屋敷を得たあと、色々と変化のあった生活もようやく落ち着いてきた。一日の予定がほぼ固まったのだ。午前中は以前と同じく傭兵団の屋外鍛錬場に行って、体力づくり。走り込みなどは屋敷では出来ないというのが理由だ。昼はエマが作った食事を、というヴォルフリックの要求は時間を効率的に使うという観点から却下され、傭兵団施設の食堂で済ませて屋敷に戻る。午後はもっぱら剣術の訓練だ。屋敷の中庭を使って、激しい訓練が行われている。今は変化のない日々を過ごしているが、そう遠くないうちに危険な任務に出ることが決まっている。その日までに少しでも強くなっておきたいという気持ちが、鍛錬に熱を入れさせていた。
「危ない!」
中庭に響いたのはフィデリオの声。だが、彼が何を警告しているのか他の人たちには分からない。思いつかないような事態が起きようとしているのだ。
「えっ……?」
フィデリオに続いて異変を察知したのはヴォルフリックだった。建物のほうから飛ぶような勢いで近づいてきた黒い影。それに気が付いたヴォルフリックは、大きくその場から跳んだ。
「嘘だろ!?」
ヴォルフリックがいた場所に立っているのは四つ足の生き物。つやつやとした黒い毛に覆われた体は、ヴォルフリックと変わらない大きさだ。
「ちっ!」
その生き物がその場にとどまっていたのは、わずかな間。すぐにその大きな体は宙に跳ねあがり、ヴォルフリックに向かってきた。剣を振るって迎え撃ったヴォルフリックであるが、その生き物は驚くべき速さでそれを避け、さらにひと蹴りでヴォルフリックの懐に飛び込んできた。
「ぐっ……」
その体当たりをまともに受けたヴォルフリックは、たまらず地面に倒れる。
「シュバルツ!」「ヴォルフリック様!」
それを見て我に返り、慌ててヴォルフリックに駆け寄ろうとする愚者のメンバー。
「シュバルツの勝ち!」
「……はい?」
その足を止めたのは、何者かの勝敗の決定を告げる声だった。
「ふっふっふっ。さすがはシュバルツ。強いな」
地面に倒れたヴォルフリックに圧し掛かっている生き物の頭を、まったく恐れることなく、撫でているその人はキーラ。Der Stern=星の称号を持つ上級騎士だ。
「……あの? これは?」
いきなり現れたキーラに戸惑うヴォルフリック。とりあえず、自分を押さえつけている生き物について尋ねた。
「私の友達のシュバルツだ」
「ああ、前に話していた」
前回、キーラに会った時に彼女が話していた狼。生き物の素性はそれで知れた。狼としては驚きの大きさだが、キーラがそう言うからにはそうなのだ。
「会いたがっていただろ? だから連れてきた」
「……いきなり襲い掛かられましたけど?」
そんな話をしていたことはヴォルフリックも覚えている。。だがその時にキーラは仲良くなることを望んでいたはずだ。
「同じ狼。上下関係ははっきりしないとな。シュバルツが勝ったから、群れのリーダーはシュバルツで決まりだ。これからはシュバルツに従うのだな」
「はい?」
「だからシュバルツが群れのリーダー。お前は負けたのだから、シュバルツに従わないと駄目だろ?」
キーラの言葉が分かっているのか。狼のシュバルツは前足でヴォルフリックの頭をポンポンと叩いてきた。「分かっているな」そんな風に言われているようにヴォルフリックには感じられる。
「……よし、もう一回だ」
その態度がヴォルフリックの感情を逆なでする。
「勝負はついただろ?」
「さっきのは不意打ちだ。リーダーを決める戦いなら、正面から正々堂々と戦うべきだろ?」
「……そうかもしれない。よし! じゃあ、シュバルツ! もう一度だ!」
ヴォルフリックの言い分に納得したキーラは、狼のシュバルツに向かって再戦を伝えた。やはりキーラの言っていることが分かっている様子の狼のシュバルツは、ヴォルフリックから距離を取る為に動き出した。
「……俺が勝ったら名前を変えてもらうからな」
「ん? どうしてだ?」
「シュバルツは俺の名だ」
ヴォルフリックが偽名であることを白状するシュバルツ。狼が自分と同じ名で呼ばれていることが気に入らない気持ちのほうが、名を隠すことよりも上だったのだ。もうバレているという思いもあってのことだが。
