ヒューガはレンベルク帝国の皇都に向かっている。レンベルク皇帝と会った後、何故かそういうことになったのだ。正直、ヒューガにとっては迷惑な誘い。やるべきことは沢山ある。国にとどまって執務に専念していたかったのだが、レンベルク皇帝に直接、帝国の人々にもきちんと自分の口から想いを伝えたほうが良い、と言われると断りづらかった。
レンベルク帝国との協力関係はこの先、ますます重要になってくる。国を強くする為には軍事だけでなく経済力ももっと高めなくてはならない。レンベルク帝国は最大の交易相手であり、さらに他国との交易を拡大していく上でも必要なパートナーなのだ。アイントラハト王国がこの先、進んでいく道について、きちんと理解を得ておくべきという皇帝の提案は正しいとヒューガも思う。
ただ同行者は少ない。最小限の護衛部隊の他はクラウディアだけ。クラウディアが同行したのは時間があるという理由、と何故かイーストエンド侯爵も付いてきたからだ。
イーストエンド侯爵が同行する理由をヒューガは知らない。レンベルク皇帝との話し合いの中で決まったということ以外は聞いていなかった。パルス王国との同盟を求めてのことで、それをレンベルク帝国の重臣たちに直接説明する為、と勝手にヒューガは考えている。間違いではない。イーストエンド侯爵はそのつもりだ。だが、それを認めたレンベルク皇帝の真意は違っている。それをヒューガが知ることはない。直接話をしたイーストエンド侯爵も掴めないでいた。
「無駄なことを。候はヒューガのことを何も分かっておらんのだな」
レンベルク皇帝がイーストエンド侯爵に向けて、放った言葉。何を分かっていないのか尋ねても、レンベルク皇帝は答えなかった。その代わり、というには関連が分からないが、イーストエンド侯爵は帝都への同行を許された。
それに何の意味があるのかイーストエンド侯爵は分かっていないが、帝都に行けるのはありがたい。レンベルク帝国との交渉が続けられる。
「危ない!」
考え事に没頭していたイーストエンド侯爵の意識を引き戻した声。何事かと驚いて、声のしたほうに視線を向けると、子供が進路を妨害している様子が見えた。
面倒なことだと思う。皇帝がいる行列の進路を塞ぐ。国よっては切り捨てられても文句は言えない行為だ。
「王様! 久しぶり!」
進路に立ちふさがった子供は、状況が分かっていないようで無邪気に挨拶をしている。それでは済まないのは周りの大人だ。
「お許しください! この子は何も分かっていないのです! どうかお許しを!」
母親らしき大人の必死な様子からレンベルク帝国でも重い罪であるようだとイーストエンド侯爵は思った。同情はしても罪は罪。裁くのはレンベルク皇帝だ、と考えたのだが。
「……ああっ!? お前、二コラか!?」
イーストエンド侯爵にとっては意外な声が聞こえてきた。ヒューガの声だ。
「そう、二コラ! ほら、あたいの言った通りだろ? 王様が忘れるはずない」
子供は嬉しそうに隣で跪いている母親を見ている。それに対して、母親は驚き顔だ。
「大きくなったな。前に会った時と全然違うから分からなかった」
そういう問題ではないと周りの大人たちは思う。ヒューガと二コラが会ったのが一度きり。今回と同じように、帝都に向かう途中のヒューガを見送っていた時に、少し話をしただけなのだ。
「美人になって驚いた?」
「女の子だと分かって驚いた」
「ひど~い!」
大声で文句を言う二コラ。人懐っこい女の子。イーストエンド侯爵の表情にも笑みが浮かぶ。彼女の態度を微笑ましいと思う余裕は、イーストエンド侯爵にもあるのだ。
ハラハラして見ていた大人たちも、ほっと一安心だ。
「今日は王妃様いないのか?」
「えっ? ああ……そういうのはまだ」
「会いたかったな。王妃様はあたいの憧れなんだ」
「……ん?」
クラウディアのことを言われているのだとヒューガは思ったのだが、それは勘違い。二コラとクラウディアが会うのは今日が初めて。初めて会う、それもそういう立場だと知らないはずの二コラの憧れであるはずがない。
「あたいも王妃様みたいに強くて格好良い人になるんだ」
「ああ……エアルね。エアルは留守番だな」
気まずさを思いっきり顔に出しているヒューガ。クラウディアのいる場で、エアルが王妃に間違われている。気まずさを感じるのも当然だが、それを表に出すのは迂闊だった。
