旧リリエンベルグ公国領グラスルーツから北に伸びる街道を真っ直ぐに三日ほど進み、そこから西進すると南西部の山岳地帯から流れ出てきた川に行く手を阻まれることになる。かつてかかっていた橋は跡形もなく壊されていて、対岸に向かおうと思えば、比較的水深が浅い場所を選んで、川の中を渡るしかない。その渡渉地点の手前側に防衛拠点は建設されている。
もともと砦はあった。だがローゼンガルテン王国に併合され、戦争の恐れがなくなったことで防衛拠点としての重要性が薄れ、老朽化が進んでいた為に、ほぼ作り直すと同じくらいの工事を行うことになったのだ。
そのような大規模工事を始めて、はたして戦いに間に合うのか。魔王ヨルムンガンドだけでなく、アース族もいつ攻め寄せてくるか分からないのだ。
こんな心配をしていたワルター元ローゼンガルテン王国騎士団副団長であったが。
「こ、これは……」
現地に到着してすぐに唖然とすることになる。建設の規模は彼の想像を遥かに超えていた。ただ砦を作るだけではなく、川の流れまでも変えようとしている。それ以外にも何をしているのか分からない工事が行われているが、ワルターがもっとも驚いたのは。
「あれは……魔人ではないですか!?」
工事を行っている人たちがどう見ても人族には見えないこと。それはそうだ。人族の背中には翼は生えていない。その翼で空を飛ぶことなど出来はしない。
「魔人ですね」
ワルターの問いに、落ち着いた様子で答えたのはヨアヒム。ワルターの反応は予想されていたこと。その彼を落ち着かせ、与えた任務を全うさせるのは上司であるヨアヒムの役目だ。
「敵……ではない?」
ヨアヒムの落ち着きはそうであることを示している。混乱は続いているが、少しだけ、ワルターは冷静さを取り戻した。
「彼らはアイネマンシャフト王国の民。ジグルス王の臣下です」
「ジグルス殿が王……そのアイネマンシャフト王国というのは?」
「ジグルス王が作った国です。領土は旧リリエンベルグ公国の南東部となりますが、それを今、拡張しようとしています」
「……つまり、あの拠点もそのアイネマンシャフト王国のものということですか」
ジグルスがグラスルーツに来て話をしていた防衛線の拡大。それがそのまま、アイネマンシャフト王国の領土拡張のことなのだとワルターは知った。自分たちはリリエンベルグ公国の拠点ではなく、アイネマンシャフト王国のそれを守る為にここまで来たのだと。
「アイネマンシャフト王国の民が作っているのですから」
「土地はリリエンベルグ公国の物だ!」
「その土地は魔王に奪われました。リリエンベルグ公国は滅亡した。これはローゼンガルテン王国も認めるところです。いえ、どこよりも先に認めたのがローゼンガルテン王国だと言い直します」
ワルターの怒りは、ローゼンガルテン王国の騎士としての怒り。それに対しては、ヨアヒムが遠慮する理由はない。リリエンベルグ公国を、そこに暮らす人々を見殺しにしたローゼンガルテン王国への怒りが治まることなどないのだ。
「それは……」
「貴方もここに来るまでにいくつかの村を見たはず。そこに住む民の暮らしを見たはず。あれを守ってきたのはジグルス王と彼に従うアイネマンシャフト王国の民。リリエンベルグ公国では、まして、ローゼンガルテン王国では絶対にない!」
グラスルーツの北でも人々は暮らしている。代々の土地を離れ難く、残っていた人たちだ。その彼らは戦争に巻きまれることはなかった。魔王軍の侵攻をアイネマンシャフト王国が防いでくれていたおかげだ。
「…………」
ワルターも何も出来なかった一人。彼自身は国の命令でゾンネンブルーメ公国を守る為に戦っていた。だが、そんなことはリリエンベルグ公国の人たちに対して、何の言い訳にもならないことは分かっている。
「我々のローゼンガルテン王国への忠誠は失われています。これは伝えていたはずです」
「……はい。聞いておりました」
グラスルーツに着いたその日にワルターはヨアヒムの、リリエンベルグ公国の人たちの気持ちを聞いている。同じ話を聞いていたカロリーネは、その場でローゼンガルテン王国王女の肩書を捨てた。彼女がどこまで理解していたのかはワルターには分からない。だが、自分の認識が甘いものであったことは確かだと思った。
「我々は我々の自由と平和を勝ち取る為に戦っています。貴方はどうしますか?」
