ローゼンガルテン王国の状況はわずかではあるが好転した。旧リリエンベルグ公国領内の戦況の変化がそれをもたらしたのだ。軍の大半を失ったヨルムンガンドは戦線の縮小を決断。支配地域を十分に確保出来ていないキルシュバオム公国領とラヴェンデル公国領に残っていた軍勢を完全撤退させた。そうしないと旧リリエンベルグ公国領内の支配地奪回に使える戦力が確保出来ないからだ。
キルシュバオム公爵は事態をすぐに把握。自領で起きた出来事だ。誰よりも早く耳に入る。ただ知ったのは魔王軍がいなくなったということだけで、その理由までは分からない。どう動くべきかの判断には時間を必要とした。
「その後の状況はどうだ?」
このところの打ち合わせでのキルシュバオム公爵の第一声はいつもこれ。魔王軍との戦いは最大の懸念事項。それに大きな影響を与えるだろう出来事は気になって仕方がないのだ。
「領内に魔人、魔物の姿は見られません。もちろん、全土の捜索が終わったわけではありませんが」
キルシュバオム公爵領の隅から隅まで捜索を終えるなど、いつになるか分からない。キルシュバオム公爵の問いに対するミレー伯爵の答えも変わらない。
「……再侵攻はない。こう判断するべきか」
だが続くキルシュバオム公爵の言葉はいつもとは違った。「そうか」で終わらせるのではなく、結論を求めようとしている。
「難しいご判断ですが……いつかは結論を出さなければなりません」
ミレー伯爵の返答は曖昧だ。だが結論を出さなければならないという思いは、はっきりしている。キルシュバオム公爵領から危険が去ったのであれば、すぐにやるべきことがある。出来る限り早いうちに成果を出したいことが。
「……仮に結論を出すとして、どう動く?」
キルシュバオム公爵には迷いがある。自領は安全であると判断することだけでなく、そう判断した上で、どう対応するかに対する迷いだ。
「ゾンネンブルーメ公からはうるさく救援要請が届いております。正直これだけ長く無事でいるのであれば、救援は無用なのではないかと思うのですが……」
ゾンネンブルーメ公爵からはもう数え切れないくらいの回数、救援を要請する使者が送られてきている。それはつまり、使者を何度もお送り出せるくらいに、さらに戻っていけるくらい安全な場所にいるということ。そうであれば、さっさと王都まで逃げてくれば良いのにともミレー伯爵は思うのだが、それはそれで煩わしいことになるようにも思える。
「我が領内の状況を知るだろうか?」
「可能性は否定出来ません。はっきりと確かめたわけではありませんが、ラヴェンデル公国にまで使者を送っている気配があります」
ラヴェンデル公国からも魔人は姿を消したと聞いている。その情報がゾンネンブルーメ公爵に伝わる可能性をミレー伯爵は考えている。戦力に余裕が出来たのに救援を送ってこない。それを知ればゾンネンブルーメ公爵がキルシュバオム公爵の意図を疑うのは間違いない。
「……要請には応える必要がある」
現時点でゾンネンブルーメ公爵を切り捨てるという判断は出来ない。王都の実権を握ったキルシュバオム公爵ではあるが、その影響力は王国全体に及んでいるわけではない。影響力を拡大する為に必要な物事が停滞しているのだ。
「数は増やしますか?」
救援要請に応えるにしても応え方がある。数「は」と言ったミレー伯爵はそれを示している。
「そうだな。問題は戦果を得られるか……」
キルシュバオム公爵が気にしている戦果は、ゾンネンブルーメ公国で得られるそれではない。そこで戦果を得ても、喜ぶのはゾンネンブルーメ公爵だけ。キルシュバオム公爵家が得るものはわずかだ。
キルシュバオム公爵は、自分自身にとっての主戦場を変えようとしている。それがローゼンガルテン王国全体を手に入れる為に必要なことなのだ。
「大丈夫でしょう。仮に苦戦することになったとしても、誰がその事実を知るでしょうか?」
必要なのは名声。ローゼンガルテン王国を救った英雄という肩書だ。まずはそれを得ること。
「元から作るつもりであった英雄か。仕方がない。これ以上の失敗は許されん」
実際の戦果がどのようなものであるかなど関係ない。大切なのは人々がどう聞き、どう思うか。それで物事は進む。動き出してしまえば、あとはどうとでもなる。キルシュバオム公爵とミレー伯爵の考えはこうだ。
