中庭でヴォルフリックたちが鍛錬を行っている様子を眺めているフィデリオ。彼自身の鍛錬もあるのだが、どうにも気が散って集中出来ないでいた。上の空のような状態で鍛錬を行っても効果はない。それどころか怪我をしてしまう危険もあると考えて、こうして中庭を離れ、リビングの椅子に座って休憩している。そうしていても気持ちが落ち着くことはない。原因はこの屋敷そのものにあるのだから。
何度も通ったギルベアトの屋敷。この場所にはその当時の思い出が詰まっている。良い思い出もあれば悪い思い出もある。今、フィデリオの気持ちを乱しているのは悪い思い出だ。
「……ギルベアト様。私はどうすれば良いのですか?」
答えが返ってくることがないと分かっていても、声に出さずにいられない。ギルベアトとの思い出の最後は、この場所で、正面の椅子に座って話をしている姿なのだ。
フィデリオはギルベアトの言葉を信じ、志を同じくして生きてきた。ギルベアトがノートメアシュトラーセ王国を離れたあともそれは変わらない。密かに連絡を取り、自分が出来る範囲でギルベアトの為に便宜を図ってきた。ギルベアトの志は変わらず。そう信じて。
その思いにズレが生じたのはいつ頃からか。この時ということは、はっきりしていない。いつからか届く密書の内容に違和感を覚えるようになっていた。ギルベアトの迷いを感じるようになったのだ。
原因はやがて分かった。ギルベアトと共に暮らしている子供。血の繋がっていないその子供に対してギルベアトは、いつからか親としての愛情を抱くようになったのだ。
フィデリオが最初に感じたのは嫉妬に似た思い。家族のいないギルベアトにとってもっとも近い存在は自分であると思っていた。だが、その子供にその場所を奪われてしまった。自分以上に近い存在になられてしまったと思った。
(いい大人が子供に嫉妬するなど、私は馬鹿ですね)
フィデリオの顔に自嘲の笑みが浮かぶ。嫉妬を感じた子供は一回り以上、年下の子供。そんな子供に負けたくないと思った自分を、今は恥ずかしく思う。
(彼は貴方の息子です。血の繋がりなど関係ありません。彼からは貴方と同じ雰囲気を感じる時がある……これも恥ずかしい勘違いですか)
一回り以上も年下の相手に父のように思っていたギルベアトを感じる。これもまた恥ずかしいことだとフィデリオは思う。だが全てがギルベアトを思う気持ちからの錯覚ではない。人の上に立つ者が持つ雰囲気というものは、間違いなく感じるのだ。時にギルベアト以上ではないかと思うくらいの覇気を。
(彼は人の志で生きる人物ではない。自らの志で人々を導いて生きる人だ。ギルベアト様もこう思われたのですね?)
だからギルベアトは死を選んだ。愛する息子の人生を自らが縛ることのないように。自らを縛る鎖に、大切な人を巻き込まないように。
(……いつか私も貴方と同じ選択を、形は違うかもしれませんが、することになるかもしれません。その覚悟は出来ました)
フィデリオも鎖から解き放たれる覚悟を持った。志の為に生き、死ぬのであればギルベアトの息子であるヴォルフリックのそれの為でありたいと思うようになったのだ。すでに心に決めていたはずの覚悟。だがそれをこの場所で心に浮かべると、また違うものがあった。乱れていた気持ちが静まるのをフィデリオは感じた。
◆◆◆
アルカナ傭兵団の幹部会議は、いつも通り、ディアークの執務室で行われている。今日一番の議題は中央諸国連合の動静。パラストブルク王国が発案したと思われるベルクムント王国との再戦について、各国がどういった意思を示すかについてアーテルハイドから報告が行われていた。公になっているものだけでなく、各国に知らせずに調べたことも併せてだ。
「ノイエラグーネ王国が、かなり積極的に各国に働きかけを行っております。それに対する各国の反応も悪いものではないようです。この悪いものではないというのは、ノイエラグーネ王国にとってという意味です」
「パラストブルク王国ではなくノイエラグーネ王国が動いているのか?」
使者として訪れたパラストブルク王国のゴードン将軍から提案を受けた側のノイエラグーネ王国が積極的に動いているという事実に、ディアークは少し疑問を感じた。
「ノイエラグーネ王国の動機はどうやら裏切りの報復を恐れてのことであるようです」
「裏切りの報復?」