「……ヨアヒム殿もアイネマンシャフト王国に仕えているのですね?」
グラスルーツもまたアイネマンシャフト王国の一部。ワルターはそう理解した。
「実はその辺は曖昧で。ジグルス王は私を臣下扱いしてくれません」
「元は主筋だから、ですか?」
ジグルスはリリエンベルグ公爵家に仕える従属貴族家。遠慮はあるだろうとワルターも思う。
「恐らくは。ただ……ここまで話したのですから、隠す意味はないですね。妹はアイネマンシャフト王国の王妃ですので、兄である私の扱いを決めかねているのかもしれません。アイネマンシャフト王国に貴族階級はありませんので」
「それは……なんと申し上げれば良いのか……」
「おめでとう、で良いと思いますけど? このようなことが起きる前から、王国学院に通っていた時から二人は愛し合っていました。結ばれるはずのない二人が夫婦になれたことは、この不幸な争いの中で、唯一の喜ぶべき出来事だと思います……唯一は微妙ですか」
この戦いがなければ二人は結ばれなかった。それと同じくらいに、この戦いによってジグルスが多種族を統べる王となったことは、喜ぶべきことなのではないか。ヨアヒムはこう思ったのだ。
「かつての身分は、今のここでは何の意味もないということですか……」
「そういう場所で生きていこうと思えば、決断しなければなりません。貴方も」
「私は……」
肩書を捨てる覚悟。それは必要だと知っていた。だが今日まで、ワルターは真剣に考えてこなかった。まさか、旧リリエンベルグ公国がこんな状況になっているとは知らなかったのだ。
「事前に説明しなかったのは、実際に自分の目で真実を見て、判断して欲しいと思ったからです。そういう意味では今ここで答えを求めるつもりはありません。彼らの仕事ぶりを見て、彼らと話し、彼らを、彼らの考えを知った上で決めてください」
「……分かりました」
決断を求められても、実際のところ、ワルターには選択肢はない。自分はローゼンガルテン王国騎士で在り続けるなどと言えば、その場で殺されてもおかしくないのだ。
だからといって、ワルターの心は絶望感で占められている、というほどでもなかった。この地ではあり得ないことが起きている。その中心にいるのはジグルス。ローゼンガルテン王国の英雄になれるとワルターが考えていたジグルスは、王国を離れた結果、英雄どころか一国の王になった。それが何をもたらすのか。ワルターはそれを知りたい。その何かを、近い場所で見届けるのも面白いかもしれない。こんな思いも心には沸き上がっていた。
◆◆◆
ゾンネンブルーメ公国領内での戦い。ローゼンガルテン王国の主力軍を投入しているアーベントゾンネ攻略戦が苦戦している一方で、ラヴェンデル公国軍とゾンネンブルーメ公国の敗残兵の共闘による拠点奪回作戦は順調だ。その戦果がローゼンガルテン王国王都に届くまでには、まだ時間が必要だが。
北部にあった城塞都市を奪回した連合軍は、そこを本拠地として周辺の村や町の解放に動いている。決して無理をすることなく、再占拠は許さないという方針で、近場からひとつひとつ確実に奪い返していくというやり方だ。それに対して、当然、魔王軍も反撃に出るがその勢いは、今のところ、それほど強いものではない。大都市の防衛を重視し、それに多くの人数を割いている為に、撃退するに十分な数を揃えられないでいるのだ。
この状況は連合軍の計画通り。魔王軍にとって、それほど重要ではない地域を狙って、作戦を実行しているのだ。とにかくゾンネンブルーメ公国領内に魔王軍の支配が及ばない地域を作り出す。これが作戦初期の目的なのだ。
「降伏した魔王軍はおよそ百です」
連合軍はまた一つ、魔王軍に占拠されていた村を奪回した。
「多いな……それほど大きな村ではないのだが」
投降者が百というのは、これまでに比べてかなり多い。それをタバートは疑問に思った。奪回した村の規模は大きいとは言えない。多くの魔王軍が籠っていたとは思えないのだ。
「抵抗はそれほど激しいものではありませんでした。実際に敵の戦死者の数もこれまでに比べて、かなり少ないはずです」
「たまたま戦意に乏しい部隊にあたったということか」
降伏した敵の数が多いのは、早々と抵抗を諦めたから。それであればタバートも納得だ。
「そうだと思いますが……」
タバートの考えに同意を示しているが、その言葉には少し含みがある。