「公国の軍を再編。そこからゾンネンブルーメ公国に送るとなると二月、いえ、三月は必要でしょう。すぐに動かしますか?」
「……ああ、そうだな。そこから……さすがに半年は必要か」
「信憑性を持たせるにはそれくらいの期間は最低必要かと」
すでに二人は戦果をねつ造することしか考えていない。未だにその程度の危機感しか持てていないのだ。戦場から遠く離れ、自分たちが見たいものしか見えていない。彼らは分かっていないのだ。今の自分たちの立場こそがユリアーナによって作られたものであることを。分かるはずもないが。
◆◆◆
抗戦派のアース族が拠点としたのは旧リリエンベルグ公国の中心都市シュバルツリーリエ。領内における最大都市であり、防衛力も、今のグラスルーツと比べると微妙だが、もっとも優れている。大魔将であった彼らは、このシュバルツリーリエ防衛の為に周囲に展開していたので距離も近かった。とくに悩む必要もなく、拠点として定められたのだ。
ただ誤算もあった。魔王軍に攻められる前にシュバルツリーリエの住民たちは逃げ出している。アース族が必要とする生産を担う人が、シュバルツリーリエにはいないのだ。
「物資の蓄えはそれなりにある」
抗戦派の一人、ヴィリは危機感を覚えてはいない。彼は抗戦派の中でも強硬な考えを持っている。ないものは奪えば良いと考えているのだ。
「それなりでは分からない。具体的に何年もつのかを教えてもらおう」
より詳細な説明を求めたのはデリング。当然の要求だ。
「……半年はもつ」
「半年……たったそれだけか?」
ヴィリが言った「それなり」の意味をデリングは理解した。十分にあると言わなかったのには、きちんと理由があったのだと。
「収穫期までの蓄えということだ」
「だが、我々にはその時期が来ても収穫するものがない。どうするつもりだ?」
シュバルツリーリエ周辺では作物は育てられていない。田畑はあっても農作業を行う人が誰もいないのだ。
「ある所から調達するしかないだろうな」
「その調達先をどこにする?」
食料がある場所。それはいくつかある。逆にシュバルツリーリエと激戦地帯となっていたブラオリーリア周辺以外であれば、一定量の食料はある。魔王軍の目的は食料。住民たちの農作業を邪魔することなどない。支配地域では強制していたくらいだ。
「俺にばかり考えさせるな。情報はお前たちのほうが持っているはずだ」
ヴィリの耳目である暗晦の一族は、ブラオリーリア攻めの失敗で壊滅的なダメージを受けている。無理やり、人員補充をさせたが、やはりその能力は以前に比べて、大いに減じているのだ。
「……南東部を支配しているのはバルドルの一族。詳細の説明は必要か?」
「いや、必要ない」
アイネマンシャフト王国の戦力については、おおよそ把握している。彼らが戦う相手であるのだから当然だ。ただ彼らは、無条件で食料の調達先をアイネマンシャフト王国と決めようとしない。それを行うリスクを考えているのだ。
「東部、北部はヨルムンガンドの支配地域。守りは思っていたよりも固い。どうやら他の地域から軍を撤退させたようだ」
ヨルムンガンドは他の地域、キルシュバオム公国とラヴェンデル公国から軍を全面撤退させ、その戦力でリリエンベルグ公国領内の支配地域を守っている。このヨルムンガンドの軍勢の増加も、彼らにとっては誤算だ。
「ヨルムンガンドは我らと戦うつもりなのか?」
「それは分からない。だが少なくとも従うつもりはないようだ」
アース族である自分たちが自ら戦う意思を固めた。そうであれば、麾下に馳せ参じて戦うべきだ。こんな都合の良いことまで彼らは考えていた。そんな考えだから今の事態があるとも言える。
「……あとは西か」
食料確保を優先するのであれば、守る敵の少ない地域を選ぶべき。北と東にはヨルムンガンド、南にはジグルスがいるとなれば、残るは西だけだ。
「ホドとエイルを攻めるのか?」
二人の話を聞いているだけだった抗戦派の残りの一人、フォルセティが問いを発した。西には中立を選んだアース族の二人、ホドとエイルがいる。同じアース族である二人の支配地を攻めることに抵抗感を覚えたのだ。
「西部は二人だけで、まして戦う気のない者が支配するには広すぎる」
中立派の二人は素早く西に移動し、そこを支配地と定めた。初めはそれを受け入れていたヴィリであるが、今の状況はそれを許せなくなっている。リスクを負うことなく必要な食料を得ている二人を、卑怯だと思うようになったのだ。
