月の文庫ブログ

月野文人です。異世界物のファンタジー小説を書いています。このブログは自分がこれまで書き散らかしたまま眠らせていた作品、まったく一から始める作品など、とにかくあまり考えずに気の向くままに投稿するブログです。気に入った作品を見つけてもらえると嬉しいです。 掲載小説の一覧(第一話)はリンクの「掲載小説一覧」をクリックして下さい。よろしくお願いします。 

黒き狼たちの戦記 第45話 人に認められるということ

異世界ファンタジー 黒き狼たちの戦記

 攻めるベルクムント王国とその従属国の連合軍は総勢一万六千。それに対するはフルーリンタクベルク砦に籠る中央諸国連合軍三百だ。砦を守る壁はあっても、そんなものはわずかな時間稼ぎにしかならない。ベルクムント王国にとっては勝利が確定している戦い、のはずだった。
 だが戦況はベルクムント王国軍がまったく想定していなかった状況になっている。砦を守る中央諸国軍を圧倒的な数で攻めるはずであったのだが、今攻撃を仕掛けてきているのは中央諸国連合軍のほうなのだ。中央諸国連合軍という表現が正しいのかも微妙だ。ベルクムント王国の陣地に攻撃を仕掛けているのは、たった一人なのだから。
 また爆発が起こり、陣地にいるベルクムント王国軍の兵士の体が吹き飛んだ。砦から飛んでくる投爆弾が爆発したのだ。ベルクムント王国軍にとっては旧式、試作品と言っても良いものなのだが、爆発の威力そのものは大きくは変わらない。それが、騎士や兵士が密集している陣地で爆発すると多くの被害を出すことになる。
 その敵の攻撃を防ぐには投爆弾を爆発させている人物、ヴォルフリックを討つことなのだが、それにベルクムント王国軍は苦労している。近づこうとすれば投爆弾が爆発する。それをなんとか躱してもヴォルフリックを攻撃する前に炎が襲い掛かってくる。犠牲は増えるばかりだった。一万六千の軍勢がたった一人を討てないでいる。ベルクムント王国軍としては屈辱的な状況だ。
 では中央諸国連合軍は優勢な戦況に大喜びなのかと言うと。

「遠すぎ! もっと近くに投げてよ!」

 砦の防壁の上でブランドが、彼には珍しく、苛立った様子で怒鳴っている。

「……そう言われても」

 怒鳴られているのはボリスだ。投爆弾を敵陣に投げているのは彼。だがその結果はブランドが満足する状況にはなっていない。

「ちゃんとやってよ! ヴォルフリックを殺す気!?」

 ボリスが狙うべき場所はヴォルフリックがいる場所。それでヴォルフリックに近づこうとする敵を吹き飛ばすという作戦だ。だが実際には目標から大きく外れていていて、敵を吹き飛ばすことは出来ても、ヴォルフリックに近づく敵を排除出来ていない。

「せめて、もう少し近くに来てくれれば」

 目標が遠すぎることに文句を言うボリス。

「敵を近づければ、一気に砦に寄せられる。説明聞いているよね?」

 遠い敵陣地に投爆弾を届かせなければならないのは、足止めの意味がある。陣地を出て、前方に進出されてしまえばベルクムント王国軍は広く、といっても限界はあるが、展開してしまい、投爆弾の効果が薄れる上に砦への接近を許してしまうことになる。そうなってしまえば、砦が落ちるのは時間の問題だ。

