変えれば分かるかな?」
ラヴェンデル公国軍を西の領境から侵攻させるのは政治的な理由。こういう部分はアルベルト王子のほうがクラーラよりも頭が回る。
「……殿下との結びつきを恐れてですか?」
「そう。ラヴェンデル公爵家は王都の事件に対して、ほぼ無反応だったと聞いている。それがキルシュバオム公爵には不審に思えるのだろうね?」
非難するわけでも支持するわけでもない。ゾンネブルーメ公爵家と違い、事前にまったく話を聞かされていなかったラヴェンデル公爵家であれば、当然とも言える反応なのだが、その当たり前の反応にもキルシュバオム公爵は不安を感じてしまう。自分たちの立場が危うくなっていることを、ようやく感じ始めたのだ。
「……王都で会えなくても現地で話は出来ます」
「君が前線に出られればの話だね? どうかな? 君はもう信用されないと思うけど?」
クラーラとアルベルト王子の関係をキルシュバオム公爵は知っているはず。養女だからということで安心するとは思えないアルベルト王子側として扱われるだろうと考えている。
「……お城を出ることさえ出来れば、なんとかなると思います」
現地に入ることが出来さえすれば何とかなる。クラーラの頭にあるのはエカードの存在だ。エカードを説得すれば前線に出られる。説得は出来ると考えているのだ。
「なんとか城の外に出たいのは私だけどね?」
ラヴェンデル公爵家を味方に出来たとしても、城に閉じ込められている状況では意味がない。ラヴェンデル公国軍だけで王都攻めを行っても落ちるとは思えない。落とせても、その時に自分が生きていられる確証がアルベルト王子にはない。
「城内に味方が欲しいところですね? 誰かいないのですか?」
「……どうだろう? 今は心当たりはないかな?」
王国の中枢は、キルシュバオム公爵家が簒奪を成功させたばかりの時とは少し雰囲気が変わっている。今回の軍事作戦検討における王国騎士団長の振る舞いもその一つだ。だがアルベルト王子はそれを口にしようとは思わない。まだまだ不確定に感じる部分がある。全面的に信じる気にはなれないのだ。
「……焦りは禁物ですね? 少しずつ、確実に味方を増やしていかないと。まずはラヴェンデル公国。ゾンネブルーメ公国はどうですか?」
「少なくとも私はゾンネブルーメ公爵は信用出来ない。虎を追って狼を引き入れるようなものだと思うよ?」
ゾンネブルーメ公爵はキルシュバオム公爵と変わらぬ野心を持っているとアルベルト王子は考えている。頼り過ぎてはキルシュバオム公爵からゾンネブルーメ公爵家に権力が移るだけだと。
「そうですか……ラヴェンデル公国はそうではない?」
「絶対とは言えない。どこか一つを選べと言われれば、ラヴェンデル公国を選ぶってだけのことだよ」
ラヴェンデル公爵に野心がないとはアルベルト王子は思わない。ただその野心の強さがキルシュバオム公爵とゾンネブルーメ公爵に比べれば弱いというだけのことだ。
「最終的には殿下ご自身が力を持たないとですか……近衛騎士団だけでは無理。王国騎士団をなんとか取り戻せればですけど……」
アルベルト王子自身が力を持たなければ、結局、別の誰かに権力が移るだけのこと。ではどうすれば力を持てるのかをクラーラは考えたのだが、これだという考えは簡単には出てこない。簡単に出てくるのであれば苦労はしない。
(……正直、今、考えてもどうかなと思うけどね?)