「おお? 同じ名だったのか? それは奇遇だな。運命の出会いというやつか?」
偽名であったことなど完全にスルーして、キーラは同じ名であったことを喜んでいる。
「違うから。それに同じ名であるのも今だけだ」
「でもシュバルツはシュバルツだ……おお、そうだ! シュバルトと子シュバルツにするか?」
「誰が子シュバルツだ?」
「負けたお前に決まっているだろ?」
「絶対に勝つ! 来い!」
そして第二戦が始まる。不意打ちではない、ということだけでなく気合いの入ったヴォルフリック。今度はそう簡単にはやられない。襲い掛かる狼のシュバルトの動きを読み、それを防いでいく。さらに隙を見て、反撃に出るヴォルフリック。それを狼のシュバルツは俊敏さを活かして、躱していく。
「……見事なものだな。シュバルツとまともに戦える者など、陛下とアーテルハイド、ルイーサくらいしかいないと思っていた」
二人?の戦いを感心した様子でキーラは見ている。
「そうなのですか?」
まともな戦いになっているのを見て、クローヴィスたちも心配するのを止めて、ただの観客になっている。かなり見応えのある攻防が続いているので、見ていて楽しいのだ。
「素の状態という条件つきだ。テレルは強いけど速くないからな」
「……確かに」
ヴォルフリックは炎を使っていない。内気功は間違いなく使っているとクローヴィスは見ているが、それでも素の状態だと思う。特殊能力を持たないクローヴィスでも到達できる可能性がある力なので、そう思えるのだ。
「シュバルツも楽しそうだ。やっぱり、二人は友達になれたな」
これを言うキーラも嬉しそうだ。狼のシュバルツはキーラにとって親友、兄妹といっても良い存在だ。だがそのキーラと、動物を可愛がるのとは違う意味で。仲良くなれる人にキーラはこれまで出会ったことがなかった。ヴォルフリックにもそんな意識はないのだが、真剣にどちらが上か張り合おうという気持ちが、キーラにそう思わせるのだ。
「良い勝負ではありますね」
目の前で繰り広げられている戦いを、仲良くしていると表現すべきかはクローヴィスには判断つかない。だがほぼ互角、俊敏さにおいては狼のシュバルツのほうが上で、ややヴォルフリックがそれで苦戦しているという状況は、良い勝負をしているとは思える。
「シュバルツも、ヴォルフリックのほうね。楽しそうだよ」
「……そうですね」
ブランドの言う通り、真剣な表情の中にわずかに笑みが浮かんでいる。ヴォルフリックも戦いを楽しんでいる。その相手が狼であることを、少しクローヴィスは悔しく感じた。
「おっ!?」
その互角の勝負に、とうとう決着がついた。わずかに体勢を崩したヴォルフリックを狼シュバルツは見逃さなかった。ここそとばかりに全身を使った体当たりを仕掛けてきた。その勢いと重さに抗うことが出来ずにヴォルフリックは地面に倒れ、狼シュバルツに押さえつけられてしまう。ヴォルフリックの負けだ。「ちくしょー!}というヴォルフリックの悔しそうな声が中庭に響き渡った。
――狼シュバルツとの戦いを、屈辱の敗戦で終えたヴォルフリック。
「……とりあえず、二敗。これは認める」
キーラのところに歩いてきての第一声はこれだった。
「それは認めているとは言わない。今日からお前は小シュバルツだ」
「……しばらくはヴォルフリックのままでいくことにした」
負けは認めても子シュバルツと呼ばれることは受け入れられないヴォルフリックだった。
「お前、意外と往生際が悪いな?」
「諦めが早いよりはマシだ。今は負け。でもいつかは勝つ。こう思っていないと終わりだろ?」
「ふむ。そういう言い方もあるか。まあ、これで終わりではシュバルツもつまらないだろうからな」
ヴォルフリックの言葉は再戦を示唆するもの。また戦おうという意思があることは、キーラにとって嬉しいことだった。
「次はいつ来る? 任務が始まる前にもう何回かやり合いたいな」
ヴォルフリックは狼シュバルツとの再戦には積極的だ。シュバルツ相手であれば、ぎりぎりの戦いが出来る。鍛錬相手として申し分ないと思ったのだ。
「次……あ、明日、かな?」
「おっ? 明日も来てくれるのか? それは助かる」
「お、おう。助けてやる」
