荒れ狂う暴風雨の中に放り込まれた。魔王軍の奇襲を受けたローゼンガルテン王国軍の騎士や兵士たちの心境はそれに似たものだ。頭上から降り注ぐ投石。それに気を取られていると魔王軍の小部隊が疾風のごとく近づいてきて、暴れまわっていく。なんとか生き延びた。安堵出来るのはわずかな間。すぐにまた、空からは投石、地上では魔人が猛威を振るってくる。指揮官らしき人が何かを叫んでいるが、はっきりと聞き取れない。陣形はバラバラ。小隊長、中隊長がどこにいるかも分からなくなっていた。
完全に統制を失ったローゼンガルテン王国軍。そうなると一般兵士は、命を惜しむ気持ちが抑えきれなくなる。最初に逃げ出したのは誰か。そんなものは分からない。あっという間に全体がその流れに巻き込まれてしまったのだ。
とにかく戦場を離れようと四方八方に散らばるローゼンガルテン王国軍。魔王軍は執拗にそのあとを追った。自軍も分散することになるが、まったく問題ない。初めからその予定なのだ。
アイネマンシャフト王国の防衛圏内の広域で混乱を引き起こす。これが魔王軍の目的なのだ。
「……敵だ。静かに」
もうどれくらい戦い続けているのか。落ち着いて日数を数えれば分かる。だが、その程度のことを考える気力もエカードは失っている。魔王軍の追撃は昼夜を問わず行われている。満足に休むことが出来ないのだ。
今は夜。昼間よりも夜のほうが危険だ。夜の闇は魔王軍の味方。暗闇の中での戦いではブルーメンリッターのメンバーは思うように力を発揮できない。一方で魔王軍には夜目が効き、闇の中での戦いを得手とする者たちが多くいる。敵の夜襲による被害が圧倒的に多い。
かといって明かりを灯せば、わざわざ居場所を敵に教えることになる。昼も夜も休む時は完全に身を隠せる場所を見つけなければならないのだ。
「……行った、か」
敵と思われる声は遠ざかり、やがて聞こえなくなった。なんとかやり過ごせた、とはエカードはすぐに思えない。これまで何度もいなくなったと安心した途端に、襲撃を受けたことがあるのだ。
静かになってからもしばらくは身じろぎもせず、隠れ続ける。気持ちが休まる時間などない。
「また東にずれている」
夜空を眺めながらレオポルドが呟いた。目指す先は南、グラスルーツなのだが、現在地は大きく東にずれている。魔王軍と戦い、時には避けている間に東に移動してしまったのだ。
「……他の味方はどうしているのだろうな?」
エカードたちと共に行動しているのは三百ほど。残りの四千五百前後がどうなっているのか分からない。
「グラスルーツに向かっているはずだ。だからこそ、僕たちも急いで南に向かわなければならないのに」
南に先行して逃げてきた味方を再びまとめ上げる。そうしなければ、ブルーメンリッターは逃げ回り続けなければならなくなる。皆が逃げ続けられるのであれば良い。だがそうはならない。ブルーメンリッターの主力がいるこの集団でも、かなり数を減らしているのだ。
「どれだけがたどり着けるのか……」
今になってエカードは、たった五千でブラオリーリエに向かった自分たちの無謀さを後悔している。グラスルーツ周辺の状況を確かめることなく、戦場深く踏み込んだ。その結果、何の情報も得ないままに、この状況だ。偵察という目的さえ、達成出来ていない。
「……人族がいたね」
「ああ……あれは多分、アイヒマン男爵家のローゲルだな」
「例の魔人もいた。やはり、ユリアーナもこの地にいるということかな?」
元ブルーメンリッターのアイヒマン、それにフェンの姿も確認している。ゾンネンブルーメ公国で戦っていた二人がいるのだ。ユリアーナも当然いるはずだとレオポルドは思う。
「いるのだろうな」
エカードもそうだと思う。予想出来たことであり、そうであるからといって特別何かを思うことはないが。
「ユリアーナは分かっていたから、寝返ったのかな?」
「何を?」
「……リリエンベルグ公国が魔王に臣従したこと」
