捕虜になったマリアンネが連れてこられたのはアイネマンシャフト王国の都ノイエーラ。ジグルスは以前と変わっていないと話をされて、安堵したマリアンネであったが、いざノイエーラに入るとなるとまた不安が心の中に広がっていく。アイネマンシャフト王国の都ノイエーラは多くの魔人が暮らす場所であるはずで、彼女にとってはまだ敵の本拠地に乗り込む時のような感覚なのだ。
ただそういった感情は表に出さないようにと言われている。内心の不安を押し隠し、無理やり笑みを作って地面に降り立ったマリアンネ。
「おお、来たか。思っていたよりも早かったな」
「えっ!? 王女殿下?」
カロリーネの出迎えを受けて、到着した途端に驚きで不安は吹き飛ぶことになった。
「王女殿下ではない。カロリーネ。妾はもう王女ではないからな」
「……ご無事だったのですね?」
マリアンネはカロリーネの行方はもちろん、生死も分かっていなかった。キルシュバオム公爵家は掴んでいた情報を隠していたのだ。
「おお、幸いにもお主らに殺されなくて済んだ」
「……すみません」
「冗談だ。笑えなかったか?」
マリアンネは実際に王城を襲った一人。笑えるはずがない。土下座して謝らなければならないのではないかと思っているくらいだ。
「……王女殿下はどうやってここに?」
「カロリーネだ。ジークに連れてきてもらった。いや、陛下だ。でもジークは妾の臣従を認めてくれなくてな」
カロリーネの立場ははっきりしていない。本人はアイネマンシャフト王国の民のつもりなのだが、ジグルスがそれを受け入れていない。ローゼンガルテン王国の王女であった彼女を庶民にするわけにはいかないという考えだ。だがこの国は貴族制度もない。平民以外の身分がないのだ。
「その、彼は、どうして王に?」
ジグルスの話が出たところで、すかさずマリアンネは王になった理由を尋ねた。
「どうして? 皆に望まれて? いや、最初は王になるしかなかったからか。なってしまえば、あとはジーク以上の適任者はいない。どの国の王より名君だと思うのは、妾の贔屓目だけではないと思うな」
「そんなに立派に王を務めているのですか……」
「この街を見ればすぐに分かる。戦争に強いだけの男ではないことがな」
防衛線を大きく前に出したことでノイエーラは戦場になることがなくなった。防衛圏内に侵入してきた魔王軍も、わざわざ攻略が難しいノイエーラを攻めて、犠牲者を増やすような真似はしていないのだ。そのおかげでノイエーラは生産拠点としての機能拡大に専念出来ている。都としては規模はまだ小さいが、豊かさという点では発展が続いているのだ。
「魔人の国なのですよね?」
「それは間違いだな。この国の民には人族も魔族もエルフ族もいる。どの種族の国なんて表現は正しくない。もちろん、上下関係もないからな。それもこの街を見れば分かる。魔人たちが畑を耕している姿は珍しくもないものだ」
「それは……ちょっと気になります」
魔人が畑を耕している姿。そんなものはマリアンネは一度も見たことがない。話に聞いたこともない。聞いたことがないのは、狩猟民族としての生き方をしている種族が多いからというだけだが。
「この戦争は食料不足が原因で起こされたそうだ。食料問題が解決すれば魔族に戦う理由はない。まあ、今はジークを王として受け入れ、その治政の下で暮らすことを望む者とそうでない者の戦いになっているがな。もともとはそういうことだ」
「……ローゼンガルテン王国を敵に回すのはどうしてですか?」
その食料問題がジグルスによって解決されるのであれば、ローゼンガルテン王国と戦う理由もなくなるはず。これはアイネマンシャフト王国とローゼンガルテン王国に戦って欲しくないマリアンネの考えだ。
「ローゼンガルテン王国がこの国を認めないだろう? 今はキルシュバオム公が、と言うのが正しいか。妾が思うに、キルシュバオム公は戦争を欲している。戦争の勝利か。それを得られるのは、もはやこの地しかない。敵に出来る相手がいるというだけの話で、実際に勝利が約束されているわけではないのだがな」
「ローゼンガルテン王国に勝てると考えているのですね?」
「そこまで思い上がってはいない。だが、負けないという自信はあるのだと思う。妾も同じだ」
ローゼンガルテン王国全土を占領する。そんな勝ち方は出来ない。たとえ軍同士の戦いで完全勝利出来ても、統治は別だと考えているのだ。この地以外で暮らすローゼンガルテン王国の民が、魔人を簡単に受け入れるはずがない。力で押さえつけるつもりもない。統治が行き届く、旧リリエンベルグ公国領内を守り抜く。これがジグルスの、アイネマンシャフト王国の考えだ。