「ベルクムント王国から見れば、内通していながら最後まで中央諸国連合側で戦ったノイエラグーネ王国は裏切り者です。その裏切りに対しての報復を恐れているということです。実際に再侵攻があった場合に、真っ先に攻められるのはノイエラグーネ王国になるでしょう」
「なるほどな。だから再侵攻が出来ないようにしたいという考えか」
ノイエラグーネ王国が恐れているのはベルクムント王国からの報復。それであればディアークにもノイエラグーネ王国が積極的になる理由が分かる。ベルクムント王国は国力が回復すれば裏切ったノイエラグーネ王国を滅ぼそうと動き出す。そう考えるのは、内通が事実であるという証明でもあるが、おかしくない。
「ただこの場合、パラストブルク王国はノイエラグーネ王国の内通に気が付いていた可能性が生まれます。それを知っているから、真っ先にノイエラグーネ王国に向かった」
「……各国の諜報能力を過小評価するべきではないな。恐らくそうなのだろう」
各国の軍事力はノートメアシュトラーセ王国に劣る。だからといって諜報能力もそうだとは限らない。ディアークはこの機会に認識を改めることにした。
「ベルクムント王国の再侵攻を防ぎたいという気持ちは各国も同じです。その為に東方の国もまったく検討に値しないとは考えないようです」
「……勝ち過ぎたのかもしれないな」
ベルクムント王国との本格的な戦争は前回が初めてと言っても良い。それに大勝したことで、各国にベルクムント王国を過小評価する空気が生まれたかもしれない。ディアークはそう思った。大勝であることは間違いないが、それでベルクムント王国が傾いたわけではない。慎重さを失うことは良くない傾向だ。
「再戦に賛成するすべての国が過信しているとは思いません。この機会を逃せば次はない、という考えもあるのだと思います」
時が過ぎればベルクムント王国は国力を回復させ、今回とは比べものにならない大軍を送ってくるかもしれない。数だけではない。勝つための準備も万全に整えてくるはずだ。それを跳ね返す力があるとは考えない中央諸国連合加盟国も、再戦に賛成してくる可能性は高いとアーテルハイドは考えている。
「再戦か……」
中央諸国連合の意思は再戦に向かっている。この機会に一気にという思いは、ディアークにもないわけではない。だが単純に国力を考えれば、絶対に勝てる保証はない。もう一つの大国、オストハウプトシュタット王国がある以上は、ベルクムント王国だけに全力を傾けるわけにはいかないのだ。
「全面戦争なんて形を望むことは絶対にないと思いますが、ある程度の規模になってしまえば、こちらがどう思っているかなど関係なくなる可能性はあります」
オストハウプトシュタット王国が絶対に動かないという保証がない限り、中央諸国連合は全面戦争という形を望まない。そして動かない保証など得られるはずがない。
だが中央諸国連合がどう考えていようと、ベルクムント王国の出方次第で戦争の規模は拡大する。オストハウプトシュタット王国が漁夫の利を得るだけと分かっていても、ベルクフォルム王国はもう負けるわけにはいかないのだ。
「……愚者はどうしている?」
「表立った動きは何も。ただ食堂に頻繁に通っています」
「食堂? どういうことだ?」
「……まだ若い主なのですが、その妹がかなりの美人らしいです」
少し考える素振りを見せたアーテルハイドだが、すぐに事情を説明し始めた。本筋からは少しずれた説明を。
「はあ? まさか、その女性に会う為に通っているのか?」
「それを行っていたのはジギワルド様です」
「……はっ?」
「ジギワルド様がその娘を気に入られたようで、話をする為に城に連れてきたようです。その時はアデリッサ様が邪魔をして娘を帰らせたようですが、ジギワルド様がまた同じことをしないとも限らないということで、愚者が見張っているとのことです」
「……そんな話は聞いていない」
この件についてはディアークは何も話を聞いていない。自分の耳に入れる必要のないくだらない話、だとはディアークは思わない。アデリッサが絡んでいるということは城の奥での出来事。そこで揉め事があったのであれば、王室の長として知っておくべきだと考えている。
「その可能性もあると思って、あえて話をさせていただきました。ちなみにその場にはオティリエ様もいらっしゃったようです」
「オティリエもいて……ちなみにお前はこの件を誰から?」