レオポルドはまだ自分の考えを変えていない。自分が間違った判断をした結果、今の状況があると考えたくないのだ。
「事実は確かめられていない」
「その通り。生存者が嘘をついているという証明もされていない」
だからどうだというのか。エカードにはレオポルドが考えていることが分からない。ここまで裏切りが事実であるかのように話す意図がまったく理解出来ない。
「レオポルド。いい加減にして」
何も言わないエカードに代わって、マリアンネが自分の思いをそのまま言葉にした。
「いい加減にしてって……僕は何が真実かを明らかにしたいと思っているだけだ」
「それを今ここで行うことになんの意味があるの? 万が一、百万が一、千万が一、リリエンベルグ公国が魔王についたとして、それを今知って嬉しいの? 私は全然嬉しくない。絶望で泣きたくなるだけだわ」
今この状況でリリエンベルグ公国軍が、ジグルスが鍛えたリリエンベルグ公国軍が敵として現れたら。勝つどころか逃げ延びることも出来ないだろうとマリアンネは思う。そしてそう思うのは自分だけではないだろうとも。
ただでさえ危機的な状況であるのにレオポルドは、さらに味方の士気をこれ以上ないほど低下させようとしている。マリアンネにはレオポルドの無神経さが理解出来ない。
「マリアンネ、大丈夫だから。僕たちは負けないよ。今は苦しくても最後に勝つのは僕たちだ」
「レオポルド……貴方……」
根拠のない自信。同じことを語っていた人物をマリアンネは知っている。ユリアーナだ。彼女がいなくなってもレオポルドは変わっていない。おかしくなったままなのだと思ったマリアンネ。心の中に暗い影が広がるのを感じた。
◆◆◆
夜の闇は魔王軍に味方する。だが味方するのは魔王軍に対してだけではない。アイネマンシャフト王国軍にとっても同じだ。諜報能力において魔王軍を上回るアイネマンシャフト王国軍のほうが有利ともいえる。その有利な状況を利用しないはずがない。
ローゼンガルテン王国軍にとって危険な夜は、魔王軍にとっても同じ。アイネマンシャフト王国軍の襲撃が活発化する時間帯なのだ。
「腕をあげたね?」
向かい合っている敵を褒めるフェン。相手はアイネマンシャフト王国のフレイ。かつては格下と考えていた相手だ。
「褒められても嬉しくないな」
「煽てているつもりはないよ。本気で感心している」
「そういうことじゃない。褒められても嬉しくないのは目標が変ったからだ」
かつてフレイにとって憧れの存在であったフェン。だが今、その憧れの想いはジグルスに向けられている。フェンに褒められても満足出来ないのだ。
「……なるほど。理解は出来る。でも、あまり気分の良いことじゃないね」
それはつまり、フレイはフェンよりもジグルスのほうが強いと考えているということ。フェンはフレイにとって、ただの通過点になってしまったのだ。
「そう思うってことは今の王を知らないのだな?」
「……それは黒き精霊との一体化のことを言っているのかな?」
フェンも話には聞いているが、実際にジグルスの戦いを見たわけではない。フレイの言う通り、フェンが実際に戦う様子を見たのはかなり前のこと。母であるヘルの束縛から解放されたばかりの時のジグルスの実力なのだ。
「それもきっかけに過ぎない。力を抑制する必要がなくなったあとの王は、さらに成長を続けている」
「力を抑制? どうしてそんなことを?」
決して余裕がある戦いではなかったはず。そんな中で力を抑えていたなんてことはあり得ないとフェンは思った。
「王妃が大好きだから?」
「はい?」
「簡単に言うと、化け物みたいに強くなってしまうと王妃に嫌われると思っていたみたいだな」
これは簡単に言い過ぎ。自分が魔人であるという事実をはっきりと思い知らされた時、リーゼロッテがどういう反応を見せるかが不安だったから。自分自身が変わってしまうのではないかと恐れる気持ちもあったからだ。
「……それでその王妃様は?」