「負けない戦いですか……」
「そう遠くないうちに分かる。お主の戦いは一旦、終了となったが、他の者の戦いはまだ続いている。これまで以上に激しくなるだろう戦いが、もうすぐ始まるのだ」
魔王軍との戦いの決着。その時が迫っていることをカロリーネは知っている。戦場から遠ざかっているノイエーラであっても戦いの気配は感じられる。多くの人、物資の出入り。次の戦いの準備は始まっているのだ。
◆◆◆
アイネマンシャフト王国の防衛圏内での戦いにおいてローゼンガルテン王国軍は利用され、混戦に巻き込まれただけ。勝敗はアイネマンシャフト王国軍と魔王軍の間で争われるものだ。当初、まんまと作戦通りの混戦に持ち込んだ魔王軍。ローゼンガルテン王国軍を利用して、アイネマンシャフト王国軍の動きに制約を加えながら戦場を拡散させることにも成功。あとは小部隊同士での力比べ、そしてアイネマンシャフト王国の拠点を襲撃して国力増大を防ぐという展開だったのだが、これについては十分と言える成果を上げられなかった。
組織力だけがアイネマンシャフト王国軍の強みではない。魔人、に限ったことではないが、一人一人の戦闘力においてもアイネマンシャフト王国軍は魔王軍を凌駕していた。各種族の特徴を活かした戦い方。これは個においても考えられ、実践されていたのだ。
魔王軍にとって、まったく想定外だったわけではない。アイネマンシャフト王国軍の力がすでに自軍を超えていることは分かっていた。だからこそ、その差を縮める為の作戦として今回の戦いは考えられ、実行されたのだ。戦術を無効にする遭遇戦。その状況には持ち込めたが、遭遇戦においてもアイネマンシャフト王国軍が一段上を行っていたということだ。
「……作戦は失敗ですか」
「申し訳ありません」
作戦継続は不可能。そう判断したフェンは撤退を決断。帰還後、こうしてヨルムンガンドに作戦失敗の報告を行っている。
「謝る必要はありません。アイネマンシャフト王国軍が実力でも運でも我々を上回っていた。そういうことです」
「それは……」
作戦実行以前にヨルムンガンドは、真に強い者が勝つと話していた。今の言葉はその真に強い者はアイネマンシャフト王国であると認めてしまったようにフェンには聞こえた。
「北での戦いの結果、アース族はほぼ壊滅状態。従っていた者たちのほとんどがアイネマンシャフト王国に降伏しています」
「そうですか……」
アース族軍を吸収し、さらにアイネマンシャフト王国軍は強大になった。自軍の勝利がさらに遠くなったとフェンは考えた。
「ローゼンガルテン王国軍はグラスルーツに籠ったまま。恐らくは援軍の到着待ちというところでしょう。それまでは動かないと考えて間違いないと思います」
アース族軍が消滅し、ローゼンガルテン王国軍はすぐには動きが取れない。混戦状態は収まったということだ。
「アイネマンシャフト王国軍はどう出ると思いますか?」
「どう出る?」
「はい。アイネマンシャフト王国軍の次の動きです。どういった選択をしてくるでしょうか?」
顔に笑みを浮かべてこれを尋ねるヨルムンガンド。敗戦の悲壮感などまったく感じられない。喜んでいるのではないかと疑えるほどだ。
「……分かりません」
ヨルムンガンドの問いへの答えをフェンは持たない。これが敗戦の原因の一つでもある。出会った敵とただただ戦うだけの遭遇戦。魔王軍はそういう形に持ち込んだつもりであったが、アイネマンシャフト王国軍のほうはその状況でも個々の部隊を連動させていた。それを可能にしたのは有翼族や鳥人族によって編制されている偵察部隊。その偵察部隊の働きにより敵の動きを知り、それを分析し、分析結果に基づいて自国軍の部隊を効率的に動かす。アイネマンシャフト王国軍の指揮官にはこれが出来、魔王軍には出来ない。この差は大きかった。
「貴女はどう思いますか?」
フェンからは回答は得られないと分かったヨルムンガンドは、質問する相手をユリアーナに変えた。
「聞かなくても分かっているでしょう?」
「自分の考えが間違っていないか確かめる為にも、他者の意見は聞くべきではないですか?」
「そうね……攻めてくる」
簡潔な答えを返すユリアーナ。ヨルムンガンドは納得顔。一方でフェンは今ひとつ理解出来ていない様子だ。
「やはり攻めてきますか」
「ローゼンガルテン王国軍が動かないうちに決着をつける。誰でもこう考えるわ」