まさか次の日の再戦を喜んでくれるとは思っていなかったキーラは、嬉しさで頬を紅潮させている。
「あっ、そうだ。ちょうど聞きたいことがあった」
「なんだ?」
「伝書烏って、どこにでも送れるのか?」
ヴォルフリックがキーラに尋ねたかったのは伝書烏のこと。伝書烏は情報のやり取りにはとても便利だと思うが、目的地をどうやって知るのか不思議だったのだ。
「ああ……どこでもとは言えないな。目的地を覚えさせる必要がある」
「どうやって?」
「実際にその場所に連れて行って教える」
「連れて行けば良いだけか?」
「いや、私がお前はこの場所の担当だと教える。そうするとその場所と、この街との往復が出来るようになる。この街はもう皆、覚えているからな。どこからでも帰って来られる」
そうやって伝書烏に教えた場所が何か所かある。主に上級騎士が赴任している前線となる場所。東か西に中央諸国連合加盟国以外との国境を持っている国の都か国境近くの防衛拠点だ。滅多に使うことはないが、ベルクフォルム王国とオストハウプトシュタット王国の都も伝書烏の行き来が出来るようにしてある。
「そうか……」
「どうした? 何かあるのか?」
「いや。次の任務で使えたらなと思っていたのだけど、事前に行ってもらう必要があるとな……まだ、どこを拠点にするかも決まっていないから」
次の任務では広範囲で、且つ複数拠点を持って活動する可能性がある。拠点間の情報伝達に伝書烏を使えないかとヴォルフリックは考えていたのだ。だがキーラの話を聞いて難しそうだと思った。
「……付いて行こうか?」
「えっ? いや、それは無理だろ?」
「迷惑なのか……?」
「いや、迷惑なのはそっちだろ? 他にも仕事があるのだから、俺の任務に付いて行く暇なんてないはずだ」
実際にキーラが普段どのような仕事をしているのかヴォルフリックは知らない。だがアルカナ傭兵団の情報網の維持・構築を一手に担っているのだ。相当に忙しいだろうことと想像出来た。
「…………」
「……何?」
じっと黙って自分を見つめている、だろう、キーラに戸惑うヴォルフリック。
「……付いて行ったら嬉しいか?」
「ああ、それは凄く助かるから嬉しい」
「じゃあ、陛下に頼んでみる! シュバルツ、行くぞ!」
「……えっ?」
ヴォルフリックの返事を聞くことなく駆け出して行くキーラ。そのあとを狼のシュバルツも追いかけていく。見る見る小さくなる背中。
「あっ!」
だがキーラは何かに気が付いて、途中で足を止めた。
「また明日な!」
「あ、ああ……また明日!」
振り返ってぶんぶんと手を振ってきたキーラに応えるヴォルフリック。それを見て、遠くからでも分かるくらいの満面の笑みを浮かべたキーラは、シュバルトの背に飛び乗ると、そのまま駆け去っていった。
「……あの人、子供みたいだな?」
「そう……いえ、年は私たちとそう変わらないと思います。山にいた彼女を助けた時はまだ五、六歳くらいだったそうですから。そう見えたというだけで、実際の年齢は彼女も知らないので、あくまでも推測ですけど」
「助けたって?」
「あっ、助けたという言い方はキーラ殿を怒らせるかもしれません。彼女、狼に育てられていたという話ですので。ただこれも推測です」
幼子が狼に襲われているところを助けたつもりであったのだが、助けた女の子、キーラも狼のようなふるまいをしていた。言葉を話すことが出来ずに、ただ獣のように唸るだけ。そのことから、そう判断されたのだ。
「あの狼が育てたってこと?」
「いえ……あの狼は、いつの間にか側にいるようになったようです」
「そういうことか……」
では育ての親である狼はどうなったのか。恐らくは誤って殺されたのだろうとヴォルフリックは考えた。それを行ったのは誰かを聞くつもりはない。ただ親を殺した相手は、恐らくはこの国にいるはずで、それについてキーラはどう考えているのがヴォルフリックには気になった。自分を助けるつもりで殺したのだから仕方がない。そんな風に考えられるとは思えないのだ。
恨みに思っているのか。その後、育ててもらったことに恩を感じて恨みは消えたのか。恨みは消えるものなのか。もしキーラがそうであるなら、自分はどうなのか。ヴォルフリックの頭の中にそんな思いが浮かんだ。