「クローヴィスからですが、本人は愚者から聞いた話をそのまま伝えてきただけです。ただ事実ではあるようです。愚者とジギワルド様の従士との話を聞いて、それは分かったと言っております」
ウォフリックが伝えてきた話は事実。その上で、何故、それをクローヴィスを通じて伝えてきたのか。こうしてディアークに伝わることを期待してに決まっているが、それだけではない。事実以上の何かを伝えたいのだとアーテルハイドは考えている。
「……こういうことは他にもあるのかもしれないな?」
「はい。ジギワルド様とオティリエ様の人柄に問題があるとは思いません。ただ伝わる情報が選別されている可能性は否定出来ません。そして、それはアデリッサ様についても同じかもしれません」
ジギワルドとオティリエが善で、アデリッサとオトフリートは悪。そう決めつけて行動している人物が城中にいる。好悪で話を大きくしたり、逆にないことにしたりしている人がいる。この可能性をウォフリックは伝えたかったのではないかとアーテルハイドは受け取ったのだ。
「……城のことにまで気を使うか。やはり、あいつの考えていることは分からんな」
何故、ウォフリックがこんなことまで考えるのかディアークには分からない。考え過ぎだ。ウォフリックはただ、自分のせいでアデリッサが悪者になることのないようにと考えただけだ。
「話を本題に戻しますと、その食堂の主とその妹はかなり怪しいようです」
伝えることは伝えられた。そう考えたアーテルハイドは話を戻した。これも伝えなければならない大事なことだ。
「……どういうことだ?」
「ジギワルド様のことを理由にしていますが、実際には元からの仲間である可能性が高いと考えております。食堂に通うだけでなく、屋敷にも呼んでいるようです。一応、食事の支度を頼んでいるということになっておりますが、これこそが仲間である証とも言えます」
ウォフリックは、大丈夫だという自信がある場合を除いて、信頼出来ない人が作ったものは食べないと聞いている。それが事実だとすると、食事を任せることは最上級の信頼の証と言える。
「……どう思う?」
「我々に知られても良いと考えてのことでしょう。外見の特徴から、館の主は従士試験を受けにきたもう一人。妹とされている女の子も別の日の従士試験で愚者と接触しております。そうなるともう一人いるはずなのですが、所在は掴めておりません」
エマとウォルフリックが接触した日、エマの兄の振りをしていた仲間がいた。その仲間は表から消えているのだ。
「新しい動きは見せている。だが、それが任務の為かどうかは分からない、か」
「正式に任務を与えてみれば分かります」
引き受けるか、拒否するか。引き受け方もある。何らかの条件を要求してくれば、それは逆にある程度の目途が立っている証。ウォフリック相手の時は、そう考えても良いとアーテルハイドは考えている。
「中央諸国連合に通知しなければならないな……悩む意味はないか。無策でいては結果はもっと悪くなるだけだ」
アルカナ傭兵団が動くということを中央諸国連合に通知すれば、結果を求められる。だが何もしなければノートメアシュトラーセ王国を除く中央諸国連合加盟国の思惑で方針が決まってしまう。それを拒絶すれば失敗するよりももっと悪い。ディアークはそう考えた。
「では愚者に正式に命令を伝えます。次善の策については私とルイーサさんで考えるということでよろしいですか?」
「私も?」
「私が一人で考えても良いですが、実行部隊の責任者はルイーサさんになると思いますけど?」
アーテルハイドは戦争という形にならない限りは基本、国を離れない。傭兵団本部の運営も彼の仕事だからだ。
「……分かった。無駄にならないことを……この場合は願ったら駄目よね?」
アーテルハイドとルイーサが考えた策が使われる時は、ウォフリックが失敗した場合。それを願うわけにはいかない。
「そうですね。彼が何を考えるか次第ですけど」
今のところ、ウォフリックの作戦はまったく見えていない。それがアルカナ傭兵団、そして中央諸国連合にとっての利に繋がるものであれば良い。だがウォフリックの場合は、当然求められるそれが、無視される可能性もあるのだ。それをアーテルハイドは恐れている。恐れていながらウォフリックに任せようという神経は普通とは違うもの。生真面目と評されるアーテルハイドであるが、アルカナ傭兵団の一員、それも初期メンバーである彼はやはり、常人からは外れているのだ。