「聞いているけど……それと僕が出来るかどうかは別だ」

「何を言っているの?」

「僕にばかり責任を押し付けないでよ! これでも一所懸命やっているのだからさ!」

 ブランドに文句を言われ続けて、ボリスも我慢の限界にきた。彼には珍しく怒声をあげる。

「一所懸命? それ本気で言っているの?」

 ブランドの表情から苛立ちが消えた。代わりに浮かんできたのは、本当の怒り。目を細めて、ボリスを見つめている。

「……本気さ」

 その視線に怯えながらも、言い返すボリス。

「……ヴォルフリックを連れ戻してくる」

 ボリスから視線を外すと、誰に告げるでもなくこの言葉を残して、ブランドは駆け出して行った。

「……わざわざ行かなくても」

 危険な場所にわざわざ向かうブランドの行動を、自分への当てつけだとボリスは受け取っている。

「連れ戻さないとヴォルフリックは戻ってこない。突破されれば、俺たちは終わりだからな」

 だがクローヴィスは違う。ブランドの行動はそれが必要だから行うのだと分かっている。

「一人で守れるはずが」

「出来る出来ないじゃなくて、やるかやらないかではないか?」

「…………」

 クローヴィスの言葉は自分への批判。そう受け取ったボリスは黙り込んでしまう。

「自分に言い訳をして、仲間を裏切るのか?」

 実際にクローヴィスはボリスを批判している。彼が諦めたら作戦は成り立たない。今こうしてウジウジしている間にも、ヴォルフリックは危険な目に遭っているのだ。

「……僕は出来もしない仕事を押し付けられただけ……裏切るなんて言われるのは……」

「裏切りだ。ヴォルフリックは、お前を信じた。自分の命をお前に預けたんだ。その信頼に、お前は……いや、良い。俺も行く」

 ボリスの説得に時間をかけ過ぎては、ヴォルフリックを連れ戻すことが出来なくなるかもしれない。クローヴィスはこれ以上の説得は諦めて、ブランドの後を追うことにした。
 フィデリオもセーレンもすでにそうしているのだ。

「なんだよ……僕に責任を押し付けて……僕は……僕は……」

 出来るなんて言っていない。そうであるのに重要な役割を与えたヴォルフリックが悪い。これが言い訳であることはボリスも分かっている。分かっているが、心の傷を少しでも減らす為に必要なのだ。

「信頼なんて……どうして僕なんかに……馬鹿だよ……」

 ヴォルフリックの信頼を裏切る自分を、死なせてしまうかもしれない自分を、せめて自分自身は許してあげる為に。

「信頼なんて……僕なんかに……」

 信頼なんてされたことはなかった。まして命を預けられたことなどあるはずがない。ヴォルフリックは人生の中で唯一の人。その人が死んでしまうかもしれない。自分のせいで。

「僕は……僕は……」

 ヴォルフリックがオトフリートに頭を下げた場面が頭に浮かんでくる。自分が必要だとヴォルフリックは言った。驚きながらもすごく嬉しかった。

「…………」

 ヴォルフリックに自分の能力を否定された。それが悔しくて情けなくて、結局いつもと同じだと思って、悲しくなった。だがヴォルフリックは文句を言いながらも自分に教えることを止めなかった。教えられても上手く出来ない自分を見捨てなかった。

「僕は……馬鹿だ……」

 差し伸べられた手を、何故もっと強く握らなかったのか。自分から諦めて、距離を取ろうとしてしまったのか。後悔の思いが胸に広がっていく。

「……嫌だ……嫌だぁああああっ!!」

 これで終わりにしたくない。もう二度とヴォルフリックと会えないなんてことは絶対に嫌だ。立ち上がったボリスは投爆弾が入っている箱に近づいて、手を伸ばす。

「……な、ない?」

 だが箱の中は空だった。いくつか残っていた投爆弾はクローヴィスたちが持って行ってしまったのだ。

「ま、まだある。もうひと箱」

 投爆弾を入れていた箱は二つ。隠者ルーカスがノイエラグーネ王国から持ち帰ってきた投爆弾は全てヴォルフリックが譲り受けていた。任務を受け入れる条件としてディアークに要求したのだ。
 もう一つの箱。それは少し離れた場所に置いてある。可能性は少ないが、なんらかの原因で引火した場合の備えとして、離して置いておいたのだ。
 離れた場所にあるもう一つの箱に駆け寄るボリス。

「……鍵? ど、どうして……?」

 箱には鍵がかかっていた。これも火への備えだ。その鍵をボリスは持っていない。彼の役目はひたすら投爆弾を投げ続けること。運んでくるのは別の人たちの役目。鍵はクローヴィスが持っている。

「……ん、んぁああああっ!」

 特殊能力を使って無理やり箱を開けようとするボリス。だが火への備えとして鉄で作られている箱は固く、密閉していて指をかける場所もない。それでもボリスはなんとか箱を捻じ曲げようと力を入れ続ける。ようやく歪んだ箱。出来た隙間に手を差し込みをさらに広げようと力を込めるボリス、だが。

