第
元王国騎士団副団長であったワルターとその部下たちが駐留している拠点を出て、川沿いに北へ進む。エカードたちは二日で次の拠点に辿り着いた。その拠点は一泊しただけで、すぐに出発。二日の行軍では疲れがたまっていない、だけでなく、案内役を得ることが出来たので、進路について検討する必要がなくなったからだ。
エカードが率いる五千は拠点を出るとまた北上。だがこれまでとは少し様子が違って来た。空を飛ぶ飛竜らしき影。飛竜よりも明らかに小さな影も頻繁に見かけるようになった。それだけではない。対岸には、自軍を偵察していると思われる魔人の部隊の姿も見られた。これまでは、ほとんど感じられなかった戦いの気配。北に進むにつれて、それは明らかに強まっていた。
ただ幸いと言うべきか、姿は見ても接触はない。対岸にいる魔人たちは定期的に姿を現すだけで、攻め寄せてくる様子はない。川は深く、見た感じよりも遥かに流れが速いので渡ってこられないのだと案内役から聞かされた。
このまま何事もなくブラオリーリエに辿り着けるのではないか。そんな考えがエカードたちの頭に浮かび、軍全体の緊張も緩みが見え始めたその時。狙ったかのようにそれは現れた。
「魔物の大軍です!」
正面から近づいてくる黒い影。それは魔物の群れだった。自軍の倍、一万近くはいるであろう群れだ。
「陣形を整えろ! 敵は魔物だ! 恐れることはない!」
臨戦態勢に入るように命じるエカード。その指示に素早く応じて、ブルーメンリッター五千は迎撃態勢を整えていく。敵は倍近くとはいえ魔物。十分に対応できる相手だ。
「どこからあんな数が……」
魔物の出現にもっとも動揺しているのは案内役を務めている騎士。アイネマンシャフト王国の防衛圏内にこれだけの魔物が侵入したという話など聞いたことがない。場合によっては防衛計画の見直しも必要な事態だと考えている。
「敵接近!」
魔物の群れは物凄い勢いで駆けてきている。黒い影であったものが、はっきりと魔物の姿に見えるようになった。
「魔法部隊! 攻撃用意!」
まずは魔法による攻撃。接近戦となる前に出来るだけ数を減らしておきたい。魔物相手に不覚をとるつもりはないが、死傷者を出すのは馬鹿らしい。正規の戦い方をエカードは選んだ。正しい選択だ。敵が魔物だけであれば。
「逃げろぉおおおお!」
「何!?」
突然聞こえてきた「逃げろ」の声。通常であればあり得ない声。指揮官であるエカードはそんな指示を出していないのだ。その戸惑いが、多くの人に不幸をもたらした。
陽の光を遮る黒い影。地面に移ったその影は見る見る大きくなっていく。一つではない。いくつもの黒い影が陣形を組んだブルーメンリッターの頭上から近づいてきていた。
「……投石だ! 散会っ!!」
ようやくエカードからの指示が出た。だが、時すでに遅し。降り注ぐ投石の直撃を受けた騎士、兵士が次々と地面に倒れていく。
「散会しろ! 急げ!」
敵は完全に狙いを定めている。降り注ぐ石の数が、その正確さがそれを表している。とにかく、その場を離れること。回避するのに最善の方法はそれだ。
「対岸だ! 投石は対岸から来ている!」
「川から離れろ!」
ようやく投石が放たれている場所に気が付いた人が出てきた。石は対岸から飛んできていたのだ。
「攻撃は!?」
「無理です! 敵の姿は見えません!」
魔法による反撃は無理。距離もあるが、それ以前に敵の姿が対岸に広がる木々に隠れていて見えない。
「川から距離を取れ!」
「……いや、違う」
「えっ? どういうことですか?」
自分の命令を否定する呟き。それが側にいる案内役の騎士のものだと知って、エカードはその意味を尋ねた。
「正しい選択かは分かりません」
自分の思いを、つい声にしてしまったものの騎士には自信がない。意見を述べることを躊躇った。
「かまいません。意見があるのでしたら聞きます。その上でそれを採用するかどうかは俺が判断することです」
「……魔物を追うべきではないでしょうか?」
「この状況で魔物を?」
投石による攻撃を受けている状況で、さらに魔物との戦闘に突入する。さすがにそれは無謀ではないかと思ったエカードだが。
