夜の陣地は静寂に包まれている。傭兵王は、まるで広い陣地にたった一人でいるような気分だった。そんなはずはない。陣地には四千を超える騎士や兵士がいる。今この瞬間にも減っているかもしれないが。
自軍はずっと負け続けている。一騎打ちで負け、五十人という部隊同士での戦いでも負け、さらに少数の最精鋭だけにしても負け。最初に戻って全軍での、味方五千と敵千という戦いでも負けた。この先も勝てる見込みはない。味方の多くがこう考え、離脱していく者は後を絶たない。今この瞬間にも陣地を抜け出そうとしている者たちがいるはずだ。
傭兵王自身がすでに勝てる気がしていない。実際は今に始まったことではない。最初にヒューガと一騎打ちを行った時、そのあとに会話を交わした時にそんな予感はしていたのだ。
「なんなんだ、あの若造は」
思わずこんな呟きが漏れ出る。自分よりもかなり若い。それでいて自分よりも強く、自分よりも威厳がある。偉そうということではない。
ヒューガが発する何かに気持ちが押されてしまうのだ。
それも仕方がないという言い訳が傭兵王の心に浮かぶ。ヒューガが何者かはもう分かっている。大森林内にあるアイントラハト王国という聞いたことのない国の王。エルフ族だけでなく人族、そして魔族まで共に暮らしている国の王だ。
「俺よりも爺婆な奴らが従っているんだからな」
見た目からはそう見えないがエルフ族と魔族は人族よりも長命。傭兵王よりもずっと年上の者たちが沢山いるはずだ。そもそも年齢など関係なく、プライドが高いとされているエルフ族が王と認めるというだけで普通ではない。
「人族とエルフ族と魔族が仲良く一緒に暮らしている? 俺なんかよりずっとデタラメじゃねえか」
そんな国は他にはない。永遠に出来るはずのなかった国だ。だが現実にアイントラハト王国は存在し、ヒューガはその国の王。それに比べれば傭兵からの成り上がりなんて常識の範囲内だと思えてしまう。
「……何が違ったのだろうな?」
自分とヒューガの何が違うのか。こんなことを考えるのは往生際が悪いと思う。
「人を忘れているかいないかなのです」
「誰だ!? って……おい?」
いきなりかけられた声に驚いて、咄嗟に剣を構えた傭兵王だが、声の主は驚くほど可愛い女の子だった。
「好き嫌いは別にして、ヒューガは人の想いを考えることを忘れないのです。一方でお前はそれを忘れてしまったのです」
「……お嬢ちゃん。お前、何者だ?」
女の子は今まさに考えていたヒューガの関係者。しかもまったく気配を感じさせることなく、いきなり現れたのだ。見た目とは異なる存在であることは間違いない。
「ルナですか? ルナはヒューガの妻なのです」
「はい?」
「冗談なのに笑わないのです」
「いや、面白くないし」
「……ルナはヒューガと結んだ精霊なのです」
頬を膨らませて不満を示しながら、ルナは自分が何者であるかを伝えた。
「精霊……あいつはやっぱりエルフ族なのか?」
「ヒューガはエルフ族ではないのです」
「……結んだってのは?」
エルフ族ではないのに精霊と強い結びつきがある。結ぶという言葉にそれが分かる意味があるのだと傭兵王は考えた。
「結婚したのです」
「……あっはっはっ! これは面白え! こんな面白い冗談は生まれて初めて聞いた! ということで、結ぶってのは?」
「……ルナはヒューガの為に、ヒューガはルナの為に存在することなのです」
さらに膨れたルナの頬だが、彼女たちとしてはきちんと傭兵王の問いへの答えを返した。
「なんだか分からねえけど、とにかくお互いになくてはならない大切な存在ってことだな? じゃあ、あいつのことは良く知っているんだな?」
「当然なのです」
「あいつは何だ? この聞き方じゃあ、分からねえか……そうだな……」
ヒューガという人物を知りたい。だが傭兵王はどこから聞けば良いのかすぐに思いつけなかった。いきなり現れた精霊と強い結びつきがあるというだけで、内心ではかなり驚いているのだ。
「ヒューガは与える存在なのです」
その傭兵王の漠然とした問いにルナは答えを返した。