「……いたずらに敵を増やすことになる。それで喜ぶのはバルドルだ」
同じアース族同士で戦って、戦力を削ることは馬鹿馬鹿しいとフォルセティは思う。今、他の二人と共闘しようとしているのは、アース族を滅ぼそうと考えているジグルスに対抗する為。戦うべき相手はジグルスなのだと。
「もちろん、戦わないで事が解決するのであれば、そのほうが良い」
問答無用で攻め込むつもりはヴァリにもない。西部の生産地を割譲する、もしくは継続的に食料を供給してくれるのでも構わない。同じアース族であるホドとエイルには、出来れば共闘してもらいたいのだ。
「ではまず使者を送ることからだな?」
「ああ、そうだ。誰が送る?」
「私が送ろう。この中では私が一番、彼らと近い」
アース族の中でも仲の良い悪いはある。この三人の中ではフォルセティが一番、中立を選んだ二人とは仲が良い。ヴァリとデリングとの関係に比べれば遥かにマシ、という表現のほうが適切だ。
ジグルスとの戦いに関係なく、アース族は二派に分かれていた。ジグルスに降伏したヘイムダルとホドとエイルが穏健派。ヴァリとデリング、そして死んだブラギが強硬派で、フォルセティが中間といった感じだ。
「そういえばブラギの血族に送った使者はどうだった?」
ヴァリたちはブラギの息子、現ブラギにも使者を送っている。ジグルスを討つにはアース族の総力を結集しなければならない。そう考えて、降伏したブラギをまた参戦させようとしているのだ。
「ああ、ブラギの血族は共闘を約束した」
ヴァリの問いに対してデリングは、ブラギの血族が求めに応じたことを伝えた。
「そうなのか? それは……良かった」
使者を送ることには賛成だったヴァリだが、こんな簡単に共闘を約束してくるとは思っていなかった。降伏を条件に命を救われたはず。あっさりとその約束を反故にして刃を向けるなど、さすがにヴァリもどうかと思う。
「血族は弟が継いだ」
「……なるほど。そういうことか」
ジグルスに降伏した兄は死んだ。まず間違いなく一族に殺されたのだとヴァリは考えた。非情だとは思わない。死んだ兄は命惜しさに、深淵の一族を解放してしまった。そんなことはアース族としてあってはならない。ブラギの血族がそれを恨み、命で償わせるのも当然だと思う。
「汚名挽回を果たす為、血族の総力を挙げてバルドルと戦うとのことだ。力強い味方が出来たな」
「……我が血族も同じ。血族の力を結集して、必ずやバルドルを討つ」
「我らもだ」
ジグルスを討つことが出来なければ、自分の代で血族が滅びることになってしまう。そんなことは決してあってはならない。ヴァリとデリングはそう考えて、総力戦を挑もうとしている。それこそが血族存亡の危機を招くことになると思いもしないで。危機感を覚えていながらも、彼らには本当の意味でその実感はない。戦いに必ず勝つ前提で物事を考えている。
彼らは分かっていないのだ。すでに魔人たちの意識は変わり始めているということに、それはアイネマンシャフト王国に仕える魔人たちに限った話ではないことを。
◆◆◆
大きく四勢力に分かれた旧リリエンベルグ公国領の戦い。中立派のアース族を除く三勢力で、たちまち三つ巴の戦いが始まるということにはならなかった。どの勢力もまずは様子見。その中で、特にアイネマンシャフト王国と魔王ヨルムンガンドの勢力は、自らの支配地域を固めることに力を入れている。
軍の再編も急がなければならない魔王ヨルムンガンドの勢力も忙しいが、大きく支配地域を拡大することを決めたアイネマンシャフト王国も大変だ。もともとあった旧リリエンベルグ公国の防衛拠点の修復工事だけでなく、新たな拠点の構築まで行っている。定めた防衛線は死守する。それを実現する為には、防衛上の欠陥となる地点を作るわけにはいかないのだ。
国王であるジグルスも防衛線まで出て来て、敵が攻めてきた場合の備えでもあるが、自ら拠点構築の指揮をとっている。同時並行で複数の拠点工事を行わなければならないので、現場監督が出来る人材も不足しているのだ。
「……ということで、結構忙しいのですけど?」
その忙しい最中に突然やってきた訪問者、ヘイムダルに、ジグルスは遠まわしに邪魔だと告げている。
「王が多忙なのは分かっているつもりです。それでも会う必要があると考えて、来ました」
「どのような用件ですか?」