「二コラちゃんはどうしてエアルさんみたいになりたいの?」
頬を膨らましたクラウディアが、エアルに憧れる理由を尋ねてきた。
「恰好良くて、優しいから」
「私は恰好良くないかな?」
「お姉ちゃん? う~ん、恰好良くはないけど、すごく可愛い。王妃様の次に憧れる」
「次か……誰かみたいだね? でも、ありがとう。可愛いと言ってもらえて嬉しい」
さりげなくヒューガへの嫌味を盛り込みながら二コラに御礼を言うクラウディア。「二番目なんて……俺、言ってないし……」とヒューガが呟いているが、それは完全無視だ。
「あたいは強くなって敵をやっつけたいの。お姉ちゃんは可愛いけど、強そうじゃないから」
「そっか……二コラちゃんは騎士になりたいの?」
慰めにはなっていないが、二番目にされた理由ははっきりしている。少なくとも二コラに対しては、不満に思う気持ちは消えた。
「そう! 騎士になって、戦争で手柄をあげるの!」
「ああ、それは無理だな」
「えっ?」「ヒューガ?」
二コラの将来の希望を否定するヒューガ。それには二コラだけなくクラウディアも驚いた。
「騎士にはなれても、戦争で手柄をあげるのは無理かな?」
「どうして!? あたい強くなるよ!」
「二コラが大人になる頃には戦争はなくなっている。俺が無くす」
さりげなく語られた言葉。その意味を理解した時、周りで聞いていた人々の顔からは笑みが消え、真剣な表情に変わった。
「戦争なんてないほうが良い。戦争を経験しないで生きられるほうが人は幸せだ。だから俺は戦争を無くす。少なくとも、俺が大切に思う人たちからは戦争を遠ざける」
「でも……」
「二コラが強くなることまで駄目だと言っているわけじゃない。戦争以外にもこの世の中には危険が沢山ある。二コラは強くなって、そういう危険から人々を守ってあげればいい。そのほうがお母さんも喜ぶ」
「そうなの?」
戦争の悲惨さを知らず、ただ凱旋してきたヒューガたちを見て恰好良いと思い、彼らに憧れていた二コラ。戦争がなくなるというヒューガの言葉に、まだ納得出来ていないが、母親が喜ぶと言われてしまうと少し気持ちも変わる。
「ええ、そうよ。二コラには側にいて私たちを守って欲しい。そうしてくれると皆、嬉しいわ」
娘が戦争に行くことを喜ぶはずがない。側にいて、それが無理でも、平和な場所で元気に暮らしていて欲しいのだ。
「……じゃあ、そうしてあげても良い」
母親が喜ぶのであれば。二コラはそう考えた。彼女の将来には他にも様々な可能性がある。今はそれで良いのだ。
「それでももし、万が一、俺たちの世代でそれを実現出来なかったら、その時は頼むな。二コラたちが戦争をなくしてくれ」
戦争をなくすなど簡単に実現することではない。一時、なくなってもまたどこかで、何かの理由で戦争は起きる。歴史はそれの繰り返しだ。だからといって諦めるわけにはいかない。戦争をなくすという意思は次の世代、その先の世代まで、ずっと繋ぎ続けなければならない。
「うん! 分かった!」
王様にお願いされた。それを喜んだ二コラの返事は元気なものになった。それを聞いて、また人々の表情が緩む。
「じゃあ、またな」
「うん、元気でね!」
二コラに別れの挨拶を告げて、前に進み始めるヒューガ。それを見送る人々が次々とヒューガに向き直り、頭を下げていく。その背中が離れていっても、彼らのすぐ横をレンベルク皇帝が通り過ぎようとしていても、彼らは動かなかった。
ヒューガのあとを追うイーストエンド侯爵。彼に視線を向ける者は誰もない。自分が何者か知らないのだから当然のこと、とイーストエンド侯爵は思えなかった。
「あれがヒューガだ」
その彼に、笑みを浮かべたレンベルク皇帝が近づいてきて、話しかけてきた。
「……どういう意味ですか?」
「あやつの何気ない一言で、人々は希望を知る。未来に光を見る。候はヒューガを利用しようとしているが、それは無駄なあがきというものだ。あれは王なのだ。真に王である者を、臣下の身で操ることなど出来ようか」
一言にすると格が違う。それを教えたいのだが、その表現ではイーストエンド侯爵は反発すると気を使って、レンベルク皇帝はこういう言い方をしている。
イーストエンド侯爵はヒューガを、パルス王国を手に入れる為の道具にしようとしている。話をして、すぐにレンベルク皇帝はこう思った。馬鹿な真似を、とも思う。扱い切れない道具を使えば、自分が怪我をするだけだ。
