静まり返った大広間。玉座に座るアレックス王の足を揺する音だけが響いている。普段であれば聞こえるはずのない音。数百人が一同に会することが出来るほどの、パルス王国の王城以外にはない大規模な広間なのだ。どれだけ集まった人々が静粛にしているつもりでも、積み重なった小さな雑音が、靴底が床を鳴らす音など消し去ってしまう。
その音がはっきりと聞こえてくる理由。それはそのとてつもなく広い場所にいるのがアレックス王一人であるから。大広間だけではない。その周りの部屋にも、廊下にも、誰もいないからだ。そういう意味では聞こえてくるという表現は正しくない。聞く耳を持っているのも、音を出しているアレックス王だけなのだから。
アレックス王の目の前に広がる空間。左右に並ぶ大勢の臣下。先のほうには普段は直接目通りが叶わない身分の低い者たちもいる。それが勢ぞろいした時の記憶。パルス王国の王として、初めてこの玉座に座った時の記憶。それを思い出して、さらに心は暗い闇に沈んでしまう。
栄光の時は短かった。玉座に座った瞬間から、転落に向かっていたのだと今は思う。自分はどこで間違えたのか。エリザベートに取り込まれた時から。彼女のせいだと思っても、今は空しい。もう何度も考え、後悔し、また考え、自分の野心はエリザベートとは関係ないことを、彼女のせいにしたいのは現実逃避の一種であると、分かってしまっているのだ。
過ぎた野心は身を亡ぼす。過去の人が残した言葉は正しかった。そんなことを考えてみても、空しいだけだ。
「……くっ……ぐっ……」
心に広がる悲しみに、こらえきれなくなって嗚咽をもらすアレックス王。そんな彼を慰めてくれる人も、もうこの城にはいない。心を癒す術がアレックス王にはない。
「…………」
だが、心は癒されていなくても、涙は堪えなければならない事態が訪れた。床を鳴らす靴底。アレックス王のそれではない。はるかにはっきりと、大広間の入口のほうから聞こえてくる。誰かがやってきたのだ。
何者かはすぐに分かった。アレックス王の良く知るシルエット。それはまっすぐに歩いてきた。
「……こちらでしたか」
「相談役……何か用ですか?」
やってきたのはパウエル相談役。アレックス王が信用出来る唯一の相手だ。
「ローズマリー殿下が出発されました」
「……知っています」
今日、ローズマリーは城を、王都を去る。アレックスも当然、知っている。
「見送りに出なくて良かったのですか?」
「彼女は私の悪行を知って、愛想を尽かした。こういうことになっています」
アレックス王を恨む人は多い。軽蔑している人はさらに多くいる。ローズマリーも多くの民と同じ気持ち。そういうことにすることが彼女の為になる。
「……陛下はどうなさるおつもりですかな?」
「さて……どうしますか?」
王城にいた人たちは、全員が自主的というわけではないが、逃げ出した。残っている人はわずかで、その人たちもすぐにいなくなるはずだ。それはパルス王国軍も同じ。アレックス王に従う軍はない。
仕える者のいない王。出来ることは何もない。
「全てを捨てて生きることは出来ます」
「本当にそうでしょうか? 生きることが許される場所はないのではありませんか?」
パルス国王という身分を捨てたからといって、それですべてが解決するとは思えない。アレックス本人は捨てたつもりであっても、それを誰もが認めるわけではない。一度身につけた王の称号は、アレックスを縛り続けるのだ。
「……大森林であれば可能性はあります」
「グランとエリザベートがいる大森林に私に行けと!?」
大森林の、アイントラハト王国の情報をアレックス王とパウエル相談役は得た。大森林から戻ったイーストエンド侯爵が教えてくれたのだ。
「過去のいきさつは関係ない。大森林はそういう場所だと儂は理解しましたが?」