もともとアイネマンシャフト王国はこう考えていた。魔王軍との戦いを終わらせ、旧リリエンベルグ公国領内の守りを固めた上でローゼンガルテン王国に向き合う。これが最善であったのだが、それはもう無理。そうであれば、せめて魔王軍との戦いを決着させることだけでも実現しておかなければならない。ローゼンガルテン王国軍が増援を得て戦場に出てくるとまた混戦になってしまう可能性が高い。しかもより収束が困難な状況での混戦だ。
「迎え撃つ準備をしなければなりませんね?」
「どこで戦うつもり?」
「野戦で勝てると思いますか?」
「勝てる可能性はあるわ。確率がかなり低いだけで」
野戦で正面から戦っては、まず魔王軍に勝ち目はない。今や質だけでなく数でも負けている状況になってしまったのだ。
「可能性はありますか……」
確率が低いのはどこで戦っても同じ。わずかでも高くなる戦場と戦い方はどれかだ。
「数の問題は魔物を増やすことで解決出来るわ。私が率いる魔物たちは強いわよ」
「そうですね……数は多いほうが良いですね。ただ……」
考え込んでしまうヨルムンガンド。数は少ないよりも多いほうが良い。しかもユリアーナは魔物を率いて、ゾンネンブルーメ公国で実績をあげている。悩む必要などないと、話を聞いているフェンは思うのだが。
「時間がない?」
ユリアーナにはヨルムンガンドが悩んでいる理由が分かっていた。
「今はまだ分かりません。ただ、数が揃うのを待っている余裕があるとは思えません」
時間的余裕はアイネマンシャフト王国のほうがない。ローゼンガルテン王国軍が増援される前に決着をつけようとするはずなのだ。
「そうなると、ここで戦うことになるわね?」
魔物をどれだけ集められるか分からない。戦力が不確定な状態で野戦を挑むことは出来ない。大幅に数を増やすことが出来なければ、まず間違いなく負けるのだ。
「ちょっと待ってくれ。ここというのは?」
フェンはまだ二人の会話に付いて行けていない。個としては魔人でも最上位クラスの実力者であるフェンだが、戦略や戦術の類は苦手。ある意味、魔人らしい魔人のままなのだ。
「地下で戦うということよ」
「そうか。ここか……」
問いの答えは簡単。だがその意味は重い。今の魔王軍にとって地下は本拠地。いよいよ本拠地に攻め込まれるということだ。
「大きく遠回りすることはないと思いますので、侵入経路はおそらく近場の二か所。どちらからか、それとも両方か」
地下への侵入場所をいくつもある。だが旧リリエンベルグ公国以外の三公国の領内にある侵入場所では遠すぎる。アイネマンシャフト王国軍が選ぶのは新設した二か所だとヨルムンガンドは考えた。
「二か所とも知られているの?」
近場の二か所が新しく作られたものであることはユリアーナも知っている。アイネマンシャフト王国に付いた魔人たちに知られていないものだと聞いていたのだ
「そう考えたほうが良くないですか? 実際に知られていると私は思っていますけどね?」
「そう……こちらの戦力を分散させるつもりなら二か所同時ね。片方だけを選択する理由ってあるのかしら?」
「……こちらの守りを確実に突破出来る自信があるなら、一か所かもしれませんね。地下通路は広いですから」
地下通路は網の目のように地下に広がっている。展開する部隊の数は多ければ多いほうが良い。こう考えた場合、二か所に攻撃を分散させるのではなく一か所に集中させてくる可能性がある。こうヨルムンガンドは考えた。
「入口を突破されたあとは、結局、遭遇戦ってことね?」
迷路のような地下通路を進む中で出会った敵部隊と戦う。前回の戦いと場所は違えど似た戦いの形だ。
「そうなります。ただ、我々にとっては地下のほうが戦いやすいですね。少なくとも空から見張られることはありません」
「……そうね」
「地下でもアイネマンシャフト王国軍は変わらぬ戦い方を見せられるでしょうか? それ次第で我々が勝利する可能性は変わってきますね?」
同じ遭遇戦でも条件が違う。魔王軍には本拠地で戦う利がある。アイネマンシャフト王国軍の強みのひとつである情報伝達網が地下では使えないのだ。
「決戦の場だから、それくらいの得はないとね。それで? どちらを守るの? それとも両方?」
「……今はまだ判断は難しいですね。前線になるだろう場所に出来るだけ近づいて、そこで情報が届くのを待つというのはどうですか?」
まずは戦力をひとまとめにしておいて、敵の動きが見えたところで判断する。とりあえずの策だ。
「そうね。それが良いと思うわ。じゃあ、準備に入るわね? 集合場所が決まったら教えて」
「ええ、もちろんです」
自分が率いる軍の出動準備を行うと言って、ユリアーナは会議室を出ていった。それほど急いで向かうことでもないのだが、決戦の時が近いと分かって、彼女なりの心の準備も必要なのだ。