「急げ! 敵が近づいてくるぞ!」

 事態はボリスに時間を与えてくれなかった。

「……そんな!?」

 見張りの声で敵の接近を知ったボリス。ではヴォルフリックはどうなったのかと思って、防壁の外に近づき、敵陣地の方角を見る。見張りの声の通り、敵が砦に向かって移動している。その先頭を進んでいるのは、ヴォルフリックだった。

「……うわぁあああああっ!」

 叫び声をあげながら箱のところに戻るボリス。箱を壊している時間はない。そう考えて、考えている余裕もなく、ボリスは箱を抱え上げると、大きく足を踏み出した。
 砦の防壁が揺れたかと思うくらいの衝撃音。後ろ足を蹴り、踏み込んだ足にさらに体重を乗せていく。ねじれた腰が捻り戻る。それに引っ張られた上半身が、肩が、腕が前に伸びていく。ただこれは一瞬の出来事。ボリスの姿を見ている者がいたとしても眩い光しか見えなかっただろう。
 投爆弾を入れた鉄の箱が天高く舞い上がる。それは遥か先。ヴォルフリックの遥か頭上に舞い上がった。

「遅い……けど、まあ……上出来か」

 自分の頭の上を越えていこうとする鉄の箱を見てヴォルフリックは呟くと、その場に立ち止まった。振り返って、追ってきているベルクムント王国軍を眺めながら天に向かって右腕をあげる。空気を震わせた衝撃音は、ベルクムント王国軍の喚声にかき消された。
 空を飛ぶ鉄の箱はその形を歪め、投爆弾をまき散らしながら、ベルクムント王国軍に向かって飛んでいく。それにベルクムント王国軍が気が付いた時は遅かった。
 ヴォルフリックの足元から地を這う炎が幾筋も伸びていく。巻き起こる爆発。ベルクムント王国軍の騎士や兵士の体が宙を舞う。途切れることなく続く爆発は、それによっておこる爆風が、ベルクムント王国軍一万六千を飲み込んでいった。

 

◆◆◆

 貧民街は弱肉強食。強い者が生き延び、弱い者は死んでいく。そんな単純ではない。生き延びるには力だけでなく、運も必要だ。その点、ブランドは運が良かったのかもしれない。
 同年代の中では小柄な彼。力も弱く、強者の暴力に抗うことは出来ない。いくつもある孤児たちの犯罪グループに入れてももらえない弱者。それが幼い頃のブランドだ。運がなければ、とっくに死んでいた。

「隠してないで出せよ!」

 今日も強者の暴力がボリスを襲っている。

「……もう三日も何も食べてないんだ」

 相手が奪おうとしているのは、ブランドが運よく手に入れた食料。ゴミ捨て場に落ちていた、割と新しいほうの生ごみであるのだが、それでも孤児にとっては生きる糧。大切な食糧だ。

「だったらあと一日、何も食わないで我慢しろ!」

 可哀想だね、なんてことを相手が言うはずがない。彼もここでボリスから奪わなければ、何も腹に入れられない一日になってしまうかもしれないのだ。

「お願いだ! 今回は見逃してよ!」

「嫌だね!」

 同情して獲物を逃すような真似はしない。狩りに失敗すれば飢えるのは自分なのだ。

「止めて! 止めてよ!」

 必死に抵抗するブランドだが、食料を奪われるのは時間の問題。抵抗も過ぎれば、暴力はより激しくなり、命を失うことになってしまうのだ。食料を見つけた幸運、それを失う不運。ブランドにとっては無の一日、になるはずだった。

「弱い者いじめがお前たちの趣味か!? せこい趣味だな!」

 割り込んできた声。それがブランドへの暴力を止めた。

「なんだ、貴様……って、お前……シュバルツか!?」

 声の主が何者か分かって焦る相手。シュバルツは孤児の間では有名だ。近頃、一気に勢力を広げているグループのリーダーとして。

「そう」

「ふん。正義の味方きどりか?」

「いや。そのつもりはないけど、エマが……」

 シュバルツは正義の味方を気取るつもりはない。食べ物の奪い合いは貧民街では日常。それにいちいち介入していられないのだが、エマにはそういう考えはない。虐められている人がいるのであれば助けるだけだ。といっても実際に助けるのはシュバルツだが。