「それだ! エカード、命令を!」
レオポルドは騎士の意見に賛同した。彼はエカードがまだ見ていないものを見ているのだ。
「急げ! 魔物が逃げていく!」
「何?」
レオポルドに教えられて、エカードが視線を向けると、確かに接近してきていたはずの魔物の群れが背中を向けて駆け去ろうとしていた。ブルーメンリッターを足止めしたことで、彼らの役目は終わり。そういうことだ。
「魔物はなんらかの方法でこちらに渡ってきました。あとを追えば、その方法が分かるはずです」
「そうか。前進だ! 全軍で魔物を追え!」
魔物を追うことで対岸に渡る方法が分かる。そのまま渡ることも出来るかもしれない。対岸に渡ることが出来るのであれば、投石による攻撃を行っている敵に反撃することが可能になる。魔物を追う意味を理解したエカードは全軍に命令を発した。
だが、少し敵の動きのほうが早かった。
「また来た!」
投石による攻撃が来たことを告げる声。それを聞いて、前進を急ごうとする人々。
「……止まれ! 投石は前だ!」
その足を止める声。エカードの命令に反する声だが、人々はそれに従った。声の意味、そして空を飛んでくる投石の方向を、自ら確かめて判断したのだ。
進行方向に降り注ぐ投石。それはブルーメンリッターの行く手を塞ぎ、魔物を追いかけることを困難にした。
「一旦、川から離れよう」
魔物を追うのは無理。そう判断したエカードは投石機、と思われる攻撃、の射程外に出ることを選択した。川から大きく距離をとって、陣形を整えるブルーメンリッター。さらなる敵の攻撃が来ることはなかった。
◆◆◆
ブラオリーリエの北東。防衛戦上にある軍事拠点のひとつにジグルスはいる。今日はこの拠点にいるというだけで、ジグルスは敵の動きに合わせて、常に動き回っている。それで政務に悪影響を与えないのは、文官が揃いつつある、というだけでなく旧リリエンベルグ公国領内に広がっている情報網のおかげだ。ジグルスがどこにいても、迅速に情報は届けられる。軍の移動速度とあわさって、敵の先手を打てる。そう考えて、構築されたものだ。
ブルーメンリッターに関する情報も、その情報網によって届けられている。
「……大量の石で川の流れを弱めた上で渡渉。問題はそれがどの程度の時間で出来るかだな」
魔物が川を渡った方法。それも伝えられてきた。調査に時間はかからなかった。渡渉地点が分かっていれば、痕跡を見つけるのは難しくなかった。
「投石機を使っておりました。時間は半刻もかかっておりません」
「早いな。数が多い……だけじゃないな。精度もかなり良いに違いない。そんなものを持っていたのか」
多くの投石機を使えば、それだけ大量の石を一度に川に放り込める。だが、ただ数を揃えれば良いということではなく、川の中に確実に放り込むだけの正確さが必要だ。そういう投石機を保有していることが意外だった。
「ゾンネンブルーメ公国での戦いでも投石機を多用していたと聞いております。投石機そのものの精度だけでなく、操作する者の練度も高いのではないかと」
「そうだった。それでも意外だ。そういうところに手を抜かないなんて。どっちが本質か……なんて考える必要ないか。手強い敵であることは分かっている」
以前のユリアーナとは違う。もともと資質はあったのに手を抜いていたのかもしれないが、そんなことはどうでも良い。今のユリアーナは面倒な相手。それは間違いのない事実だ。
「投石機の移動は、当然ですが、把握しておりました。ローゼンガルテン王国軍がいなければ阻止出来ていたと思います」
「でも実際に川を渡られ、一万もの魔物の侵入を許した。引き上げてくれて助かったな。そのまま防衛圏内にとどまって村や街を襲われたら、それも魔物ではなく魔人であったらと思うとゾッとする」
「確かに……ただ、ローゼンガルテン王国軍は川から距離をとって移動することになるでしょう。防衛圏外からではその動きを把握することは難しいと思います」
ブルーメンリッターは同じ目にあわないように川から距離をとって移動することになる。その動きを把握出来なければ、利用することは出来ない。魔王軍が同じように渡渉を試みても、アイネマンシャフト王国軍は堂々と動き、それを阻止することが出来るはずだ。