グランとエリザベートは過去を捨て、自分を変えて、大森林で生き甲斐をみつけている。それを聞いて、大森林はやり直せる場所なのだとパウエル相談役は思った。
「……そうだとしても私は別です。私は、パルス王国の王ですから」
「ですから、その肩書を捨てて」
「それは出来ません。相談役、私も馬鹿ではありません。自分の役目が何なのかは理解しているつもりです」
何もやることがないわけではない。パルス王国の王としてやらなければならないことが一つだけ残っている。
「イーストエンド侯は何も言っておりません」
「言わなくても分かります。相談役も分かっているから、そう言うのです」
パウエル相談役の言葉は、アレックス王が何を考えているか分かっていてのもの。分かっているから、イーストエンド侯爵はそれを求めていないと言えるのだ。
「……覚悟は定まっているのですか?」
「もちろん、と言いたいところですが、残念ながらまだ。定まることはないかもしれません」
ここで強がっても意味はない。見栄を張らなければならない理由は、何もないのだ。
「そうですか……急ぐことはありません。時間はまだあるでしょう。どうしても覚悟が定まらず、それでも意思が変わらないのであれば、私がお供します」
「……殉死など時代遅れです。私にはそんな価値はありません」
アレックス王は死ななければならないと考えている。そのお供をするということは、共に死ぬということだ。
「残念ながら賢王と評される功績はありませんな。仕方ないでしょうな。功績をあげるには、あまりに時が短すぎる」
「悪王か愚王か、とにかくろくな評価ではないでしょう。そんな王に殉じては相談役まで同一視されてしまいます」
「王の評価がどのようなものであっても、殉死者が一人もいないなんて終わり方は空し過ぎますな。王だけではない。パルス王国が滅びるのですから」
パウエル相談役はパルス王国に殉じて死ぬつもりなのだ。
「貴方にはまだ活躍の場があります」
「儂のような老いぼれの出番などありません。生き残っても惨めな毎日を送るだけ。そんな最後は儂には耐えられません」
「……まだ時はあります。考え直す時間は」
「それはお互い様ですな」
自ら死に急ぐことをしなければ、最後の時までには、まだ猶予がある。その時間を、この先の人生について考えることに当てれば良い。他にやることなど、食べて寝る以外にはないのだから。これを言う二人とも、考え直すつもりはない。最後の時を迎える覚悟を定める為に使うつもりだ。今はそうとしか考えられなかった。
◆◆◆
パルス王国軍との戦いで多くの死傷者を出したライアンたちの部隊。戦いそのものには満足していたライアンだが、その影響は大きかった。そう思い知らされる事態が起きたのだ。
「間違いありません。敵はこちらの居場所に気付いています」
偵察から戻ってきた淫魔族の女性が、厳しい表情で得た情報を伝えてきた。
「……数は?」
「およそ一万。ユーロン双王国軍です」
「一万か……」
敵は大軍。見通しの悪い森の中での戦いはライアンたちに有利であるが、味方は多くの怪我人を抱えた状態だ。ウエストエンド侯爵率いるパルス王国軍との戦いと同等か、それ以上に厳しい戦いになる可能性がある。
「ユーロン双王国軍がわざわざ一万もの部隊をこちらに回す理由がありません」
ライアンたちがいる場所はパルス王国北西部の森の中。主要都市などない、戦略的な価値もあるはずがない場所だ。そこに一万もの大軍をユーロン双王国が送ってきたことに彼女は疑問を感じている。
「……ドブネズミが何か仕掛けたか」
「その可能性は高いと思います」
何者かがライアンたちの居場所をユーロン双王国に伝えた。その可能性を二人は考えた。それが誰かとなると、心当たりは優斗か、対立する魔族の誰かだ。
「……今考えても仕方がない。どう対処するか」