「……良い機会だ。この際だからどっちが上か、はっきりさせてやる!」

 この当時はまだ、孤児たちはいくつもの小グループに分かれて縄張り争うをしている状況。シュバルツは新興グループのリーダーといったところだ。そう周りが認識しているだけで、シュバルツにその意識はまったくないが。

「望むところだ!」

 小グループのリーダー同士の争いが始まる、といってもすぐに終わることになる。シュバルツと互角に戦える孤児など、この時はいないのだ。

「……お前、俺と一緒に強くならないか?」

 地面に倒れている喧嘩相手に問い掛けるシュバルツ。

「傘下に入れってことか?」

「さんか? なんだ、それ? 一緒に鍛錬しないかって誘っているだけだ」

 シュバルツには配下を集めているというつもりはない。一緒に鍛錬する仲間を集めているだけで、それが周りからは勢力を広げている新興グループのように見えるだけだ。

「……どうして?」

「どうしてって……まあまあ強かったから。お前、きっと素質あるよ。その素質を伸ばさないのはもったいないだろ?」

「……強くなれるのか?」

「頑張れば、間違いなく。俺だって頑張った結果だ」

「……分かった」

 シュバルツのように強くなれるというのは魅力だ。それに彼の下にいれば、貧民街で生き残れるかもしれないという思いもある。

「俺はシュバルツ。お前は?」

「カーロだ」

「カーロ。よろしくな」

 手を握り合う二人。この日からカーロはシュバルツの仲間として、一緒に鍛錬を続けることになる。そして、カーロに暴力を振るわれていたブランドは。
 カーロと共にエマのいるほうに歩いていくシュバルツの背中を見つめていた。

「……あ、あの!?」

 その背中に声をかけるブランド。

「ん? 何? もしかして動けないのか?」

「……動ける。動けるけど」

「じゃあ、何?」

「……僕は……僕は……」

 言葉を続けられないブランド。口にして、笑われるのが怖いのだ。

「僕は何? 言わないと分からない」

「……強くなれるかな?」

 シュバルツの言う通り、言葉にしないと伝わらない。伝わらなければ、これでもう機会は失われるかもしれない。そう考えて、ブランドは勇気を出して、問いを口にした。

「もしかして、お前も強くなりたいのか? 鍛錬厳しいけど耐えられるか? 大丈夫なら強くなれる。俺もお前くらいの年から始めていたからな」

 カーロに聞かないことを聞いたのは、ブランドを自分よりも年下だと思っているから。まだ鍛錬には早いかもしれないと考えたからだ。後に勘違いであることが分かるが。

「……じゃあ、僕も……良いかな?」

「もちろん。負けないからな」

 笑みを浮かべてこれを言うシュバルツ。この言葉がブランドの言葉を震わせた。シュバルツが何の気なしに発した「負けないからな」の言葉が、誰にも相手にされてこなかった自分を対等に見てくれているようで、ブランドは堪らなく嬉しかったのだ。

「名前は?」

「ブランド」

「俺はシュバルツ。じゃあ、行くか」

 またブランドに背中を向けて歩き出すシュバルツ。その背中がブランドは眩しかった。この時だけではない。これから先もずっとブランドはシュバルツの背中を追いかけてきた。追い続けていれば、自分の未来は開ける。そう信じて。
 ――今もその背中はブランドには輝いて見える。一万六千の大軍を前にひとり立つシュバルツの背中は、とても大きく見えた。

「……させない……僕の光を……こんなところで失ってたまるかっ!!」

 駆けていたブランドの体が、一筋の光になる。多くの犠牲者を出しながらもシュバルツに群がろうとしているベルクムント王国軍。その間を一陣の風となって駆け抜けたブランド。閃光がきらめき、血煙が宙を舞った。

「……凄い」

 あとを追っていたクローヴィスの口から洩れる声。初めて見るブランドの本気。それはクローヴィスの想像の遥か上を行っていた。彼だけではない。フィデリオも敵の中に躊躇うことなく飛び込み、縦横無尽に剣を振るい続けている。腕が、首が宙を飛ぶ。ブランドとは少し違うが、凄まじさは変わらないか、それ以上だ。