「与える存在……俺は奪うことしか出来ねえな」
「そうなのですか? ルナはそうは思わないのです」
「お嬢ちゃんに俺の何が分かる?」
今、会ったばかりのルナに分かるはずがない。それなのに分かった風なことを言われたことに、傭兵王は苛立ちを覚えてしまう。
「お前のことなどルナには分からないのです。ただ、何も与えることなく奪うだけのお前にどうして人が付いて来るのですか?」
「何?」
「この戦いでお前に勝ち目はないのです。それなのにまだ四千を超える味方が残っているのです。まだ減るとルナも思うのですが、それでも誰もいなくなるということはないと思うのです」
「…………」
この戦いの敗北は決まり。さらにこの先、マーセナリー王国は滅ぼされることになる。それが分かっていて、まだこの戦場に残っている味方。逃げるタイミングを見計らっているだけが大多数だと傭兵王は思う。だがそれでもルナの言う通り、最後まで残ってくれる味方はいてくれるのか。
「お前はきっと彼らに何かを与えたのです。その何かだけでお前に最後まで付き合おうという人がいるのです。お前は奪うことしか出来ないのではなく、与えることを忘れていたのです。与えるべき人は誰かを忘れていたのです」
「俺は……」
彼女の言う通りなのか。そうであれば自分は忘れていたものを、もう一度思い出すことが出来るのか。
「ヒューガは与えてくれるのです。お前が忘れていた何かを」
「その為にあいつに仕えろと?」
「う~ん。仕えるという形が良いかはルナには分からないのです。今、ヒューガと共にいる仲間は時を待っていたのです。その時に備えて、自分を鍛えていたのです。お前に彼らと同じようにヒューガと共に生きる資格はあるのですか?」
夏や冬樹はヒューガの下に集うその日を長い間、待ち続けていた。彼らと同じ立場になる資格が傭兵王にあるとはルナは思っていない。形だけの仲間など無理に集める必要はないと考えているのだ。
「俺の資格を問うか……お嬢ちゃんは俺のことを与えるべき人とは思えないってことだな?」
「その通りなのです。この先、ヒューガが進む道は決して平たんではないのです。足を引っ張るような味方は不要なのです」
ヒューガが大森林の外に出て、自分の理想を実現しようとすれば、味方を得る以上に多くの敵を生み出すことになるかもしれない。信用ならない味方などいないほうが良い。
「……あいつは何をやろうとしている?」
「この世界の常識を打ち破り、新たな秩序を作ること」
「……お嬢ちゃんは本当に俺を味方にする気はないのか?」
ルナの言葉は傭兵王がかつて口にしたことのある言葉だった。ヒューガと自分が目指す世界の形は同じであるとするならば、自分はどんな選択はするべきなのか。
「言葉にすることは出来ても、実現するのは難しいのです。同じ夢を見る信頼出来る仲間を少しでも増やさなければならないのです」
「教えてくれ。どうして奴はそんなことを考えるようになった」
ルナの本心が読めない。今、語っている言葉は自分を味方に引き込む為の方便なのか。それとも真実を語っているのか。分からない傭兵王はヒューガの動機を尋ねることにした。それによってヒューガの本気を確かめようと考えた。
「理不尽な現実がヒューガには耐えられなかった。ヒューガにはそれに立ち向かう力があった。立ち向かったヒューガを多くの人が頼った。多くの想いを背負ったヒューガはそれに応える為に王になった。そして今、より困難な現実に立ち向かおうとしているのです」
「……奴は何をした?」
「奴隷にされたエルフたちの解放。ヒューガはわずか十名の仲間たちとそれを始め、多くの人を救ったのです」
「……そういうことか……あれは、あいつがやっていたことなのか」
エルフの奴隷を解放している組織については傭兵王も噂で聞いていた。背後で貴族が動いているという噂だったのだが、それは間違いであることを知った。