「まったく変わらない。誰もが羨む仲良し夫婦だな」
「そう……なるほどね」
ユリアーナはどう話を聞いてもジグルスのことが好きだ。そうであるのにジグルスの隣にはリーゼロッテが相応しいと言う。フェンは、ユリアーナは強がっているだけだと思っていたのが、実際にそう思える女性であることが分かった。
「どうして魔王に従い続ける?」
「唐突だね?」
「ヨルムンガンドに恨みがあると思っていた。それに王はヘル殿の子だ」
フェンの気持ちはヨルムンガンドよりもジグルスに寄っている。過去を知っていれば、そう思う。
「……バルドルの子とは言わないのだね?」
「王自身がそれを認めていない。血の繋がりはあっても自分の父親は人族のハワード・クロニクス男爵だと」
「そう……ヨルムンガンドを裏切ることは出来ない。その理由も分かっているはずだ」
「そうだけど、その気になればなんとかなるかと思った」
誓約は絶対のもの。それはフレイも分かっているが、理不尽な誓約を守り続けることが正しいのかという思いがある。間違っているのであれば正す方法があるはずだと。
「……なんとかならないから今がある」
「そうだけど……」
仮にヨルムンガンドとの誓約から解放されたとして、はたして自分はジグルスに仕えるのか。その答えはフェンの頭の中にはない。フレイの期待通りの結果にはならないかもしれないのだ。
「ついでだからこちらからも聞いて良いかな?」
「そっちが望むなら」
今は戦いの最中。しかもフレイの側はこうしてフェンを戦いに参加させないでいるだけで、十分に目的は果たしている。総合力ではアイネマンシャフト王国軍のほうが上なのだ。
「……バルドルのことをどう思っていた?」
「はっ? それも唐突だな…………憧れかな? 自分もあんな風になりたいと思っていた」
「憧れか……魔人の未来を託すに相応しい人物だったかな?」
ヨルムンガンドはバルドルの死が魔人の未来に繋がるかのようなことを言っていた。他の人はどう思っていたのか。それを知りたいと考えていたのだ。
「……その質問は難しいな」
「どうして?」
「王を知ってしまった。王が示す未来はバルドル様のそれとは違う。こう言っては失礼だが、パルドル様の語っていた未来は、今となっては陳腐に思える。中身がない……は言い過ぎか」
ジグルスが目指す未来図のほうが遥かに実現は難しい。だがそこに至る道のりがフレイには見える気がするのだ。いくつもの山を越えなければならない。その山を越えるにはどうすれば良いのか。何が課題なのか。かつてバルドルの言葉からは見えなかったそれが、今は見える気がするのだ。
「他の人も同じ想いかな?」
「それは分からない。でもまあ、前よりも遥かに大変なのに楽しくやっているな。立場が変わったからかもしれないが」
「そうだね……」
かつてフェンはフレイと同じか、それ以上の立場だった。その時は楽しかったか。楽しい思い出はある。だがそれは誰との思い出か。何かが違っている。自分が何か勘違いしているようにフェンは思えてきた。
「味方になれれば良いのに。実現出来る時が来たら、今の話を皆にしてみてくれ。特に巨人族の奴らには必ず」
「どうして?」
何故、フレイは巨人族に拘るのか。その理由がフェンには分からない。
「奴ら、バルドル様を憎んでいるだろ? 今、魔王の側にいるのもそのせいだと思うんだ。王はバルドル様とは性格も考え方も違う。なによりも差別を嫌っている。巨人族も絶対に差別されるようなことはないって分かってもらえれば、こちらの味方になってくれるかもしれない」
「憎んで……差別……?」
フレイの言葉に戸惑いを見せているフェン。
「あれ? もしかして知らなかったのか?」
その戸惑いはフレイにとっては驚きだ。バルドルの側にいたフェンであれば、当然、知っていることと思っていたのだ。
「何故、巨人族が?」
「バルドル様は外見を気にするからな。俺たちだって獣人化して前に出るのは許されなかった。フェン殿だってそうだろ?」