「私たちは私たちの出来ることを」

「そうだな」

 セーレンとクローヴィスに二人のような真似は出来ない。行ったとしても長くはもたない。二人は自分たちがやれること。シュバルツ、ヴォルフリックの支援に回ることにした。
 だがそれさえも不要とする存在が現れる。

「ブランド! よけろ!」

 ブランドにかけられた言葉。それは後ろから駆けてきた馬車の御者、パラストブルク王国軍の装備を身につけた赤髪の兵士のものだった。勢いを弱めることなく突き進む二台の馬車。
 ベルクムント王国軍に突入する寸前に馬車から吹き上がった炎。そのまま敵中に進んでいった馬車は、多くの敵を巻き込んで爆発した。
 炎があがる寸前に馬車から飛び出したいくつも人影は、ヴォルフリックを守るように囲んだかと思うと、そのまま攻撃に転じている。乱戦の様子はクローヴィスたちにはよく見えないが、宙に舞い散る血しぶきと敵の体はすでに見た光景と同じだ。中でもヴォルフリックと彼に並ぶ赤毛の兵士の勢いは凄まじい。その勢いに敵は大混乱。わずか十名ほどの集団に背を向けて逃げ出そうとしている兵士も少なくない。
 クローヴィスとセーレンは混戦から少し離れた場所で、その様子を呆然と見つめているしかなかった。

 

◆◆◆

 ベルクムント王国軍一万六千に対しているのは十数名の集団。実際には、狭い戦場では一万六千全てが戦いに参加出来るはずはなく、後方で待機、もしくは前線を覆い尽くすほどの投爆弾の爆発により多く出た死傷者の救助に関わっているのが、ほとんどだ。そうだとしてもベルクムント王国軍が数で圧倒していることに変わりはない。質の上でいくらヴォルフリックたちが頑張っていてもいつか限界が来る。これは間違いのないことだ。
 防壁の上で呆然としていたボリスも我に返って、それに気がついた。

「……ぼ、僕も行かないと」

 ただボリスには解決策が思いつかない。自分だけが安全な場所で戦いを見ているだけでは駄目だと考えて、砦を出ようと考えただけだ。
下に置いていた剣を持ち、震える足を前に出す。

「……行かないと。行かないと駄目だ」

 ヴォルフリックたちと共に戦う。そう覚悟したからといって、恐怖が消えるわけではない。体の震えが止まるわけでもない。それでもボリスはなんとか体を前に進める。ここでまた逃げることを選んだら、自分の居場所はなくなる。その想いが体を動かしている。

「行かないと……行かないと駄目なんだ!」

 大声で叫ぶボリス。恐怖を振り切るために気合いを入れたつもりだ。その効果は少しであるが、あった。力が戻った足。それを大きく一歩、ボリスは踏み出した。まるで何かの儀式であるかのように、ゆっくりと、足の感触を確かめながら、力強く。

「えっ?」

 その気合いを削いでしまったのは肩に置かれた誰かの手。その誰かが何者かを確かめようと振り返ったボリスの目に映ったのは。

「陛下……?」

 ディアークだった。

「もう大丈夫だ。あとは任せておけ」

 ボリスにこう告げながら戦場を指差すディアーク。その先に見えるのはノートメアシュトラーセ王国の旗。国鳥であるヤパーニシュクラーニヒが二羽描かれた旗が風にはためいている。ベルクムント王国と同じクラーニヒであるが、シルエットと羽数が違っている。
 旗の下には中央諸国連合軍およそ六千。すでにアルカナ傭兵団の上級騎士たちの部隊を先頭にして、ベルクムント王国軍に攻めかかっていた。
 まだ数で優っているベルクムント王国軍であるが、質と勢いでは中央諸国連合軍が遥かに勝っている。兵の流れは中央諸国連合軍とは逆側。敗走に向かっていた。

「勝利は確実だ。良くやったな」

「は、はい」

 国王でありアルカナ傭兵団の団長であるディアークから直々にかけられた言葉。緊張と、それに相反する戦闘が終わったという安堵感で、ボリスの頭は大混乱。なんとか「はい」の言葉を口にしたあとは、そのまま固まってしまった。
 フルーリンタクベルク砦の戦いは、中央諸国連合軍の勝利で終わることになる。