犯人を考えていても事態は解決しない。近づいてくるユーロン双王国軍にどう立ち向かうかを考えることにしたライアン、だったが。
「止めなさい! 何を考えているの!?」
その思考を邪魔する大声が聞こえてきた。
「あの女はこの状況で何を騒いでいるのだ?」
「さあ?」
声は美理愛のもの。今まさに敵が迫ってきているという状況で、大声で騒いでいる美理愛にライアンは呆れ顔だ。
「貴方もよ! 戦えないから何だと言うの!? 戦えない人に生きる資格がないなんて、そんなのあり得ない!」
「……行ってくる」
続く美理愛の言葉で、ライアンが何が起きているのか理解した。特別なことではない。これまでであれば放っておくことであるのだが、美理愛の言葉がそれを許さなかったのだ。
「放っておいてくれ。俺は敵に殺されるよりは誇り高き死を選ぶ」
「何が誇り高き死よ! そんなものはないわ! あるとすればそれは、誇り高き生よ!」
美理愛が叫んでいるのは、怪我人が味方に殺されそうになっていたから。それを止めようとしたのだが、殺されそうになっていた側が死を望んでいたのだ。
「敵に背を向けて、何が誇りだ!? 死を恐れる弱者になって、惨めに生きるつもりはない!」
「命を疎かにする人が強いと言うの!? 生にしがみついて、何があっても生き抜こうとする強い気持ちを持つ人が弱者だと言うの!?」
「誇りを守ることの何が悪い!? 誇りを失った俺は俺ではない!」
死を恐れることなく、どんな強者が相手であっても勇敢に戦う。それが彼らの誇り。その誇りを捨てて、生きることなど受け入れられない。
「だったら貴方でなくなりなさい!」
「なんだと!?」
「貴方が貴方でいることは、それほど大事なことなの!? もっと大切なものがあるのではないの!? 自分の誇りの為に命を捨てるのなら、他人の為に命を捨てなさい! その命を自分だけでなく他人の為に使いなさい! 人を傷つける強さではなく、人を守る強さを大切にしなさい!」
物凄い剣幕で相手を怒鳴りつける美理愛。このような美理愛を見るのは周りの人たちにとって初めてのこと。いつも近くにいるライアンもそれは同じだ。
「……お前には関係ない」
美理愛の勢いに相手は気圧されてしまう。反論できずに「関係ない」で逃げようとした。
「関係なくない。私は貴方を知っている。仲が良い悪いなんてことこそ、関係ないわ。知っている人が目の前で死のうとしているのに、見て見ぬ振りなんて出来ないわ」
「……どうせ死ぬ」
敵が押し寄せれば、怪我をして動けない彼は殺されてしまう。
「死なせない」
「仲間の足手まといになりたくない!」
自分を守る為に味方が傷つくことなどあってはならない。だから彼は死のうとしている。周りもそれが分かっているから、殺してやろうとしたのだ。
「足手まといになんてさせない! 私は貴方を守る! 絶対に死なせない!」
だがそんな理屈は美理愛には受け入れられない。目の前の仲間を死なせない。それだけしか考えられない。
「だから自分で死ぬなんて絶対にしないで! 約束だからね!」
「……えっ……お、おい?」
約束だと一方的に言い捨てて、、美理愛はもの凄いを勢いで歩いて行ってしまう。置いてきぼりにされた相手は困ってしまう。邪魔者はいなくなったから死のう、なんて気持ちにもなれない。
「ライアン様」
この状況をどうすべきか。ライアンに淫魔族の女性は尋ねようと思った。
「…………」
だがライアンは無反応。じっと美理愛の背中を見つめていた。
「……ライアン様?」
「……あの女……魔王様と同じことを言った」
「えっ?」
ライアンの呟きは小さすぎて、まさかの内容でもあり、すぐに理解出来なかった。
「なんでもない……怪我人を安全な場所まで運ばせろ。その為の人員はいくら使っても良い」
「……良いのですか?」
「ああ。俺の決断だ。命令に従うのだから、恥じる必要はまったくないと皆に伝えておけ」