「そういえば、その投石機の移動はどの時点から把握していた?」
「申し訳ございません。地上で組み立てを始めた時からです」
「バラバラにして運んできたということか……それでも一つ一つの部品もそれなりの大きさのはず……やっぱり、大きな地下通路があるってことかな?」
魔王軍は地下通路を利用して移動している。網の目のように張り巡らされている可能性は低いとジグルスは考えているが、その証はない。地下通路がどのようなものかは、今もっとも知りたい情報だ。
「運搬は巨人族が行ったものと思われます。容易に隠せるようなものではないと思うのですが」
巨体の巨人族が大きな投石機の部品を持って移動出来る地下通路。地上への出口もそれなりの大きさのはずだ。だがその存在はまだ確認出来ていない。諜報部門としても、なんとしても手に入れたい情報だ。
「……魔物に聞くという手があったかも。今さらだけど。今回の一件でほぼ絞られた。組み立てを行っていた場所の近くで、大きな穴が隠せる場所。移動は?」
「この地点から南西に移動していたようです」
机の上に広げてある地図に矢印を引く。同じような矢印が地図上にいくつも書いてある。魔王軍の移動方向を記しているのだ。そこから見えてくるものは。
「防衛圏外で怪しいのはこの森だな。探れるか?」
矢印の逆側。それが集中して向いている場所が起点である可能性が高い。地下から地上に出る場所だ。
「警戒は厳しいと思いますが、なんとか」
「警戒が厳しければそれが証だ。無理する必要はない。実際にその場所だとしても、こちらが場所を特定したと気付かれては調べた意味がなくなる」
「慎重に進めます」
場所を特定したと知られれば、当然、相手はそこを使わなくなる。奇襲も出来なくなる。それは望ましいことではない。
「防衛線の内側のほうが知りたいのだけどな。敵の動きが鈍いのは良いことだけど、それだと探している場所が見つからない」
防衛圏内での敵の動きは鈍い。人々の暮らしが脅かされないのは良いことなのだが、敵の進入路を探る手掛かりが得られない。このまま動きが鈍いままで終わるはずがない。静かなのは逆に大きなことを企んでいるから。そんな考えもジグルスの頭には浮かんでいるのだ。
「……アース族には動きはあるようです」
「アーズ族? 今の彼らに攻める余裕なんてあるのか?」
支配地域を広げようとしたアース族だが、それはことごとく魔王軍に邪魔されている。その戦いにより戦力を減らしただけでなく、冬を超える為の食料も結局手に入れられていない。今のアース族の優先事項は食料の確保。守りの固いアイネマンシャフト王国の防衛拠点を攻めている場合ではない、とジグルスは考えていた。
「それが北に向かおうとしております」
「北……それは旧リリエンベルグ公国領の北部という意味ではないな」
「はい。この地で支配地域を広げるのを諦めて、北の国に向かおうと考えているようです」
旧リリエンベルグ公国の北には別の国がある。スヴェーア王国、スオミ王国、ニーノシュク王国の三国だ。ローゼンガルテン王国とは比べものにならない小国で、豊かとはいえないが、軍事力も低い。魔王軍もアイネマンシャフト王国軍もいない。
「また面倒ごとか……魔王はその移動を許すかな?」
「我々を困らせようと思えば、許すのではないですか?」
「そうだな……困ったな」
北の三国とリリエンベルグ公国は協力関係にある。ウィン・ランド商会を通じて、三国から物資を調達しているのだ。その代わりとしてリリエンベルグ公国、実際はアイネマンシャフト王国からは高度な魔道具など三国が他からは入手出来ないものを供給しているのだが、いざ、魔人に攻められるとなると三国がそれだけで納得するか。救援を求めてくる可能性は高い。無視は出来ない。ローゼンガルテン王国外との交易はアイネマンシャフト王国を成立させる上で、重要な要素なのだ。
実際にそういう事態になった時、どうするか。またジグルスは悩みを抱えることになった。
◆◆◆