頭を悩ませているクラーラを見つめながら、心の中だけで本音を呟くアルベルト王子。どの公国を味方に付けるか。王国騎士団の統帥権を取り戻せないか。これを今考えることにどれだけの意味があるのか、アルベルト王子は疑問に思っている。
それを考えることはリリエンベルグ公国での戦いがローゼンガルテン王国の勝利で終わる前提。こうアルベルト王子は考えているのだ。クラーラ自身が最高の戦術家と評価したジグルス。アルベルト王子のジグルスに対する印象は、たった一度話をしただけだが、改革者だ。物事を大きく変える力をジグルスは持っている。一方で彼の考えは周囲との軋轢を生む。ローゼンガルテン王国では活かせないと当時、アルベルト王子は考えたのだが、国王という地位を得た今はどうなのか。反発を抑える権限と実際にそれが出来る力をジグルスが持ったとすれば、はたしてその国はどのような国になっているのか。
以前のジグルスを知る人たちこそ、優秀さは認めながらも、彼を過小評価している。そんな風にアルベルト王子は思えるのだ。
◆◆◆
リリエンベルグ公国奪回作戦への参戦命令はこれ以上ない早さでラヴェンデル公国に届けられた。命令を伝えたからといって、すぐにラヴェンデル公国が出陣出来るわけではない。準備にはそれなりの日数が必要で、そこからさらに移動にかかる期間がある。それが分かっているローゼンガルテン王国騎士団は、無駄な時間を一日でも減らしたいと考えたのだ。
命令を受けて、早速、出陣準備に入ったラヴェンデル公国軍。作戦計画はそれと並行して検討が進められている。戦時体制が継続している今は、物資調達などの出陣準備よりも、作戦計画の立案のほうが時間が必要なのだ。
「西の領境からの侵入。これを変更することは認められないのですか?」
計画を考える上で、一番問題なのはこの点。ラヴェンデル公国軍単独で侵攻しろなど無茶な話だとタバートは思っている。
「それも含めて命令だからな」
王国が伝えてきた命令はラヴェンデル公国との領境からリリエンベルグ公国に侵攻せよ、というもの。侵攻場所を変えたいというのは王国が発した命令を変えろと要求するのと同じだ。変更は出来ないとラヴェンデル公爵は考えている。
「王国は状況を理解しているようでしたか?」
「詳しく聞くことはしなかったが、理解していないだろうな。もしかするとキルシュバオム公爵家は理解しているのかもしれないが、公にされてはいない」
「……理解しているからこその参戦要求。この可能性もありますか」
「そうであるのに我が軍を危険な目に遭わせようとしている? そこまでキルシュバオム公は馬鹿ではないと思うが」
単独行動を行うことにより、ラヴェンデル公国軍が削られるような事態になれば、参戦した意味がなくなる。ラヴェンデル公国軍の戦力が無用と考えているのだとすれば、それはやはり状況を理解していないのだとラヴェンデル公爵は思う。
「……キルシュバオム公が状況を理解していないとなると王子殿下も同じですか」
「キルシュバオム公が得た情報からさらに選別されているだろうからな。ただ……クラーラという女性がどの立場にいるか。それによって情報の選別に失敗した可能性はある。もっとも最初の情報だけなので、期待は出来そうもない」
「殿下と話をする機会は作れないのでしょうか?」
「それは当然、試みる。使者はすでに送ってあるが、はたして会わせてもらえるか。私自身が行けば可能性は高まると思うが……」
キルシュバオム公爵家が強硬手段に出る可能性は否定出来ない。国王を弑するという大罪を犯したキルシュバオム公爵家だ。今更、何の罪を躊躇うのか、という思いがラヴェンデル公爵にはある。
「難しい判断を迫られることになります」
「それはもう覚悟している。ぎりぎりまで考えることになるだろうが。現地での判断はお前に任せる」
「よろしいのですか?」
派遣軍の総指揮官はタバートだ。だが、ここでラヴェンデル公爵が言った判断は、軍事に限った話ではないとタバートは分かっている。
「いちいちお伺いを立ててはいられないだろ? 次代はお前だ。未来を判断するのがお前になるのはおかしなことではない」
「……分かりました。ありがとうございました」
ラヴェンデル公爵家の未来にとって何が正しいことか。この判断は難しい。その難しい判断を、場合によってはタバートは任されることになる。それは信頼の証。父であるラヴェンデル公爵は息子であるタバートにはすでに家を任せる力があると考えている。それがタバートには嬉しかった。なんとかその信頼に応えたい。そう思った。
事は旧リリエンベルグ公国領で動くことになる。物語のメイン舞台は、ある時期からずっと変わっていないのだ。