事情を理解した上での訪問。だからといって本当に必要性があるのかは怪しいとジグルスは考えているが、話を聞く姿勢は見せることにした。降伏の時にそういう約束をしているのだ。
「こういうことを口にするのは慣れていないのですが……」
「それでも話してもらわなければ、こちらは何だか分かりません」
「そうですね……では……資金を貸していただきたい」
「ああ、資金ですか……ちなみに何のための?」
用件は金の無心。ある意味では想像通りであるのだが、これが忙しい中でわざわざ時間をとって話さなければならないこととはジグルスには思えない。
「商売をしてみようと思いました」
「商売? それは誰を相手に? 何を買い、誰に売るのですか?」
ヘイムダルに商売の経験があるとは思えない。元々行ってきたことであれば、仕事を広げようなどという理由がない限りは、資金の無心に来る必要もないはずだ。
「相手はホドとエイル。買う物は、とりあえずは食料で、売る先は王の国です」
「……その、ホドさんとエイルさんというのは?」
ジグルスの知っている名前。ただ商売の相手となると、自分が思う人物なのかは疑問だった。
「ああ、ご存じないですか。中立を宣言したアース族の二人です」
「その二人であれば、名前だけですが、知っています。その二人と商売なんて出来るのですか? 相手が受け入れますか?」
「私が仲介者であれば可能性はあります」
「……何を考えています?」
ヘイムダルは自分を仲介者と表現した。それを聞いたジグルスは、商売だけが目的ではないと感じた。
「二人に王のことを知ってもらおうと考えています。まずは王がアース族を目の敵にしているわけではないことを」
「目の敵にしているつもりですけど?」
「そうであれば私は生きてここにいません。王が目の敵にしているのは、古い因習に拘って変化を受け入れず、特権意識を持って他人を見下している者たち。私の知るホドとアインはそういう人物ではありません」
これを口にするヘイムダルはジグルスにも知って欲しいのだ。アース族と一括りにされているが、それぞれ個性があるのだということを。
「……変化を求めているのですか?」
ヘイムダルの言葉が事実であれば古い因習を嫌う、嫌うまではいかなくても古くから続く立場に拘りを持たないアース族がいるということになる。そして恐らくはヘイムダルもその一人。
「……変わらないことを恐れているというのが正しい表現ですか……恐れているというほどでもありませんね。飽きている、とも違う。嫌悪を感じているですか」
「嫌悪というのはアース族であることに、という意味ですか?」
「そうです。自分が最後になりたくない。まして血族を滅ぼす最初の一人になるなんて絶対にあって欲しくない。こんなことを考えて生きているのが嫌なのです」
血族を絶やすことは許されない。まして、自分の血族が真っ先に滅びるなんてことはあってはならない。代々の当主はそういう想いを抱いて、責任を背負って生きてきた。その重い荷を降ろせるのは死の瞬間。死の瞬間を迎えて、その場に後継者がいて、ようやく安堵出来るのだ。血を残すことだけが生きる意味。極端に言えば、こういうことだ。
「……私に何を求めているのですか? 血を守りたいから降伏したというのは嘘なのでしょう?」
「……はい。私は貴方にアース族を滅ぼして欲しいのです」
「それは……アース族という束縛から解放して欲しいという意味ですね?」
滅びたいのであれば降伏する必要はない。戦いの中で命を捨てれば良い。だがヘイムダルは降伏の条件で、命の保証を求めているのだ。
「その通りです」
「……約束は出来ません。私が、私たちが戦う目的はそこにはありません」
「分かっております。私が、貴方たちの戦いの中で、求める結果が得られるように動くだけです」
戦いがアイネマンシャフト王国の、ジグルスの勝利で終われば、アース族という存在はなくなるとヘイムダルは考えている。問題はジグルスの影響力がどこまで広がるか。魔人全体を統べる形にならなければ、世界のどこかでアース族は生き延びるかもしれない。
たとえそうなっても自分とは関係のない者たちだと思えば良いだけなのだが、ヘイムダルにはそれが出来ない。アース族であるという呪縛は、そんな簡単に解けるものではない。だからこそ、ここまで続いてきたのだ。自らの意思ではどうにもならないから、ジグルスに頼るのだ。