「何か気になる点が?」
「魔人とはこれほど簡単に降伏を受け入れるものでしょうか? こちらが圧倒的な力を見せつけたというのであればまだ分かりますが」
降伏よりも死を選ぶ、ということではない。負けると分かっていれば逃げる。生き延びて逆襲の機会を待つ。彼の知る魔人とはそういう存在だ。例外があるとすれば圧倒的な力を見せられた時。抗うことは出来ないという強者に対しては降伏もあり得るが、連合軍はそのような戦い方をしていない。
「圧倒したとは思うが?」
連合軍に死傷者はいない。戦いとしては敵を圧倒しているとタバートは思う。
「集団の力です。それが悪いというつもりはまったくありません。ただ、魔人がそれを受け入れるには、特別な何かが必要だと思います」
集団での戦いは人族の戦い方。魔人はそれを弱者の戦いと蔑むことが多い。軽蔑している戦い方をした相手に、降伏する気になるとは思えない。
「特別な何かか……残念ながら俺にはそれはないな」
魔人の意識を変革させる何か。それを持っているのは自分以外の人物。タバートはその人物を知っている。
「この戦場の戦い方では、ということです。タバート殿も特別な存在だと私は思います」
「……素直に喜んでおこう。さて、そうなると何故、降伏したのかの疑問は残るな」
「直接聞くのが早いですか」
こうして話をしている間に、降伏した魔人たちは拘束されて、村から連れ出されようとしている。その行列は彼らの目の前を通る。降伏した理由は、その時に聞けば良いと考えた、のだが。
「待って! 待ってください!」
その行列の移動を邪魔しようとする人物が現れた。魔人ではない。村に暮らしているだろう女性だ。
「危ないから下がって!」
その女性に対して、捕虜を連行している騎士の一人が声をかける。拘束しているとはいえ、油断は出来ない。力のない村人が近づくのは危険だと考えて、止めようとしている。
「お願いです! その人を連れて行かないでください!」
だが女性は止まろうとしない。注意した騎士に駆け寄ると、その場に跪いて、訴えた。
「その人?」
訴えかけられた騎士には、女性が何を求めているのか理解出来ない。
「お願いです! 私の……私の……私のお腹には、その人の子供がいるのです!」
「子供……まさか……そういうことか?」
女性は魔人の子供を孕んでいる。ようやく騎士はこれを理解した。女性の視線の先にいる捕虜を睨みつける騎士。
「貴様か!?」
腰に差していた剣を抜き、その捕虜に向かって斬りつける騎士。だが、その剣が相手に届くことはなかった。手前で別の剣に遮られたのだ。
「そういう行動は、きちんと話を聞いてからにしてはいかがかな?」
「話、ですか?」
騎士の剣を止めたのは、ずっとタバートと話をしていた人物。剣を止めた相手がその人物だと分かって、騎士の怒りは一気に静まる。そうなる相手なのだ。
「さて……事情を聞かせてもらいましょうか。貴女のお腹の中にいる子供の父親は、彼で間違いないですか?」
騎士の気持ちが静まったと見て、その人物は女性に直接事情を尋ねた。
「……はい。彼です」
「そうですか……少し突っ込んだことを聞きます。二人の関係は?」
「関係、ですか……」
問いに対する答えを女性は躊躇っている。勢いで飛び出してきたものの、いざ、詳細の説明を求められるとどうして良いか分からなくなったのだ。
「……父親に聞きますか。子供の父親は貴方で間違いない?」
「……そうだ」
少し躊躇いを見せたが問われた捕虜の魔人は、自分が父親であることを認めた。
「二人の関係は、合意の上でのことですか? それとも?」
「合意のはずがない。無理やり犯したのだ。人族の女はどういう味がするか確かめたくてな。案外、悪くはなかった」
「なるほど……そういうことだと貴方の罪は重い。死罪を覚悟しておくのですね」
「そんな!?」
焦った声をあげたのは魔人ではなく、女性のほう。
「彼を死なせたくない? どんな相手でも子供の父親は必要ですか?」
「…………」
また女性は答えを返さない。父親を生かしたいのは間違いない。だが彼女はそれをはっきりと言葉に出来ないのだ。
「……相手が魔人であっても、誰にも後ろ指をさされることなく、当たり前のこととして暮らせる場所があったら、貴女はどうします? そこで暮らすことを望みますか?」