貴族がわずかな良心を満足させる為だけで始めるには大掛かりで危険な試み。そんな貴族もいるのかと感心していたのだが、そうではなかったのだ。たった十人の仲間とそれを始めたということには信じられない思いがあるが、そうであればエルフ族が仕えることに納得出来る。事実なのだと傭兵王は考えた。
「よろず相談所はお前の味方を削る為の策略ではあるのですが、あれが世の中に広がれば、傭兵ギルドは今のままではいられなくなるのです」
よろず相談所は傭兵ギルドの競合相手となり得る。傭兵ギルドよりもずっと待遇の良い働き場所を提供する競合相手として。そうなった時、傭兵ギルドはどう出るか。自らも傭兵たちの待遇改善に動くか、それともよろず相談所を潰しにかかるか。今は分からないが、世の中の仕組みの一つを変える試みであることは間違いない。
「……分かった」
「何が分かったのです?」
「臣下になるか、そのよろず相談所とやらで働くか、どんな形になるか分からねえが、とにかく協力する! この世の中の常識を打ち破り、新たな秩序を作る為に奴の下で俺も働いてやる!」
素直に負けを認めるか、最後まで意地を張るか。傭兵王は前者であることを選択した。傭兵として命を惜しんだ、という気持ちもある。だがそれ以上に自分にはない何かを持つヒューガが、何を成し遂げられるのかを見てみたかった。
「それはルナの説得に心が動かされたのですね?」
「えっ? ああ、まあ、そういうことになるか」
「つまり、ルナのお手柄なのです。この戦いはルナの働きによって勝利で終わるのです」
「……精霊ってそういうの気にするのか?」
精霊であるルナが戦争で手柄を得ることに何の意味があるのか傭兵王には分からない。精霊というのは欲や感情といった人が持つものを超越している存在だとルナに会うまでは考えていたのだ。これでルナが自分の説得を試みたのは、ヒューガに「ルナは凄いな。偉いな」と褒めてもらいたいだけだと知れば、どう思うのか。
とにかく傭兵王は、ルナの説得に応じて敗北を認めることとなった。今後、東方はこれまでとは大きく異なる情勢に移っていくことになる。
◆◆◆
第一報が届いた時は、これほど大きな問題に発展すると、パルス王国の重臣たちは誰も考えていなかった。南部に領地を持つ小貴族が争乱を起こしているという内容だった。ユーロン双王国との戦争の最中に何を愚かなことを。これが大半の者たちの受け取り方だった。
速やかに鎮静化するようにという命令が発せられ、周辺に領地を持つ貴族家の軍が動員された。複数の貴族家の連合軍。争乱を起こしている貴族家ではまったく歯が立たないはずだった。
だがその貴族家は鎮圧軍を跳ね返した。まさかの結果に驚き、その結果をもたらした原因を調べた結果分かったことは、争乱を起こした貴族家軍の中に魔族が紛れ込んでいるという事実。この報告は第一報とは比べものにならない衝撃をパルス王国に与えた。
それほど多い数ではないという報告が、少し落ち着きを取り戻させたが、それでも魔族相手の戦いだ。勝てる数と質を揃えなければならない。サウスエンド伯爵家を中心とした南部貴族連合が結成され、魔族との戦いに挑むことになった。討伐に成功すれば良いが、そうはならなくても王国軍を再編してなんとか余剰を作り出し、南部に送り込むまでの時間稼ぎになれば良い。こんな考えだ。
だが事はパルス王国の思惑通りには動かなかった。討伐軍に参加した多くの貴族家が裏切り、連合軍は敗北した。それだけでは終わらない。サウスエンド伯爵領の中心都市エルツシュロスに敗北を喫した討伐軍が逃げ込んできた、というのは敵の策略で、入城を果たした軍の中からも裏切りが出て、サウスエンド伯爵家はほとんど抵抗することが出来ないままに、占領を許してしまったのだ。
こうなると事態はもう危機的状況。パルス王国はユーロン双王国との戦争の中、南部のかなり広い領土を反抗勢力に奪われてしまったのだ。
「……何がどうなっている?」
報告を聞いてもアレックス王はにわかに信じられない。信じたくない状況なのだ。
「次々と南部貴族の裏切りが明らかになっております。このままの勢いで行くと、南部のほとんどは敵の手に落ちてしまうことになるでしょう」