「承知しました」
内心の驚きを表情に出さないように気を付けて、了承を返す。ライアンが撤退を選択した。それだけで驚きなのに、どうやらその決断に美理愛が影響を与えている。彼女にとっては、信じられない事態だった。
「さて……あの女が口だけでないかを確かめてくる」
「はい……あっ、残る者にすぐに追わせます」
美理愛とライアンの二人だけで敵を止められるはずがない。それに気付いて、怪我人の運搬に関わる必要のない
「……そうだな。頼む」
◆◆◆
それから一刻後。ユーロン双王国軍との戦いを終えたライアンたちは森の奥深くを進んでいた。先頭を進むライアンは上機嫌だ。
「いやあ、殺したな。どれくらいだ? 千は超えたか?」
「……そんなに殺してません」
ライアンの問いに消え入りそうな小さな声で答える美理愛。
「超えたのではないか? お前の魔法にはそれくらいの威力があった。今まで出し惜しみしていたな」
小さな声でもライアンには良く聞こえる。耳が良いからではない。美理愛はライアンに背負われている。彼女はライアンの耳元で呟いているのだ。
「殺して殺して、魔力切れで動けなくなるまで殺しまくった。お前、人のことを戦闘狂と言ったが、魔法で殺す奴のことは何と呼べば良いのだ?」
「夢中だっただけです。だから抑えがきかなくて」
魔力切れを起こして、こうしてライアンに背負われることになった。ライアンの優しさに少し感動した美理愛であったが、それもわずかな間。ライアンはずっとこうして美理愛をいじり続けている。
「……俺たちは変わらなければならないか?」
「えっ?」
「そんなことを言っていただろ? 実は魔王様も似たようなことを言っていた。生に拘る強さ、だったかな? それを俺たちは知るべきだと」
自分の弱さを嘆き、生を軽んじていたライアンに向けた言葉。彼だけではない。弱者を疎んじる人たちにも前魔王は訴えていた。
「……理解出来なかったのですか?」
自分よりも遥かに信頼している前魔王の言葉。だがライアンの問いは、変われていないことを意味する。実際に美理愛が知るライアンの言動は、前魔王の言葉が届いているようには思えない。
「熱い想いは理解した。ただ……俺は強くなれてしまったからな」
古傷が治って、ライアンは強者となった。死に直面する機会は激減した。逃げるという選択を考える機会もなくなった。それが前魔王の言葉を届きにくくしたのだ。
「その力を弱い人の為に使おうと思ったことはないのですか?」
「使っていたつもりだ。常に前に出て戦ってきた」
「……そういうことではないわね……偉そうなことを言ったけど、私には上手く説明出来ない。言葉では説明出来ることではないのだとも思うわ」
自分自身に、自分は人を守る強さを持っているかと問えば、持っていると答えられない。本当の意味で人を背負ったことが美理愛にはない。
「それでは永遠に理解出来ないな」
「実際にそういう人と出会えれば……」
「……久しぶりにのろけか?」
美理愛はヒューガがそういう人物だと言いかけた。ライアンはそう思ったのだが。
「いえ。エアルさんはどうなのかと思って。彼女は自分が死ぬことでヒューガくんを守ろうとしていたわ。あれは命を軽んじているのかしら? それとも人の為に命を使おうとしているのかしら?」
「なるほど……命を軽んじてはならない。だが惜しんでもならない。ではどこがその境界線なのか……」
「人それぞれ。個人の考えを尊重すべきなのか、誰もが納得する基準があるべきなのか」
答えの出ない問いを重ねるライアンと美理愛。
「……あの二人、実は気が合うのか?」
「ええ? それはないだろ?」
「でも、何だかんだで常に一緒にいる」
「確かに……」
そんな二人のやり取りは、周りの憶測を生むことになった。実際のところどうなのか。それが分かるのは、まだ先の話だ。