「……そんな場所は」
「あります。私はそこで暮らしていますから。残念ながらまだ伴侶は見つかっていませんけどね」
こう言いながら、彼は被っていた兜と顔の下半分を覆っていた布を取った。
「貴方は……」
男性とは思えないほどの美形。だが女性が驚いているのは、それだけではない。
「エルフを見るのは初めてですか? それはそうですね。この辺りに暮らすエルフはいません」
話していた相手はエルフ。それが分かって驚いたのだ。
「さて、もう一度聞きます。どの種族同士であっても誰もが結婚を認め、共に暮らすことが許される場所。そんな場所があったら貴女はどうしますか?」
「私は……私は……」
「彼も、もちろん二人が愛し合っているという前提ですが、共に行けます。生活は真面目に働けばなんとかなるでしょう。田畑は与えられます。農業が無理であれば他の仕事を。好条件ばかりだとあれですね。この村には戻れません。その場所でも戦争は行われています。ここよりもずっと激しい戦いです」
「……本当にあるのですか?」
エルフの説明は仮の話ではなく、現実のもの。細かな説明が女性にそれを信じさせた。それでも女性は問いで返す。期待して、嘘であった時の絶望が怖いのだ。
「あります。もしかすると彼も知っているかもしれません」
「えっ……? 知っているの?」
女性の問いが父親に向く。相手の言葉であれば信じられる。エルフの言葉に嘘があるなら、それを教えてくれると思って、直接尋ねたのだ。
「……多分。だがそこは」
父親の魔人は知っていた。だがその表情に期待などない。
「貴方にとっては敵が暮らす場所。ですが、捕虜になった貴方は結局そこに送られることになると思いますけど? そこで捕虜として生きるか、民として暮らすかは貴方次第ですけど」
「俺は……許されるのか?」
待っているのは死。そう思っていた。抵抗を止めて捕虜になったのは、戦いを長引かせたくなかったから。彼女が暮らす村を戦いで荒らしたくなかったからだ。
「そこで暮らす人の多くは元々、貴方と同じ魔王軍。これは知らないのですか?」
「……知らない。それは本当なのか?」
旧リリエンベルグ公国領で戦っている人たちであれば、当たり前に知っていること。だが彼はそれを知らなかった。
「なるほど……情報を遮断しましたか。当然の措置ですね」
多くの味方が裏切った。裏切った味方は敵方として戦っている。国を作り、そこで暮らしている。こんな情報が広まっては、寝返る人たちが増える、積極的に寝返らなくても、敗北が見えればすぐに降伏することになるかもしれない。魔王側が情報統制を行うのは当然だ。
「……もし本当に生きることが許されるのであれば」
続く言葉を口にするのは躊躇われた。彼女と同じ気持ちだ。期待して、それが裏切られた時のことを恐れている。魔人の子を身ごもった彼女が、それも合意の上でそういう関係になったと知られた彼女が、無事でいられるのか。不安は完全には消えていないのだ。
「まずは事情を聞くことからですね。タバート殿、彼らのことは任せて頂いてよいですか?」
この場で話を続けることは出来ない。そう考えて、話を聞くために近くに来ていたタバートに許可を求める。この地での指揮官はタバートだ。勝手な真似は許されない。
「もちろんだ。俺が手出し出来ることではない」
「ありがとうございます。では、場を変えて、話を聞かせてもらいましょうか。貴女にも」
「はい」
結果、アイネマンシャフト王国に行くことになるのはこの二人だけでは済まなくなった。他にも合意の上で男女の関係になった人たちがいたのだ。ここにいた魔人の多くは、この村で普通に村人として暮らしていたことも分かった。戦争で男手を軍に取られたこの村では、魔人たちは頼りになる労働力だったのだ。共に働き、共に食し、語り合い、お互いを知り、村人たちと魔人たちは村の暮らしを良くしたいという想いを共有し、助け合っていた。
魔人たちが占領するにあたって、抵抗する力のなかったこの村では戦いが起こらなかったというのは大きい。そういう事情があったとしても、この事実はタバートに、彼以上にゾンネンブルーメ公国軍だった人たちに衝撃を与えた。人族と魔族の共存。それが誰に強制されるわけでもなく、実現していたのだ。
そしてこの事実は、ジグルスとアイネマンシャフト王国で暮らす人々にとっては、希望となった。