「そうだけど……ヨルムンガンドは? 差別と思われるかもしれないが、蛇人族である彼は側近に取り立てられている」
蛇人族が他の魔族から差別されていることはフェンも知っている。バルドルはその蛇人族であるヨルムンガンドを側近に取り立てているのだ。そんな彼が他の種族をどうして差別するのか、フェンには疑問だ。
「おいおい、本当に側近だったのか? 結構、酷い仕打ちを受けていただろ? それでヘル殿が庇っている、というかバルドル様を叱りつけている場面は俺だって見ている」
「……君はそれを知っていて、ヨルムンガンドを裏切ったのか?」
バルドルを殺したヨルムンガンドにも同情すべき点があった。フレイがその事実を知っていて、ジグルスについた理由が分からなくなった。
「意味が分からない。どういう質問だ?」
「暗殺は許されないことだが、殺されたバルドルにも非があった。それを知っていてもヨルムンガンドではなくジグルスを選んだ理由だ」
「さっきから言っている。王とバルドル様は別だと。これは冥夜の一族から教えられたことだ。彼らもバルドル様の子だから仕えているわけじゃない。ずっと王を見守り続けて、この人ならと思って自ら強く望んだ結果だ。他の奴らも同じ、例外はナーナだけだな。バルドル様のことになると彼女は盲目だから」
「盲目か……」
自分も同じではないかとフェンは思った。バルドルの良いところだけを見ていた。良い思い出だけを残していた。道半ばの死という想いがバルドルを美化させていた。
殺されていなければバルドルは、語っていた未来を実現出来ていたのか。ローゼンガルテン王国と交渉を行い、食料を得る。そんな自分たちだけに都合の良い話が、本当に上手く行くと思っていたのか。
ローゼンガルテン王国との全面戦争を決断したヨルムンガンドに比べても、バルドルの選択はかなり緩いものだ。
「……失礼を承知で言わせてもらうが……貴方の時は止まったままなのだな。我らは行く道は違えたが、魔王も未来に向かおうとしている。ヘル様の未来は失われたが、その子は多くの人を導いて、未来を作り上げようとしている。フェン殿、貴方だけだ。止まっているのは」
「そうか……私は止まっているか」
冷めた目で周囲を見ていた。自分一人が冷静でいたつもりだった。だがそうではなかった。自分は今を生きていない。未来を向いていない。一人、置き去りにされているだけだった。
「……ま、まあ、太古の昔の、事実かどうかも怪しい栄光に縋っているアース族に比べれば、マシだけどな」
自分の言葉にひどくフェンが落ち込んでいるのを見て、慌ててフォローするフレイ。
「アース族か……そうだね」
バルドルもそのアース族の一人。他種族を、全員が全員そういうわけではないが、見下しているアース族の一員だった。自分たちを対等には見ていなかった可能性は高い。誓いも従属の証くらいに思っていたのもしれない。
ヘルはどうだったのか。本当に愛されていたのか。この疑問が生まれた瞬間、フェンはバルドルに対する殺意を覚えた。すでに死んでいることを悔しく思ってしまった。
「……この戦場はこちらの勝ちだ。なんか、喜べないけど」
こんな話をしている間に、魔王軍は継戦を断念し、撤退に移っている。アイネマンシャフト王国軍の勝利だ。
「僕は指揮官失格だね?」
「そうだな……早く終わらせなければならない。未来の為には、こんな戦いはさっさと決着をつけるべきだ。伝えられるなら魔王に伝えておいてくれ」
「……分かった。伝えておく」
形は違っていてたとしても、求めているのは、どちらも明るい未来であるはず。その未来を一日でも早く実現しようと思うなら、どちらの形にするのかを急いで決めなけれならない。それを決めてもまだ終わりではない。乗り越えなければならない山がまだまだある。その山は、出来るだけ多くの人と協力し合って登りたい。フレイはそう思う。フェンも同じ気持ちだ。