パルス王国という大国の貴族の頂点にいて、自分自身の能力に疑いのないイーストエンド侯爵はそれを分かっていない。帝都訪問はそれを知らしめる為のものなのだ。
それに気づけるか。気付いた上でどう行動するかは、イーストエンド侯爵次第であるが。
◆◆◆
パルス王国とユーロン双王国の戦いは休止状態。戦争終結を受け入れるかどうかの議論は、まだユーロン双王国で続いている。今の休戦は前線の独自判断だ。それをユーロン双王国の上層部が咎めることはない。パルス王国と停戦し、魔王軍と戦うことになる可能性もある。今ここで自軍の損害を、自軍だけでなく味方になるかもしれないパルス王国軍の損害も、増やすことはない。
ただ両軍の間でほぼ毎日のように会談を行っていることは行き過ぎているかもしれない。ユーロン双王国軍の指揮官もそこまでのことは望んでいないのだが、ウエストエンド侯爵が毎日のように催促に押しかけてきてしまうのだ。
「時は魔王に味方する」
「それは分かっております。ですが我々は命令がなければ動けません」
もう何度目か分からなくなるくらい交わされたやり取り。ウエストエンド侯爵は決断を急がせようとするのだが、ユーロン双王国の指揮官にその権限はない。決めるのは国王なのだ。
「ずっと動かないでいるというのであれば、それでも構わない」
ユーロン双王国がこの場にずっととどまったままでいてくれるのであれば、ウエストエンド侯爵は自軍を率いて魔王軍との戦いに向かう。
「……命令に従って動くことしか出来ない、に訂正します」
「分かっている。冗談だ」
パルス王国の申し出を受け入れないと決まれば、ユーロン双王国軍は戦いを再開する。当たり前のことだ。ウエストエンド侯爵は変化のない議論に飽きて、冗談を言ってみただけ。相手には通じなかったが。
「パルス王国内はどのような状況なのですか?」
「それを話すと思うか?」
「いいえ。こちらも無理を言ってみただけです」
「……そう言われると話したくなる」
やり返された。そうなるとウエストエンド侯爵は相手の考えの逆を行きたくなる。
「こちらはどちらでも」
「ふむ……」
選択の自由を与えられたことで、選択の理由を失ってしまう。なんてことで時間を潰すくらいに、戦いが行われていない前線には時間がある。そうなるくらいの期間、結論が出ていないのだ。
「……決断に時間がかかってしまっていることについてはお詫びします」
ウエストエンド侯爵が言った通り、時の経過は魔王により有利に働く。この場に足止めされているウエストエンド侯爵の苛立ちは、ユーロン双王国側にも分かる。
「貴殿に詫びてもらう必要はない。ただ……」
天幕の外から聞こえてきた声。それが自分を呼ぶ声だと分かったウエストエンド侯爵は話すのを止めた。わざわざ敵陣に使者を寄越す。緊急事態であり、まず間違いなく、悪い知らせだ。
「ウエストエンド侯。貴国の陣から使者が参っております」
すぐに使者は天幕に案内されてきた。
「用件は?」
「それが……」
口ごもる使者。敵軍の陣地で話すことに躊躇いを覚えている。
「かまわん。この場で話せ」
「はっ……魔王軍の奇襲です」
うめき声が漏れだす。ウエストエンド侯爵ではなく、ユーロン双王国の人たちの声だ。
「……そうか。分かった。すぐに戻ろう」
動揺を表に出すことなく、自陣に戻る為に席を立つウエストエンド侯爵。
「……我々は……申し訳ありません」
魔王軍が現れても、パルス王国軍を攻めている間は、ユーロン双王国軍は動けない。無断で支援を行い、自軍を損なうようなことになれば、さすがに許されない。
「詫びは無用……ただそうだな……もし万が一、我らが敗れるようなことになったら、その時は……」
「……その時は?」
「あとを頼む。魔族が我が国を支配することなど、あってはならない。そんなことを許してはならない」
「……承知しました」
勝手に承諾して良いことではない。それは分かっているが、それでもユーロン双王国の指揮官は了承を口にした。ウエストエンド侯爵の覚悟を知って、拒絶を返すことは出来なかったのだ。
◆◆◆