「……何を考えているのです?」
「それは彼女に向けるべき質問ではないですか?」
ユリアーナは何を考えて、味方になったのか。この疑問の問いは未だに得られていない。
「彼女にも、です。俺には貴方の考えも分からない。この戦いの先に何を見ているのですか?」
ヨルムンガンドは何等かの理由があって戦いを始めた。食料確保の為であることは分かっている。だが、本当にそれだけが理由なのかとフェンは思うようになっていた。
「……魔人たちの未来を」
「それはもう聞いています。その詳しい説明を求めているのです」
「託せる人物が誰か」
「えっ?」
続く言葉の意味がフェンにはすぐに理解出来なかった。すぐに答えが返ってくると思っていなかったので、考える準備が出来ていなかったのだ。
「未来を託せる人物は誰かを考えてきました。もちろん、最初からではありませんよ。最初は自分が出来るだけのことをやるしかないと考えていました」
「……ジグルスの存在を知って、考えが変わった?」
ヨルムンガンドが自分以外で未来を託せると思う人物は誰か。ジグルスしかいないはずだ。
「少し違いますね。彼の存在はずっと前から知っていました」
「なんだって……?」
「戦争が始まるずっと前。彼がまだ幼い頃からです。そうでないと冥夜の一族はもっと多くの死者を出していたでしょう。貴方も少し苦しい思いをしていたのではないですか?」
ジグルスの存在を隠すことはヨルムンガンドに対する重大な裏切り。これがそのまま適用されていれば冥夜の一族は掟破りでもっと多くの、全滅に近い犠牲者を出していた。そうならなかったのはヨルムンガンドが存在を知っていたから。それを許容していたからだ。
犠牲者になったのは隠した結果、ヨルムンガンド、もしくは魔族の不利益を生んでしまった人たちなのだ。
「……どうして、何もせずに?」
、
「特に危険を感じなかったから。彼はヘルの息子です。特別な理由もなく、彼女から大切な息子を奪うことなど私には出来ませんよ」
「それを話せば良かった」
それでも犠牲者は出ている。ヨルムンガンドにジグルスの存在を隠した結果、亡くなった人は何人もいるのだ。
「彼の存在を明らかにすることは正しいことだったのでしょうか? 答えは分かりません。冥夜の一族であれば情報を漏らすことはなかったかもしれませんが、それでも絶対とは思えませんでした」
こんな言い方をしているがヨルムンガンドは絶対に存在は隠すべきだと考えていた。冥夜の一族に犠牲者が出ようと、ジグルスの存在を知られてはいけないと考えていたのだ。
「ヘルは……いや、彼女の死は関係ないか」
「彼女はバルドルを殺された恨みで戦ったのではありません。リリエンベルグ公爵に恩を返す為。それ以上に家族の為に戦ったのだと私は思っています……私には彼女の想いを語る資格はありませんけどね?」
ヨルムンガンがジグルスの存在を認めていると知ったとしても、ヘルが味方になることはなかった。彼女は愛する息子の為に死を選んだのだ。
「いや、正しいと思う……いつから彼に未来を託そうと?」
「その問いは正しくありませんね。彼に未来を託すと決めたわけではありません。ただ彼に敗れた時、どうなってしまうのかを考えてきただけです」
「その結果は?」
答えは分かっている。ヨルムンガンドはジグルスを認めている。ただジグルスに託した場合の魔族の未来を、ヨルムンガンドはどのように見ているのか。これはフェンには分からない。
「彼は多くの魔族を救っています。ローゼンガルテン王国と敵対することにも、恐らくは迷いはなかった。自国の民である魔族にとって最良と思われる選択を彼はしてきました。もし、この戦いに負けて、私が死ぬことになっても……魔族には生きる場所があります」
「……そう、ですか」
ヨルムンガンドはどこまで真実を語っているのか。フェンには分からない。いつからジグルスに魔族の未来を託せるかを考えていたのか。話してくれた内容から推測できる時期よりも、もっと前であるようにもフェンには思える。もしかするとヨルムンガンドは、ヘルと共に彼女の息子の成長を見守り、支えたかったのではないか。こんな勝手な推測も頭に浮かんできてしまう。
ヨルムンガンドの本当の想いはフェンには分からない。分かったのはそんな彼の想いを自分はまったく気に掛けることなく、背を向け続けていたということ。それこそが最大の裏切り。自分はヘルとヨルムンガンドと交わした誓いを裏切っていたのだとフェンは知ることなった。