ブルーメンリッターの進軍速度は一気に落ちた。斥候を先行させて、前方の様子を探る。その間、本隊は周囲を警戒しながら臨戦態勢で前に進んでいく。斥候が戻ってもそれほど変わらない。安全が確認出来た地点まで、少し速足で進むくらいだ。そしてまた斥候を先に送る。臆病と言われてもおかしくないほど警戒しながらの進軍だ。
そうなってしまうのには一応、理由がある。防衛線からかなり内側を進むようになったブルーメンリッター。そうなるとアイネマンシャフト王国の偵察隊、だとはブルーメンリッターの人たちは分かっていないが、の数も増える。空を飛んでいるいくつもの影。ブルーメンリッターの人々は偵察の目標は自分たちだと思っている。いつ奇襲を受けてもおかしくないと考えているのだ。
「……臆病だと思いますか?」
エカードはそう思われることを気にしている。自分がどう思われているかを、案内役の騎士に尋ねた。騎士の顔には緊張の色がない。自分たちとは違うと考えたのだ。
「いえ、当然の対応だと思います」
騎士の緊張がエカードたちに比べて緩いのは、空を飛ぶ魔人の正体を知っているから。味方が周囲を飛んでいるのだ。安心することはあっても不安にはならない。
「貴方もワルター殿と一緒に?」
騎士の思いを確かめた自分が恥ずかしくなったエカード。まったく関係のない問いを騎士に向けた。
「いえ、自分はリリエンベルグ公国の騎士でした」
「……そうでしたか。では魔人と戦っているのですね?」
ワルターは本格的な戦いは西では起きていないと言っていた。案内役の騎士の経験も同じようなものだと思っていたのだが、それは間違い。騎士はもっとも過酷な戦いを経験している可能性がある。
「戦ったとは言えません。自分は逃げまわっていただけです」
戦ったとは答えられない。そう言えるほどの経験を自分はしていないと騎士は考えている。
「そんなことは。リリエンベルグ公国での戦いはかなり激しかったはずです」
騎士がどこまで本気で言っているのかエカードは分からない。謙遜しているものとして受け取ることにした。
「そうですね。自分などでは通用しない戦いが、この地では行われています」
戦う力があるのであれば自分は西の拠点にはいない。こういう思いが彼にはあるのだ。
「……それは今もですか?」
騎士の言い方はこういうことだ。彼のいる西の拠点以外では、彼の力では通用しない激しい戦いが行われている。エカードが知りたかった情報だ。
「戦いが終わったとは自分は聞いていません」
「……誰が軍を率いているのですか?」
少し躊躇いを見せながらエカードはこの問いを口にした。もっとも知りたいことであり、答えを知るのが怖いことでもある。
「……修羅」
「えっ?」
騎士が何と言ったのかエカードは分からなかった。エカードが知らない言葉なのだ。
「修羅……戦神という意味だそうです。そういう存在でなければ、勝ち残れない。ここはそういう戦場なのです」
西の拠点を一緒に守っていた魔人から聞いた言葉。ジグルスのことだ。一部の魔人からジグルスは戦神と崇められてる。これまでの実績だけでなく、太古の昔は神族であったとされているアース族の一つ、バルドルの血族であることも影響してのことだ。
「戦神ですか……」
「……本音を言わせてもらって良いですか?」
「本音……それは、はい、もちろん」
本音と前置きをして話す内容とは何なのか。聞くのが怖くもあったが、拒否もしづらい。
「貴方たちでは無理です。死にたくなければ、すぐに引き返したほうが良い」
「それは……」
エカードたちにとっては、かなり厳しい言葉。これを告げるとすぐに騎士はエカードから離れていってしまう。エカードにとってもありがたいことだ。返す言葉がない。今はそういう状況なのだ。
自分たちは、ローゼンガルテン王国はリリエンベルグ公国の騎士に恨まれている。それは当然だとエカードは思う。見捨てられた。そう思う状況にずっと置かれていたのだ。
ただ、騎士の本音はそういうことではない。侮辱とも受け取れる言葉を口に出来たのは恨みに思う気持ちがあったから。だがその内容は忠告だ。案内役の騎士は本気で、この戦いに介入すればエカードたちは死ぬ。そう考えて、忠告してあげたのだ。