「多くの貴族が魔族と手を結んだというのか?」
「魔族と申しますか……」
アレックス王の問いに報告を行っている臣下は口ごもる。
「何だ?」
「……首謀者は魔王を名乗っております。魔王ユートと」
さらなる問いに臣下は、それでも少し躊躇いながら答えを返した。
「……魔王……しかも、ユートだって?」
臣下の答えを聞いて内心の動揺を隠せないアレックス王。ユートという名を聞いて、心の片隅に押し込められていた罪悪感が浮かぶ上がってきている。その存在などまったく気付いていなかった感情だ。
「目撃者の証言から、ほぼ間違いなく勇者ユートだと考えられます。さらに新たなる魔王は、パルス王国の非道を正す為に立ち上がったと主張しております」
「…………」
魔王を名乗っているのは、頭に浮かんだ通りの人物。その主張にもアレックス王は心当たりがある。ユートがパルス王国を恨むことになった原因にアレックス王も関わっているのだ。
「魔王が言う非道とは何のことだ?」
非道の具体的な中身を尋ねたのはイーストエンド侯爵。真っ青な顔をしているアレックス王に関りがあるのは間違いない。それを公の席で明らかにしようとしている。
「……前魔王は我が国が召喚した異世界人であったとのこと。それを隠し、相手に非がないにも関わらず、自分に殺させた。同じ異世界人を騙して殺させた我が国の非道を怒っているようです」
だが臣下はアレックス王には直接的に関わりのない原因を伝えてきた。イーストエンド侯爵の思惑を読んで、アレックス王が不利になるような内容をわざと避けたのだ。
「……なるほど」
前魔王の件となるとイーストエンド侯爵はアレックス王を批判出来ない。国政の中心にいたイーストエンド侯爵のほうが、より責任は重いくらいだ。
「その戦いで自家の男子を失った貴族家の多くが同調しています。それ以外にも、南部全体を制圧しようという魔王軍の勢いに乗っかろうと、味方している貴族家も出ているようです」
「南部全体か……敵は総勢でどれくらいになりそうだ?」
「分かりません。エルツシュロス周辺はかなり警戒が厳しく、間者が潜り込む隙がありません」
「……なるほど。伝えたい情報だけを伝えてきているということか」
ユートは伝えたい情報とそうでない情報を選別し、パルス王国の情報収集を許している。魔族が加担しているとなれば、それくらいは出来るのだろうとイーストエンド侯爵は考えた。
「急ぎ中央の守りを固めるべきですな。中央だけで良いのかという話もあるが……」
サウスエンド伯爵領で起きたこととあって、この場には前サウスエンド伯爵、パウエル相談役も同席している。そのパウエル相談役の視線はイーストエンド侯爵に向けられている。
「次はわが領内に侵攻してくると?」
「そうと決まっているわけではない。可能性の一つとして、そう出てくるかもしれないということじゃ」
「……可能性は否定出来んな」
中央でも東部でもなく西部に向かって、ユーロン双王国軍と対峙している軍の背後を突かれる可能性もある。侵攻先の選択権は敵にある。それにどう対応すれば良いのか。イーストエンド侯爵でもすぐに良い手が思いつかない。
「今すぐに南部奪回に動ける軍はひとつしかない」
「……我が領地軍でそれを行えと?」
「やれとは言っていない。すぐに動ける、そしてまともに戦える軍はどれかを考えただけだ」
王国軍はユーロン双王国軍と対峙していて、すぐには動けない。残っている軍を動かすという選択肢はある。だがその軍が敗れた時、どうやって王都を守るのか。攻めるか守るかは別にして、とにかくイーストエンド侯爵家の軍には動いてもらわなければならないのだ。
「……分かった。それで、どうする?」
イーストエンド侯爵は自領の軍を動かすことを決めた。パルス王国が滅びては、実際のところは滅びても構わないが、その領土を全て魔王を名乗るようになったユートに奪われるわけにはいかない。現王家が滅びるような事態になったその後に、パルス王国の領土を支配するのは自分でなければならないのだ。