レンベルク帝国の帝都。城のすぐ近くにある帝国軍の訓練場。普段とは違う訓練が行われている。その中心にいるのはヒューガだ。これからアイントラハト王国が進もうとしている道。それをレンベルク帝国の人々に自らの口で説明する為に帝都を訪れたはずが、それに費やした時間はわずか。帝都にいた帝国八方将に強く求められて、訓練を視察することになった。
アイントラハト王国軍が行っていて、今ではレンベルク帝国軍においても必須となった基礎訓練。その成果を確認したあとは、部隊運動の確認。アイントラハト王国軍であれば、という視点で気になる点がないかを、しつこく質問されて、問題点の修正、そして再確認。一通りそれを終えて、ようやく一息、とはいかなかった。
将兵たちが休憩している間に、八方将たちとの立ち合いを行うことになったのだ。訓練場はまるで何か催しものでも行われているかのような状態。八方将の中でもトップクラスの実力者であるアステイユを上回ると聞いているヒューガと自軍の将たちの立ち合いだ。将兵たちは休憩しているどころではない。周囲を囲み、立ち合いの様子に驚いたり、喜んだり、大騒ぎだ。
見学者は将兵たちではない。皇帝をはじめとした重臣たちもいつの間にか訓練場に集まっていた。
「……ひとつ突き抜けた感じだな」
立ち合いの様子を見て、皇帝が呟いた。
「八方将たちもかなり厳しい鍛錬を続けていると聞いておりますが、さらにそれを超えたということですか?」
アイントラハト王国軍に刺激を受けた八方将たちは、以前にも増して、厳しい鍛錬を行ってきた。これはレンベルク帝国では誰もが知っていることだ。
「時間の問題ではないのだろう。才能の一言で片づけるのも間違いのように思える。他の者も見てみたかったな」
ヒューガは政務でもかなり忙しい。軍人である八方将たちと比べて、鍛錬に避ける時間はかなり少ないはずだ。だが皇帝の目には、ヒューガは以前よりも強くなっているように見える。それは何故なのか。経験した戦いか、それともそれによって定まった覚悟のおかげか。いずれにしてもヒューガ以外も強くなっている可能性は高いとレンベルク皇帝は考えた。
「出来れば政務のほうも見せつけてもらいたいところですが……」
軍部はほぼ全面的にヒューガを認めている。そうなるだけの実力をすでに彼は示しているのだ。だが文官たちの評価は、そうではない。
「何人か連れてアイントラハト王国に行って来たらどうだ? ただ森で暮らしているわけではない。間違いなく想像を超えてくるはずだ」
「具体的に話を進めます」
アイントラハト王国の実態を知れば、文官たちの認識も変る。変えさせる必要があるのだ。
「……彼を利用しようとしているのは、帝国も同じなのではないですか?」
側で話を聞いていたイーストエンド侯爵。会話の内容から、レンベルク帝国が何かを企んでいるのだと考えた。
「なるほど。確かにそうかもしれん。だが我々は、少なくとも候よりも、彼を知っている。扱い方を間違うことも、そもそも扱おうなんて考えも持っていない」
「では彼をどうしようとしているのですか?」
「我々の意思でヒューガをどうこうするつもりはない。それでもあえてその問いに答えるとすれば、未来に光を求めているだけだ」
それをヒューガが示してくれるのであれば、レンベルク帝国はその光に付いて行く。皇帝の意思はこれだ。
「……そこまでの価値を彼に見出しているとは」
自分には見えない何をレンベルク皇帝は見ているのか。それがイーストエンド侯爵には分からない。分からないから見えないのか。見えていないから分からないのか。
「やはり自分が持つ秤が間違っているとは考えられないのだな?」
レンベルク皇帝はひとつの答えを持っていた。
「秤、ですか?」
「アイントラハト王国にはパルス王国を滅ぼすだけの力がある」
「なっ!?」
レンベルク皇帝の言葉に驚きの声をあげるイーストエンド侯爵。この反応は皇帝の言葉通りであることの証だ。イーストエンド侯爵はアイントラハト王国の国力を正しく測る術を知らない。さらに基準となる自国、パルス王国を過大評価してもいる。
「儂はそう考えておる。だが、お主がどう考えるかまでは知らん」
ヒューガを正しく理解しなければ、イーストエンド侯爵は誤った選択を行う。そうなれば、パルス王国は危機を逃れる手段を失ってしまう。こう考えて、余計なお世話と思いながら、機会を与えたつもりであったが、どうやらそれは無駄に終わった。レンベルク皇帝はそう判断してしまった。