◆◆◆
グローセンハング王国はランデマイスター大陸西部と中央の境にある国。古くからある大陸の東西に伸びる街道を領土内に持っており、その立地故に商業が盛んな国だ。そのグローセンハング王国はベルクムント王国の従属国となっている。
国は豊かではあるが、軍事力においてはベルクムント王国に劣っていた。戦争により国を荒廃させるよりはと、自らの意思で従属を選んだグローセンハング王国は、ベルクムント王国もそれなりに気を使わなければならない国だ。そういう立場でいられる力があるうちに従属を申し出たのだ。
ベルクムント王国に朝貢する立場となったグローセンハング王国であるが、今のところ国力を落とすことにはなっていない。従属したということはベルクムント王国の庇護下に入ったことでもある。グローセンハング王国は軍事費を削って、ベルクムント王国に貢ぐ費用を捻出しているのだ。
そのグローセンハング王国の都シュヴェアヴェル。多くの商人が行き交う賑やかな大通りを外れた場所に、その建物はあった。通りに面する真っ赤に縁どられた入り口。それは風俗店である証だ。
いつもであれば客引きの声が周囲に響いていてもおかしくない時間。だが今その場所は物騒な怒鳴り声が飛び交っていた。
「テメエら! 誰に断って商売してやがんだ!?」
「誰って……ここは前の持ち主からきちんとお金を払って」
いきなり怒鳴り込んできた相手に、少し怯えた様子で話をしているのは茶髪の若い店員の姿をした男。
「そういうことじぇねえ! ここで商売したければ、うちに許しを得てからにしろって言ってんだ!」
「それは前の持ち主が許可を取っていたんじゃないですか?」
「そんなのは無効だ! 商売する奴が代わったのなら、改めて許可が必要なんだよ!」
相手を怯えさせようと怒鳴り続ける男。そろそろ気が付くべきだ。相手がまったく怯えていないことに。
「その許可というのはどうやって取るのですか?」
「まずはここを仕切っている親分との繋ぎをつけねえとな」
「繋ぎ……その方法は?」
「俺がやってやっても良いが、それをするには手数料ってもんが必要だ」
具体的な話になったところで、男の声のトーンが普通に戻る。あとは金をせしめて、それで終わり。商売の許可はまた別の話だ。男にとっては久しぶりに現れた新規客。そのはずだった。
「本当にその親分を知っているのですか?」
「はあ? 当たり前だろ?」
「そうですか……嘘だったら腕一本じゃあ、済まないからな」
「えっ……あっ。うわぁあああああっ!!」
目の前を通り過ぎた光。男がそれが何かを認識したのは、自分の右腕に激しい痛みを感じたあとだった。真っ赤な血が噴き出している右腕。手首から先は地面に落ちている。
「さっさとその親分とやらの名前と居場所を吐け。じゃないと……死ぬぞ」
「い、痛てぇえええええっ! 痛てぇよ! 助けてくれ!」
「これは……雑魚過ぎたみたいだな。居場所を知らないなら良い。楽にしてやる」
腕を切り落とされればそれは痛い。だがただ泣き叫んでいるだけの男が、この街の裏社会を仕切っている人物を知っているはずはない。外れを引いたと判断した。
「ま、待て! 言う! 言うから! 殺さないでくれ!」
「じゃあ、さっさと言え。嘘だったから分かっているだろうな?」
「嘘じゃねえ。本当だ。親分は――!」
親分の名と居場所を告げた男は、それで楽になれた。痛みからは解放されたのだ。
「さて、どうする?」
「信用出来るかな? この男にとっては親分でも、この裏社会全体を仕切っているとは限らないよね?」
「そうだな。ただ時間がないからな」
じっくりと調査をしている時間はない。そうであるから、こんな強硬手段を選んだのだ。
「じゃあ、僕が行ってくる。また誰か来るかもしれないから、クロイツは残って」
「一人で大丈夫か?」
「駄目だったら引き返してくる。相手の居場所は分かっているのだから、ここで無理する必要ないでしょ?」
「そうだな。頼む」
この日からシュヴェアヴェルの裏社会で抗争が勃発した。ここ何十年もなかった争いの原因は、ベルクフォルム王国の都ラングトアの裏社会を仕切るコーツ一家が、国境を越えてシュヴェアヴェルに進出してきたという驚くべきもの。国をまたいだ縄張り争いなど、人々の記憶にはないことだった。
やがてこの噂は、周辺国の裏社会にも密かに広まることになる。